翌朝、坂柳有栖はいつもより早く目を覚ました。
寮の部屋には、まだ朝の光が薄く差し込んでいるだけで、
窓の外に見える校舎も、グラウンドも、並木道も、
夜の名残をわずかに残した静けさの中に沈んでいた。
身体を起こす。
その瞬間、胸の奥に小さな違和感が走った。
痛みではない。
苦しさでもない。
ただ、心臓の拍動が普段よりわずかに荒く、
まるで自分の身体の奥に知らない誰かが住み着いて、
勝手に扉を叩いているような感覚だった。
坂柳はベッドの上でしばらく動かず、自分の呼吸を数えた。
吸う。
吐く。
また吸う。
その一つ一つを意識しなければならない時点で、
今日の身体が万全ではないことは分かっていた。
昨日の非常階段。
たった数段。
普通の生徒なら、意識すらせずに通り過ぎる場所。
それだけの挑戦が、坂柳の身体には確実な負担として残っていた。
「……本当に、面倒な身体です」
自嘲気味に呟く。
けれど、その言葉には以前ほどの諦めだけではなかった。
昨日の綾小路の言葉が、まだ耳に残っている。
――でも、お前は昨日まで登ろうともしなかった。
そう。
昨日までの自分は、登ろうともしなかった。
自分には無理だと、最初から盤面の外に置いていた。
身体で戦う前に、頭で諦めていた。
だからこそ、胸の違和感すらも、ただの不快感ではなく、
初めて前へ進もうとした代償のように思えた。
坂柳はゆっくりとベッドから足を下ろした。
床に足裏が触れる。
冷たい。
その冷たさが、妙に現実的だった。
杖へ手を伸ばす。
いつもの重さ。
いつもの形。
いつもの音。
カツン、と床を軽く叩いた瞬間、今日もまた自分はこの音と共に歩くのだと理解する。
◯
昼食の場では、Aクラスの生徒たちがいつも通りの会話をしていた。
試験の噂。
授業の話。
部活動の話。
誰が誰と親しくなったかという取るに足らない話題。
坂柳が食堂へ入ると、その空気が一瞬だけ整う。
クラスの中心人物が来た時の、無言の緊張と敬意。
それは坂柳にとって慣れたものだった。
「あんたも来たのね、坂柳」
神室真澄が、いつものように少し気だるげな顔で声をかける。
「ええ、ここのご飯は美味しいですから」
坂柳は穏やかに返す。
席に着き、食事へ手を伸ばす。
しかし、箸を持つ指先にわずかな震えがあった。
自分では隠しているつもりだった。
だが神室は、それを見逃さなかった。
「……あんた、今日顔色悪くない?」
「いつものことです」
「そういう返し、便利だよね」
神室はため息をつく。
「昨日も無茶したんじゃないの?」
坂柳は一瞬だけ箸を止めた。
「誰から聞きました?」
「誰からも何も。あんたが無茶しそうな顔してるだけ」
坂柳は小さく笑った。
「随分と鋭くなりましたね」
「鋭くなくても分かるっての。
病院行った翌日に平気そうな顔してる方がおかしいでしょ」
神室の言葉は乱暴だったが、そこには確かな心配があった。
坂柳はその心配を受け取ることが、少し苦手だった。
心配されることは、弱さを認められることに近い。
だが拒絶しすぎれば、相手の善意まで否定してしまう。
「大丈夫です。今日は無理をするつもりはありません」
「その言葉、信用できないんだけど」
「信用してくださらなくても結構です」
「本当に面倒な人」
神室は呆れたように言いながらも、それ以上追及しなかった。
その距離感が、今の坂柳にはありがたかった。
午後の授業は問題なく進んだ。
少なくとも、表面上は。
坂柳はいつものように教師の説明を聞き、
必要な箇所だけをノートに記し、周囲の生徒たちの反応を観察していた。
だが5限目の途中から、胸の奥に再び違和感が戻ってきた。
最初は小さな乱れだった。
規則正しく鳴っていた時計の針が、一瞬だけ飛ぶような感覚。
次に、呼吸が浅くなる。
そして、耳の奥で自分の脈が大きく響き始める。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
教室の音が遠くなっていく。
