坂柳有栖が杖を置く日   作:EXTERMINATION

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第十話 階段

雨の音が、図書室の窓を静かに叩いていた。

夏の終わりに近づいた頃の雨は、冬ほど鋭くはない。

だがその分だけ、空気の奥へゆっくり染み込むような冷たさがあった。

 

放課後の図書室は人が少なかった。

 

閉館時間も近い。

 

照明は落とされ始めており、

窓際へ積もる灰色の光が、本棚の影を長く伸ばしている。

 

坂柳有栖は、奥の席で静かに歩行記録ノートを開いていた。

 

ページには数字が並んでいる。

 

歩行距離。

呼吸。

心拍。

休憩回数。

転倒の有無。

 

以前の坂柳なら、こんな記録を自分で付ける日が来るなど想像もしなかっただろう。

 

だが今は違う。

 

このノートは、自分が前へ進んでいる証明だった。

 

同時に、自分がどれだけ不完全なのかを突きつける記録でもあった。

 

坂柳はペンを止める。

 

窓の外を見る。

 

雨。

 

濡れた校舎。

水滴を流すガラス。

その向こうに、例の階段がある。

 

適応特別試験で倒れた場所。

 

自分が敗北を認めた場所。

 

最近の坂柳は、毎日のようにあの階段を思い出していた。

 

たった七段。

 

それなのに、自分は途中で崩れ落ちた。

 

そして、綾小路に支えられた。

 

あの瞬間の感覚だけは、まだ身体の奥へ残っている。

 

悔しさ。

 

恐怖。

 

情けなさ。

 

そして、支えられた時の安堵。

 

その全部が混ざり合っていた。

 

「その本は、面白いですか?」

 

静かな声がした。

 

坂柳は視線を上げる。

 

椎名ひよりが立っていた。

 

彼女は数冊の本を抱えている。

いつものように穏やかな顔だった。

 

静かで。

 

柔らかくて。

 

どこか図書室そのもののような空気を纏っている。

 

「残念ながら、本ではありません」

 

坂柳は歩行記録ノートを軽く持ち上げた。

 

ひよりは少し目を丸くする。

 

「日記ですか?」

「そのようなものです」

「……大事そうですね」

 

坂柳は少しだけ笑った。

 

「ええ。最近の私には、意外と」

 

ひよりは坂柳の向かいへ静かに座る。

 

無理に踏み込まない距離。

だが完全には離れない距離。

 

その空気感が、坂柳には心地よかった。

 

雨音が続いている。

 

図書室の時計が静かに時を刻む。

 

「最近、歩いているんですね」

 

ひよりが言った。

 

坂柳は少しだけ目を細めた。

 

「ご存じでした?」

「少しだけ」

 

どこかで聞いたような返答だった。

 

坂柳は思わず小さく笑う。

 

「あなたまで綾小路くんみたいなことを言うのですね」

「そうでしょうか?」

「ええ。非常に曖昧です」

 

ひよりは困ったように微笑した。

 

その笑顔には棘がない。

 

だから坂柳は、つい言葉を続けてしまう。

 

「私、最近ようやく分かってきたことがあります」

 

窓の外を見る。

灰色の雨。

濡れた階段。

 

「人は、身体から逃げられないのですね」

 

ひよりは静かに聞いていた。

 

否定しない。

 

慰めない。

 

ただ受け止めている。

 

坂柳は続ける。

 

「私はずっと、頭脳で身体の弱さを上書きできると思っていました。

勝てばいい。支配すればいい。知性さえあれば、身体の欠陥など関係ないと」

 

小さく笑う。

乾いた笑いだった。

 

「でも結局、私は階段ひとつまともに上れませんでした」

 

図書室が静かになる。

雨音だけが続く。

 

ひよりはしばらく黙っていた。

やがて、彼女は抱えていた本の一冊へそっと触れる。

 

「でも、本も同じですよ」

 

坂柳は目を向ける。

 

「……どういう意味ですか?」

 

ひよりは本の背表紙を撫でながら言った。

 

「どれだけ綺麗な言葉が書かれていても、紙が破れたら読めなくなりますから」

 

その言葉に、坂柳は小さく息を止めた。

 

ひよりは続ける。

 

「物語には中身が大事です。でも、本という形がなければ、誰にも届かない」

 

静かな声だった。

けれど、不思議なほど胸へ落ちてくる。

 

「人も、少し似ているのかもしれません」

 

坂柳は何も言えなかった。

 

その例えは、あまりにも綺麗で、あまりにも残酷だった。

 

どれだけ優れた頭脳を持っていても。

 

どれだけ勝利を積み重ねても。

 

身体が壊れれば、前へ進めなくなる。

 

それは、自分がここ数週間で嫌というほど思い知らされた現実だった。

 

「……あなたは優しいですね」

 

坂柳が呟く。

 

ひよりは首を横へ振った。

 

「違います」

「では?」

「私は、多分、少し怖がりなんです」

 

坂柳は目を瞬かせる。

 

ひよりは窓の雨を見る。

 

「だから、壊れそうなものを見ると、放っておけなくなるんです」

 

その言葉は、一之瀬の優しさとは少し違った。

一之瀬は抱きしめるような優しさを持っている。

だがひよりは、静かに隣へ座る優しさだった。

坂柳はその違いを、心地よいと思ってしまった。

 

「私、最近少し分からなくなっています」

 

坂柳は静かに言った。

 

「何がですか?」

「私は、普通になりたいのでしょうか」

 

ひよりは答えを急がなかった。

少しだけ考えてから、穏やかに言う。

 

「普通って、難しい言葉ですよね」

「ええ」

「誰かにとっての普通は、別の誰かには特別だったりしますから」

 

