坂柳有栖が杖を置く日   作:EXTERMINATION

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第三話 脈拍

翌朝、坂柳有栖はいつもより早く目を覚ました。

 

寮の部屋には、まだ朝の光が薄く差し込んでいるだけで、

窓の外に見える校舎も、グラウンドも、並木道も、

夜の名残をわずかに残した静けさの中に沈んでいた。

 

身体を起こす。

 

その瞬間、胸の奥に小さな違和感が走った。

 

痛みではない。

 

苦しさでもない。

 

ただ、心臓の拍動が普段よりわずかに荒く、

まるで自分の身体の奥に知らない誰かが住み着いて、

勝手に扉を叩いているような感覚だった。

 

坂柳はベッドの上でしばらく動かず、自分の呼吸を数えた。

 

吸う。

吐く。

また吸う。

 

その一つ一つを意識しなければならない時点で、

今日の身体が万全ではないことは分かっていた。

 

昨日の非常階段。

 

たった数段。

 

普通の生徒なら、意識すらせずに通り過ぎる場所。

それだけの挑戦が、坂柳の身体には確実な負担として残っていた。

 

「……本当に、面倒な身体です」

 

自嘲気味に呟く。

けれど、その言葉には以前ほどの諦めだけではなかった。

 

昨日の綾小路の言葉が、まだ耳に残っている。

 

――でも、お前は昨日まで登ろうともしなかった。

 

そう。

 

昨日までの自分は、登ろうともしなかった。

 

自分には無理だと、最初から盤面の外に置いていた。

 

身体で戦う前に、頭で諦めていた。

 

だからこそ、胸の違和感すらも、ただの不快感ではなく、

初めて前へ進もうとした代償のように思えた。

 

坂柳はゆっくりとベッドから足を下ろした。

 

床に足裏が触れる。

 

冷たい。

 

その冷たさが、妙に現実的だった。

 

杖へ手を伸ばす。

 

いつもの重さ。

いつもの形。

いつもの音。

 

カツン、と床を軽く叩いた瞬間、今日もまた自分はこの音と共に歩くのだと理解する。

 

 

昼食の場では、Aクラスの生徒たちがいつも通りの会話をしていた。

 

試験の噂。

授業の話。

部活動の話。

 

誰が誰と親しくなったかという取るに足らない話題。

 

坂柳が食堂へ入ると、その空気が一瞬だけ整う。

 

クラスの中心人物が来た時の、無言の緊張と敬意。

 

それは坂柳にとって慣れたものだった。

 

「あんたも来たのね、坂柳」

 

神室真澄が、いつものように少し気だるげな顔で声をかける。

 

「ええ、ここのご飯は美味しいですから」

 

坂柳は穏やかに返す。

席に着き、食事へ手を伸ばす。

しかし、箸を持つ指先にわずかな震えがあった。

 

自分では隠しているつもりだった。

 

だが神室は、それを見逃さなかった。

 

「……あんた、今日顔色悪くない?」

「いつものことです」

「そういう返し、便利だよね」

 

神室はため息をつく。

 

「昨日も無茶したんじゃないの?」

 

坂柳は一瞬だけ箸を止めた。

 

「誰から聞きました?」

「誰からも何も。あんたが無茶しそうな顔してるだけ」

 

坂柳は小さく笑った。

 

「随分と鋭くなりましたね」

「鋭くなくても分かるっての。

病院行った翌日に平気そうな顔してる方がおかしいでしょ」

 

神室の言葉は乱暴だったが、そこには確かな心配があった。

坂柳はその心配を受け取ることが、少し苦手だった。

心配されることは、弱さを認められることに近い。

だが拒絶しすぎれば、相手の善意まで否定してしまう。

 

「大丈夫です。今日は無理をするつもりはありません」

「その言葉、信用できないんだけど」

「信用してくださらなくても結構です」

「本当に面倒な人」

 

神室は呆れたように言いながらも、それ以上追及しなかった。

 

その距離感が、今の坂柳にはありがたかった。

 

午後の授業は問題なく進んだ。

 

少なくとも、表面上は。

 

坂柳はいつものように教師の説明を聞き、

必要な箇所だけをノートに記し、周囲の生徒たちの反応を観察していた。

 

だが5限目の途中から、胸の奥に再び違和感が戻ってきた。

 

最初は小さな乱れだった。

 

規則正しく鳴っていた時計の針が、一瞬だけ飛ぶような感覚。

 

