ある聖戦の裏側で   作:雨杜結依

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第陸話 「スープの嘘」

夜のアパートは、妙に静かだった。

 

窓の外を、遠くの救急車のサイレンが薄く横切っていく。

古い換気扇の回る音。冷蔵庫の低い駆動音。それだけが、狭い部屋の空気をゆっくり掻き回していた。

テーブルの上には、コンビニで買ったまま放置されていたカップ麺と、昨日の空きペットボトル。

 

その生活感の真ん中に、依里がいた。

 

「お邪魔しまーす」

 

いつもの声だった。制服姿のまま、髪を後ろで雑に結んで、少し眠そうに笑っている。

ぱっと見ただけなら、ただ部活帰りにでも寄ったみたいにしか見えない。

 

なのに。

玄関の空気に混ざる匂いだけが、決定的に違っていた。

 

焦げた鉄。焼けた配線。高熱の蒸気。

あの、夕方のコンビニを蹂躙した装甲車の、あるいは地下施設で嗅いだ軍の匂い。

それが依里の髪や制服の繊維に薄く染みついていて、六畳一間の安っぽい生活臭からひどく浮いていた。

 

「……なんか作る」

 

靴を脱ぎながら、依里が言った。

 

「は?」

 

「透、どうせ今日もカップ麺でしょ」

 

「別にいいだろ」

 

「よくないですー。今日はちゃんとしたもの食べる日」

 

依里はそう言って、小さく笑った。

その笑顔に、どこも壊れた様子はない。腕も足もちゃんとある。血もついていない。

それだけで、本当は安心しなきゃいけないはずだった。

 

 

キッチンに立つ依里の背中を、ぼんやり眺めていた。

 

狭いシンク。小さな鍋。切り方の雑な人参と玉ねぎ。

依里は包丁を握りながら、「あっ」と小さく声を漏らした。

 

「やば。じゃがいも入れ忘れてた」

 

「最初に気づけよ」

 

「まあまあ」

 

笑いながら鍋をかき混ぜる。

木べらが鍋底を擦る音。ぐつぐつと煮えるスープ。白い湯気。

その光景だけ見ていると、本当に、何も変わっていない気がした。

戦場も。使徒も。149%という異常な数値も。全部、テレビの向こう側の話みたいに。

 

「……大丈夫だったのか」

 

気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。

 

依里の手が、一瞬だけ止まる。

 

「ん?」

 

「前線」

 

「……あー」

 

依里は困ったように眉を下げた。

 

「正直、あんまり覚えてないんだよね」

 

鍋を見つめたまま、ぽつりと言う。

 

「なんか、すごい熱くて。うるさくて。みんな叫んでて」

 

一拍。

 

「でも、終わったら急に静かになってた」

 

その言い方が妙に子供っぽくて、胸の奥が嫌な感じに冷えた。

 

「白峰さん、すごかったよ」

 

依里は続ける。

 

「全然怖がってなくてさ。ああいう人が、本当の英雄なんだなって」

 

木べらを持つ指先が、小さく震えていた。

でも本人は、それに気づいていない。

 

 

「できた」

 

テーブルに置かれたのは、なんでもない野菜スープだった。

薄く湯気が立っている。人参と玉ねぎと、少しだけベーコンが浮いていた。

 

「透のために、ちゃんと栄養あるやつ作りました」

 

「偉そうだな」

 

「感謝していいよ」

 

依里は自分の分を一口飲み、「うん」と満足そうに頷いた。

 

「バッチリ」

 

そう言って笑う。

その顔を見てから、俺もスプーンを口へ運んだ。

 

瞬間。

舌が焼けた。思考が止まる。

 

塩。

ただひたすら、異常な量の塩だった。

舌の表面を針で削られるみたいな刺激。飲み込んだ瞬間、喉の奥まで痛い。

人間が食べる味じゃなかった。致死量寸前の海水を無理やり煮詰めたみたいな、狂った塩辛さ。

 

反射的に吐き出しそうになる。

 

「……どう?」

 

依里が、少し不安そうにこちらを見た。

その目は、普通だった。ただ、自分の作ったスープを幼馴染がどう思うか気にしているだけの、普通の女の子の目。

 

口を開きかける。

──塩入れすぎだろ。

そう言えば済む話だった。

 

でも、言葉が、喉の奥で止まった。

 

もし、今ここで「味がおかしい」と言ってしまったら。

依里は、自分の身体が壊れ始めていることを理解してしまう。

前線へ行った代償を。感情を燃やした結果を。自分の神経が、もう戻らない場所まで削れていることを。

 

依里はきっと、笑えなくなる。この部屋の空気が終わる。

 

だから、全部飲み込んだ。

塩の塊みたいなスープを、喉を鳴らして無理やり胃へ流し込む。

熱かった。痛かった。涙が出そうになる。

 

「……美味いよ」

 

そう言った。

依里が、ぱっと安心したように笑う。

 

「ほんと?」

 

「ああ」

 

「よかったぁ……」

 

肩の力を抜いて、依里はまたスープを口に運ぶ。

普通の顔で。何事もないみたいに。

 

その姿を見ながら、気づいてしまった。

もう戻れない。依里は確実に壊れ始めている。

それなのに、俺は今、それを隠す側へ回った。守ったんじゃない。誤魔化した。

この部屋の、ぬるい日常を延命するためだけに。

 

 

食後。

依里は床に座り込んだまま、ぼんやりテレビを見ていた。

 

ニュースキャスターが、今日の新宿戦について淡々と喋っている。

『白峰隊の迅速な対応により、被害拡大は──』

 

その声を聞きながら、依里が小さく呟いた。

 

「ねえ、透」

 

「ん」

 

「なんかさ」

 

依里は視線をテレビから外さないまま、ゆっくり言った。

 

「今日ずっと、変な感じなんだよね」

 

換気扇の音。テレビのノイズ。遠くを走るバイクの音。

その全部の隙間に、依里の声だけが静かに沈む。

 

「プリン食べたかったはずなのに」

 

一拍。

 

「どんな味だったか、うまく思い出せないんだ」

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