中央棟へ辿り着いた頃には、坂柳有栖の制服は雨で完全に濡れていた。
髪から水滴が落ちる。
呼吸は浅い。
脚は震えている。
胸の奥では、まだ心臓が速く脈打っていた。
それでも坂柳は倒れなかった。
自分の足で、最後まで歩き切った。
その事実だけが、今は身体を支えていた。
中央棟のロビーには、避難してきた生徒たちが集まり始めていた。
停電の影響で照明は最低限しか点いていない。
非常灯の白い光が、濡れた床をぼんやり照らしている。
生徒たちのざわめき。
不安そうな声。
遠くで鳴る雷。
そして、窓を叩き続ける豪雨。
学園全体が、普段の整然とした姿を失っていた。
坂柳はロビーの壁へ軽く背を預けた。
身体が重い。
呼吸を整えようとしても、肺がうまく追いつかない。
神室がすぐ横へ来る。
「座る?」
「……いえ、まだ立てます」
「そのまだって言い方、本当に怖いんだけど」
神室の声には本気の心配が混じっていた。
坂柳は少しだけ笑う。
「ですが、本当にまだ立てています」
その時だった。
館内放送が再びノイズ混じりに鳴った。
『――中央棟地下設備区画に、一部生徒が取り残されている可能性があります』
ロビーの空気が変わる。
ざわめき。
不安。
『現在、教職員が確認へ向かっていますが、
停電の影響で電子ロックが正常に作動していません』
橋本が顔をしかめる。
「地下……?」
「地下って、資料室とか機械室の方か?」
周囲でも生徒たちがざわつき始める。
坂柳はゆっくりと顔を上げた。
地下設備区画。
中央棟地下は、停電時に最も危険になる場所の一つだった。
暗い。
狭い。
しかも浸水の危険もある。
もし本当に生徒が閉じ込められているなら、状況はかなり悪い。
「教師は?」
綾小路が静かに聞く。
近くにいた教員が険しい顔で答える。
「現在確認中だ。ただ落雷の影響で一部シャッターが閉じたままになっている」
その瞬間。
坂柳の胸に、嫌な感覚が走った。
嫌な予感。
理由は分からない。
だが、自分はその場所を知っている。
以前、生徒会関連資料の確認で地下区画へ行ったことがあった。
構造も。
非常通路も。
閉鎖時の迂回ルートも。
そして。
「……地下第二資料室」
坂柳が呟く。
周囲が彼女を見る。
「何か知っているのか?」
橋本が聞く。
坂柳はゆっくりと言った。
「地下第二資料室の外側には、停電時に自動閉鎖される防火シャッターがあります。
ですが、古い手動通路が一つだけ残っていました」
教員が目を見開く。
「本当か?」
「ええ。ただし通路は狭く、階段も多い。通常は使用されません」
雷鳴。
窓が震える。
ロビーの空気が張り詰める。
教員は無線機へ手を伸ばす。
だがノイズが酷い。
通信状態が安定しない。
「くそ……!」
その時だった。
坂柳は自分でも驚くほど自然に言葉を口にしていた。
「案内します」
空気が止まった。
神室が即座に振り返る。
「は?」
橋本も目を見開く。
綾小路だけが、静かに坂柳を見ていた。
教員が低い声で言う。
「無理だ。君の身体で地下へ行くのは危険すぎる」
正論だった。
誰が聞いても。
坂柳自身も理解している。
今の自分は疲弊している。
雨と階段で体力を使い切っている。
呼吸もまだ安定しない。
地下へ行けば、さらに負荷がかかる。
だが。
坂柳は知っていた。
自分が行かなければ、遠回りになる。
時間がかかる。
もし本当に生徒が閉じ込められているなら、その遅れは危険になる。
「私が一番構造を理解しています」
坂柳は静かに言った。
「それに、案内だけなら問題ありません」
「問題大ありでしょ!」
神室が珍しく声を荒げた。
「さっき階段上ったばっかなんだよ!?今のあんた、顔色最悪なんだけど!」
坂柳は少しだけ目を伏せた。
確かにその通りだった。
身体は重い。
脚も限界に近い。
でも。
不思議と、怖さだけではなかった。
以前なら、ここで真っ先に「無理です」と言っていただろう。
身体を理由に。
危険を理由に。
だが今は違う。
地下へ行きたいわけではない。
危険を冒したいわけでもない。
ただ。
「行けるのに、行かないのは嫌なんです」
その言葉は、静かだった。
だが確かに本音だった。
ロビーが静まる。
神室が言葉を失う。
橋本も何も言えない。
綾小路がゆっくりと歩き出した。
白石も坂柳の横へ並ぶ。