次に、呼吸が浅くなる。

 

そして、耳の奥で自分の脈が大きく響き始める。

 

ドクン。

ドクン。

ドクン。

 

教室の音が遠くなっていく。

教師の声が、薄いガラスの向こう側から聞こえるように歪む。

 

坂柳は背筋を伸ばしたまま、表情を変えなかった。

 

変えてはいけない。

 

Aクラスの坂柳有栖が、授業中に苦しそうな顔を見せるわけにはいかない。

 

けれど、身体はそんな意地を知らない。

 

指先が冷える。

 

額に薄い汗が滲む。

 

胸の奥が、まるで不規則に締めつけられるようだった。

 

「坂柳さん?」

 

隣の生徒が小さく声をかける。

坂柳は微笑もうとした。

しかし、その微笑が完成する前に、視界の端が暗く染まった。

 

机の縁を掴む。

 

椅子が小さく音を立てる。

 

教室中の視線が一斉に集まった。

 

「坂柳?」

 

教師の声が聞こえる。

 

その直後、教室の扉が開いた。

 

誰かが廊下から入ってくる。

 

真嶋だった。

 

「授業を中断する。坂柳、保健室へ」

 

その判断は異常なほど早かった。

 

まるで、あらかじめこうなることを予期していたかのように。

 

坂柳は息を整えながら顔を上げた。

 

「……大袈裟です」

「歩けるか」

 

真嶋は反論を受けつけなかった。

その声を聞いて、坂柳は悟った。

今ここで拒否しても意味がない。

 

立ち上がる。

 

杖をつく。

 

だが足元が揺れた。

 

その瞬間、神室が立ち上がって彼女の腕を支えた。

 

「ほら、言わんこっちゃない」

「……余計なお世話です」

「はいはい。そういうのは歩ける人が言って」

 

坂柳は反論しようとしたが、呼吸が乱れて言葉にならなかった。

 

そのまま真嶋と神室に付き添われ、保健室へ向かう。

 

廊下を歩く間、他クラスの生徒たちがこちらを見る。

 

視線。

囁き。

心配。

好奇心。

同情。

 

坂柳はその全てが嫌だった。

 

自分という存在が、また「病弱な少女」という一つの属性に還元されていく。

 

どれほど知略を尽くしても、どれほど勝利を重ねても、

倒れれば一瞬で身体の弱さに引き戻される。

 

それが悔しかった。

 

保健室に入ると、養護教諭だけでなく、

昨日の病院から派遣されたらしい医療スタッフが待っていた。

 

白衣の女性。

年齢は三十代ほど。

落ち着いた目をしている。

 

「坂柳さんですね。心拍確認をします」

「ずいぶん準備がよろしいのですね」

「あなたの今日の状態は、想定範囲内です」

 

その言葉に、坂柳は眉を動かした。

 

「想定範囲内?」

「昨日、階段を使いましたね」

 

室内の空気が止まった。

神室が目を丸くする。

真嶋は黙っている。

 

坂柳は医療スタッフを見た。

 

「監視でもされていました?」

「あなたの行動記録は学校側から共有されています。

もちろん、医療管理上必要な範囲です」

「便利な言葉ですね、必要な範囲」

 

坂柳の声には皮肉が混じっていた。

 

だが女性スタッフは動じなかった。

 

「不快に思うのは当然です。

ただ、あなたの場合、小さな負荷でも翌日に影響が出ることがあります。

昨日の階段訓練は、今の身体には過剰でした」

「訓練と呼べるほどのものではありません」

「あなたにとっては訓練です」

 

その断定に、坂柳は言葉を失った。

 

女性スタッフは心拍計を装着し、数値を確認する。

機械の電子音が、保健室の静けさの中で規則正しく鳴り始めた。

 

ピッ。

ピッ。

ピッ。

 

その音は、自分の内側を外へ引きずり出されているようで不快だった。

 

坂柳は天井を見上げる。

 

また白い天井。

 

また医療の匂い。

 

また数字。

 

また管理。

 

「脈が乱れています」

 

女性スタッフが静かに言った。

 

「現時点で危険な状態ではありませんが、無視していい状態でもありません」

 

神室が小さく息を呑む。

 

坂柳は目だけを動かす。

 

「具体的には?」

「あなたの心臓は、普通の人より余裕が少ない状態です。

だから身体に負荷がかかった時、回復まで時間がかかります。

昨日の階段のような行為でも、翌日に疲労や不整脈が出ることがあります」

「では、何もするなと?」

 

