朝のグラウンドには、坂柳有栖がこれまで意識的に避けてきたものが、
あまりにも無遠慮に満ちていた。
地面を蹴る音。
ボールの跳ねる音。
呼吸が荒くなる音。
汗を拭う仕草。
転んでもすぐに立ち上がる身体。
疲れたと笑いながら、それでも次の一歩を踏み出せる脚。
その全てが、坂柳にとっては別世界の言語のようだった。
彼女はグラウンド脇のベンチに座り、杖を膝の横へ立てかけていた。
医療スタッフから許可された今日の訓練は、外周路を短く歩くこと。
それだけだった。
走るわけではない。
階段を上るわけでもない。
ただ、グラウンドの周りを、一定のペースで歩く。
健康な生徒なら退屈にすら感じる内容。
だが坂柳にとっては、それでも十分に試験だった。
「本当にここでやるの?」
隣で神室真澄が気だるげに言った。
手には記録用の端末がある。
最近の彼女は、すっかり坂柳の歩行記録係になっていた。
「ええ。平地で、距離も測りやすく、休憩場所も多い。条件としては悪くありません」
「いや、そういう意味じゃなくて」
神室はグラウンドを見る。
「体育会系の連中が走り回ってる真横で歩くの、精神的にきつくない?」
坂柳は少しだけ黙った。
その問いは、思ったより正確だった。
「きつくない、と言えば嘘になりますね」
「じゃあ別の場所にすれば?」
「いいえ」
坂柳は静かに首を振る。
「見ないふりをしていても、私の身体は変わりませんから」
神室は少しだけ眉を上げた。
「……最近、変なところで素直になったよね」
「成長と言っていただきたいです」
「めんどくささは変わってないけど」
「それは個性です」
神室は呆れたように息を吐いた。
その時、グラウンドの向こうから大きな声が飛んできた。
「おーい、坂柳!」
須藤健だった。
彼はバスケットボールを片手に持ち、汗を額に浮かべながらこちらへ駆け寄ってくる。
その走り方は大きく、力強く、地面そのものを押し返すようだった。
坂柳はその動きを見て、ほんの少しだけ目を細める。
羨ましい。
やはりそう思ってしまう。
だが今は、その感情を以前ほど恥じてはいなかった。
「何かご用ですか、須藤くん」
「いや、今日ここでリハビリすんだろ?平田から聞いた」
「情報共有が活発ですね」
「心配してんだよ、みんな」
その言葉に、坂柳は一瞬だけ返答を失った。
須藤はそれに気づかないまま、少し考えるように腕を組んだ。
「歩くんならさ、最初から無理に距離伸ばそうとすんなよ」
「経験者の助言ですか?」
「まあな。俺、昔はすぐ熱くなって無茶してたからよ。
怪我したら練習できなくなるし、結局遠回りなんだよな」
意外だった。
須藤の言葉は単純だったが、その単純さの中に確かな経験があった。
身体を使ってきた人間の言葉。
失敗し、痛みを知り、それでも続けてきた者の言葉。
坂柳が持たない種類の知識だった。
「あなたでも、無茶をすれば壊れるのですか?」
須藤は目を丸くした。
「そりゃ壊れるだろ。人間なんだから」
人間なんだから。
あまりにも当たり前の言葉だった。
だが坂柳には、その当たり前が少しだけ新鮮だった。
強い身体を持つ者は壊れないのだと、どこかで思っていたのかもしれない。
須藤や宝泉や高円寺のような人間は、自分とは別の素材でできているのだと。
けれど違う。
彼らもまた、身体と付き合い、限界を知り、時に壊れないように調整している。
坂柳はその事実を、今さら理解し始めていた。
「参考になります」
「お、おう」
須藤は少し照れたように頭をかく。
「あと、息は止めんなよ。きつい時ほど呼吸しろって、部活でよく言われた」
「なるほど」
「まあ、俺が言うと説得力あるだろ?」
「ある意味では」
「ある意味って何だよ」
坂柳は小さく笑った。
その笑みを見て、須藤も少し安心したように笑う。
その時だった。
「随分と温いことやってんな」
低い声がグラウンド脇に落ちた。
坂柳が視線を向ける。
そこに立っていたのは宝泉和臣だった。
大柄な身体。
圧のある目。
ただ立っているだけで周囲の空気を重くする暴力性。
須藤が反射的に警戒する。
「宝泉……」
「何だよ、須藤。睨んでんじゃねえよ」
宝泉は鼻で笑い、坂柳を見る。
「病人のお散歩か?」
神室が露骨に不快そうな顔をする。
須藤も一歩前へ出かけた。
だが坂柳は片手でそれを制した。
「ええ。病人のお散歩です。何か問題でも?」
宝泉は一瞬だけ目を細めた。
予想外の返答だったのだろう。
「開き直んのかよ」
「否定しても事実は変わりませんから」
坂柳は静かに言った。
