雨は夕方から降り始めていた。
最初は静かな雨だった。
窓を撫でるように降り、校舎のガラスを細く濡らし、
夏の終わりに残った熱をゆっくり冷ましていく程度の穏やかな雨。
だが夜になる頃には、その音が明らかに変わっていた。
重い。
強い。
叩きつけるような雨音が、校舎全体を震わせている。
坂柳有栖は窓際に立ち、その異常な雨を見ていた。
空は黒い。
街灯の光が、水の壁の中で滲んでいる。
遠くで雷鳴が鳴った。
その低い振動が、窓ガラスをわずかに震わせる。
「……随分と荒れていますね」
呟いた瞬間、寮全体の照明が一度だけ明滅した。
次の瞬間。
完全な暗闇が落ちた。
寮のあちこちから、小さな悲鳴が上がる。
停電だった。
坂柳は反射的に壁へ手を触れた。
心臓が一瞬だけ速くなる。
暗闇。
雨。
雷。
そして停電。
身体の弱い者にとって、予測できない状況はそれだけで負荷になる。
数秒後、非常灯が赤く点灯した。
薄暗い赤色。
普段の校舎とはまるで違う、不安を煽る光だった。
廊下の向こうから、生徒たちのざわめきが聞こえる。
「え、停電!?」
「うそでしょ……」
「ネットも切れてる!」
不安が空気の中へ広がっていく。
その時、館内放送がノイズ混じりに鳴った。
『――生徒の皆さんへ。
現在、落雷の影響により学園内の一部電力供給が停止しています』
ノイズ。
雨音。
遠くの雷。
『安全確認のため、一時的に各寮から中央棟への移動をお願いします』
中央棟。
坂柳はゆっくり目を閉じた。
嫌な予感がした。
中央棟へ向かうには、外通路を通らなければならない。
しかも、この暴風雨の中で。
『エレベーターは停止しています。移動には階段をご利用ください』
その瞬間、坂柳の身体が小さく強張った。
階段。
またその言葉だった。
まるで世界そのものが、自分へそれを突きつけ続けているようだった。
寮の扉をノックする音が響く。
「坂柳!」
神室の声だった。
坂柳は扉を開ける。
神室は懐中電灯を持っている。
後ろには橋本や他のAクラス生徒の姿もあった。
皆、少し緊張していた。
「大丈夫?」
「ええ。問題ありません」
「……その返答、信用していい?」
「半分ほどで」
神室はため息をつく。
「とりあえず中央棟へ移動するって。外通路が冠水しかけてるらしい」
冠水。
その言葉で、廊下の空気がさらに重くなる。
橋本が低い声で言った。
「一部の地下通路は封鎖されたって話もある」
「大袈裟ですね」
坂柳はそう返した。
だが胸の奥は静かに緊張していた。
停電。
豪雨。
混乱。
そして移動。
こういう状況は、人間の余裕を簡単に奪う。
身体が弱い者は、さらに危うくなる。
「行きますよ」
坂柳は杖を握る。
カツン。
小さな音。
だが今日は、その音がいつもより頼りなく聞こえた。
Aクラスの生徒たちは自然に坂柳を中央へ入れる形で移動を始めた。
廊下は赤い非常灯だけで照らされている。
影が揺れる。
遠くで雷鳴。
窓を叩く豪雨。
その全てが、校舎を別世界のように変えていた。
外通路へ出た瞬間、暴風が身体を叩いた。
「っ……!」
冷たい。
強い。
雨粒が肌へ突き刺さる。
視界が白く霞む。
風で呼吸が乱される。
坂柳は手すりを掴んだ。
身体が持っていかれそうになる。
「坂柳!」
神室がすぐ横へ来る。
橋本も反対側へ回る。
「大丈夫です……!」
坂柳は声を張った。
だが、その声は雨音へ飲まれる。
外通路はすでに水が流れていた。
靴が濡れる。
制服の裾が重くなる。
足元が不安定になる。
ただ歩くだけなのに、普段の何倍も身体へ負荷がかかる。
坂柳は一歩ずつ進んだ。
カツン。
杖の音。
だが雨で掻き消される。
一歩。
また一歩。
風が身体を揺らす。
胸が少しずつ苦しくなる。
呼吸が乱れる。
まだ大丈夫。
まだ。
その時だった。
遠くから怒鳴り声が聞こえる。
「こっち通路塞がってるぞ!」
別クラスの生徒だった。
どうやら落下物でルートが一部封鎖されたらしい。
生徒たちがざわつく。
「どうする!?」
「迂回だ!」
「階段側へ回れ!」
階段。
また。
坂柳は胸の奥が冷えるのを感じた。
神室がすぐ坂柳を見る。
その視線だけで分かった。
彼女も同じことを考えている。
今の坂柳に、この状況で階段は危険だ。
だが戻ることもできない。
後ろでは次々と生徒たちが押し寄せている。
豪雨の中、立ち止まり続ける方が危険だった。
「行きます」
坂柳が言った。