その声には、思った以上に苛立ちが混じっていた。

 

坂柳自身もそれに気づく。

 

女性スタッフは首を振った。

 

「違います。何もしなければ、あなたの身体は変わりません。

ただし、感情で負荷を上げてはいけないということです」

 

感情。

 

その言葉が胸に刺さる。

 

昨日の階段は、確かに計画的なものではなかった。

 

綾小路の言葉。

 

病院で聞いた可能性。

 

自分の中に生まれた小さな希望。

 

それらに押されて、衝動的に上っただけだった。

 

「リハビリには順序があります」

 

女性スタッフは続ける。

 

「まずは歩行時間の記録。心拍の変化。休息のタイミング。

階段ではなく平地。距離ではなく安定性。努力ではなく継続。

あなたが今しなければならないのは、限界を超えることではありません。

限界を正確に知ることです」

 

坂柳は黙った。

 

限界を知る。

 

それは、彼女が最も嫌ってきた行為だった。

 

限界など認めたくなかった。

 

自分の身体に上限があると認めるくらいなら、

頭脳で全てを塗り替えた方が楽だった。

 

だが今、自分が進もうとしている道は、

その限界から目を逸らすことを許してくれない。

 

「治療を受けるかどうかは、まだ決まっていないと聞いています」

 

女性スタッフは坂柳を見る。

 

「ただ、どちらを選ぶにしても、あなたは自分の身体を知らなければなりません」

「知っています。嫌というほど」

 

坂柳は静かに返した。

 

だが女性スタッフは、穏やかに首を振った。

 

「いいえ。あなたは身体を敵として扱うことには慣れています。

でも、身体と付き合うことには慣れていません」

 

その言葉は、あまりにも正しかった。

 

坂柳は目を閉じた。

 

身体は敵だった。

 

自分を縛るもの。

 

足を止めるもの。

 

他人に弱者だと思わせるもの。

 

けれど、もし治る可能性があるのなら。

 

もしこの身体と共に、これから先を生きていくのなら。

 

敵のままではいられない。

 

「……嫌なことを言う方ですね」

「よく言われます」

 

女性スタッフは少しだけ笑った。

 

保健室のベッドで休んでいる間、神室はしばらく隣にいた。

 

普段ならすぐにどこかへ行きそうな彼女が、

今日は妙に落ち着かない様子で椅子に座っている。

 

「授業に戻って構いませんよ」

「戻れって言われると戻りたくなくなる」

「あなたは本当に扱いづらいですね」

「それ、あんたにだけは言われたくない」

 

坂柳は小さく笑った。

 

その笑いで少し呼吸が乱れた。

 

神室はすぐに顔をしかめる。

 

「ほら、笑うだけでもしんどそうじゃん」

「笑う自由くらい、許していただきたいものです」

「自由って便利な言葉だよね」

 

神室は窓の外を見る。

 

「でもさ、あんたが倒れると、こっちは普通に困るんだけど」

 

坂柳は目を開けた。

 

「困る?」

「そりゃそうでしょ。あんたがいないとAクラス、面倒なことになるし」

「それは戦力として、という意味ですか?」

「それもあるけど」

 

神室は少し言葉を濁した。

 

「……普通に、嫌でしょ。知ってる人が目の前で倒れるの」

 

坂柳は何も言えなかった。

 

その言葉はあまりにも単純で、だからこそ防ぎようがなかった。

 

自分が倒れることは、自分だけの問題ではない。

 

そんな当たり前のことを、坂柳はあまり考えてこなかった。

 

午後になる頃には、心拍は落ち着いていた。

 

だが医療スタッフからは、その日の授業復帰を止められた。

 

「念のため、今日は寮で休んでください」

「学業に遅れます」

「あなたが一日休んだ程度で遅れるとは思えません」

「随分と評価してくださるのですね」

「事実を言っただけです」

 

坂柳は反論を諦めた。

 

保健室を出ると、廊下の先に綾小路が立っていた。

彼は壁にもたれるでもなく、ただそこにいた。

まるで最初からそこに配置されていた駒のように自然だった。

 

「また偶然ですか?」

「今日は違う」

「正直ですね」

「真嶋先生に様子を見てこいと言われた」

「それはそれで、あなたらしいです」

 

二人は並んで廊下を歩き始めた。

 

坂柳の歩幅は遅い。

 

綾小路は何も言わず、その速度に合わせていた。

 

