雨の音が、図書室の窓を静かに叩いていた。
夏の終わりに近づいた頃の雨は、冬ほど鋭くはない。
だがその分だけ、空気の奥へゆっくり染み込むような冷たさがあった。
放課後の図書室は人が少なかった。
閉館時間も近い。
照明は落とされ始めており、
窓際へ積もる灰色の光が、本棚の影を長く伸ばしている。
坂柳有栖は、奥の席で静かに歩行記録ノートを開いていた。
ページには数字が並んでいる。
歩行距離。
呼吸。
心拍。
休憩回数。
転倒の有無。
以前の坂柳なら、こんな記録を自分で付ける日が来るなど想像もしなかっただろう。
だが今は違う。
このノートは、自分が前へ進んでいる証明だった。
同時に、自分がどれだけ不完全なのかを突きつける記録でもあった。
坂柳はペンを止める。
窓の外を見る。
雨。
濡れた校舎。
水滴を流すガラス。
その向こうに、例の階段がある。
適応特別試験で倒れた場所。
自分が敗北を認めた場所。
最近の坂柳は、毎日のようにあの階段を思い出していた。
たった七段。
それなのに、自分は途中で崩れ落ちた。
そして、綾小路に支えられた。
あの瞬間の感覚だけは、まだ身体の奥へ残っている。
悔しさ。
恐怖。
情けなさ。
そして、支えられた時の安堵。
その全部が混ざり合っていた。
「その本は、面白いですか?」
静かな声がした。
坂柳は視線を上げる。
椎名ひよりが立っていた。
彼女は数冊の本を抱えている。
いつものように穏やかな顔だった。
静かで。
柔らかくて。
どこか図書室そのもののような空気を纏っている。
「残念ながら、本ではありません」
坂柳は歩行記録ノートを軽く持ち上げた。
ひよりは少し目を丸くする。
「日記ですか?」
「そのようなものです」
「……大事そうですね」
坂柳は少しだけ笑った。
「ええ。最近の私には、意外と」
ひよりは坂柳の向かいへ静かに座る。
無理に踏み込まない距離。
だが完全には離れない距離。
その空気感が、坂柳には心地よかった。
雨音が続いている。
図書室の時計が静かに時を刻む。
「最近、歩いているんですね」
ひよりが言った。
坂柳は少しだけ目を細めた。
「ご存じでした?」
「少しだけ」
どこかで聞いたような返答だった。
坂柳は思わず小さく笑う。
「あなたまで綾小路くんみたいなことを言うのですね」
「そうでしょうか?」
「ええ。非常に曖昧です」
ひよりは困ったように微笑した。
その笑顔には棘がない。
だから坂柳は、つい言葉を続けてしまう。
「私、最近ようやく分かってきたことがあります」
窓の外を見る。
灰色の雨。
濡れた階段。
「人は、身体から逃げられないのですね」
ひよりは静かに聞いていた。
否定しない。
慰めない。
ただ受け止めている。
坂柳は続ける。
「私はずっと、頭脳で身体の弱さを上書きできると思っていました。
勝てばいい。支配すればいい。知性さえあれば、身体の欠陥など関係ないと」
小さく笑う。
乾いた笑いだった。
「でも結局、私は階段ひとつまともに上れませんでした」
図書室が静かになる。
雨音だけが続く。
ひよりはしばらく黙っていた。
やがて、彼女は抱えていた本の一冊へそっと触れる。
「でも、本も同じですよ」
坂柳は目を向ける。
「……どういう意味ですか?」
ひよりは本の背表紙を撫でながら言った。
「どれだけ綺麗な言葉が書かれていても、紙が破れたら読めなくなりますから」
その言葉に、坂柳は小さく息を止めた。
ひよりは続ける。
「物語には中身が大事です。でも、本という形がなければ、誰にも届かない」
静かな声だった。
けれど、不思議なほど胸へ落ちてくる。
「人も、少し似ているのかもしれません」
坂柳は何も言えなかった。
その例えは、あまりにも綺麗で、あまりにも残酷だった。
どれだけ優れた頭脳を持っていても。
どれだけ勝利を積み重ねても。
身体が壊れれば、前へ進めなくなる。
それは、自分がここ数週間で嫌というほど思い知らされた現実だった。
「……あなたは優しいですね」
坂柳が呟く。
ひよりは首を横へ振った。
「違います」
「では?」
「私は、多分、少し怖がりなんです」
坂柳は目を瞬かせる。
ひよりは窓の雨を見る。
「だから、壊れそうなものを見ると、放っておけなくなるんです」
その言葉は、一之瀬の優しさとは少し違った。
一之瀬は抱きしめるような優しさを持っている。
だがひよりは、静かに隣へ座る優しさだった。
坂柳はその違いを、心地よいと思ってしまった。
「私、最近少し分からなくなっています」
坂柳は静かに言った。
「何がですか?」
「私は、普通になりたいのでしょうか」
ひよりは答えを急がなかった。
少しだけ考えてから、穏やかに言う。
「普通って、難しい言葉ですよね」
「ええ」
「誰かにとっての普通は、別の誰かには特別だったりしますから」
坂柳は窓の外を見る。
グラウンド。
校舎。
