夜のアパートは、妙に静かだった。
窓の外を、遠くの救急車のサイレンが薄く横切っていく。
古い換気扇の回る音。冷蔵庫の低い駆動音。それだけが、狭い部屋の空気をゆっくり掻き回していた。
テーブルの上には、コンビニで買ったまま放置されていたカップ麺と、昨日の空きペットボトル。
その生活感の真ん中に、依里がいた。
「お邪魔しまーす」
いつもの声だった。制服姿のまま、髪を後ろで雑に結んで、少し眠そうに笑っている。
ぱっと見ただけなら、ただ部活帰りにでも寄ったみたいにしか見えない。
なのに。
玄関の空気に混ざる匂いだけが、決定的に違っていた。
焦げた鉄。焼けた配線。高熱の蒸気。
あの、夕方のコンビニを蹂躙した装甲車の、あるいは地下施設で嗅いだ軍の匂い。
それが依里の髪や制服の繊維に薄く染みついていて、六畳一間の安っぽい生活臭からひどく浮いていた。
「……なんか作る」
靴を脱ぎながら、依里が言った。
「は?」
「透、どうせ今日もカップ麺でしょ」
「別にいいだろ」
「よくないですー。今日はちゃんとしたもの食べる日」
依里はそう言って、小さく笑った。
その笑顔に、どこも壊れた様子はない。腕も足もちゃんとある。血もついていない。
それだけで、本当は安心しなきゃいけないはずだった。
◇
キッチンに立つ依里の背中を、ぼんやり眺めていた。
狭いシンク。小さな鍋。切り方の雑な人参と玉ねぎ。
依里は包丁を握りながら、「あっ」と小さく声を漏らした。
「やば。じゃがいも入れ忘れてた」
「最初に気づけよ」
「まあまあ」
笑いながら鍋をかき混ぜる。
木べらが鍋底を擦る音。ぐつぐつと煮えるスープ。白い湯気。
その光景だけ見ていると、本当に、何も変わっていない気がした。
戦場も。使徒も。149%という異常な数値も。全部、テレビの向こう側の話みたいに。
「……大丈夫だったのか」
気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。
依里の手が、一瞬だけ止まる。
「ん?」
「前線」
「……あー」
依里は困ったように眉を下げた。
「正直、あんまり覚えてないんだよね」
鍋を見つめたまま、ぽつりと言う。
「なんか、すごい熱くて。うるさくて。みんな叫んでて」
一拍。
「でも、終わったら急に静かになってた」
その言い方が妙に子供っぽくて、胸の奥が嫌な感じに冷えた。
「白峰さん、すごかったよ」
依里は続ける。
「全然怖がってなくてさ。ああいう人が、本当の英雄なんだなって」
木べらを持つ指先が、小さく震えていた。
でも本人は、それに気づいていない。
◇
「できた」
テーブルに置かれたのは、なんでもない野菜スープだった。
薄く湯気が立っている。人参と玉ねぎと、少しだけベーコンが浮いていた。
「透のために、ちゃんと栄養あるやつ作りました」
「偉そうだな」
「感謝していいよ」
依里は自分の分を一口飲み、「うん」と満足そうに頷いた。
「バッチリ」
そう言って笑う。
その顔を見てから、俺もスプーンを口へ運んだ。
瞬間。
舌が焼けた。思考が止まる。
塩。
ただひたすら、異常な量の塩だった。
舌の表面を針で削られるみたいな刺激。飲み込んだ瞬間、喉の奥まで痛い。
人間が食べる味じゃなかった。致死量寸前の海水を無理やり煮詰めたみたいな、狂った塩辛さ。
反射的に吐き出しそうになる。
「……どう?」
依里が、少し不安そうにこちらを見た。
その目は、普通だった。ただ、自分の作ったスープを幼馴染がどう思うか気にしているだけの、普通の女の子の目。
口を開きかける。
──塩入れすぎだろ。
そう言えば済む話だった。
でも、言葉が、喉の奥で止まった。
もし、今ここで「味がおかしい」と言ってしまったら。
依里は、自分の身体が壊れ始めていることを理解してしまう。
前線へ行った代償を。感情を燃やした結果を。自分の神経が、もう戻らない場所まで削れていることを。
依里はきっと、笑えなくなる。この部屋の空気が終わる。
だから、全部飲み込んだ。
塩の塊みたいなスープを、喉を鳴らして無理やり胃へ流し込む。
熱かった。痛かった。涙が出そうになる。
「……美味いよ」
そう言った。
依里が、ぱっと安心したように笑う。
「ほんと?」
「ああ」
「よかったぁ……」
肩の力を抜いて、依里はまたスープを口に運ぶ。
普通の顔で。何事もないみたいに。
その姿を見ながら、気づいてしまった。
もう戻れない。依里は確実に壊れ始めている。
それなのに、俺は今、それを隠す側へ回った。守ったんじゃない。誤魔化した。
この部屋の、ぬるい日常を延命するためだけに。
◇
食後。
依里は床に座り込んだまま、ぼんやりテレビを見ていた。
ニュースキャスターが、今日の新宿戦について淡々と喋っている。
『白峰隊の迅速な対応により、被害拡大は──』
その声を聞きながら、依里が小さく呟いた。
「ねえ、透」
「ん」
「なんかさ」
依里は視線をテレビから外さないまま、ゆっくり言った。
「今日ずっと、変な感じなんだよね」
換気扇の音。テレビのノイズ。遠くを走るバイクの音。
その全部の隙間に、依里の声だけが静かに沈む。
「プリン食べたかったはずなのに」
一拍。
「どんな味だったか、うまく思い出せないんだ」