「聞きましたか?」

「何を」

「私の脈が乱れているという話です」

「少しだけ」

「少しだけ、ですか」

 

坂柳は苦笑する。

 

「便利な表現ですね」

「全部聞いたと言えば怒るだろ」

「ええ、怒ります」

「なら少しだけだ」

 

坂柳は思わず笑いそうになった。

 

だが胸に響くので、すぐに表情を整える。

 

「医療スタッフの方に言われました。

私は身体を敵として扱うことには慣れているけれど、

身体と付き合うことには慣れていないと」

「正しいな」

「少しは否定してくださいませんか?」

「否定する理由がない」

 

坂柳は杖をつきながら歩く。

 

カツン。

 

カツン。

 

その音が廊下に響く。

 

以前なら、この音は自分の弱さの証明だった。

 

だが今は少し違って聞こえる。

 

まだ進めるという確認音のようでもあった。

 

「綾小路くん」

「なんだ」

「私は、どうすればいいと思います?」

 

その問いは、坂柳らしくないものだった。

 

自分で答えを出すのが坂柳有栖だった。

 

他人へ判断を委ねるなど、普段なら考えられない。

 

だが今だけは、誰かに聞きたかった。

 

綾小路は少し沈黙した。

 

そして言った。

 

「まずは、自分がどれだけ歩けるか知ればいい」

「医療スタッフの方と同じことを言いますね」

「それが必要なんだろ」

「つまらない答えです」

「でも多分、一番難しい」

 

坂柳は足を止めた。

 

綾小路も止まる。

 

廊下の窓から、グラウンドが見えた。

 

生徒たちが走っている。

 

遠くで須藤の大きな声が聞こえた。

 

ボールの音。

 

足音。

 

笑い声。

 

坂柳はその光景を見つめた。

 

「限界を知る、ですか」

「そうだな」

「それは、敗北を認めることではありませんか?」

「違う」

 

綾小路は即答した。

 

「限界を知らない奴は、勝負の仕方も分からない」

 

坂柳は黙った。

 

それは、彼らしい言葉だった。

 

勝利のために必要だから、限界を知る。

 

感情ではなく、戦略として身体を理解する。

 

その考え方なら、坂柳にも受け入れられるかもしれなかった。

 

寮へ戻る道すがら、坂柳はいつもよりゆっくり歩いた。

今までは、遅さを隠すために平然とした顔を作っていた。

 

だが今日は違う。

 

歩く速度。

 

呼吸の乱れ。

 

胸の重さ。

 

足の震え。

 

その全てを観察する。

 

まるで敵クラスの動きを読む時のように。

 

まるで試験のルールを解析する時のように。

 

自分の身体を、初めて真正面から分析する。

 

寮の前に着いた時、坂柳はわずかに息を吐いた。

 

疲れていた。

 

だが倒れてはいなかった。

 

「今日はここまでですね」

「そうだな」

「明日は、もう少しだけ歩いてみます」

「無理のない範囲でな」

「あなたに心配される日が来るとは思いませんでした」

「心配というより、観察だ」

「最低ですね」

 

坂柳はそう言いながら、少しだけ笑った。

その笑みは、いつもの余裕を装うものではなかった。

疲労の中にある、小さな納得のような笑みだった。

 

部屋へ戻った坂柳は、机の上に一冊のノートを置いた。

 

新しいノートだった。

表紙には何も書かれていない。

彼女はペンを取り、最初のページを開いた。

 

そして、ゆっくりと文字を書く。

 

歩行記録。

日付。

時間。

歩いた距離。

呼吸の乱れ。

心拍の違和感。

疲労度。

備考。

 

まるで特別試験の分析表のようだった。

だがこれは、他人を攻略するための記録ではない。

自分自身を知るための記録だった。

 

坂柳はペンを止める。

 

窓の外では、夕方の光が少しずつ薄れていた。

グラウンドからはまだ生徒たちの声が聞こえる。

 

彼女は静かに胸へ手を当てた。

 

脈はまだ少し速い。

 

不安定で、頼りなく、腹立たしいほど正直な音。

けれどそれは、確かに自分が生きている音でもあった。

 

坂柳は目を閉じる。

 

そして小さく呟いた。

 

「まずは、あなたのことを知るところから始めましょうか」

 

それは自分の心臓へ向けた言葉だった。

 

敵ではなく。

 

欠陥でもなく。

 

これから共に歩くしかない、自分自身の一部へ向けた、初めての挨拶だった。




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