「私は病人です。身体も弱い。長く歩けず、階段で倒れ、
医療班の世話にもなりました。それで、あなたは何を確認したいのですか?」
周囲の空気が少し変わった。
須藤も、神室も、言葉を失っている。
宝泉は坂柳を見下ろしていた。
その目には苛立ちと、わずかな興味が混ざっていた。
「ムカつくな、お前」
「よく言われます」
「弱ぇくせに、弱さを認めた顔してねぇ」
坂柳は少しだけ黙った。
宝泉の言葉は乱暴だった。
だが、的外れではなかった。
自分は弱さを口にした。
だがまだ、弱さを完全には受け入れていない。
認めたふりをしながら、心のどこかでその事実に噛みついている。
宝泉はそれを嗅ぎ取ったのかもしれない。
「身体が弱ぇなら弱ぇなりにやれよ」
宝泉は吐き捨てるように言った。
「強ぇ奴の真似して潰れてんじゃねえ。弱ぇ奴には弱ぇ奴の戦い方があるだろ」
坂柳の瞳がわずかに揺れる。
宝泉からそんな言葉が出るとは思っていなかった。
須藤も驚いたように彼を見ている。
宝泉は不機嫌そうに舌打ちした。
「何だよ。変な顔してんじゃねえ」
「いえ。あなたから戦略的な言葉が聞けるとは思いませんでした」
「喧嘩も同じだろ。勝てねぇ力比べして沈む奴は馬鹿だ」
宝泉はそう言うと、坂柳の杖をちらりと見た。
「その棒がねぇと歩けねぇなら、それ込みで勝てよ」
その言葉は、粗暴で、乱暴で、慰めとは程遠かった。
だが妙に力があった。
杖を否定しない。
弱さを否定しない。
ただ、それも含めて使えと言っている。
坂柳は静かに微笑した。
「意外と参考になる助言でした」
「気色悪ぃ笑い方すんな」
宝泉はそう吐き捨て、背を向ける。
そのまま去っていくかと思ったが、数歩歩いたところで立ち止まった。
「倒れんなよ。坂柳センパイ」
坂柳は少し目を見開いた。
宝泉は振り返らない。
「倒れたら、見てるこっちが胸糞悪ぃ」
それだけ言って、彼は去っていった。
須藤がぽかんとしている。
神室も珍しく言葉を失っていた。
坂柳は杖を見下ろす。
その棒がなければ歩けないなら、それ込みで勝て。
乱暴な言葉。
だが、今の坂柳には不思議と響いた。
「……本当に、いろいろな方がいますね」
「いや、今の宝泉、ちょっと怖いくらいまともだったぞ」
須藤が呟く。
神室が頷く。
「明日雪でも降るんじゃない?」
坂柳は小さく笑い、ゆっくりと立ち上がった。
「では、始めましょうか」
訓練が始まった。
一歩目。
カツン。
二歩目。
カツン。
グラウンドの外周路を、坂柳はゆっくり歩く。
須藤は少し離れた位置で、腕を組みながら見ていた。
神室は端末に記録を入れる。
距離10メートル。
呼吸安定。
距離20メートル。
心拍やや上昇。
距離30メートル。
問題なし。
坂柳は立ち止まらない。
今日は無理をする日ではない。
昨日より少しだけ長く、昨日より少しだけ安定して歩く。
それだけでいい。
須藤が横から声をかける。
「呼吸、浅くなってんぞ」
坂柳は意識して息を吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
身体が少し楽になる。
「……なるほど。確かに違いますね」
「だろ?」
須藤が少し得意げに笑う。
坂柳はまた歩く。
距離40メートル。
ここで一度休む予定だった。
だが、今日はまだ少し行けそうだった。
坂柳は一瞬だけ迷う。
進むか。
止まるか。
以前なら進んだ。
倒れるまで。
意地で。
だが今日は違う。
坂柳は自分から足を止めた。
「休憩します」
神室が記録する。
「40メートル。自力で休憩判断」
須藤が大きく頷いた。
「いいんじゃねえか?今の止まり方」
「止まることを褒められるのは、少し不思議です」
「止まれねぇ奴は強くなれねぇよ」
その言葉は、単純だった。
けれど今日の坂柳には、少しだけ分かる気がした。
ベンチに座る。
呼吸を整える。
胸に手を当てる。
心拍は速いが、乱れてはいない。
怖くない。
いや、怖さはある。
だが、その怖さに飲まれてはいない。
「坂柳」
今度は別の声がした。
龍園翔だった。
彼はいつものように、不敵な笑みを浮かべて近づいてくる。
「今日は体育会系のお勉強会か?」
「ええ。あなたも講師として参加されます?」
「俺が教えるなら、もっと荒っぽいぞ」
「ご遠慮します」
龍園は笑い、坂柳の隣ではなく、少し離れたフェンスにもたれた。
「で、どうだ。身体を使うってのは」
坂柳は少し考える。
「不便ですね」
「だろうな」
「思い通りに動かず、すぐに疲れ、誤魔化しも効かない。