「オレも行く」
「私もお手伝いさせてください」
坂柳は少しだけ目を見開く。
「あなたたち、軽く言いますね」
「一人で行かせる気はない」
その返答は短かった。
だが迷いがなかった。
教員が苦い顔をする。
「危険だぞ」
「だから人手が必要なんです」
白石は淡々と言った。
橋本が舌打ち混じりに息を吐く。
「……もう、止めても聞かない流れだなこれ」
神室が頭を抱える。
「本当に最悪」
そう言いながらも、彼女は懐中電灯を掴んだ。
「私も行く」
「神室さん」
「置いてったらあとで一生文句言うから」
坂柳は小さく笑った。
その笑みに、神室は少しだけ顔をしかめる。
「そういう顔するなら最初から無茶すんな」
地下へ続く非常通路は暗かった。
非常灯だけが、赤く細く通路を照らしている。
水滴が天井から落ちる。
空気が冷たい。
遠くで機械音が鳴っている。
坂柳は先頭で歩いていた。
カツン。
杖の音。
その音が、地下通路へ反響する。
一歩。
また一歩。
綾小路が半歩後ろにつく。
神室と白石と橋本が続く。
教員も一人同行していた。
地下へ下りる階段が見える。
坂柳は少しだけ呼吸を整えた。
怖い。
階段はまだ怖い。
身体が、記憶している。
倒れた感覚を。
崩れた瞬間を。
だが。
坂柳は手すりを握る。
冷たい金属。
呼吸。
吸う。
吐く。
一段目。
カツン。
二段目。
呼吸を乱さない。
三段目。
脚が重い。
だが止まらない。
綾小路は何も言わない。
ただ、すぐ後ろにいる。
その存在だけで、少しだけ怖さが薄まる。
地下通路へ到着した時、奥から小さな声が聞こえた。
「誰か……!」
女子生徒の声だった。
橋本が反応する。
「いた!」
懐中電灯の光を向ける。
防火シャッターの向こう側。
女子生徒が二人、閉じ込められていた。
一人は足を痛めているらしく、座り込んでいる。
坂柳はすぐ周囲を見た。
「右側です。手動解除レバーがあります」
教員が駆け寄る。
だがレバーは重い。
停電で半分噛み込んでいるらしい。
「っ……動かない!」
橋本も加わる。
だがびくともしない。
時間がかかる。
その時。
座り込んでいた女子生徒が小さく呻いた。
顔色が悪い。
寒さと不安で限界が近いのだろう。
坂柳は息を吸った。
「綾小路くん」
「分かってる」
二人は同時に動いた。
綾小路がレバー側へ回る。
坂柳は壁際の狭い補助通路を見る。
以前確認したことがある。
非常時用の点検通路。
狭いが、人一人なら通れる。
ただし。
その先には急な鉄階段がある。
白石が気づく。
「待ってください、そちらは危険です!」
坂柳は振り返らない。
「ですが最短です」
神室が叫ぶ。
「坂柳!」
だが坂柳は止まらなかった。
杖を握る。
狭い通路へ入る。
暗い。
雨漏り。
冷たい空気。
そして階段。
急な鉄階段が上へ続いている。
身体が強張る。
怖い。
本能的に怖い。
脚が震える。
呼吸が浅くなる。
でも。
坂柳は思い出していた。
一之瀬の手。
ひよりの言葉。
須藤の呼吸法。
宝泉の乱暴な助言。
龍園の現実。
神室の怒鳴り声。
綾小路の距離。
全部が、今の自分を支えている。
坂柳はゆっくりと杖を見た。
そして。
静かに壁へ立てかけた。
全員が息を呑む。
神室が目を見開く。
「坂柳……!?」
坂柳は手すりを握った。
震える脚。
速い心拍。
怖い。
それでも。
「少しくらい、自分の足で進んでみたくなりました」
その声は小さかった。
だが確かに笑っていた。
一段目。
手すりを握る。
二段目。
呼吸。
三段目。
脚が震える。
四段目。
苦しい。
でも。
止まらない。
五段目。
六段目。
坂柳有栖は、自分の足で階段を上っていた。
杖なしで。
支えなしで。
不完全な身体のまま。
恐怖を抱えたまま。
それでも前へ進んでいた。
綾小路が静かに見ている。
神室は泣きそうな顔で睨んでいる。
橋本と白石は言葉を失っている。
そして坂柳は、最後の段差を越えた。
息が乱れる。
胸が苦しい。
脚が限界に近い。
それでも。
立っていた。
自分の足で。
坂柳は荒い呼吸の中、小さく笑った。
「……案外、上れるものですね」
その瞬間。
綾小路が、ほんの少しだけ口元を緩めた気がした。
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