夜の雨は、世界の輪郭を曖昧にする。
窓ガラスを叩く水音が、六畳一間の安アパートを白く閉ざしていた。
外を走る車の音も、遠くのサイレンも、全部、分厚い雨幕の向こう側へ沈んでいる。
テーブルの上では、電気ケトルが小さく湯気を吐いていた。
依里は、床に置いたクッションへ膝を抱えるように座り、濡れた前髪をタオルで雑に拭いている。
今日も出撃帰りだった。制服姿のまま。
どこにも怪我なんてない。頬も、指先も、ちゃんと人間の温度をしている。
なのに。
彼女が身体を動かすたび、雨と柔軟剤の匂いに混じって、微かに焦げた金属臭がした。
高熱の蒸気。焼けた鉄骨。軍施設の、あの喉に刺さる乾いた匂い。
それだけが、どうしてもこの部屋の生活臭に馴染まなかった。
「……なんか最近、ほんと雨多いね」
依里がタオル越しに言った。
「梅雨だからだろ」
「そっか」
それだけ言って、彼女は笑う。
以前より少しだけ、笑うまでの間が長くなった気がした。
◇
「ねえ、透」
依里がベッド脇の棚を指差した。
「まだある?」
「何が」
「ほら、あの曲」
古びた音楽プレイヤー。
ケースの角が割れて、イヤホンのコードも何度も補修してある。
中学の頃、たまたま中古ショップで買ったアルバムだった。何がそんなに良かったのか、今となってはうまく説明できない。
ただ、放課後の帰り道とか、試験勉強の途中とか、どうでもいい時間に二人で何度も聴いた。
世界がまだ、今ほど壊れていなかった頃の音だった。
「あー……あったはず」
棚を漁ると、絡まったコードが指に引っ掛かった。
依里が少し嬉しそうに身を乗り出す。
「なんかさ。今日、すごい疲れてて」
「……」
「こういう時、あれ聴くと落ち着くんだよね。昔みたいな気分になるっていうか」
私ん家でカルボナーラを作る約束。コンビニのプリン。塩辛いスープ。灰色の赤。
そういう壊れかけた日常の残骸へ、依里は必死にしがみついている。
多分、俺も。
◇
イヤホンを片方ずつ分け合う。距離が近い。肩同士が軽く触れる。
窓の外では、雨が絶えず街を削っていた。
再生ボタンを押す。
ザー、と一瞬だけ走る小さなノイズ。そのあと、聴き慣れたギターのイントロが流れ始めた。
少し掠れたボーカル。安っぽい電子ドラム。どこか古臭いメロディ。
でも、その不格好さごと、ちゃんと覚えている。
中学の帰り道。イヤホンを奪い合って、依里が歌詞を間違えて笑っていたこと。冬のコンビニ前で、肉まんの湯気を吐きながら聴いたこと。
そういう細かい記憶が、旋律に触れるたび静かに蘇る。
……はずだった。
「……っ」
隣で、依里の肩がぴくりと震えた。
視線を向ける。依里は眉を寄せていた。まるで、耳元で金属でも擦られているみたいな顔。
「どうした」
「え……」
「イヤホン痛いか?」
「違、う……」
依里が困ったように笑う。けれど、その笑顔はうまく定着しなかった。
「なんか……変な音しない?」
「変?」
「うん……」
雨音の中で、曲はそのまま流れ続けている。俺には、いつもの曲だった。
サビ前の少し走るギターも。音程を外しかけるボーカルも。全部、ちゃんとあの頃のままだ。
なのに、依里だけが、怯えたみたいに耳元を押さえた。
「……キィキィしてるっていうか……」
「無線みたいな……雑音みたいなの、ずっと鳴ってる」
喉の奥が、ひどく冷えた。依里は続ける。
「ねえ透。これ、本当にいつも聴いてた曲だっけ」
窓の外で、強い雨が排水管を叩いた。
「なんか……私には、ただの騒音にしか聞こえなくて」
◇
その瞬間、頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
味覚。色彩。そして今度は、俺たちが積み重ねてきた「思い出の音」まで。
戦うたびに、依里の中から人間だった部分が削り取られていく。世界を守る代わりに。
心臓は動いている。呼吸もしている。笑うことだってできる。
なのに、その中身だけが、少しずつ別の何かへ置き換わっていく。
「……あー」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「多分それ、イヤホンだな」
「え?」
「接触悪いんだろ。ほら、コード根元ヤバいし」
依里がきょとんと俺を見る。その目は、少しだけ安心したみたいに揺れていた。
「……そっか」
「古いしな」
「びっくりしたぁ……」
依里は胸を撫で下ろし、小さく笑った。
「なんか私、とうとう頭まで変になったのかと思った」
その言葉が、胃の底へ鈍く沈んだ。
違う。変になっている。
でも、それを言った瞬間、全部終わる。
スープの味。赤色。工程の途中にあった、この曲。
点だった違和感が線になる。依里自身が、自分の崩壊を理解してしまう。
だから。
「ほら、右側だけ外してみろ」
平然を装ってイヤホンを弄った。
「……どう?」
「あ」
依里が少し目を丸くする。
「さっきよりマシかも」
嘘だった。何も変わっていない。
変わったのは、多分、依里が「壊れたのはイヤホンだ」と信じようとしてくれただけだ。
◇
曲は流れ続ける。
俺には懐かしい旋律が聴こえている。依里には、多分もう届いていない。
それなのに彼女は、歌詞を思い出すみたいに小さく口ずさんでいた。
少しだけ音程がズレている。雨音のほうが、ずっと綺麗だった。
隣を見る。依里は目を閉じていた。
昔みたいに安心した顔を作ろうとしている。その努力だけが、痛いほど分かった。
イヤホン越しの音楽を聴きながら、ぼんやりと思う。
多分もう、俺たちは同じものを見ていない。
同じ味もしない。同じ色も見えない。同じ音楽も聴こえていない。
それでも、依里が壊れていく世界に合わせて、俺が嘘を吐き続ければ、まだ隣にいられる気がした。
雨はずっと降り続いていた。
部屋の薄暗い天井を見上げながら、俺は曲の終わりを聴いていた。
依里の耳にはもう届かない、懐かしい旋律の終わりを。