ある聖戦の裏側で   作:雨杜結依

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第伍話 「第一使徒」

放課後の終わりを告げるチャイムは、いつものように間の抜けた音で鳴り響いた。

 

教室の窓から差し込む西日が、机の端を赤く染めている。

誰かが椅子を引く音。鞄のチャックを閉める音。廊下を走る運動部の足音。

世界は、昨日と同じ速度で放課後へ向かっていた。

 

「透、帰ろ」

 

依里が机に頬杖をついたまま、小さく欠伸をした。目尻が少し赤い。

 

「また寝不足か」

 

「最近ずっと変な夢見るんだよね。なんか、熱い部屋に閉じ込められてるやつ」

 

「エアコン切って寝るからだろ」

 

「違うって」

 

そう言って笑う声は、まだいつもの依里だった。

 

 

東口の坂を下りきったところにあるコンビニは、夕方になると油の匂いが少し濃くなる。

自動ドアが開くたび、冷房の風が制服の袖を抜けていった。

 

レジ横のホットスナック。雑誌棚。いつも同じ場所に積まれているスポーツ新聞。

全部、昨日と変わらない。

依里はプリン棚の前でしゃがみ込み、「あ」と小さく声を漏らした。

 

「ねえ、透。見てこれ」

 

振り返った彼女の手には、見慣れない黒いパッケージ。

『焦がしチーズプリン』

底に沈んだカラメルが、照明に照らされてどろりと光っている。

 

「今日からの新作だって」

 

「またプリンかよ」

 

「またとは失礼だなぁ。昨日は普通のカスタードだったし。これはチーズだから別ジャンル」

 

「同じだろ」

 

「違いますー」

 

依里はそう言って、棚から二つ取った。その指先は軽かった。昨日までと同じように。

明日も続く日常を疑っていない、人間の動きだった。

 

「次の訓練終わったらさ」

 

プリンを胸元に抱えながら、依里が何気なく言った。

 

「今度、透ん家でカルボナーラ作ってあげる」

 

「前もそれ言って、フライパン焦がしただろ」

 

「今回はちゃんと動画見て予習したから平気」

 

「どうせまた変なアレンジ入れる」

 

「入れないって」

 

笑いながら、依里がレジへ向かおうとした。

 

その瞬間だった。

 

──ゴ、と。

足の裏が、一瞬だけ沈んだ。地震とは違う、もっと嫌な感覚だった。

街全体が、見えない巨大な何かに掴まれて、軋んだみたいな。

 

次の瞬間、遠くで爆発音が響いた。コンビニの窓ガラスがビリビリと震える。

天井の蛍光灯が二度、三度と激しく明滅したあと、半分ほどが沈黙した。

 

「……え」

 

依里の声が、暗くなった店内に小さく落ちる。

 

直後。耳を裂くような急ブレーキ音。

店の外、駐車場へ黒い大型車両が突っ込んできた。アスファルトを削る金属音。タイヤの焦げる臭い。

自動ドアが半ば無理やりこじ開けられ、重い防弾ベスト姿の男たちが雪崩れ込んでくる。

制服ではない。戦場の人間の顔だった。

 

「──小宮依里!!」

 

店内の空気が凍った。依里の肩がびくりと跳ねる。

 

「……はい」

 

「第一使徒《序列型第一号》、新宿侵入確認。白峰隊、戦線維持限界を超過」

 

男は感情のない声で告げた。

 

「特別候補者・小宮依里を前線へ緊急投入する」

 

意味が、すぐには頭に入ってこなかった。前線。投入。その単語だけが、妙にはっきり鼓膜に残る。

 

「待って、ください」

 

依里が小さく後ずさった。

 

「まだ、私……訓練も──」

 

最後まで言わせてもらえなかった。

男の腕が、依里の手首を乱暴に掴む。細い腕が、不自然な角度に引かれる。

 

「痛っ……」

 

依里の顔が歪んだ。

 

「適合値149%。代替は存在しない」

 

「離して……っ」

 

もう一人の男が、依里の肩を掴む。

その瞬間、彼女の右手からプリンが滑り落ちた。床にぶつかる、軽い音。透明な蓋の裏で、カラメルがぐちゃりと揺れる。

 

「透──!」

 

依里がこちらへ手を伸ばした。

 

反射的に身体が動きかける。でも、動けなかった。

男たちの腰に下がった黒い銃。それ以上に、その場の全員が纏っている「正しさ」。

世界を守るため。人を救うため。その絶対的な大義の前で、自分だけが異物だった。

ただの一般人。E判定。不適合。お前には何もできないと、空気そのものに言われているみたいだった。

 

「透!」

 

依里の指先が、ほんの少しだけ届かなかった。

親指の爪が剥がれかけている。昨日まで噛み続けていた場所。薄く滲んだ赤。

 

次の瞬間、重い鉄扉が閉まる音。

装甲車が急加速し、排気ガスを撒き散らしながら駅前通りへ消えていった。

 

静かだった。

さっきまで流れていた店内BGMだけが、場違いみたいに明るい。誰も喋らない。店員は青ざめた顔で立ち尽くし、奥の棚で小さな子供が泣き出している。

 

ゆっくり外へ出た。

 

アスファルトの上に、プリンが落ちていた。

いや、もう原形はほとんど残っていなかった。装甲車のタイヤに踏み潰され、透明な容器は割れ、黄色いクリームと黒いカラメルが汚れた地面に広がっている。

 

夕方の熱を含んだ風が吹いた。

その瞬間、焦げたチーズの匂いが、鼻の奥へ異様なほど濃く入り込んできた。

甘ったるくて、苦くて、吐き気がするほど重い匂い。

 

無意識にポケットへ手を突っ込んだ。

指先に触れた紙。くしゃくしゃになった適性試験結果。

 

──不適合 E判定。

 

ただの紙切れだった。

依里を連れて行く大人たちを止めることもできない。世界に必要とされることもない。指が白くなるほど、その紙を握り締める。

 

遠くで、また爆発音がした。

空が、赤かった。

 

依里はもう、あちら側へ行ってしまった。

コンビニの灯りだけが、不自然なくらい白く、静かに道路を照らし出していた。

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