頭脳の勝負よりずっと厄介です」
「だが嘘はつかねぇ」
その言葉に、坂柳は視線を向けた。
龍園はグラウンドを見ていた。
「身体は正直だ。無理すりゃ壊れる。鍛えりゃ少しは変わる。
サボれば鈍る。殴れば痛ぇし、倒れりゃ終わりだ」
彼は低く笑う。
「だから面白れぇんだよ」
坂柳は黙って聞く。
龍園の言葉は、宝泉とも須藤とも違った。
身体を力としてだけではなく、勝負の現実として見ている。
「お前は頭が回りすぎる」
龍園は言った。
「だから、負けても理屈をつけられる。勝っても理屈をつけられる。
だが身体はそうはいかねぇ。歩けなきゃ歩けねぇ。倒れたら倒れた。それだけだ」
「耳が痛いですね」
「だが、それが今のお前には必要なんじゃねぇのか」
坂柳は目を伏せた。
必要。
そうかもしれない。
自分はずっと、身体の現実を言葉で包み、知性で上書きし、勝利で覆い隠してきた。
だが今、彼女が向き合っているのは、理屈では動かない自分自身だった。
「あなた方は、不思議です」
坂柳は静かに言った。
「強い身体を持つ方々は、もっと身体に無自覚なのだと思っていました」
須藤が不思議そうに首を傾げる。
龍園は鼻で笑う。
「無自覚な奴はすぐ壊れる」
その言葉に、坂柳は少しだけ微笑した。
今日、彼女は学んだ。
強い身体とは、ただ頑丈なだけではない。
自分の身体を知り、痛みを知り、止まるべき時を知り、
それでも動かすことができる者のことだ。
それは坂柳が思っていたよりも、ずっと知的な行為だった。
二回目の歩行を始める。
今度は45メートルを目標にした。
一歩。
また一歩。
須藤が呼吸を見ている。
神室が記録する。
龍園が少し離れて観察している。
遠くでは宝泉がこちらを一瞥し、すぐに視線を逸らした。
坂柳は歩く。
以前なら、これほど多くの視線の中で歩くことに耐えられなかっただろう。
だが今は違う。
見られていることが、必ずしも屈辱ではないと少しだけ分かり始めていた。
自分の弱さを見られても、全てが終わるわけではない。
倒れた自分を見た者たちは、笑わなかった。
今日、歩く自分を見ている者たちも、ただ嘲っているわけではない。
40メートル。
45メートル。
坂柳はそこで足を止めた。
「休憩します」
呼吸は乱れている。
だが倒れていない。
心拍も大きく崩れていない。
神室が端末を見て、少しだけ口元を緩めた。
「昨日より良い」
須藤が拳を握る。
「おお、いいじゃねえか!」
龍園が笑う。
「たった5メートルで大騒ぎかよ」
坂柳は息を整えながら言った。
「ええ。たった5メートルです」
そして少しだけ顔を上げる。
「ですが、今の私には十分な前進です」
龍園は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「そういう顔の方が、前よりマシだな」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてねぇ」
夕方の風がグラウンドを抜けていく。
汗の匂い。
土の匂い。
ボールの音。
足音。
呼吸。
今まで遠かった世界が、今日は少しだけ近くに感じられた。
坂柳はベンチに座り、杖を見た。
まだ必要だ。
だが、宝泉の言葉が頭に残っている。
それ込みで勝て。
杖があることは、敗北ではない。
弱さがあることも、即ち敗北ではない。
それを含めて、自分の身体なのだ。
その夜、坂柳は歩行記録ノートを開いた。
40メートル。
休憩。
45メートル。
呼吸乱れ中程度。
転倒なし。
須藤より呼吸法の助言。
宝泉より「杖込みで勝て」と発言。
龍園より身体の現実について指摘。
神室、記録継続。
坂柳はそこまで書いて、少しだけペンを止めた。
そして備考欄に、静かに書き加える。
――肉体は敵ではなく、最も正直な教師である。
書いた瞬間、自分で少し笑ってしまった。
まるでどこかの教育論のようだった。
だが今の坂柳には、その言葉が妙にしっくり来ていた。
身体は裏切る。
身体は止まる。
身体は苦しむ。
だが同時に、身体は嘘をつかない。
今日できたこと。
今日できなかったこと。
その全てを、正確に教えてくれる。
坂柳は胸へ手を当てる。
脈は少し速い。
だが落ち着いている。
その音を聞きながら、彼女は静かに目を閉じた。
いつか自分は、この身体と共に、もう少し遠くまで歩けるのかもしれない。
そう思えたことが、今日の一番大きな成果だった。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。