坂柳有栖が杖を置く日   作:EXTERMINATION

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第十一話 豪雨

雨は夕方から降り始めていた。

最初は静かな雨だった。

窓を撫でるように降り、校舎のガラスを細く濡らし、

夏の終わりに残った熱をゆっくり冷ましていく程度の穏やかな雨。

 

だが夜になる頃には、その音が明らかに変わっていた。

 

重い。

強い。

 

叩きつけるような雨音が、校舎全体を震わせている。

 

坂柳有栖は窓際に立ち、その異常な雨を見ていた。

 

空は黒い。

 

街灯の光が、水の壁の中で滲んでいる。

遠くで雷鳴が鳴った。

その低い振動が、窓ガラスをわずかに震わせる。

 

「……随分と荒れていますね」

 

呟いた瞬間、寮全体の照明が一度だけ明滅した。

 

次の瞬間。

 

完全な暗闇が落ちた。

寮のあちこちから、小さな悲鳴が上がる。

 

停電だった。

 

坂柳は反射的に壁へ手を触れた。

 

心臓が一瞬だけ速くなる。

 

暗闇。

雨。

雷。

 

そして停電。

 

身体の弱い者にとって、予測できない状況はそれだけで負荷になる。

 

数秒後、非常灯が赤く点灯した。

薄暗い赤色。

普段の校舎とはまるで違う、不安を煽る光だった。

 

廊下の向こうから、生徒たちのざわめきが聞こえる。

 

「え、停電!?」

「うそでしょ……」

「ネットも切れてる!」

 

不安が空気の中へ広がっていく。

その時、館内放送がノイズ混じりに鳴った。

 

『――生徒の皆さんへ。

現在、落雷の影響により学園内の一部電力供給が停止しています』

 

ノイズ。

雨音。

遠くの雷。

 

『安全確認のため、一時的に各寮から中央棟への移動をお願いします』

 

中央棟。

坂柳はゆっくり目を閉じた。

 

嫌な予感がした。

 

中央棟へ向かうには、外通路を通らなければならない。

 

しかも、この暴風雨の中で。

 

『エレベーターは停止しています。移動には階段をご利用ください』

 

その瞬間、坂柳の身体が小さく強張った。

 

階段。

 

またその言葉だった。

 

まるで世界そのものが、自分へそれを突きつけ続けているようだった。

 

寮の扉をノックする音が響く。

 

「坂柳!」

 

神室の声だった。

坂柳は扉を開ける。

神室は懐中電灯を持っている。

後ろには橋本や他のAクラス生徒の姿もあった。

 

皆、少し緊張していた。

 

「大丈夫?」

「ええ。問題ありません」

「……その返答、信用していい?」

「半分ほどで」

 

神室はため息をつく。

 

「とりあえず中央棟へ移動するって。外通路が冠水しかけてるらしい」

 

冠水。

 

その言葉で、廊下の空気がさらに重くなる。

 

橋本が低い声で言った。

 

「一部の地下通路は封鎖されたって話もある」

「大袈裟ですね」

 

坂柳はそう返した。

だが胸の奥は静かに緊張していた。

 

停電。

豪雨。

混乱。

 

そして移動。

 

こういう状況は、人間の余裕を簡単に奪う。

身体が弱い者は、さらに危うくなる。

 

「行きますよ」

 

坂柳は杖を握る。

 

カツン。

 

小さな音。

 

だが今日は、その音がいつもより頼りなく聞こえた。

Aクラスの生徒たちは自然に坂柳を中央へ入れる形で移動を始めた。

 

廊下は赤い非常灯だけで照らされている。

 

影が揺れる。

遠くで雷鳴。

窓を叩く豪雨。

 

その全てが、校舎を別世界のように変えていた。

外通路へ出た瞬間、暴風が身体を叩いた。

 

「っ……!」

 

冷たい。

 

強い。

 

雨粒が肌へ突き刺さる。

 

視界が白く霞む。

 

風で呼吸が乱される。

 

坂柳は手すりを掴んだ。

 

身体が持っていかれそうになる。

 

「坂柳!」

 

神室がすぐ横へ来る。

橋本も反対側へ回る。

 

「大丈夫です……!」

 

坂柳は声を張った。

だが、その声は雨音へ飲まれる。

外通路はすでに水が流れていた。

 

靴が濡れる。

制服の裾が重くなる。

足元が不安定になる。

 

ただ歩くだけなのに、普段の何倍も身体へ負荷がかかる。

 

坂柳は一歩ずつ進んだ。

 

カツン。

 

杖の音。

 

だが雨で掻き消される。

 

一歩。

 

また一歩。

 

風が身体を揺らす。

 

胸が少しずつ苦しくなる。

 

呼吸が乱れる。

 

まだ大丈夫。

 

まだ。

 

その時だった。

 

遠くから怒鳴り声が聞こえる。

 

「こっち通路塞がってるぞ!」

 

別クラスの生徒だった。

どうやら落下物でルートが一部封鎖されたらしい。

生徒たちがざわつく。

 

「どうする!?」

「迂回だ!」

「階段側へ回れ!」

 

階段。

 

また。

 

坂柳は胸の奥が冷えるのを感じた。

 

神室がすぐ坂柳を見る。

その視線だけで分かった。

彼女も同じことを考えている。

 

今の坂柳に、この状況で階段は危険だ。

だが戻ることもできない。

後ろでは次々と生徒たちが押し寄せている。

豪雨の中、立ち止まり続ける方が危険だった。

 

「行きます」

 

坂柳が言った。

神室が即座に返す。

 

