坂柳有栖が杖を置く日   作:EXTERMINATION

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第十二話 歩行

中央棟へ辿り着いた頃には、坂柳有栖の制服は雨で完全に濡れていた。

 

髪から水滴が落ちる。

呼吸は浅い。

脚は震えている。

 

胸の奥では、まだ心臓が速く脈打っていた。

 

それでも坂柳は倒れなかった。

 

自分の足で、最後まで歩き切った。

 

その事実だけが、今は身体を支えていた。

 

中央棟のロビーには、避難してきた生徒たちが集まり始めていた。

停電の影響で照明は最低限しか点いていない。

非常灯の白い光が、濡れた床をぼんやり照らしている。

 

生徒たちのざわめき。

不安そうな声。

遠くで鳴る雷。

 

そして、窓を叩き続ける豪雨。

 

学園全体が、普段の整然とした姿を失っていた。

 

坂柳はロビーの壁へ軽く背を預けた。

身体が重い。

呼吸を整えようとしても、肺がうまく追いつかない。

 

神室がすぐ横へ来る。

 

「座る?」

「……いえ、まだ立てます」

「そのまだって言い方、本当に怖いんだけど」

 

神室の声には本気の心配が混じっていた。

坂柳は少しだけ笑う。

 

「ですが、本当にまだ立てています」

 

その時だった。

館内放送が再びノイズ混じりに鳴った。

 

『――中央棟地下設備区画に、一部生徒が取り残されている可能性があります』

 

ロビーの空気が変わる。

 

ざわめき。

 

不安。

 

『現在、教職員が確認へ向かっていますが、

停電の影響で電子ロックが正常に作動していません』

 

橋本が顔をしかめる。

 

「地下……?」

「地下って、資料室とか機械室の方か?」

 

周囲でも生徒たちがざわつき始める。

 

坂柳はゆっくりと顔を上げた。

 

地下設備区画。

 

中央棟地下は、停電時に最も危険になる場所の一つだった。

 

暗い。

狭い。

しかも浸水の危険もある。

 

もし本当に生徒が閉じ込められているなら、状況はかなり悪い。

 

「教師は?」

 

綾小路が静かに聞く。

近くにいた教員が険しい顔で答える。

 

「現在確認中だ。ただ落雷の影響で一部シャッターが閉じたままになっている」

 

その瞬間。

坂柳の胸に、嫌な感覚が走った。

 

嫌な予感。

 

理由は分からない。

だが、自分はその場所を知っている。

以前、生徒会関連資料の確認で地下区画へ行ったことがあった。

 

構造も。

非常通路も。

閉鎖時の迂回ルートも。

 

そして。

 

「……地下第二資料室」

 

坂柳が呟く。

周囲が彼女を見る。

 

「何か知っているのか?」

 

橋本が聞く。

坂柳はゆっくりと言った。

 

「地下第二資料室の外側には、停電時に自動閉鎖される防火シャッターがあります。

ですが、古い手動通路が一つだけ残っていました」

 

教員が目を見開く。

 

「本当か?」

「ええ。ただし通路は狭く、階段も多い。通常は使用されません」

 

雷鳴。

窓が震える。

ロビーの空気が張り詰める。

 

教員は無線機へ手を伸ばす。

だがノイズが酷い。

通信状態が安定しない。

 

「くそ……!」

 

その時だった。

坂柳は自分でも驚くほど自然に言葉を口にしていた。

 

「案内します」

 

空気が止まった。

神室が即座に振り返る。

 

「は?」

 

橋本も目を見開く。

綾小路だけが、静かに坂柳を見ていた。

教員が低い声で言う。

 

「無理だ。君の身体で地下へ行くのは危険すぎる」

 

正論だった。

 

誰が聞いても。

 

坂柳自身も理解している。

 

今の自分は疲弊している。

 

雨と階段で体力を使い切っている。

 

呼吸もまだ安定しない。

 

地下へ行けば、さらに負荷がかかる。

 

だが。

 

坂柳は知っていた。

 

自分が行かなければ、遠回りになる。

 

時間がかかる。

 

もし本当に生徒が閉じ込められているなら、その遅れは危険になる。

 

「私が一番構造を理解しています」

 

坂柳は静かに言った。

 

「それに、案内だけなら問題ありません」

「問題大ありでしょ!」

 

神室が珍しく声を荒げた。

 

「さっき階段上ったばっかなんだよ!?今のあんた、顔色最悪なんだけど!」

 

坂柳は少しだけ目を伏せた。

 

確かにその通りだった。

 

身体は重い。

 

脚も限界に近い。

 

でも。

 

不思議と、怖さだけではなかった。

 

以前なら、ここで真っ先に「無理です」と言っていただろう。

 

身体を理由に。

 

危険を理由に。

 

だが今は違う。

 

地下へ行きたいわけではない。

 

危険を冒したいわけでもない。

 

ただ。

 

「行けるのに、行かないのは嫌なんです」

 

その言葉は、静かだった。

 

だが確かに本音だった。

 

ロビーが静まる。

 

神室が言葉を失う。

橋本も何も言えない。

綾小路がゆっくりと歩き出した。

白石も坂柳の横へ並ぶ。

 

「オレも行く」

「私もお手伝いさせてください」

 

坂柳は少しだけ目を見開く。

 

