二度目の出撃から戻ってきた依里は、また何事もなかったみたいに学校へ来た。
朝のホームルーム。
窓の外では、昨日の戦闘で黒く煤けた高架線路を補修する工事車両が、遠くで鈍い音を鳴らしている。
なのに教室の中は、驚くほどいつも通りだった。
「聞いた? 昨日また白峰隊が使徒止めたらしいぞ」
「でも被害やばくね? 西口半分吹っ飛んだって」
「つーか、軍の映像また加工されてたよな。絶対なんか隠してる」
誰かが笑う。机が軋む。プリントが回される。
世界はまだ終わっていない。だからみんな、普通に眠そうだった。
その中で依里だけが、少しだけ静かだった。
「……眠い?」
小声で聞くと、依里は頬杖をついたまま、へにゃっと笑った。
「ちょっとね。昨日帰ったあと、そのまま寝ちゃった」
髪から、まだあの匂いがした。
焼けた鉄。高熱の蒸気。消毒液。軍施設の、肺の奥に貼り付くみたいな無機質な臭気。
それが柔らかいシャンプーの匂いに混ざって、ひどく気持ち悪かった。
「でもね」
依里は声を潜める。
「今回、ちゃんと役に立てたっぽい」
その言い方は、どこか幼かった。テストで少し良い点を取った子供みたいな、そんな響き。
「また何か褒められたのか」
「褒められたっていうか……なんか、すごいねって」
依里は困ったように笑ってから、小さく視線を落とした。
「白峰さんみたいだ、って」
胸の奥で、何かがぬるく軋んだ。
白峰澄花。あの空っぽの目をした英雄。感情を燃やし尽くして、それでも綺麗に笑う人形。
そこへ近づいていることを、依里だけがまだ知らない。
◇
放課後。
西日で赤く染まった美術室には、誰もいなかった。
古い木の机。水の腐った絵筆の匂い。乾きかけたアクリル絵具の、ひび割れた表面。
窓際の席で、依里が美術の課題を広げていた。
「提出、今日までだったの忘れてた……」
「お前それ絶対昨日やる時間あっただろ」
「いやー……帰ったら気絶みたいに寝ちゃって」
そう言って笑う。でもその笑顔の奥に、薄い疲労が沈んでいるのが分かった。
依里はペンケースを開き、カラーペンを机へ並べた。
赤。青。黄。緑。
夕日が透明な軸を照らして、机の上に細長い影を落としている。
「透、どっちがいいと思う?」
依里が二本のペンを持ち上げた。
一本は赤。もう一本は、濁った灰緑色。
彼女は迷いなく、灰色の方をこちらへ向けていた。
「夕焼け塗るなら、こっちの赤の方が綺麗かなって」
呼吸が止まりそうになった。
依里の指先が掴んでいるのは、どう見ても赤じゃない。くすんだ泥みたいな色だった。
「……」
喉の奥がひどく乾く。
依里は気づいていない。本気で、それを赤だと思っている。
頭の奥で、あの塩辛いスープの夜が蘇った。
──美味しいよ。
自分の吐いた嘘が、まだ胃の底に沈んでいる。
もし今ここで、「それ赤じゃないぞ」と言えば。
依里はきっと思い出す。スープの味。最近増えた頭痛。訓練施設の警報。白峰の目。全部が一本の線で繋がってしまう。
依里は、壊れる。
だから。
「……ああ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「そっち、綺麗な赤だな」
言った瞬間、胃の奥で何かが腐ったみたいな感覚がした。
依里は安心したように笑った。
「だよね。なんか今日、変に色がぼやけるから、自信なかったんだ」
ぼやける。その言葉だけが、静かに耳へ残る。
依里は何も知らないまま、灰色のペンで夕焼けを塗り始めた。紙の上で広がるのは、死んだアスファルトみたいな色だった。
なのに依里は嬉しそうだった。
「うわ、今日めっちゃ上手くない?」
「……そうだな」
「ほら見て。ちゃんと夕方っぽい」
窓の外では、本物の夕焼けが街を赤く染めていた。
信号機。屋上の看板。帰宅する人の頬。
世界は確かに赤かった。依里だけが、その色を失っている。
◇
帰り道。
交差点の信号が点滅していた。
夕方の人混み。コンビニ袋を提げた会社員。自転車を押す老人。どこにでもある、退屈な街の風景。
依里が車道へ踏み出しかけた瞬間、反射的に腕を掴んだ。
「危ねえだろ」
「え?」
依里がきょとんとこちらを見る。
「まだ赤だぞ」
その瞬間だけ、依里の表情が、ほんの少し固まった。
「あ……」
信号を見上げる。赤色のランプが、夕闇の中で滲んでいた。
依里は数秒黙ったあと、ふっと笑った。
「ごめん。なんか今日ほんと目疲れいてるかも」
軽い口調。冗談みたいな声。
でも、繋いだ腕が少しだけ冷たかった。
青信号に変わる。人の流れが動き始める。依里はまた、いつものように歩き出した。
「そういえばさ」
横顔のまま、小さく言う。
「次の訓練終わったら、今度はもっとちゃんとしたご飯作るね」
「またスープか」
「失礼だなあ。次は失敗しないし」
失敗。依里はまだ、あれを失敗だと思っている。
本当は違う。もう戻らないだけだ。世界のどこにも。
「……楽しみにしてる」
また嘘を吐いた。吐くたびに、自分の中の何かが少しずつ削れていく。
でも、それでも。依里が笑っている間だけは。この壊れかけの日常を、まだ「普通」だと思っていたかった。
交差点を渡る風が、生ぬるく頬を撫でる。
遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
夕焼けはもう、ほとんど灰色に沈みかけていた。