坂柳有栖が杖を置く日   作:EXTERMINATION

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第九話 肉体

朝のグラウンドには、坂柳有栖がこれまで意識的に避けてきたものが、

あまりにも無遠慮に満ちていた。

 

地面を蹴る音。

 

ボールの跳ねる音。

 

呼吸が荒くなる音。

 

汗を拭う仕草。

 

転んでもすぐに立ち上がる身体。

 

疲れたと笑いながら、それでも次の一歩を踏み出せる脚。

 

その全てが、坂柳にとっては別世界の言語のようだった。

 

彼女はグラウンド脇のベンチに座り、杖を膝の横へ立てかけていた。

医療スタッフから許可された今日の訓練は、外周路を短く歩くこと。

 

それだけだった。

走るわけではない。

階段を上るわけでもない。

 

ただ、グラウンドの周りを、一定のペースで歩く。

健康な生徒なら退屈にすら感じる内容。

だが坂柳にとっては、それでも十分に試験だった。

 

「本当にここでやるの?」

 

隣で神室真澄が気だるげに言った。

 

手には記録用の端末がある。

 

最近の彼女は、すっかり坂柳の歩行記録係になっていた。

 

「ええ。平地で、距離も測りやすく、休憩場所も多い。条件としては悪くありません」

「いや、そういう意味じゃなくて」

 

神室はグラウンドを見る。

 

「体育会系の連中が走り回ってる真横で歩くの、精神的にきつくない?」

 

坂柳は少しだけ黙った。

 

その問いは、思ったより正確だった。

 

「きつくない、と言えば嘘になりますね」

「じゃあ別の場所にすれば?」

「いいえ」

 

坂柳は静かに首を振る。

 

「見ないふりをしていても、私の身体は変わりませんから」

 

神室は少しだけ眉を上げた。

 

「……最近、変なところで素直になったよね」

「成長と言っていただきたいです」

「めんどくささは変わってないけど」

「それは個性です」

 

神室は呆れたように息を吐いた。

 

その時、グラウンドの向こうから大きな声が飛んできた。

 

「おーい、坂柳!」

 

須藤健だった。

 

彼はバスケットボールを片手に持ち、汗を額に浮かべながらこちらへ駆け寄ってくる。

その走り方は大きく、力強く、地面そのものを押し返すようだった。

坂柳はその動きを見て、ほんの少しだけ目を細める。

 

羨ましい。

 

やはりそう思ってしまう。

 

だが今は、その感情を以前ほど恥じてはいなかった。

 

「何かご用ですか、須藤くん」

「いや、今日ここでリハビリすんだろ?平田から聞いた」

「情報共有が活発ですね」

「心配してんだよ、みんな」

 

その言葉に、坂柳は一瞬だけ返答を失った。

須藤はそれに気づかないまま、少し考えるように腕を組んだ。

 

「歩くんならさ、最初から無理に距離伸ばそうとすんなよ」

「経験者の助言ですか?」

「まあな。俺、昔はすぐ熱くなって無茶してたからよ。

怪我したら練習できなくなるし、結局遠回りなんだよな」

 

意外だった。

須藤の言葉は単純だったが、その単純さの中に確かな経験があった。

身体を使ってきた人間の言葉。

失敗し、痛みを知り、それでも続けてきた者の言葉。

坂柳が持たない種類の知識だった。

 

「あなたでも、無茶をすれば壊れるのですか?」

 

須藤は目を丸くした。

 

「そりゃ壊れるだろ。人間なんだから」

 

人間なんだから。

 

あまりにも当たり前の言葉だった。

だが坂柳には、その当たり前が少しだけ新鮮だった。

強い身体を持つ者は壊れないのだと、どこかで思っていたのかもしれない。

須藤や宝泉や高円寺のような人間は、自分とは別の素材でできているのだと。

 

けれど違う。

 

彼らもまた、身体と付き合い、限界を知り、時に壊れないように調整している。

 

坂柳はその事実を、今さら理解し始めていた。

 

