坂柳有栖が杖を置く日   作:EXTERMINATION

1 / 1
序章 限界

高度育成高等学校の夏は、どこまでも整いすぎていた。

 

敷き詰められた石畳は汚れ一つなく、

植え込みは寸分の狂いもなく刈り揃えられ、

ガラス張りの校舎には柔らかな朝日が反射しており、

その人工的なまでの美しさは、

まるでこの学園そのものが「欠陥」という言葉を拒絶しているかのようだった。

 

だが、その完璧さの中心に立ちながら、坂柳有栖は、

自分という存在だけがこの世界の設計図から

取り残されているような感覚を抱いていた。

 

細い杖の先端が石畳を軽く叩く。

 

乾いた、小さな音だった。

 

たったそれだけの音なのに、

周囲を歩く生徒たちの規則正しい足音の中では妙に異質で、

まるで自分だけが別の時間を歩いているように感じられる瞬間が、

坂柳は昔から嫌いだった。

 

「おはようございます、坂柳さん」

 

通りかかったクラスメイトの白石飛鳥が軽く頭を下げる。

 

坂柳は微笑む。

 

「ええ、おはようございます」

 

その声音にはいつもの余裕があった。

 

Aクラスを率いる少女としての、揺るがぬ優雅さがあった。

 

誰もが彼女を特別だと思っていた。

 

頭脳、判断力、統率力。

 

この学校で求められる能力の大半を、

坂柳有栖はほぼ完璧な形で持ち合わせている。

 

だが同時に、誰もが知っていた。

 

彼女の身体は、壊れている。

 

夏の風が吹く。

 

制服のスカートがわずかに揺れ、長い髪が肩を撫でる。

 

その風を受けながら、坂柳はほんの少しだけ目を細めた。

 

前方では運動部の生徒たちが朝練をしていた。

 

グラウンドを駆ける陸上部員たち。

 

ボールを追うサッカー部。

 

バスケットボールの跳ねる音。

 

息を切らしながら、それでも笑っている生徒たち。

 

坂柳はその光景を無表情に眺める。

 

いや、正確には無表情を装って眺めていた。

 

――羨ましい。

 

そんな感情を抱く資格など、自分にはないと思っていた。

 

生まれつき心臓が弱かった。

 

走ることを禁じられた。

 

転ぶことを禁じられた。

 

無理をすることを禁じられた。

 

幼い頃から、坂柳有栖の人生は「禁止事項」の上に築かれてきた。

 

だから彼女は知性を磨いた。

 

歩けないなら頭で勝てばいい。

 

身体が弱いなら、誰よりも賢くなればいい。

 

そうやって彼女は今の場所まで辿り着いた。

 

それなのに。

 

坂柳の視線は、無意識のうちにグラウンドを走る生徒たちへ吸い寄せられていた。

 

風を切る脚。

 

地面を蹴る音。

 

全力疾走のあとに乱れる呼吸。

 

そんな当たり前の光景が、自分には決して許されないものなのだと

理解しているからこそ、胸の奥に鈍い痛みが残る。

 

「珍しいな」

 

不意に背後から声がした。

 

坂柳は振り返らない。

 

誰の声か、確認する必要がなかったからだ。

 

「あなたが他人を観察しているだけで、

声をかけてくるなんて珍しいですね。綾小路くん」

 

綾小路清隆は坂柳の隣へ並ぶ。

 

相変わらず感情の薄い顔だった。

 

まるで朝の景色そのものに興味がないような目。

 

「お前がグラウンドを見ていたから」

「それが何か?」

「いや、別に」

 

本当に興味がないのか、それとも興味を隠しているのか分からない返答だった。

 

坂柳は小さく笑う。

 

「あなた、時々不思議ですよね」

「そうか?」

 

「ええ。まるで全てを諦めた人のような顔をしている時があるかと思えば、

時折こうして妙なところだけ見ていますもの」

 

綾小路は答えなかった。

 

沈黙。

 

グラウンドから響く掛け声だけが風に乗って届く。

 

その時だった。

 

坂柳の胸に、わずかな違和感が走った。

 

心臓が一瞬だけ脈を乱す。

 

慣れた感覚だった。

 

だからこそ危険だった。

 

坂柳は表情を変えない。

 

変えてはいけない。

 

だが、ほんのわずかに杖を握る指へ力が入った。

 

綾小路の視線がそこへ落ちる。

 

「……大丈夫か」

「心配してくださるんですか?」

「顔色が悪い」

「それは元からです」

 

軽口のように返した。

 

しかし次の瞬間、世界がわずかに揺れた。

 

視界が白く霞む。

 

呼吸が浅くなる。

 

胸の奥で心臓が不規則に暴れ、

血液の流れが一瞬だけ狂ったような感覚が全身を駆け抜けた。

 

坂柳の足元がふらつく。

 

杖が石畳を強く叩いた。

 

乾いた音が響く。

 

その直後だった。

 

綾小路の手が、坂柳の身体を静かに支えていた。

 

強引ではない。

 

だが確実に倒れない角度で。

 

坂柳は小さく目を見開く。

 

綾小路は無表情のまま言った。

 

「保健室へ行くか」

「……必要ありません」

「強がるな」

 

その言葉に、坂柳の眉がわずかに動く。

 

強がる。

 

その通りだった。

 

彼女は昔からそうやって生きてきた。

 

弱みを見せれば終わる。

 

倒れれば守られる。

 

守られれば、弱者になる。

 

だから坂柳有栖は、絶対に他人へ苦しさを見せなかった。

 

「私は問題ありません」

 

そう言って、坂柳は綾小路の手を静かに振り払う。

 

だがその瞬間だった。

 

胸の奥で、再び大きく脈が乱れた。

 

息が詰まる。

 

視界が暗く沈む。

 

今度は誤魔化しきれなかった。

 

坂柳の身体が崩れ落ちる。

 

杖が石畳へ転がった。

 

カラン――という乾いた音が、妙に大きく響いた。

 

そして。

 

地面へ倒れかけた坂柳の身体を、綾小路が正面から抱き止める。

 

夏の風が吹いていた。

 

だが坂柳には、その風すら遠く感じられた。

 

薄れていく意識の中で。

 

彼女は初めて、自分の身体が

限界へ近づいているのかもしれないと、静かに理解してしまっていた。




モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。