ある聖戦の裏側で   作:雨杜結依

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第漆話 「死んだアスファルトみたいな色だった。」

二度目の出撃から戻ってきた依里は、また何事もなかったみたいに学校へ来た。

 

朝のホームルーム。

窓の外では、昨日の戦闘で黒く煤けた高架線路を補修する工事車両が、遠くで鈍い音を鳴らしている。

なのに教室の中は、驚くほどいつも通りだった。

 

「聞いた? 昨日また白峰隊が使徒止めたらしいぞ」

「でも被害やばくね? 西口半分吹っ飛んだって」

「つーか、軍の映像また加工されてたよな。絶対なんか隠してる」

 

誰かが笑う。机が軋む。プリントが回される。

世界はまだ終わっていない。だからみんな、普通に眠そうだった。

その中で依里だけが、少しだけ静かだった。

 

「……眠い?」

 

小声で聞くと、依里は頬杖をついたまま、へにゃっと笑った。

 

「ちょっとね。昨日帰ったあと、そのまま寝ちゃった」

 

髪から、まだあの匂いがした。

焼けた鉄。高熱の蒸気。消毒液。軍施設の、肺の奥に貼り付くみたいな無機質な臭気。

それが柔らかいシャンプーの匂いに混ざって、ひどく気持ち悪かった。

 

「でもね」

 

依里は声を潜める。

 

「今回、ちゃんと役に立てたっぽい」

 

その言い方は、どこか幼かった。テストで少し良い点を取った子供みたいな、そんな響き。

 

「また何か褒められたのか」

 

「褒められたっていうか……なんか、すごいねって」

 

依里は困ったように笑ってから、小さく視線を落とした。

 

「白峰さんみたいだ、って」

 

胸の奥で、何かがぬるく軋んだ。

白峰澄花。あの空っぽの目をした英雄。感情を燃やし尽くして、それでも綺麗に笑う人形。

そこへ近づいていることを、依里だけがまだ知らない。

 

 

放課後。

西日で赤く染まった美術室には、誰もいなかった。

 

古い木の机。水の腐った絵筆の匂い。乾きかけたアクリル絵具の、ひび割れた表面。

窓際の席で、依里が美術の課題を広げていた。

 

「提出、今日までだったの忘れてた……」

 

「お前それ絶対昨日やる時間あっただろ」

 

「いやー……帰ったら気絶みたいに寝ちゃって」

 

そう言って笑う。でもその笑顔の奥に、薄い疲労が沈んでいるのが分かった。

 

依里はペンケースを開き、カラーペンを机へ並べた。

赤。青。黄。緑。

夕日が透明な軸を照らして、机の上に細長い影を落としている。

 

「透、どっちがいいと思う?」

 

依里が二本のペンを持ち上げた。

一本は赤。もう一本は、濁った灰緑色。

彼女は迷いなく、灰色の方をこちらへ向けていた。

 

「夕焼け塗るなら、こっちの赤の方が綺麗かなって」

 

呼吸が止まりそうになった。

依里の指先が掴んでいるのは、どう見ても赤じゃない。くすんだ泥みたいな色だった。

 

「……」

 

喉の奥がひどく乾く。

依里は気づいていない。本気で、それを赤だと思っている。

 

頭の奥で、あの塩辛いスープの夜が蘇った。

──美味しいよ。

自分の吐いた嘘が、まだ胃の底に沈んでいる。

 

もし今ここで、「それ赤じゃないぞ」と言えば。

依里はきっと思い出す。スープの味。最近増えた頭痛。訓練施設の警報。白峰の目。全部が一本の線で繋がってしまう。

 

依里は、壊れる。

 

だから。

 

「……ああ」

 

気づけば、口が勝手に動いていた。

 

「そっち、綺麗な赤だな」

 

言った瞬間、胃の奥で何かが腐ったみたいな感覚がした。

 

依里は安心したように笑った。

 

「だよね。なんか今日、変に色がぼやけるから、自信なかったんだ」

 

ぼやける。その言葉だけが、静かに耳へ残る。

依里は何も知らないまま、灰色のペンで夕焼けを塗り始めた。紙の上で広がるのは、死んだアスファルトみたいな色だった。

なのに依里は嬉しそうだった。

 

「うわ、今日めっちゃ上手くない?」

 

「……そうだな」

 

「ほら見て。ちゃんと夕方っぽい」

 

窓の外では、本物の夕焼けが街を赤く染めていた。

信号機。屋上の看板。帰宅する人の頬。

世界は確かに赤かった。依里だけが、その色を失っている。

 

 

帰り道。

交差点の信号が点滅していた。

 

夕方の人混み。コンビニ袋を提げた会社員。自転車を押す老人。どこにでもある、退屈な街の風景。

依里が車道へ踏み出しかけた瞬間、反射的に腕を掴んだ。

 

「危ねえだろ」

 

「え?」

 

依里がきょとんとこちらを見る。

 

「まだ赤だぞ」

 

その瞬間だけ、依里の表情が、ほんの少し固まった。

 

「あ……」

 

信号を見上げる。赤色のランプが、夕闇の中で滲んでいた。

依里は数秒黙ったあと、ふっと笑った。

 

「ごめん。なんか今日ほんと目疲れいてるかも」

 

軽い口調。冗談みたいな声。

でも、繋いだ腕が少しだけ冷たかった。

 

青信号に変わる。人の流れが動き始める。依里はまた、いつものように歩き出した。

 

「そういえばさ」

 

横顔のまま、小さく言う。

 

「次の訓練終わったら、今度はもっとちゃんとしたご飯作るね」

 

「またスープか」

 

「失礼だなあ。次は失敗しないし」

 

失敗。依里はまだ、あれを失敗だと思っている。

本当は違う。もう戻らないだけだ。世界のどこにも。

 

「……楽しみにしてる」

 

また嘘を吐いた。吐くたびに、自分の中の何かが少しずつ削れていく。

でも、それでも。依里が笑っている間だけは。この壊れかけの日常を、まだ「普通」だと思っていたかった。

 

交差点を渡る風が、生ぬるく頬を撫でる。

遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。

 

夕焼けはもう、ほとんど灰色に沈みかけていた。

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