「参考になります」

「お、おう」

 

須藤は少し照れたように頭をかく。

 

「あと、息は止めんなよ。きつい時ほど呼吸しろって、部活でよく言われた」

「なるほど」

「まあ、俺が言うと説得力あるだろ?」

「ある意味では」

「ある意味って何だよ」

 

坂柳は小さく笑った。

その笑みを見て、須藤も少し安心したように笑う。

 

その時だった。

 

「随分と温いことやってんな」

 

低い声がグラウンド脇に落ちた。

 

坂柳が視線を向ける。

 

そこに立っていたのは宝泉和臣だった。

 

大柄な身体。

圧のある目。

ただ立っているだけで周囲の空気を重くする暴力性。

 

須藤が反射的に警戒する。

 

「宝泉……」

「何だよ、須藤。睨んでんじゃねえよ」

 

宝泉は鼻で笑い、坂柳を見る。

 

「病人のお散歩か?」

 

神室が露骨に不快そうな顔をする。

須藤も一歩前へ出かけた。

だが坂柳は片手でそれを制した。

 

「ええ。病人のお散歩です。何か問題でも?」

 

宝泉は一瞬だけ目を細めた。

予想外の返答だったのだろう。

 

「開き直んのかよ」

「否定しても事実は変わりませんから」

 

坂柳は静かに言った。

 

「私は病人です。身体も弱い。長く歩けず、階段で倒れ、

医療班の世話にもなりました。それで、あなたは何を確認したいのですか?」

 

周囲の空気が少し変わった。

須藤も、神室も、言葉を失っている。

宝泉は坂柳を見下ろしていた。

その目には苛立ちと、わずかな興味が混ざっていた。

 

「ムカつくな、お前」

「よく言われます」

「弱ぇくせに、弱さを認めた顔してねぇ」

 

坂柳は少しだけ黙った。

宝泉の言葉は乱暴だった。

 

だが、的外れではなかった。

 

自分は弱さを口にした。

 

だがまだ、弱さを完全には受け入れていない。

認めたふりをしながら、心のどこかでその事実に噛みついている。

 

宝泉はそれを嗅ぎ取ったのかもしれない。

 

「身体が弱ぇなら弱ぇなりにやれよ」

 

宝泉は吐き捨てるように言った。

 

「強ぇ奴の真似して潰れてんじゃねえ。弱ぇ奴には弱ぇ奴の戦い方があるだろ」

 

坂柳の瞳がわずかに揺れる。

宝泉からそんな言葉が出るとは思っていなかった。

 

須藤も驚いたように彼を見ている。

宝泉は不機嫌そうに舌打ちした。

 

「何だよ。変な顔してんじゃねえ」

「いえ。あなたから戦略的な言葉が聞けるとは思いませんでした」

「喧嘩も同じだろ。勝てねぇ力比べして沈む奴は馬鹿だ」

 

宝泉はそう言うと、坂柳の杖をちらりと見た。

 

「その棒がねぇと歩けねぇなら、それ込みで勝てよ」

 

その言葉は、粗暴で、乱暴で、慰めとは程遠かった。

 

だが妙に力があった。

杖を否定しない。

弱さを否定しない。

 

ただ、それも含めて使えと言っている。

 

坂柳は静かに微笑した。

 

「意外と参考になる助言でした」

「気色悪ぃ笑い方すんな」

 

宝泉はそう吐き捨て、背を向ける。

そのまま去っていくかと思ったが、数歩歩いたところで立ち止まった。

 

「倒れんなよ。坂柳センパイ」

 

坂柳は少し目を見開いた。

 

宝泉は振り返らない。

 

「倒れたら、見てるこっちが胸糞悪ぃ」

 

それだけ言って、彼は去っていった。

 

須藤がぽかんとしている。

神室も珍しく言葉を失っていた。

 

坂柳は杖を見下ろす。

 

その棒がなければ歩けないなら、それ込みで勝て。

 

乱暴な言葉。

 

だが、今の坂柳には不思議と響いた。

 