「あなたたち、軽く言いますね」

「一人で行かせる気はない」

 

その返答は短かった。

だが迷いがなかった。

教員が苦い顔をする。

 

「危険だぞ」

「だから人手が必要なんです」

 

白石は淡々と言った。

橋本が舌打ち混じりに息を吐く。

 

「……もう、止めても聞かない流れだなこれ」

 

神室が頭を抱える。

 

「本当に最悪」

 

そう言いながらも、彼女は懐中電灯を掴んだ。

 

「私も行く」

「神室さん」

「置いてったらあとで一生文句言うから」

 

坂柳は小さく笑った。

その笑みに、神室は少しだけ顔をしかめる。

 

「そういう顔するなら最初から無茶すんな」

 

地下へ続く非常通路は暗かった。

非常灯だけが、赤く細く通路を照らしている。

 

水滴が天井から落ちる。

空気が冷たい。

遠くで機械音が鳴っている。

 

坂柳は先頭で歩いていた。

 

カツン。

 

杖の音。

 

その音が、地下通路へ反響する。

 

一歩。

 

また一歩。

 

綾小路が半歩後ろにつく。

 

神室と白石と橋本が続く。

 

教員も一人同行していた。

 

地下へ下りる階段が見える。

 

坂柳は少しだけ呼吸を整えた。

 

怖い。

 

階段はまだ怖い。

 

身体が、記憶している。

 

倒れた感覚を。

 

崩れた瞬間を。

 

だが。

 

坂柳は手すりを握る。

 

冷たい金属。

 

呼吸。

 

吸う。

 

吐く。

 

一段目。

 

カツン。

 

二段目。

 

呼吸を乱さない。

 

三段目。

 

脚が重い。

 

だが止まらない。

 

綾小路は何も言わない。

 

ただ、すぐ後ろにいる。

 

その存在だけで、少しだけ怖さが薄まる。

 

地下通路へ到着した時、奥から小さな声が聞こえた。

 

「誰か……!」

 

女子生徒の声だった。

橋本が反応する。

 

「いた!」

 

懐中電灯の光を向ける。

 

防火シャッターの向こう側。

 

女子生徒が二人、閉じ込められていた。

 

一人は足を痛めているらしく、座り込んでいる。

 

坂柳はすぐ周囲を見た。

 

「右側です。手動解除レバーがあります」

 

教員が駆け寄る。

だがレバーは重い。

停電で半分噛み込んでいるらしい。

 

「っ……動かない!」

 

橋本も加わる。

だがびくともしない。

 

時間がかかる。

 

その時。

 

座り込んでいた女子生徒が小さく呻いた。

顔色が悪い。

寒さと不安で限界が近いのだろう。

 

坂柳は息を吸った。

 

「綾小路くん」

「分かってる」

 

二人は同時に動いた。

綾小路がレバー側へ回る。

坂柳は壁際の狭い補助通路を見る。

 

以前確認したことがある。

 

非常時用の点検通路。

 

狭いが、人一人なら通れる。

 

ただし。

 

その先には急な鉄階段がある。

 

白石が気づく。

 

「待ってください、そちらは危険です!」

 

坂柳は振り返らない。

 

「ですが最短です」

 

神室が叫ぶ。

 

「坂柳!」

 

だが坂柳は止まらなかった。

 

杖を握る。

 

狭い通路へ入る。

 

暗い。

雨漏り。

冷たい空気。

 

そして階段。

 

急な鉄階段が上へ続いている。

 

身体が強張る。

 

怖い。

 

本能的に怖い。

 

脚が震える。

 

呼吸が浅くなる。

 

でも。

 

坂柳は思い出していた。

 

一之瀬の手。

ひよりの言葉。

須藤の呼吸法。

宝泉の乱暴な助言。

龍園の現実。

神室の怒鳴り声。

綾小路の距離。

 

全部が、今の自分を支えている。

 

坂柳はゆっくりと杖を見た。

 

そして。

 

静かに壁へ立てかけた。

 

全員が息を呑む。

 

神室が目を見開く。

 

「坂柳……!?」

 

坂柳は手すりを握った。

 

震える脚。

 

速い心拍。

 

怖い。

 

それでも。

 

「少しくらい、自分の足で進んでみたくなりました」

 

その声は小さかった。

だが確かに笑っていた。

 

一段目。

 

手すりを握る。

 

二段目。

 

呼吸。

 

三段目。

 

脚が震える。

 

四段目。

 

苦しい。

 

でも。

 

止まらない。

 

五段目。

 

六段目。

 

坂柳有栖は、自分の足で階段を上っていた。

 

杖なしで。

 

支えなしで。

 

不完全な身体のまま。

 

恐怖を抱えたまま。

 

それでも前へ進んでいた。

 

綾小路が静かに見ている。

 

神室は泣きそうな顔で睨んでいる。

 

橋本と白石は言葉を失っている。

 

そして坂柳は、最後の段差を越えた。

 

息が乱れる。

 

胸が苦しい。

 

脚が限界に近い。

 

それでも。

 

立っていた。

 

自分の足で。

 

坂柳は荒い呼吸の中、小さく笑った。

 

「……案外、上れるものですね」

 

その瞬間。

 

綾小路が、ほんの少しだけ口元を緩めた気がした。




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