坂柳は窓の外を見る。

 

グラウンド。

校舎。

階段。

歩いている生徒たち。

 

以前の自分には、あの光景があまりにも遠かった。

 

だが今は違う。

 

「私は、歩きたいのです」

 

その言葉は自然に出た。

 

ひよりは静かに頷く。

 

坂柳は続ける。

 

「誰かと並んで。途中で止まらずに。息を切らしても、転ばずに。そんなふうに歩いてみたい」

 

胸の奥が少し熱くなる。

 

「でも同時に、怖いのです」

「変わってしまうのが?」

 

坂柳は少し驚いたようにひよりを見る。

 

ひよりは穏やかだった。

 

まるで最初から分かっていたように。

 

「……ええ」

 

坂柳は目を伏せる。

 

「私は、身体が弱かったから今の私になった。

勝つことへ執着したのも、知性へ逃げたのも、全部そこから始まっています」

 

指先がノートの上で止まる。

 

「もし身体が変われば、私は坂柳有栖ではなくなるのではないか。

最近、時々そう思うのです」

 

雨音が少し強くなる。

ひよりはしばらく黙っていた。

やがて小さく言った。

 

「人は、変わっても消えないと思います」

 

坂柳は顔を上げる。

ひよりは静かに微笑していた。

 

「本も、少しずつ傷が増えて、紙が古くなって、表紙が擦れていきます。

でも、それで別の本になるわけじゃありません」

 

その言葉に、坂柳の胸が少しだけ軽くなる。

完全な救いではない。

不安も恐怖も消えない。

 

だが、呼吸は少ししやすくなった。

 

「……あなたは、本当に言葉が綺麗ですね」

「坂柳さんほどではありません」

 

「いいえ。私の言葉は、少し尖りすぎています」

 

ひよりは小さく笑った。

 

「でも最近の坂柳さんの言葉、前より柔らかいですよ」

 

その瞬間、坂柳は少しだけ驚いた。

 

柔らかい。

 

そんな評価をされたのは、初めてかもしれない。

 

「それは、弱くなったという意味ですか?」

 

ひよりはゆっくり首を振る。

 

「多分、人に触れるようになったんだと思います」

 

その言葉は静かだった。

だが坂柳には、何よりも深く刺さった。

 

以前の自分は、人を盤面として見ていた。

 

駒。

戦力。

脅威。

利用価値。

 

だが最近は違う。

 

一之瀬の手の温度。

神室の苛立ち。

須藤の不器用な助言。

宝泉の乱暴な言葉。

龍園の現実。

綾小路の距離感。

 

そして今、ひよりの静かな会話。

 

自分は、少しずつ他人へ触れ始めている。

 

それは怖い変化だった。

 

だが、完全に嫌ではなかった。

 

閉館時間を告げる放送が流れる。

 

図書室の灯りが少し落ちる。

 

ひよりは静かに本を抱え直した。

 

「帰りますか?」

 

坂柳は頷く。

 

「ええ」

 

立ち上がる。

 

杖を持つ。

 

カツン。

 

静かな音。

 

だが今日は、その音が少しだけ軽く聞こえた。

 

図書室を出る。

 

廊下には夜の気配が広がっている。

雨はまだ降っていた。

校舎の窓を流れる水滴が、照明の光を歪ませている。

 

歩き出す。

 

ひよりは坂柳に合わせるように、少しゆっくり歩いていた。

 

急がない。

 

待ちすぎない。

 

自然な速度。

 

その歩幅が、坂柳には心地よかった。

 

「椎名さん」

「はい?」

「あなたは、普通になりたいと思ったことがありますか?」

 

ひよりは少し考えた。

 

そして静かに答える。

 

「私は、多分、普通じゃない人の方が好きです」

 

坂柳は少し目を見開く。

 

ひよりは続けた。

 

「苦しんだ人とか、悩んだ人とか、遠回りした人の方が、物語としては綺麗ですから」

 

坂柳は思わず笑った。

 

「あなた、時々かなり残酷ですね」

「そうでしょうか?」

「ええ。慰めているようで、全然慰めていませんから」

 

ひよりは困ったように微笑む。

その顔を見ながら、坂柳はふと思った。

 

普通になれなくてもいいのかもしれない。

 

完全に健康になれなくても。

 

杖が必要なままでも。

 

途中で休みながらでも。

 

それでも、自分は歩けるのかもしれない。

 

その考えは、以前の坂柳なら絶対に認めなかったものだった。

 

だが今は、その不完全さを少しだけ受け入れ始めている。

 

二人は階段前へ辿り着く。

 

あの日、自分が倒れた階段とは別の場所。

 

だが坂柳の身体は、一瞬だけ緊張した。

 

ひよりはそれに気づいたのだろう。

 

何も言わず、少しだけ隣へ近づいた。

 

坂柳は階段を見る。

 

数段。

 

短い距離。

 

だが今の自分には、まだ簡単ではない。

 

それでも。

 

坂柳はゆっくりと一段目へ足を乗せた。

 

カツン。

 

杖の音。

 

二段目。

 

呼吸を整える。

 

三段目。

 

止まらない。

 

ひよりは何も言わない。

 

ただ隣にいる。

 

それだけだった。

 

坂柳は階段を上り切る。

 

息は少し乱れている。

 

だが倒れなかった。

 

その事実だけで、今日は十分だった。

 

坂柳は小さく息を吐く。

 

「……上れましたね」

 

ひよりは穏やかに微笑む。

 

「はい」

 

その笑顔を見た瞬間、坂柳は少しだけ思った。

 

もしかすると、自分はもう普通になりたいのではないのかもしれない。

 

ただ。

 

誰かと並んで、前へ進める人間になりたいだけなのかもしれなかった。




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