「……本当に、いろいろな方がいますね」

「いや、今の宝泉、ちょっと怖いくらいまともだったぞ」

 

須藤が呟く。

神室が頷く。

 

「明日雪でも降るんじゃない?」

 

坂柳は小さく笑い、ゆっくりと立ち上がった。

 

「では、始めましょうか」

 

訓練が始まった。

 

一歩目。

 

カツン。

 

二歩目。

 

カツン。

 

グラウンドの外周路を、坂柳はゆっくり歩く。

 

須藤は少し離れた位置で、腕を組みながら見ていた。

 

神室は端末に記録を入れる。

 

距離10メートル。

 

呼吸安定。

 

距離20メートル。

 

心拍やや上昇。

 

距離30メートル。

 

問題なし。

 

坂柳は立ち止まらない。

今日は無理をする日ではない。

昨日より少しだけ長く、昨日より少しだけ安定して歩く。

 

それだけでいい。

 

須藤が横から声をかける。

 

「呼吸、浅くなってんぞ」

 

坂柳は意識して息を吸う。

 

吐く。

吸う。

吐く。

 

身体が少し楽になる。

 

「……なるほど。確かに違いますね」

「だろ?」

 

須藤が少し得意げに笑う。

 

坂柳はまた歩く。

 

距離40メートル。

 

ここで一度休む予定だった。

だが、今日はまだ少し行けそうだった。

 

坂柳は一瞬だけ迷う。

 

進むか。

止まるか。

以前なら進んだ。

倒れるまで。

意地で。

 

だが今日は違う。

坂柳は自分から足を止めた。

 

「休憩します」

 

神室が記録する。

 

「40メートル。自力で休憩判断」

 

須藤が大きく頷いた。

 

「いいんじゃねえか?今の止まり方」

「止まることを褒められるのは、少し不思議です」

「止まれねぇ奴は強くなれねぇよ」

 

その言葉は、単純だった。

 

けれど今日の坂柳には、少しだけ分かる気がした。

 

ベンチに座る。

呼吸を整える。

胸に手を当てる。

 

心拍は速いが、乱れてはいない。

 

怖くない。

 

いや、怖さはある。

 

だが、その怖さに飲まれてはいない。

 

「坂柳」

 

今度は別の声がした。

 

龍園翔だった。

 

彼はいつものように、不敵な笑みを浮かべて近づいてくる。

 

「今日は体育会系のお勉強会か?」

「ええ。あなたも講師として参加されます?」

「俺が教えるなら、もっと荒っぽいぞ」

「ご遠慮します」

 

龍園は笑い、坂柳の隣ではなく、少し離れたフェンスにもたれた。

 

「で、どうだ。身体を使うってのは」

 

坂柳は少し考える。

 

「不便ですね」

「だろうな」

「思い通りに動かず、すぐに疲れ、誤魔化しも効かない。

頭脳の勝負よりずっと厄介です」

「だが嘘はつかねぇ」

 

その言葉に、坂柳は視線を向けた。

 

龍園はグラウンドを見ていた。

 

「身体は正直だ。無理すりゃ壊れる。鍛えりゃ少しは変わる。

サボれば鈍る。殴れば痛ぇし、倒れりゃ終わりだ」

 

彼は低く笑う。

 

「だから面白れぇんだよ」

 

坂柳は黙って聞く。

龍園の言葉は、宝泉とも須藤とも違った。

身体を力としてだけではなく、勝負の現実として見ている。

 

「お前は頭が回りすぎる」

 

龍園は言った。

 

「だから、負けても理屈をつけられる。勝っても理屈をつけられる。

だが身体はそうはいかねぇ。歩けなきゃ歩けねぇ。倒れたら倒れた。それだけだ」

「耳が痛いですね」

「だが、それが今のお前には必要なんじゃねぇのか」

 

坂柳は目を伏せた。

 

必要。

 

そうかもしれない。

 

自分はずっと、身体の現実を言葉で包み、知性で上書きし、勝利で覆い隠してきた。

 

