坂柳有栖が杖を置く日   作:EXTERMINATION

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第二話 杖音

高度育成高等学校の朝は、昨日と何も変わらない顔をして始まっていた。

 

校舎へ向かう生徒たちの流れ。

 

規則正しく鳴る始業前のチャイム。

 

談笑。

足音。

夏風。

 

世界は驚くほど普通に動いている。

 

だが坂柳有栖にとって、その「普通」という言葉ほど遠いものはなかった。

 

杖の先端が石畳を叩く。

 

カツン。

 

小さな音。

 

しかし今日は、その音が妙に重く感じられた。

 

昨日、病院で聞かされた言葉が頭から離れない。

 

可能性。

リハビリ。

治療。

歩行制限の緩和。

軽い走行。

普通の生活。

 

そのどれもが、今までの坂柳の人生には存在しなかった概念だった。

 

だからこそ不気味だった。

 

人間は、手に入らないと諦めている夢には傷つけられない。

 

だが一度でも「届くかもしれない」と思ってしまえば、

その瞬間から失う恐怖が始まる。

 

坂柳はその恐怖を、昨夜ほとんど眠れないまま味わっていた。

 

「坂柳さん、おはようございます」

 

通りかかった女子生徒が頭を下げる。

 

坂柳はいつも通り微笑した。

 

「ええ、おはようございます」

 

完璧な返答。

完璧な表情。

 

完璧なAクラスの支配者。

 

誰も気づかない。

 

彼女が昨夜、自室で一人、震える指で検査資料を何度も読み返していたことを。

 

誰も知らない。

 

彼女が「走れるかもしれない」という一文を、何度も見返してしまったことを。

 

その時だった。

 

「おい」

 

低い声。

 

坂柳が視線を向ける。

廊下の向こうに、龍園翔が立っていた。

周囲の生徒たちが空気を読んで距離を空ける。

龍園はポケットへ手を突っ込んだまま近づいてくる。

その目は獲物を見る肉食の蛇のようだった。

 

「昨日ぶっ倒れたらしいな」

 

随分と情報が早いですわね、と坂柳は内心で思った。

 

この学校で秘密は長生きしない。

 

特に坂柳有栖の異変ともなれば尚更だった。

 

「ええ。少し貧血気味でして」

「ハッ、病人の言い訳は聞いてねぇよ」

 

龍園は笑う。

 

だがその笑いには、いつもの単純な挑発だけではない何かが混じっていた。

 

「で?」

「何がです?」

「その身体、いよいよ限界なんじゃねぇのか?」

 

周囲の空気が凍った。

数人の生徒が息を呑む。

 

だが坂柳は表情を崩さない。

 

「仮にそうだったとして、あなたが喜ぶ理由になりますか?」

「なるね」

 

龍園は即答した。

 

「お前みてぇな奴が、弱ぇ身体引きずりながら上から見下ろしてんのが気に食わねぇ」

 

暴力的な言葉だった。

 

だが坂柳には、それが妙に正直な言葉にも聞こえた。

 

龍園は続ける。

 

「だが、逆に言えば、お前はその壊れた身体でここまで来たってことでもある」

 

坂柳の目がわずかに細くなる。

 

龍園は笑った。

 

「だから訊いてんだよ。もし治るんなら、お前はどうなんだ?」

 

風が吹いた。

 

廊下の窓から夏の空気が流れ込む。

 

坂柳は静かに杖を握り直した。

 

「……どう、とは?」

「決まってんだろ。今までみてぇに頭だけで戦うのか、

それとも少しは人間らしくなるのかって話だ」

 

坂柳は少し黙った。

 

その沈黙だけで、龍園は何かを察したようだった。

 

「図星か」

「あなた、本当に失礼ですね」

「だが否定しねぇ」

 

龍園は鼻で笑った。

 

「いいぜ。嫌いじゃねぇよ。必死に生きようとしてる奴はな」

 

そう言い残し、龍園は去っていく。

 

周囲の空気が一気に緩む。

 

だが坂柳の胸の中には、別の重さが残っていた。

 

――必死に生きようとしている。

 

その言葉が、妙に引っかかった。

 

自分は今まで、生き延びようとしていた。

 

負けないように。

 

壊れないように。

 

見下されないように。

 

だが「生きたい」と願ったことがあっただろうか。

 

そこまで考えた時、後方から足音が聞こえた。

 

「坂柳さん」

 

穏やかな声。

 

振り返ると、一之瀬帆波が立っていた。

 

一之瀬はどこか不安そうな表情をしている。

 

「昨日、大丈夫だった?」

「ええ。大袈裟に騒がれてしまいましたけれど、問題ありません」

「でも顔色、まだ少し悪いよ……?」

 

その声音には純粋な心配が滲んでいた。

 

打算も駆け引きもない。

 

だからこそ坂柳は少し困る。

 

こういう相手には、いつものように知略で距離を取ることが難しい。

 

「ありがとう存じます。一之瀬さん」

「無理しないでね」

 

一之瀬はそう言って、少しだけ躊躇ったあと、小さく微笑した。

 

「……坂柳さんって、いつも一人で抱え込みそうだから」

 

その言葉に、坂柳はわずかに目を見開いた。

 

一之瀬は去っていく。

 

廊下に再び日常の音が戻る。

だが坂柳の中では、何かが静かに揺れていた。

 

 

午前の授業中も、彼女の集中力は珍しく乱れていた。

 

黒板の文字。

教師の声。

ノートを取る音。

 

その全てが薄い膜の向こう側にあるようだった。

 

ふと窓の外を見る。

 

グラウンドでは体育の授業が行われていた。

 