神室が即座に返す。
「無茶」
「ですが進むしかありません」
雷が鳴る。
一瞬、世界が白く染まる。
その閃光の中で、坂柳は前方の非常階段を見た。
濡れた鉄製の階段。
雨が流れ落ちている。
手すりも濡れている。
最悪だった。
「坂柳」
今度は別の声。
綾小路清隆だった。
いつの間にか合流していたらしい。
彼は周囲の状況を一瞬で確認し、坂柳を見る。
「上れるか」
その問いに、坂柳はすぐ答えられなかった。
怖い。
正直、怖かった。
あの試験の日が蘇る。
六段目。
崩れる視界。
倒れる身体。
支えられた腕。
また同じになるかもしれない。
いや、今度はもっと危険だ。
濡れた階段。
混乱。
停電。
転べば終わる。
坂柳は手すりを見る。
震える指で、それを握った。
冷たい。
雨水が手を滑らせる。
「……上ります」
声は少し震えていた。
だが逃げなかった。
神室が顔をしかめる。
「本当に?」
「ここで止まれば、後ろが詰まります」
橋本も周囲を見る。
確かに、生徒たちが密集し始めていた。
雨の中で混乱が広がっている。
今ここで誰かがパニックを起こせば、転倒事故もありえる。
坂柳は息を整える。
吸う。
吐く。
呼吸。
須藤に教わったことを思い出す。
苦しい時ほど、呼吸を止めるな。
一段目。
カツン。
杖をつく。
身体を持ち上げる。
風が吹く。
雨が顔を叩く。
二段目。
呼吸を整える。
三段目。
心拍が速い。
でも乱れてはいない。
四段目。
太腿が震える。
手すりを強く握る。
「坂柳!」
神室の声。
「大丈夫です……!」
声を返す。
五段目。
息が苦しい。
雨が視界へ入る。
六段目。
あの日、自分が倒れた場所。
身体が一瞬だけ強張る。
怖い。
怖い。
怖い。
だが。
坂柳は歯を食いしばった。
今は一人じゃない。
背後に神室がいる。
橋本がいる。
綾小路がいる。
自分を見ている人間がいる。
支えようとしてくれる人間がいる。
その事実が、恐怖を完全には消さない。
だが、前へ押してくれる。
七段目。
坂柳は足を上げた。
そして。
上り切った。
その瞬間、胸の奥で何かが大きく震えた。
息が乱れる。
心臓が速い。
脚も震えている。
だが。
倒れていない。
立っている。
自分の足で。
坂柳は手すりを握ったまま、しばらく動けなかった。
雨音だけが世界を満たしている。
神室が駆け上がってくる。
「坂柳!」
橋本も続く。
綾小路は最後に静かに階段を上がってきた。
坂柳は呼吸を整えながら、小さく笑った。
「……上れましたね」
神室は目を見開いていた。
橋本も言葉を失っている。
綾小路だけが、静かに坂柳を見ていた。
その時だった。
後方で悲鳴が上がる。
「危ない!」
誰かが滑った。
坂柳たちが振り返る。
下の階段で、みーちゃんが足を滑らせていた。
濡れた鉄階段。
身体が崩れる。
そのまま転げ落ちそうになる。
周囲が凍りつく。
だが次の瞬間。
坂柳は反射的に動いていた。
「っ……!」
手すりを掴み、身体を前へ出す。
杖を離す。
伸ばした腕で、みーちゃんの制服を掴む。
衝撃。
身体へ重みがかかる。
胸が軋む。
だが離さない。
「掴んで!」
坂柳が叫ぶ。
みーちゃんが手すりを掴む。
橋本と神室が駆け下りる。
綾小路も即座に動く。
数秒後。
みーちゃんは無事に引き上げられた。
雨の中、全員が荒い呼吸をしている。
助かった。
そう理解した瞬間。
坂柳の脚から力が抜けそうになる。
綾小路がすぐ横へ来る。
「大丈夫か」
坂柳は呼吸を乱しながら、小さく笑った。
「……今のは、少し無茶でした」
胸が苦しい。
心臓が速い。
でも。
不思議と恐怖は少なかった。
みーちゃんが震える声で言う。
「あ、ありがとうございました……!」
坂柳はその顔を見る。
怯えている。
泣きそうになっている。
その顔を見た瞬間、坂柳はようやく理解した。
さっき自分は、考えるより先に身体が動いた。
誰かを助けたいと思った。
そのために、自分の身体を使った。
今までの坂柳なら、そんな行動は取らなかったかもしれない。
だが今は違う。
「……行きましょう」
坂柳は杖を拾い、ゆっくり立ち上がる。
脚はまだ震えている。
呼吸も苦しい。
それでも彼女は前を見る。
豪雨の中。
停電した校舎の中。
坂柳有栖は、確かに自分の身体で誰かを守ったのだった。
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