だが今、彼女が向き合っているのは、理屈では動かない自分自身だった。

 

「あなた方は、不思議です」

 

坂柳は静かに言った。

 

「強い身体を持つ方々は、もっと身体に無自覚なのだと思っていました」

 

須藤が不思議そうに首を傾げる。

 

龍園は鼻で笑う。

 

「無自覚な奴はすぐ壊れる」

 

その言葉に、坂柳は少しだけ微笑した。

 

今日、彼女は学んだ。

 

強い身体とは、ただ頑丈なだけではない。

 

自分の身体を知り、痛みを知り、止まるべき時を知り、

それでも動かすことができる者のことだ。

 

それは坂柳が思っていたよりも、ずっと知的な行為だった。

 

二回目の歩行を始める。

 

今度は45メートルを目標にした。

 

一歩。

 

また一歩。

 

須藤が呼吸を見ている。

 

神室が記録する。

 

龍園が少し離れて観察している。

 

遠くでは宝泉がこちらを一瞥し、すぐに視線を逸らした。

 

坂柳は歩く。

 

以前なら、これほど多くの視線の中で歩くことに耐えられなかっただろう。

 

だが今は違う。

 

見られていることが、必ずしも屈辱ではないと少しだけ分かり始めていた。

 

自分の弱さを見られても、全てが終わるわけではない。

 

倒れた自分を見た者たちは、笑わなかった。

 

今日、歩く自分を見ている者たちも、ただ嘲っているわけではない。

 

40メートル。

 

45メートル。

 

坂柳はそこで足を止めた。

 

「休憩します」

 

呼吸は乱れている。

 

だが倒れていない。

 

心拍も大きく崩れていない。

 

神室が端末を見て、少しだけ口元を緩めた。

 

「昨日より良い」

 

須藤が拳を握る。

 

「おお、いいじゃねえか!」

 

龍園が笑う。

 

「たった5メートルで大騒ぎかよ」

 

坂柳は息を整えながら言った。

 

「ええ。たった5メートルです」

 

そして少しだけ顔を上げる。

 

「ですが、今の私には十分な前進です」

 

龍園は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。

 

「そういう顔の方が、前よりマシだな」

「お褒めにあずかり光栄です」

「褒めてねぇ」

 

夕方の風がグラウンドを抜けていく。

 

汗の匂い。

土の匂い。

ボールの音。

足音。

呼吸。

 

今まで遠かった世界が、今日は少しだけ近くに感じられた。

 

坂柳はベンチに座り、杖を見た。

 

まだ必要だ。

 

だが、宝泉の言葉が頭に残っている。

 

それ込みで勝て。

 

杖があることは、敗北ではない。

 

弱さがあることも、即ち敗北ではない。

 

それを含めて、自分の身体なのだ。

 

その夜、坂柳は歩行記録ノートを開いた。

 

40メートル。

 

休憩。

 

45メートル。

 

呼吸乱れ中程度。

 

転倒なし。

 

須藤より呼吸法の助言。

宝泉より「杖込みで勝て」と発言。

龍園より身体の現実について指摘。

神室、記録継続。

 

坂柳はそこまで書いて、少しだけペンを止めた。

 

そして備考欄に、静かに書き加える。

 

――肉体は敵ではなく、最も正直な教師である。

 

書いた瞬間、自分で少し笑ってしまった。

 

まるでどこかの教育論のようだった。

 

だが今の坂柳には、その言葉が妙にしっくり来ていた。

 

身体は裏切る。

 

身体は止まる。

 

身体は苦しむ。

 

だが同時に、身体は嘘をつかない。

 

今日できたこと。

 

今日できなかったこと。

 

その全てを、正確に教えてくれる。

 

坂柳は胸へ手を当てる。

 

脈は少し速い。

 

だが落ち着いている。

 

その音を聞きながら、彼女は静かに目を閉じた。

 

いつか自分は、この身体と共に、もう少し遠くまで歩けるのかもしれない。

 

そう思えたことが、今日の一番大きな成果だった。




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