生徒たちが走っている。

 

笑っている。

 

転んでいる。

 

叫んでいる。

 

そんな何でもない光景が、今日はやけに眩しかった。

 

「坂柳」

 

教師の声で我に返る。

 

「珍しいな。授業中に上の空とは」

 

教室の視線が集まる。

 

坂柳は微笑んだ。

 

「失礼しました。少し考え事をしていました」

「体調が悪いなら保健室へ行くか?」

「必要ありません」

 

即答だった。

 

反射的だった。

 

その瞬間、自分でも気づく。

 

――私は、怖がっている。

 

保健室へ行けば、また「病人」になる。

 

気遣われる。

 

守られる。

 

弱者として扱われる。

 

それが嫌だった。

 

授業終了のチャイムが鳴る。

 

昼休み。

 

坂柳は人混みを避けるように廊下を歩いていた。

すると前方から、見覚えのある人物が近づいてくる。

 

堀北鈴音だった。

 

堀北は坂柳を見るなり足を止める。

 

「少しいいかしら」

「珍しい組み合わせですね」

「あなたに訊きたいことがあるの」

 

堀北の目は真っ直ぐだった。

 

回りくどさがない。

 

だからこそ厄介だった。

 

「昨日の件、聞いたわ」

「随分と噂がお好きですね、この学校の方々は」

「誤魔化さないで」

 

堀北は静かに言った。

 

「あなた、治療を受けるつもりなの?」

 

坂柳は少し沈黙した。

 

その沈黙だけで、堀北は理解したらしかった。

 

「……本当に可能性があるのね」

「ええ。可能性だけなら」

「なら受ければいいじゃない」

 

あまりにも真っ直ぐな言葉だった。

 

坂柳は小さく笑う。

 

「簡単に言ってくださいますね」

「簡単じゃないわ。でも、あなたは本当は治りたいんでしょう?」

 

その言葉は鋭かった。

 

坂柳の胸の奥へ真っ直ぐ届くほどに。

 

堀北は続ける。

 

「あなたは自分を頭脳だけの人間みたいに振る舞うけれど、本当は違う」

「何が違うと?」

「昨日、あなたはグラウンドを見ていたでしょう」

 

坂柳の瞳が揺れる。

 

見られていた。

 

堀北は静かに言った。

 

「あなた、本当は普通に生きたいのよ」

 

その瞬間だった。

 

胸の奥で何かが大きく波打った。

 

坂柳は視線を逸らした。

 

認めたくなかった。

 

そんな欲望は、自分には不要だと思っていた。

 

だが。

 

「……もしそうだとして」

 

坂柳は静かに言う。

 

「今さら、私は何になれるのですか?」

 

廊下へ夏の光が差し込んでいた。

 

堀北は少しだけ考えたあと、短く答えた。

 

「坂柳有栖でしょう」

 

どこかで聞いたような答えだった。

 

不器用で。

 

単純で。

 

けれど否定しづらい言葉。

 

坂柳は小さく笑った。

 

「あなた達、本当に似ていますね」

「誰と?」

「秘密です」

 

その日の放課後。

坂柳は一人で校舎裏へ向かっていた。

 

夕方の空気は少し冷えている。

 

人通りは少ない。

 

だからここを選んだ。

 

誰にも見られたくなかったからだ。

 

校舎裏の非常階段。

 

コンクリート製の、無機質な階段。

 

健康な生徒なら何の意味も持たない場所。

 

だが坂柳にとって、それは小さな壁だった。

 

彼女は手すりへ触れる。

 

冷たい。

 

心臓が少し早くなる。

 

怖い。

 

たった数段なのに。

 

失敗することが怖い。

 

途中で息が切れることが怖い。

 

倒れることが怖い。

 

そして何より。

 

「できない」と証明されることが怖かった。

 

坂柳はゆっくりと一段目へ足を乗せる。

 

杖をつく。

 

身体を持ち上げる。

 

胸が苦しい。

 

だが、まだいける。

 

二段目。

 

呼吸が浅くなる。

 

三段目。

 

脚が震える。

 

四段目。

 

視界が少し揺れる。

 

坂柳は歯を食いしばった。

 

たったこれだけで。

 

たった数段で。

 

身体が悲鳴を上げている。

 

情けなかった。

 

悔しかった。

 

その時だった。

 

「無茶するな」

 

背後から声がした。

 

坂柳は肩を震わせる。

 

振り返ると、そこには綾小路が立っていた。

 

「……あなた、ストーカーか何かですか?」

「偶然だ」

「あなたの偶然は信用できませんね」

 

綾小路は階段の下で止まったまま、坂柳を見上げていた。

 

助けようとはしない。

 

止めようともしない。

 

ただ見ている。

 

それが妙に腹立たしかった。

 

「笑えばいいでしょう」

 

坂柳は息を乱しながら言った。

 

「たった数段でこの有様です」

 

綾小路は答えない。

 

「あなたのような人間から見れば滑稽でしょうね。

走るどころか、階段程度で息を切らしているのですから」

 

夕方の風が吹く。

 

坂柳の髪が揺れる。

 

そして綾小路は静かに言った。

 

「でも、お前は昨日まで登ろうともしなかった」

 

その言葉に、坂柳は息を止めた。

 

綾小路は続ける。

 

「今は違う」

 

短い言葉だった。

 

けれど、その言葉だけで十分だった。

 

坂柳は階段の途中で立ち尽くす。

 

胸は苦しい。

 

脚は震えている。

 

心臓は怖いほど速い。

 

それでも。

 

昨日までの自分とは、確かに何かが違っていた。




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