雨上がりの夜だった。
昼間まで街を濁らせていた雨雲はもう流れていて、窓の外には、洗い残しみたいな湿った風だけが残っている。
アパートの鉄階段を誰かが降りる音がした。
ギィ、と古い金属が軋む。その音のあと。
部屋のドアが、ゆっくり開いた。
「……ただいま」
依里の声は、少し掠れていた。
振り向く。
制服。濡れかけた前髪。肩から提げた軍用ケース。
外見だけなら、どこにも異常なんてない。
でも、玄関に立つ彼女の輪郭は、最近ずっと薄くなり続けていた。まるで、人間の形をした霧みたいに。
「遅かったな」
「うん。今日ちょっと長引いて」
依里は靴を脱ぎながら、小さく息を吐いた。
「なんかさ。今日、すごい冷える」
六月の夜にしては、確かに風が冷たかった。窓の隙間から入る湿気が、畳の匂いを重くしている。
依里は自分の腕を擦る。
「寒い?」
「うーん……なんか、変な感じ」
笑いながら言う。その笑い方が、最近どんどん上手くなっていた。
◇
電気ケトルが沸騰する。
白い蒸気が、薄暗い部屋へゆっくり広がった。
棚からマグカップを二つ取り出し、インスタントの紅茶を開ける。
依里は床に座ったまま、ぼんやり両手を見ていた。
「ほら」
「あ、ありがと」
カップを受け取る。その瞬間だった。
「……え」
依里が少しだけ首を傾げた。
「どうした」
「いや……」
彼女はカップを両手で包んだまま、不思議そうに瞬きを繰り返す。
「熱く、ない」
喉の奥がひどく重くなった。依里は困ったみたいに笑う。
「えー……またかなぁ。最近ほんと変」
「冷房で感覚鈍ってんじゃねえの」
「かなぁ」
依里はそう言って、何気なくカップの縁へ指を添えた。
数秒後。
「あっ」
慌てて手を引く。指先が、じわりと赤くなっていた。
「……熱」
「だから言っただろ」
「いや、全然分かんなかった……」
依里は自分の指先を眺める。
痛みはあるらしい。でも、その前段階の「温かい」が、綺麗に抜け落ちている。
まるで、人間の感覚だけを、選別して剥がされているみたいに。
◇
「透」
依里がぽつりと言った。
「手、貸して」
「……手?」
「なんか寒いから」
少しだけ迷ってから、依里の隣へ腰を下ろした。
彼女の手を取る。
細い。柔らかい。少し冷えている。
ちゃんと、生きている女の子の手だった。俺はその両手を、自分の掌で包み込む。
「こうしとけばそのうち温まるだろ」
「うん」
依里は小さく頷いた。
沈黙。
窓の外で、どこか遠くの車が水たまりを踏み潰す音がした。
俺は、依里の指先を少し強く握る。繋ぎ止めるみたいに。この温度だけは奪わせないと、祈るみたいに。
「……どう」
「え?」
「少しは温かいか」
依里は、自分の手を見下ろした。それから、少し困ったように笑う。
「……まだ、冷たいかも」
指先が、じわりと冷えていく。
◇
何秒経っても。どれだけ握っても。
依里の表情は変わらなかった。
昔なら、冬の帰り道なんかで手を繋ぐと、依里はすぐ「熱っ」と笑っていたのに。
今は、自分の手首から先が、本当に存在しているのか確かめるみたいに、ぼんやり指を見つめている。
「……ねえ透」
「ん」
「なんかさ」
依里の声は静かだった。
「自分の手、どこにあるのか分かんなくなる時あるんだよね」
息を止める。
「軽いっていうか……ちゃんと触ってるはずなのに、何も触れられてないみたいで」
依里が小さく笑った。
「変だよね」
変じゃない。壊れてる。お前はもう──そこまで喉元まで出かかった言葉を、奥歯ごと噛み潰した。
◇
依里の頬へ手を伸ばした。
少し冷たい肌。けれど、その感触は妙だった。柔らかいはずなのに、どこか、生身の「返し」がない。粘土細工に触れているみたいだった。
「……冷た」
呟く。
「そう?」
「お前、身体冷えてんだよ」
「そっかぁ……」
依里はされるがまま、頬へ俺の手を擦り寄せた。でも、その目はどこか遠い。
「なんかね。お湯なのか、氷なのかも、よく分かんない」
その瞬間、胸の奥で、何かがぐしゃりと潰れた。
◇
依里は、自分が崩れていることをまだ理解していない。理解しないようにしている。
だから、俺も嘘を吐く。
味覚の時みたいに。色彩の時みたいに。音楽の時みたいに。また。
「悪い」
笑った。
「私の手、外いたから冷えてんだわ」
「え、ほんと?」
「ああ。だから分かりづらいんだろ」
依里は安心したように肩を抜く。
「なんだぁ……びっくりした」
その顔を見ていると、吐き気がした。
安心させるための嘘。守るための嘘。そんな綺麗な言葉じゃない。
本当はただ、依里が壊れていく現実を、自分が見たくないだけだった。
◇
依里はそのまま、私の肩へ少し体重を預けた。
「……透ってあったかいよね」
反射みたいに言う。でも、その声には確信がなかった。記憶の中の「温かい」をなぞっているだけだ。もう感じられていない。
黙ったまま、依里の手を握り続けた。強く。指が壊れそうなくらい。
それでも、自分の温度が、依里の中へ一ミリも届いていない気がした。
抱き締めても。触れても。隣にいても。
依里は少しずつ、人間の外側へ落ちていく。
その事実だけが、湿った夜気みたいに部屋へ満ちていた。
窓の外では、また小さく雨が降り始めていた。