教師の声が、薄いガラスの向こう側から聞こえるように歪む。
坂柳は背筋を伸ばしたまま、表情を変えなかった。
変えてはいけない。
Aクラスの坂柳有栖が、授業中に苦しそうな顔を見せるわけにはいかない。
けれど、身体はそんな意地を知らない。
指先が冷える。
額に薄い汗が滲む。
胸の奥が、まるで不規則に締めつけられるようだった。
「坂柳さん?」
隣の生徒が小さく声をかける。
坂柳は微笑もうとした。
しかし、その微笑が完成する前に、視界の端が暗く染まった。
机の縁を掴む。
椅子が小さく音を立てる。
教室中の視線が一斉に集まった。
「坂柳?」
教師の声が聞こえる。
その直後、教室の扉が開いた。
誰かが廊下から入ってくる。
真嶋だった。
「授業を中断する。坂柳、保健室へ」
その判断は異常なほど早かった。
まるで、あらかじめこうなることを予期していたかのように。
坂柳は息を整えながら顔を上げた。
「……大袈裟です」
「歩けるか」
真嶋は反論を受けつけなかった。
その声を聞いて、坂柳は悟った。
今ここで拒否しても意味がない。
立ち上がる。
杖をつく。
だが足元が揺れた。
その瞬間、神室が立ち上がって彼女の腕を支えた。
「ほら、言わんこっちゃない」
「……余計なお世話です」
「はいはい。そういうのは歩ける人が言って」
坂柳は反論しようとしたが、呼吸が乱れて言葉にならなかった。
そのまま真嶋と神室に付き添われ、保健室へ向かう。
廊下を歩く間、他クラスの生徒たちがこちらを見る。
視線。
囁き。
心配。
好奇心。
同情。
坂柳はその全てが嫌だった。
自分という存在が、また「病弱な少女」という一つの属性に還元されていく。
どれほど知略を尽くしても、どれほど勝利を重ねても、
倒れれば一瞬で身体の弱さに引き戻される。
それが悔しかった。
保健室に入ると、養護教諭だけでなく、
昨日の病院から派遣されたらしい医療スタッフが待っていた。
白衣の女性。
年齢は三十代ほど。
落ち着いた目をしている。
「坂柳さんですね。心拍確認をします」
「ずいぶん準備がよろしいのですね」
「あなたの今日の状態は、想定範囲内です」
その言葉に、坂柳は眉を動かした。
「想定範囲内?」
「昨日、階段を使いましたね」
室内の空気が止まった。
神室が目を丸くする。
真嶋は黙っている。
坂柳は医療スタッフを見た。
「監視でもされていました?」
「あなたの行動記録は学校側から共有されています。
もちろん、医療管理上必要な範囲です」
「便利な言葉ですね、必要な範囲」
坂柳の声には皮肉が混じっていた。
だが女性スタッフは動じなかった。
「不快に思うのは当然です。
ただ、あなたの場合、小さな負荷でも翌日に影響が出ることがあります。
昨日の階段訓練は、今の身体には過剰でした」
「訓練と呼べるほどのものではありません」
「あなたにとっては訓練です」
その断定に、坂柳は言葉を失った。
女性スタッフは心拍計を装着し、数値を確認する。
機械の電子音が、保健室の静けさの中で規則正しく鳴り始めた。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
その音は、自分の内側を外へ引きずり出されているようで不快だった。
坂柳は天井を見上げる。
また白い天井。
また医療の匂い。
また数字。
また管理。
「脈が乱れています」
女性スタッフが静かに言った。
「現時点で危険な状態ではありませんが、無視していい状態でもありません」
神室が小さく息を呑む。
坂柳は目だけを動かす。
「具体的には?」
「あなたの心臓は、普通の人より余裕が少ない状態です。
だから身体に負荷がかかった時、回復まで時間がかかります。
昨日の階段のような行為でも、翌日に疲労や不整脈が出ることがあります」
「では、何もするなと?」
その声には、思った以上に苛立ちが混じっていた。
坂柳自身もそれに気づく。
女性スタッフは首を振った。