階段。
歩いている生徒たち。
以前の自分には、あの光景があまりにも遠かった。
だが今は違う。
「私は、歩きたいのです」
その言葉は自然に出た。
ひよりは静かに頷く。
坂柳は続ける。
「誰かと並んで。途中で止まらずに。息を切らしても、転ばずに。そんなふうに歩いてみたい」
胸の奥が少し熱くなる。
「でも同時に、怖いのです」
「変わってしまうのが?」
坂柳は少し驚いたようにひよりを見る。
ひよりは穏やかだった。
まるで最初から分かっていたように。
「……ええ」
坂柳は目を伏せる。
「私は、身体が弱かったから今の私になった。
勝つことへ執着したのも、知性へ逃げたのも、全部そこから始まっています」
指先がノートの上で止まる。
「もし身体が変われば、私は坂柳有栖ではなくなるのではないか。
最近、時々そう思うのです」
雨音が少し強くなる。
ひよりはしばらく黙っていた。
やがて小さく言った。
「人は、変わっても消えないと思います」
坂柳は顔を上げる。
ひよりは静かに微笑していた。
「本も、少しずつ傷が増えて、紙が古くなって、表紙が擦れていきます。
でも、それで別の本になるわけじゃありません」
その言葉に、坂柳の胸が少しだけ軽くなる。
完全な救いではない。
不安も恐怖も消えない。
だが、呼吸は少ししやすくなった。
「……あなたは、本当に言葉が綺麗ですね」
「坂柳さんほどではありません」
「いいえ。私の言葉は、少し尖りすぎています」
ひよりは小さく笑った。
「でも最近の坂柳さんの言葉、前より柔らかいですよ」
その瞬間、坂柳は少しだけ驚いた。
柔らかい。
そんな評価をされたのは、初めてかもしれない。
「それは、弱くなったという意味ですか?」
ひよりはゆっくり首を振る。
「多分、人に触れるようになったんだと思います」
その言葉は静かだった。
だが坂柳には、何よりも深く刺さった。
以前の自分は、人を盤面として見ていた。
駒。
戦力。
脅威。
利用価値。
だが最近は違う。
一之瀬の手の温度。
神室の苛立ち。
須藤の不器用な助言。
宝泉の乱暴な言葉。
龍園の現実。
綾小路の距離感。
そして今、ひよりの静かな会話。
自分は、少しずつ他人へ触れ始めている。
それは怖い変化だった。
だが、完全に嫌ではなかった。
閉館時間を告げる放送が流れる。
図書室の灯りが少し落ちる。
ひよりは静かに本を抱え直した。
「帰りますか?」
坂柳は頷く。
「ええ」
立ち上がる。
杖を持つ。
カツン。
静かな音。
だが今日は、その音が少しだけ軽く聞こえた。
図書室を出る。
廊下には夜の気配が広がっている。
雨はまだ降っていた。
校舎の窓を流れる水滴が、照明の光を歪ませている。
歩き出す。
ひよりは坂柳に合わせるように、少しゆっくり歩いていた。
急がない。
待ちすぎない。
自然な速度。
その歩幅が、坂柳には心地よかった。
「椎名さん」
「はい?」
「あなたは、普通になりたいと思ったことがありますか?」
ひよりは少し考えた。
そして静かに答える。
「私は、多分、普通じゃない人の方が好きです」
坂柳は少し目を見開く。
ひよりは続けた。
「苦しんだ人とか、悩んだ人とか、遠回りした人の方が、物語としては綺麗ですから」
坂柳は思わず笑った。
「あなた、時々かなり残酷ですね」
「そうでしょうか?」
「ええ。慰めているようで、全然慰めていませんから」
ひよりは困ったように微笑む。
その顔を見ながら、坂柳はふと思った。
普通になれなくてもいいのかもしれない。
完全に健康になれなくても。
杖が必要なままでも。
途中で休みながらでも。
それでも、自分は歩けるのかもしれない。
その考えは、以前の坂柳なら絶対に認めなかったものだった。
だが今は、その不完全さを少しだけ受け入れ始めている。
二人は階段前へ辿り着く。
あの日、自分が倒れた階段とは別の場所。
だが坂柳の身体は、一瞬だけ緊張した。
ひよりはそれに気づいたのだろう。
何も言わず、少しだけ隣へ近づいた。
坂柳は階段を見る。
数段。
短い距離。
だが今の自分には、まだ簡単ではない。
それでも。
坂柳はゆっくりと一段目へ足を乗せた。
カツン。
杖の音。
二段目。
呼吸を整える。
三段目。
止まらない。
ひよりは何も言わない。
ただ隣にいる。
それだけだった。
坂柳は階段を上り切る。
息は少し乱れている。
だが倒れなかった。
その事実だけで、今日は十分だった。
坂柳は小さく息を吐く。
「……上れましたね」
ひよりは穏やかに微笑む。
「はい」
その笑顔を見た瞬間、坂柳は少しだけ思った。
もしかすると、自分はもう普通になりたいのではないのかもしれない。
ただ。
誰かと並んで、前へ進める人間になりたいだけなのかもしれなかった。
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