高度育成高等学校の朝は、昨日と何も変わらない顔をして始まっていた。
校舎へ向かう生徒たちの流れ。
規則正しく鳴る始業前のチャイム。
談笑。
足音。
夏風。
世界は驚くほど普通に動いている。
だが坂柳有栖にとって、その「普通」という言葉ほど遠いものはなかった。
杖の先端が石畳を叩く。
カツン。
小さな音。
しかし今日は、その音が妙に重く感じられた。
昨日、病院で聞かされた言葉が頭から離れない。
可能性。
リハビリ。
治療。
歩行制限の緩和。
軽い走行。
普通の生活。
そのどれもが、今までの坂柳の人生には存在しなかった概念だった。
だからこそ不気味だった。
人間は、手に入らないと諦めている夢には傷つけられない。
だが一度でも「届くかもしれない」と思ってしまえば、
その瞬間から失う恐怖が始まる。
坂柳はその恐怖を、昨夜ほとんど眠れないまま味わっていた。
「坂柳さん、おはようございます」
通りかかった女子生徒が頭を下げる。
坂柳はいつも通り微笑した。
「ええ、おはようございます」
完璧な返答。
完璧な表情。
完璧なAクラスの支配者。
誰も気づかない。
彼女が昨夜、自室で一人、震える指で検査資料を何度も読み返していたことを。
誰も知らない。
彼女が「走れるかもしれない」という一文を、何度も見返してしまったことを。
その時だった。
「おい」
低い声。
坂柳が視線を向ける。
廊下の向こうに、龍園翔が立っていた。
周囲の生徒たちが空気を読んで距離を空ける。
龍園はポケットへ手を突っ込んだまま近づいてくる。
その目は獲物を見る肉食の蛇のようだった。
「昨日ぶっ倒れたらしいな」
随分と情報が早いですわね、と坂柳は内心で思った。
この学校で秘密は長生きしない。
特に坂柳有栖の異変ともなれば尚更だった。
「ええ。少し貧血気味でして」
「ハッ、病人の言い訳は聞いてねぇよ」
龍園は笑う。
だがその笑いには、いつもの単純な挑発だけではない何かが混じっていた。
「で?」
「何がです?」
「その身体、いよいよ限界なんじゃねぇのか?」
周囲の空気が凍った。
数人の生徒が息を呑む。
だが坂柳は表情を崩さない。
「仮にそうだったとして、あなたが喜ぶ理由になりますか?」
「なるね」
龍園は即答した。
「お前みてぇな奴が、弱ぇ身体引きずりながら上から見下ろしてんのが気に食わねぇ」
暴力的な言葉だった。
だが坂柳には、それが妙に正直な言葉にも聞こえた。
龍園は続ける。
「だが、逆に言えば、お前はその壊れた身体でここまで来たってことでもある」
坂柳の目がわずかに細くなる。
龍園は笑った。
「だから訊いてんだよ。もし治るんなら、お前はどうなんだ?」
風が吹いた。
廊下の窓から夏の空気が流れ込む。
坂柳は静かに杖を握り直した。
「……どう、とは?」
「決まってんだろ。今までみてぇに頭だけで戦うのか、
それとも少しは人間らしくなるのかって話だ」
坂柳は少し黙った。
その沈黙だけで、龍園は何かを察したようだった。
「図星か」
「あなた、本当に失礼ですね」
「だが否定しねぇ」
龍園は鼻で笑った。
「いいぜ。嫌いじゃねぇよ。必死に生きようとしてる奴はな」
そう言い残し、龍園は去っていく。
周囲の空気が一気に緩む。
だが坂柳の胸の中には、別の重さが残っていた。
――必死に生きようとしている。
その言葉が、妙に引っかかった。
自分は今まで、生き延びようとしていた。
負けないように。
壊れないように。
見下されないように。
だが「生きたい」と願ったことがあっただろうか。
そこまで考えた時、後方から足音が聞こえた。
「坂柳さん」
穏やかな声。
振り返ると、一之瀬帆波が立っていた。
一之瀬はどこか不安そうな表情をしている。
「昨日、大丈夫だった?」
「ええ。大袈裟に騒がれてしまいましたけれど、問題ありません」
「でも顔色、まだ少し悪いよ……?」
その声音には純粋な心配が滲んでいた。
打算も駆け引きもない。
だからこそ坂柳は少し困る。
こういう相手には、いつものように知略で距離を取ることが難しい。
「ありがとう存じます。一之瀬さん」
「無理しないでね」
一之瀬はそう言って、少しだけ躊躇ったあと、小さく微笑した。
「……坂柳さんって、いつも一人で抱え込みそうだから」
その言葉に、坂柳はわずかに目を見開いた。
一之瀬は去っていく。
廊下に再び日常の音が戻る。
だが坂柳の中では、何かが静かに揺れていた。
◯
午前の授業中も、彼女の集中力は珍しく乱れていた。
黒板の文字。
教師の声。
ノートを取る音。
その全てが薄い膜の向こう側にあるようだった。
ふと窓の外を見る。
グラウンドでは体育の授業が行われていた。
生徒たちが走っている。
笑っている。
転んでいる。