「違います。何もしなければ、あなたの身体は変わりません。
ただし、感情で負荷を上げてはいけないということです」
感情。
その言葉が胸に刺さる。
昨日の階段は、確かに計画的なものではなかった。
綾小路の言葉。
病院で聞いた可能性。
自分の中に生まれた小さな希望。
それらに押されて、衝動的に上っただけだった。
「リハビリには順序があります」
女性スタッフは続ける。
「まずは歩行時間の記録。心拍の変化。休息のタイミング。
階段ではなく平地。距離ではなく安定性。努力ではなく継続。
あなたが今しなければならないのは、限界を超えることではありません。
限界を正確に知ることです」
坂柳は黙った。
限界を知る。
それは、彼女が最も嫌ってきた行為だった。
限界など認めたくなかった。
自分の身体に上限があると認めるくらいなら、
頭脳で全てを塗り替えた方が楽だった。
だが今、自分が進もうとしている道は、
その限界から目を逸らすことを許してくれない。
「治療を受けるかどうかは、まだ決まっていないと聞いています」
女性スタッフは坂柳を見る。
「ただ、どちらを選ぶにしても、あなたは自分の身体を知らなければなりません」
「知っています。嫌というほど」
坂柳は静かに返した。
だが女性スタッフは、穏やかに首を振った。
「いいえ。あなたは身体を敵として扱うことには慣れています。
でも、身体と付き合うことには慣れていません」
その言葉は、あまりにも正しかった。
坂柳は目を閉じた。
身体は敵だった。
自分を縛るもの。
足を止めるもの。
他人に弱者だと思わせるもの。
けれど、もし治る可能性があるのなら。
もしこの身体と共に、これから先を生きていくのなら。
敵のままではいられない。
「……嫌なことを言う方ですね」
「よく言われます」
女性スタッフは少しだけ笑った。
保健室のベッドで休んでいる間、神室はしばらく隣にいた。
普段ならすぐにどこかへ行きそうな彼女が、
今日は妙に落ち着かない様子で椅子に座っている。
「授業に戻って構いませんよ」
「戻れって言われると戻りたくなくなる」
「あなたは本当に扱いづらいですね」
「それ、あんたにだけは言われたくない」
坂柳は小さく笑った。
その笑いで少し呼吸が乱れた。
神室はすぐに顔をしかめる。
「ほら、笑うだけでもしんどそうじゃん」
「笑う自由くらい、許していただきたいものです」
「自由って便利な言葉だよね」
神室は窓の外を見る。
「でもさ、あんたが倒れると、こっちは普通に困るんだけど」
坂柳は目を開けた。
「困る?」
「そりゃそうでしょ。あんたがいないとAクラス、面倒なことになるし」
「それは戦力として、という意味ですか?」
「それもあるけど」
神室は少し言葉を濁した。
「……普通に、嫌でしょ。知ってる人が目の前で倒れるの」
坂柳は何も言えなかった。
その言葉はあまりにも単純で、だからこそ防ぎようがなかった。
自分が倒れることは、自分だけの問題ではない。
そんな当たり前のことを、坂柳はあまり考えてこなかった。
午後になる頃には、心拍は落ち着いていた。
だが医療スタッフからは、その日の授業復帰を止められた。
「念のため、今日は寮で休んでください」
「学業に遅れます」
「あなたが一日休んだ程度で遅れるとは思えません」
「随分と評価してくださるのですね」
「事実を言っただけです」
坂柳は反論を諦めた。
保健室を出ると、廊下の先に綾小路が立っていた。
彼は壁にもたれるでもなく、ただそこにいた。
まるで最初からそこに配置されていた駒のように自然だった。
「また偶然ですか?」
「今日は違う」
「正直ですね」
「真嶋先生に様子を見てこいと言われた」
「それはそれで、あなたらしいです」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
坂柳の歩幅は遅い。
綾小路は何も言わず、その速度に合わせていた。
「聞きましたか?」
「何を」
「私の脈が乱れているという話です」
