ある聖戦の裏側で   作:雨杜結依

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第捌話 「私には、ただの騒音にしか聞こえなくて」

夜の雨は、世界の輪郭を曖昧にする。

 

窓ガラスを叩く水音が、六畳一間の安アパートを白く閉ざしていた。

外を走る車の音も、遠くのサイレンも、全部、分厚い雨幕の向こう側へ沈んでいる。

 

テーブルの上では、電気ケトルが小さく湯気を吐いていた。

依里は、床に置いたクッションへ膝を抱えるように座り、濡れた前髪をタオルで雑に拭いている。

 

今日も出撃帰りだった。制服姿のまま。

どこにも怪我なんてない。頬も、指先も、ちゃんと人間の温度をしている。

 

なのに。

彼女が身体を動かすたび、雨と柔軟剤の匂いに混じって、微かに焦げた金属臭がした。

高熱の蒸気。焼けた鉄骨。軍施設の、あの喉に刺さる乾いた匂い。

それだけが、どうしてもこの部屋の生活臭に馴染まなかった。

 

「……なんか最近、ほんと雨多いね」

 

依里がタオル越しに言った。

 

「梅雨だからだろ」

 

「そっか」

 

それだけ言って、彼女は笑う。

以前より少しだけ、笑うまでの間が長くなった気がした。

 

 

「ねえ、透」

 

依里がベッド脇の棚を指差した。

 

「まだある?」

 

「何が」

 

「ほら、あの曲」

 

古びた音楽プレイヤー。

ケースの角が割れて、イヤホンのコードも何度も補修してある。

中学の頃、たまたま中古ショップで買ったアルバムだった。何がそんなに良かったのか、今となってはうまく説明できない。

ただ、放課後の帰り道とか、試験勉強の途中とか、どうでもいい時間に二人で何度も聴いた。

世界がまだ、今ほど壊れていなかった頃の音だった。

 

「あー……あったはず」

 

棚を漁ると、絡まったコードが指に引っ掛かった。

依里が少し嬉しそうに身を乗り出す。

 

「なんかさ。今日、すごい疲れてて」

 

「……」

 

「こういう時、あれ聴くと落ち着くんだよね。昔みたいな気分になるっていうか」

 

私ん家でカルボナーラを作る約束。コンビニのプリン。塩辛いスープ。灰色の赤。

そういう壊れかけた日常の残骸へ、依里は必死にしがみついている。

多分、俺も。

 

 

イヤホンを片方ずつ分け合う。距離が近い。肩同士が軽く触れる。

窓の外では、雨が絶えず街を削っていた。

 

再生ボタンを押す。

ザー、と一瞬だけ走る小さなノイズ。そのあと、聴き慣れたギターのイントロが流れ始めた。

 

少し掠れたボーカル。安っぽい電子ドラム。どこか古臭いメロディ。

でも、その不格好さごと、ちゃんと覚えている。

中学の帰り道。イヤホンを奪い合って、依里が歌詞を間違えて笑っていたこと。冬のコンビニ前で、肉まんの湯気を吐きながら聴いたこと。

そういう細かい記憶が、旋律に触れるたび静かに蘇る。

 

……はずだった。

 

「……っ」

 

隣で、依里の肩がぴくりと震えた。

視線を向ける。依里は眉を寄せていた。まるで、耳元で金属でも擦られているみたいな顔。

 

「どうした」

 

「え……」

 

「イヤホン痛いか?」

 

「違、う……」

 

依里が困ったように笑う。けれど、その笑顔はうまく定着しなかった。

 

「なんか……変な音しない?」

 

「変?」

 

「うん……」

 

雨音の中で、曲はそのまま流れ続けている。俺には、いつもの曲だった。

サビ前の少し走るギターも。音程を外しかけるボーカルも。全部、ちゃんとあの頃のままだ。

なのに、依里だけが、怯えたみたいに耳元を押さえた。

 

「……キィキィしてるっていうか……」

「無線みたいな……雑音みたいなの、ずっと鳴ってる」

 

喉の奥が、ひどく冷えた。依里は続ける。

 

「ねえ透。これ、本当にいつも聴いてた曲だっけ」

 

窓の外で、強い雨が排水管を叩いた。

 

「なんか……私には、ただの騒音にしか聞こえなくて」

 

 

その瞬間、頭の中で、何かが音を立てて崩れた。

 

味覚。色彩。そして今度は、俺たちが積み重ねてきた「思い出の音」まで。

戦うたびに、依里の中から人間だった部分が削り取られていく。世界を守る代わりに。

心臓は動いている。呼吸もしている。笑うことだってできる。

なのに、その中身だけが、少しずつ別の何かへ置き換わっていく。

 

「……あー」

 

気づけば、口が勝手に動いていた。

 

「多分それ、イヤホンだな」

 

「え?」

 

「接触悪いんだろ。ほら、コード根元ヤバいし」

 

依里がきょとんと俺を見る。その目は、少しだけ安心したみたいに揺れていた。

 

「……そっか」

 

「古いしな」

 

「びっくりしたぁ……」

 

依里は胸を撫で下ろし、小さく笑った。

 

「なんか私、とうとう頭まで変になったのかと思った」

 

その言葉が、胃の底へ鈍く沈んだ。

違う。変になっている。

でも、それを言った瞬間、全部終わる。

スープの味。赤色。工程の途中にあった、この曲。

点だった違和感が線になる。依里自身が、自分の崩壊を理解してしまう。

 

だから。

 

「ほら、右側だけ外してみろ」

 

平然を装ってイヤホンを弄った。

 

「……どう?」

 

「あ」

 

依里が少し目を丸くする。

 

「さっきよりマシかも」

 

嘘だった。何も変わっていない。

変わったのは、多分、依里が「壊れたのはイヤホンだ」と信じようとしてくれただけだ。

 

 

曲は流れ続ける。

俺には懐かしい旋律が聴こえている。依里には、多分もう届いていない。

それなのに彼女は、歌詞を思い出すみたいに小さく口ずさんでいた。

 

少しだけ音程がズレている。雨音のほうが、ずっと綺麗だった。

 

隣を見る。依里は目を閉じていた。

昔みたいに安心した顔を作ろうとしている。その努力だけが、痛いほど分かった。

 

イヤホン越しの音楽を聴きながら、ぼんやりと思う。

 

多分もう、俺たちは同じものを見ていない。

同じ味もしない。同じ色も見えない。同じ音楽も聴こえていない。

 

それでも、依里が壊れていく世界に合わせて、俺が嘘を吐き続ければ、まだ隣にいられる気がした。

 

雨はずっと降り続いていた。

部屋の薄暗い天井を見上げながら、俺は曲の終わりを聴いていた。

依里の耳にはもう届かない、懐かしい旋律の終わりを。

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