叫んでいる。
そんな何でもない光景が、今日はやけに眩しかった。
「坂柳」
教師の声で我に返る。
「珍しいな。授業中に上の空とは」
教室の視線が集まる。
坂柳は微笑んだ。
「失礼しました。少し考え事をしていました」
「体調が悪いなら保健室へ行くか?」
「必要ありません」
即答だった。
反射的だった。
その瞬間、自分でも気づく。
――私は、怖がっている。
保健室へ行けば、また「病人」になる。
気遣われる。
守られる。
弱者として扱われる。
それが嫌だった。
授業終了のチャイムが鳴る。
昼休み。
坂柳は人混みを避けるように廊下を歩いていた。
すると前方から、見覚えのある人物が近づいてくる。
堀北鈴音だった。
堀北は坂柳を見るなり足を止める。
「少しいいかしら」
「珍しい組み合わせですね」
「あなたに訊きたいことがあるの」
堀北の目は真っ直ぐだった。
回りくどさがない。
だからこそ厄介だった。
「昨日の件、聞いたわ」
「随分と噂がお好きですね、この学校の方々は」
「誤魔化さないで」
堀北は静かに言った。
「あなた、治療を受けるつもりなの?」
坂柳は少し沈黙した。
その沈黙だけで、堀北は理解したらしかった。
「……本当に可能性があるのね」
「ええ。可能性だけなら」
「なら受ければいいじゃない」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
坂柳は小さく笑う。
「簡単に言ってくださいますね」
「簡単じゃないわ。でも、あなたは本当は治りたいんでしょう?」
その言葉は鋭かった。
坂柳の胸の奥へ真っ直ぐ届くほどに。
堀北は続ける。
「あなたは自分を頭脳だけの人間みたいに振る舞うけれど、本当は違う」
「何が違うと?」
「昨日、あなたはグラウンドを見ていたでしょう」
坂柳の瞳が揺れる。
見られていた。
堀北は静かに言った。
「あなた、本当は普通に生きたいのよ」
その瞬間だった。
胸の奥で何かが大きく波打った。
坂柳は視線を逸らした。
認めたくなかった。
そんな欲望は、自分には不要だと思っていた。
だが。
「……もしそうだとして」
坂柳は静かに言う。
「今さら、私は何になれるのですか?」
廊下へ夏の光が差し込んでいた。
堀北は少しだけ考えたあと、短く答えた。
「坂柳有栖でしょう」
どこかで聞いたような答えだった。
不器用で。
単純で。
けれど否定しづらい言葉。
坂柳は小さく笑った。
「あなた達、本当に似ていますね」
「誰と?」
「秘密です」
その日の放課後。
坂柳は一人で校舎裏へ向かっていた。
夕方の空気は少し冷えている。
人通りは少ない。
だからここを選んだ。
誰にも見られたくなかったからだ。
校舎裏の非常階段。
コンクリート製の、無機質な階段。
健康な生徒なら何の意味も持たない場所。
だが坂柳にとって、それは小さな壁だった。
彼女は手すりへ触れる。
冷たい。
心臓が少し早くなる。
怖い。
たった数段なのに。
失敗することが怖い。
途中で息が切れることが怖い。
倒れることが怖い。
そして何より。
「できない」と証明されることが怖かった。
坂柳はゆっくりと一段目へ足を乗せる。
杖をつく。
身体を持ち上げる。
胸が苦しい。
だが、まだいける。
二段目。
呼吸が浅くなる。
三段目。
脚が震える。
四段目。
視界が少し揺れる。
坂柳は歯を食いしばった。
たったこれだけで。
たった数段で。
身体が悲鳴を上げている。
情けなかった。
悔しかった。
その時だった。
「無茶するな」
背後から声がした。
坂柳は肩を震わせる。
振り返ると、そこには綾小路が立っていた。
「……あなた、ストーカーか何かですか?」
「偶然だ」
「あなたの偶然は信用できませんね」
綾小路は階段の下で止まったまま、坂柳を見上げていた。
助けようとはしない。
止めようともしない。
ただ見ている。
それが妙に腹立たしかった。
「笑えばいいでしょう」
坂柳は息を乱しながら言った。
「たった数段でこの有様です」
綾小路は答えない。
「あなたのような人間から見れば滑稽でしょうね。
走るどころか、階段程度で息を切らしているのですから」
夕方の風が吹く。
坂柳の髪が揺れる。
そして綾小路は静かに言った。
「でも、お前は昨日まで登ろうともしなかった」
その言葉に、坂柳は息を止めた。
綾小路は続ける。
「今は違う」
短い言葉だった。
けれど、その言葉だけで十分だった。
坂柳は階段の途中で立ち尽くす。
胸は苦しい。
脚は震えている。
心臓は怖いほど速い。
それでも。
昨日までの自分とは、確かに何かが違っていた。
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