「無茶」

「ですが進むしかありません」

 

雷が鳴る。

 

一瞬、世界が白く染まる。

その閃光の中で、坂柳は前方の非常階段を見た。

 

濡れた鉄製の階段。

雨が流れ落ちている。

手すりも濡れている。

 

最悪だった。

 

「坂柳」

 

今度は別の声。

 

綾小路清隆だった。

 

いつの間にか合流していたらしい。

 

彼は周囲の状況を一瞬で確認し、坂柳を見る。

 

「上れるか」

 

その問いに、坂柳はすぐ答えられなかった。

 

怖い。

 

正直、怖かった。

 

あの試験の日が蘇る。

 

六段目。

 

崩れる視界。

倒れる身体。

支えられた腕。

 

また同じになるかもしれない。

 

いや、今度はもっと危険だ。

 

濡れた階段。

混乱。

停電。

 

転べば終わる。

 

坂柳は手すりを見る。

 

震える指で、それを握った。

 

冷たい。

 

雨水が手を滑らせる。

 

「……上ります」

 

声は少し震えていた。

 

だが逃げなかった。

 

神室が顔をしかめる。

 

「本当に?」

「ここで止まれば、後ろが詰まります」

 

橋本も周囲を見る。

確かに、生徒たちが密集し始めていた。

雨の中で混乱が広がっている。

今ここで誰かがパニックを起こせば、転倒事故もありえる。

 

坂柳は息を整える。

 

吸う。

 

吐く。

 

呼吸。

 

須藤に教わったことを思い出す。

苦しい時ほど、呼吸を止めるな。

 

一段目。

 

カツン。

 

杖をつく。

 

身体を持ち上げる。

 

風が吹く。

 

雨が顔を叩く。

 

二段目。

 

呼吸を整える。

 

三段目。

 

心拍が速い。

 

でも乱れてはいない。

 

四段目。

 

太腿が震える。

 

手すりを強く握る。

 

「坂柳!」

 

神室の声。

 

「大丈夫です……!」

 

声を返す。

 

五段目。

 

息が苦しい。

 

雨が視界へ入る。

 

六段目。

 

あの日、自分が倒れた場所。

 

身体が一瞬だけ強張る。

 

怖い。

 

怖い。

 

怖い。

 

だが。

 

坂柳は歯を食いしばった。

 

今は一人じゃない。

 

背後に神室がいる。

 

橋本がいる。

 

綾小路がいる。

 

自分を見ている人間がいる。

 

支えようとしてくれる人間がいる。

 

その事実が、恐怖を完全には消さない。

 

だが、前へ押してくれる。

 

七段目。

 

坂柳は足を上げた。

 

そして。

 

上り切った。

 

その瞬間、胸の奥で何かが大きく震えた。

 

息が乱れる。

 

心臓が速い。

 

脚も震えている。

 

だが。

 

倒れていない。

 

立っている。

 

自分の足で。

 

坂柳は手すりを握ったまま、しばらく動けなかった。

 

雨音だけが世界を満たしている。

 

神室が駆け上がってくる。

 

「坂柳!」

 

橋本も続く。

綾小路は最後に静かに階段を上がってきた。

坂柳は呼吸を整えながら、小さく笑った。

 

「……上れましたね」

 

神室は目を見開いていた。

橋本も言葉を失っている。

綾小路だけが、静かに坂柳を見ていた。

 

その時だった。

 

後方で悲鳴が上がる。

 

「危ない!」

 

誰かが滑った。

坂柳たちが振り返る。

下の階段で、みーちゃんが足を滑らせていた。

 

濡れた鉄階段。

 

身体が崩れる。

 

そのまま転げ落ちそうになる。

 

周囲が凍りつく。

 

だが次の瞬間。

 

坂柳は反射的に動いていた。

 

「っ……!」

 

手すりを掴み、身体を前へ出す。

 

杖を離す。

 

伸ばした腕で、みーちゃんの制服を掴む。

 

衝撃。

 

身体へ重みがかかる。

 

胸が軋む。

 

だが離さない。

 

「掴んで!」

 

坂柳が叫ぶ。

みーちゃんが手すりを掴む。

橋本と神室が駆け下りる。

綾小路も即座に動く。

 

数秒後。

 

みーちゃんは無事に引き上げられた。

 

雨の中、全員が荒い呼吸をしている。

 

助かった。

 

そう理解した瞬間。

 

坂柳の脚から力が抜けそうになる。

 

綾小路がすぐ横へ来る。

 

「大丈夫か」

 

坂柳は呼吸を乱しながら、小さく笑った。

 

「……今のは、少し無茶でした」

 

胸が苦しい。

 

心臓が速い。

 

でも。

 

不思議と恐怖は少なかった。

 

みーちゃんが震える声で言う。

 

「あ、ありがとうございました……!」

 

坂柳はその顔を見る。

 

怯えている。

 

泣きそうになっている。

 

その顔を見た瞬間、坂柳はようやく理解した。

 

さっき自分は、考えるより先に身体が動いた。

 

誰かを助けたいと思った。

 

そのために、自分の身体を使った。

 

今までの坂柳なら、そんな行動は取らなかったかもしれない。

 

だが今は違う。

 

「……行きましょう」

 

坂柳は杖を拾い、ゆっくり立ち上がる。

 

脚はまだ震えている。

 

呼吸も苦しい。

 

それでも彼女は前を見る。

 

豪雨の中。

 

停電した校舎の中。

 

坂柳有栖は、確かに自分の身体で誰かを守ったのだった。




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