放課後の終わりを告げるチャイムは、いつものように間の抜けた音で鳴り響いた。
教室の窓から差し込む西日が、机の端を赤く染めている。
誰かが椅子を引く音。鞄のチャックを閉める音。廊下を走る運動部の足音。
世界は、昨日と同じ速度で放課後へ向かっていた。
「透、帰ろ」
依里が机に頬杖をついたまま、小さく欠伸をした。目尻が少し赤い。
「また寝不足か」
「最近ずっと変な夢見るんだよね。なんか、熱い部屋に閉じ込められてるやつ」
「エアコン切って寝るからだろ」
「違うって」
そう言って笑う声は、まだいつもの依里だった。
◇
東口の坂を下りきったところにあるコンビニは、夕方になると油の匂いが少し濃くなる。
自動ドアが開くたび、冷房の風が制服の袖を抜けていった。
レジ横のホットスナック。雑誌棚。いつも同じ場所に積まれているスポーツ新聞。
全部、昨日と変わらない。
依里はプリン棚の前でしゃがみ込み、「あ」と小さく声を漏らした。
「ねえ、透。見てこれ」
振り返った彼女の手には、見慣れない黒いパッケージ。
『焦がしチーズプリン』
底に沈んだカラメルが、照明に照らされてどろりと光っている。
「今日からの新作だって」
「またプリンかよ」
「またとは失礼だなぁ。昨日は普通のカスタードだったし。これはチーズだから別ジャンル」
「同じだろ」
「違いますー」
依里はそう言って、棚から二つ取った。その指先は軽かった。昨日までと同じように。
明日も続く日常を疑っていない、人間の動きだった。
「次の訓練終わったらさ」
プリンを胸元に抱えながら、依里が何気なく言った。
「今度、透ん家でカルボナーラ作ってあげる」
「前もそれ言って、フライパン焦がしただろ」
「今回はちゃんと動画見て予習したから平気」
「どうせまた変なアレンジ入れる」
「入れないって」
笑いながら、依里がレジへ向かおうとした。
その瞬間だった。
──ゴ、と。
足の裏が、一瞬だけ沈んだ。地震とは違う、もっと嫌な感覚だった。
街全体が、見えない巨大な何かに掴まれて、軋んだみたいな。
次の瞬間、遠くで爆発音が響いた。コンビニの窓ガラスがビリビリと震える。
天井の蛍光灯が二度、三度と激しく明滅したあと、半分ほどが沈黙した。
「……え」
依里の声が、暗くなった店内に小さく落ちる。
直後。耳を裂くような急ブレーキ音。
店の外、駐車場へ黒い大型車両が突っ込んできた。アスファルトを削る金属音。タイヤの焦げる臭い。
自動ドアが半ば無理やりこじ開けられ、重い防弾ベスト姿の男たちが雪崩れ込んでくる。
制服ではない。戦場の人間の顔だった。
「──小宮依里!!」
店内の空気が凍った。依里の肩がびくりと跳ねる。
「……はい」
「第一使徒《序列型第一号》、新宿侵入確認。白峰隊、戦線維持限界を超過」
男は感情のない声で告げた。
「特別候補者・小宮依里を前線へ緊急投入する」
意味が、すぐには頭に入ってこなかった。前線。投入。その単語だけが、妙にはっきり鼓膜に残る。
「待って、ください」
依里が小さく後ずさった。
「まだ、私……訓練も──」
最後まで言わせてもらえなかった。
男の腕が、依里の手首を乱暴に掴む。細い腕が、不自然な角度に引かれる。
「痛っ……」
依里の顔が歪んだ。
「適合値149%。代替は存在しない」
「離して……っ」
もう一人の男が、依里の肩を掴む。
その瞬間、彼女の右手からプリンが滑り落ちた。床にぶつかる、軽い音。透明な蓋の裏で、カラメルがぐちゃりと揺れる。
「透──!」
依里がこちらへ手を伸ばした。
反射的に身体が動きかける。でも、動けなかった。
男たちの腰に下がった黒い銃。それ以上に、その場の全員が纏っている「正しさ」。
世界を守るため。人を救うため。その絶対的な大義の前で、自分だけが異物だった。
ただの一般人。E判定。不適合。お前には何もできないと、空気そのものに言われているみたいだった。
「透!」
依里の指先が、ほんの少しだけ届かなかった。
親指の爪が剥がれかけている。昨日まで噛み続けていた場所。薄く滲んだ赤。
次の瞬間、重い鉄扉が閉まる音。
装甲車が急加速し、排気ガスを撒き散らしながら駅前通りへ消えていった。
静かだった。
さっきまで流れていた店内BGMだけが、場違いみたいに明るい。誰も喋らない。店員は青ざめた顔で立ち尽くし、奥の棚で小さな子供が泣き出している。
ゆっくり外へ出た。
アスファルトの上に、プリンが落ちていた。
いや、もう原形はほとんど残っていなかった。装甲車のタイヤに踏み潰され、透明な容器は割れ、黄色いクリームと黒いカラメルが汚れた地面に広がっている。
夕方の熱を含んだ風が吹いた。
その瞬間、焦げたチーズの匂いが、鼻の奥へ異様なほど濃く入り込んできた。
甘ったるくて、苦くて、吐き気がするほど重い匂い。
無意識にポケットへ手を突っ込んだ。
指先に触れた紙。くしゃくしゃになった適性試験結果。
──不適合 E判定。
ただの紙切れだった。
依里を連れて行く大人たちを止めることもできない。世界に必要とされることもない。指が白くなるほど、その紙を握り締める。
遠くで、また爆発音がした。
空が、赤かった。
依里はもう、あちら側へ行ってしまった。
コンビニの灯りだけが、不自然なくらい白く、静かに道路を照らし出していた。