「少しだけ」
「少しだけ、ですか」
坂柳は苦笑する。
「便利な表現ですね」
「全部聞いたと言えば怒るだろ」
「ええ、怒ります」
「なら少しだけだ」
坂柳は思わず笑いそうになった。
だが胸に響くので、すぐに表情を整える。
「医療スタッフの方に言われました。
私は身体を敵として扱うことには慣れているけれど、
身体と付き合うことには慣れていないと」
「正しいな」
「少しは否定してくださいませんか?」
「否定する理由がない」
坂柳は杖をつきながら歩く。
カツン。
カツン。
その音が廊下に響く。
以前なら、この音は自分の弱さの証明だった。
だが今は少し違って聞こえる。
まだ進めるという確認音のようでもあった。
「綾小路くん」
「なんだ」
「私は、どうすればいいと思います?」
その問いは、坂柳らしくないものだった。
自分で答えを出すのが坂柳有栖だった。
他人へ判断を委ねるなど、普段なら考えられない。
だが今だけは、誰かに聞きたかった。
綾小路は少し沈黙した。
そして言った。
「まずは、自分がどれだけ歩けるか知ればいい」
「医療スタッフの方と同じことを言いますね」
「それが必要なんだろ」
「つまらない答えです」
「でも多分、一番難しい」
坂柳は足を止めた。
綾小路も止まる。
廊下の窓から、グラウンドが見えた。
生徒たちが走っている。
遠くで須藤の大きな声が聞こえた。
ボールの音。
足音。
笑い声。
坂柳はその光景を見つめた。
「限界を知る、ですか」
「そうだな」
「それは、敗北を認めることではありませんか?」
「違う」
綾小路は即答した。
「限界を知らない奴は、勝負の仕方も分からない」
坂柳は黙った。
それは、彼らしい言葉だった。
勝利のために必要だから、限界を知る。
感情ではなく、戦略として身体を理解する。
その考え方なら、坂柳にも受け入れられるかもしれなかった。
寮へ戻る道すがら、坂柳はいつもよりゆっくり歩いた。
今までは、遅さを隠すために平然とした顔を作っていた。
だが今日は違う。
歩く速度。
呼吸の乱れ。
胸の重さ。
足の震え。
その全てを観察する。
まるで敵クラスの動きを読む時のように。
まるで試験のルールを解析する時のように。
自分の身体を、初めて真正面から分析する。
寮の前に着いた時、坂柳はわずかに息を吐いた。
疲れていた。
だが倒れてはいなかった。
「今日はここまでですね」
「そうだな」
「明日は、もう少しだけ歩いてみます」
「無理のない範囲でな」
「あなたに心配される日が来るとは思いませんでした」
「心配というより、観察だ」
「最低ですね」
坂柳はそう言いながら、少しだけ笑った。
その笑みは、いつもの余裕を装うものではなかった。
疲労の中にある、小さな納得のような笑みだった。
部屋へ戻った坂柳は、机の上に一冊のノートを置いた。
新しいノートだった。
表紙には何も書かれていない。
彼女はペンを取り、最初のページを開いた。
そして、ゆっくりと文字を書く。
歩行記録。
日付。
時間。
歩いた距離。
呼吸の乱れ。
心拍の違和感。
疲労度。
備考。
まるで特別試験の分析表のようだった。
だがこれは、他人を攻略するための記録ではない。
自分自身を知るための記録だった。
坂柳はペンを止める。
窓の外では、夕方の光が少しずつ薄れていた。
グラウンドからはまだ生徒たちの声が聞こえる。
彼女は静かに胸へ手を当てた。
脈はまだ少し速い。
不安定で、頼りなく、腹立たしいほど正直な音。
けれどそれは、確かに自分が生きている音でもあった。
坂柳は目を閉じる。
そして小さく呟いた。
「まずは、あなたのことを知るところから始めましょうか」
それは自分の心臓へ向けた言葉だった。
敵ではなく。
欠陥でもなく。
これから共に歩くしかない、自分自身の一部へ向けた、初めての挨拶だった。
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