坂柳有栖が杖を置く日   作:EXTERMINATION

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第四話 普通

高度育成高等学校の朝は、今日も変わらず整然としていた。

空は青く、雲は薄く、校舎のガラス窓には柔らかな朝日が反射している。

まるで世界そのものが「異常」を拒絶しているかのような、

あまりにも完成された景色だった。

 

だが坂柳有栖は、その完璧な世界の中で、

自分だけが微妙に異物なのだと感じていた。

 

杖の音が鳴る。

 

カツン。

 

カツン。

 

以前なら耳障りだったその音を、最近の坂柳は少しだけ違う感覚で聞いていた。

 

それは「遅れている」という証明ではなく、

「まだ歩けている」という確認音に近づきつつあった。

 

寮から校舎へ向かう道。

朝の生徒たちが次々と彼女を追い抜いていく。

 

早足の者。

走る者。

友人と並んで笑う者。

 

誰もが自分の身体を当然のように使っている。

その当たり前が、坂柳には時々ひどく眩しかった。

 

――普通。

 

最近、その言葉ばかりが頭に浮かぶ。

 

普通に歩く。

 

普通に走る。

 

普通に疲れる。

 

普通に息を切らす。

 

そんな些細なことが、自分にはずっと許されてこなかった。

 

そして今、自分はその「普通」を欲し始めている。

 

その事実が、坂柳自身を最も戸惑わせていた。

 

教室へ入ると、Aクラスの生徒たちが自然に道を空ける。

 

その中心を杖をつきながら歩く自分の姿を、坂柳はふと客観的に想像した。

 

奇妙な光景だった。

 

病弱な少女。

 

だが同時に、クラスの支配者。

 

弱者でありながら、頂点に立つ存在。

 

その歪さこそが、坂柳有栖という人間を成立させていた。

 

「おはようございます、坂柳さん」

「ええ、おはようございます」

 

いつもの挨拶。

 

いつもの微笑。

 

いつもの日常。

 

けれど坂柳は知っている。

 

最近、自分の中で何かが静かに変わり始めていることを。

 

 

授業が始まる。

 

教師の声が教室に響く。

坂柳はノートを取りながら、時折無意識に自分の呼吸を確認していた。

 

歩行記録を始めてから、自分の身体への意識が変わった。

 

以前は無視していた疲労。

誤魔化していた動悸。

考えないようにしていた限界。

 

それらを今は、一つ一つ観察している。

 

まるで未知の試験を解析するように。

 

その時だった。

 

「坂柳」

 

教師が問題を出す。

坂柳は即座に答えた。

 

正確で、簡潔で、無駄のない回答。

 

教室が静まる。

教師が頷く。

 

「さすがだな」

 

いつも通りの反応だった。

だが坂柳は、その瞬間ふと思ってしまった。

 

もし自分が健康だったら。

もし杖を持たず、普通に歩き、普通に運動できる身体だったら。

自分は今でも、ここまで頭脳へ執着していただろうか。

その考えは、彼女の胸に小さな棘のように刺さった。

 

昼休み。

 

坂柳は一人で図書室へ向かっていた。

 

静かな場所が欲しかった。

 

最近は特に、周囲の視線が少し疲れる。

 

心配。

気遣い。

期待。

観察。

 

それらが全て、自分の身体へ向けられているように感じる瞬間が増えていた。

 

図書室の扉を開ける。

紙の匂い。

静寂。

 

ページをめくる音。

 

この空間だけは、世界の速度が少し遅い。

 

坂柳はその空気を嫌いではなかった。

 

奥の席へ向かおうとした、その時だった。

 

「おや」

 

低く、よく通る声。

 

坂柳は足を止める。

 

窓際の席に、高円寺六助が座っていた。

 

相変わらずだった。

 

堂々としている。

 

他人の視線など存在しないかのような態度。

 

まるで世界そのものが自分を中心に回っていると本気で信じている人間の顔だった。

 

「君が図書室へ来るとは珍しいね、リトルガール」

「あなたほどではありません」

 

高円寺は楽しそうに笑った。

 

「最近、少し空気が変わったねぇ」

 

坂柳は表情を崩さない。

 

「何の話ですか?」

「君の話だよ」

 

高円寺は椅子へ深く座ったまま、坂柳を眺める。

その視線には好奇心があった。

だが龍園のような攻撃性でも、一之瀬のような優しさでもない。

もっと純粋な観察者の目だった。

 

「以前の君は、自分の弱さを完全に切り離していた」

 

坂柳は黙って聞く。

 

「だが今は違う。最近の君は、自分の身体を見ている」

「観察眼がおありですね」

「当然だろう?私は美しいものを見逃さない」

 

意味が分からないですね、と坂柳は内心で呟く。

 

だが高円寺は構わず続けた。

 

「ところで、一つ聞こうか」

「何です?」

「君は何になりたいんだい?」

 

坂柳は少し眉を動かした。

 

「随分と抽象的な質問ですね」

「抽象的だからこそ、本音が出る」

 

図書室の静けさが二人を包む。

遠くでページをめくる音だけが聞こえていた。

 

坂柳は静かに答える。

 

「特に何かになりたいと思ったことはありません。勝ち続けられれば、それで十分です」

「それは目的ではなく手段だ」

 

高円寺は即座に返した。

 

「勝って、その先に何がある?」

 

坂柳は答えなかった。

 

高円寺は笑う。

 

「分からない顔だ」

「あなた、失礼ですね」

「だが事実だろう?」

 

高円寺は頬杖をつきながら窓の外を見る。

 

グラウンドでは生徒たちが走っていた。

 

体育の授業らしい。

 

その光景を見ながら、高円寺は静かに言った。

 

「君は天才になりたいわけじゃない」

 

坂柳の呼吸がわずかに止まる。

 

「……何です?」

「君は、普通になりたいだけだ」

 

その瞬間。

 

世界が静止したように感じた。

 

図書室の音が遠ざかる。

 

呼吸が浅くなる。

 

胸の奥で、何かを真正面から掴まれた感覚があった。

 

坂柳はゆっくりと高円寺を見る。

 

高円寺は笑っていた。

 

だがその笑みには嘲笑がなかった。

 

ただ事実を見抜いた者の顔だった。

 

「違います」

 

坂柳は即座に否定した。

 

その否定は、思った以上に強かった。

 

周囲の数人が小さく顔を上げるほどに。

 

坂柳は息を整えた。

 

「私は別に、普通の人間になど興味ありません」

「ほう?」

「今さらグラウンドを走りたいとも、運動したいとも思いません」

「それも違う」

 

高円寺はあっさり言った。

 

「君は走りたいのではない。誰かと同じ速度で歩きたいのだよ」

 

坂柳の指先が止まった。

 

その言葉は、あまりにも正確だった。

 

走りたいわけではない。

 

勝ちたいわけでもない。

 

本当に欲しかったものは、もっと小さくて、もっと当たり前のものだった。

 

階段を途中で止まらずに上ること。

 

誰かと並んで歩くこと。

 

呼吸を気にせず笑うこと。

 

それだけだった。

 

「……分かったような口を利かないでください」

 

坂柳の声は、わずかに震えていた。

 

高円寺は笑う。

 

「分かるとも。なぜなら、人間は皆普通を欲しがる生き物だからだ」

「あなたが普通を語りますか?」

「私は特別だからね」

 

本当にこの人は何なんですの、と坂柳は思った。

 

だが否定できない。

 

高円寺の言葉は、妙に本質を突いてくる。

 

坂柳は窓の外を見る。

 

走っている生徒たち。

 

笑っている生徒たち。

 

疲れて座り込む生徒たち。

 

それは今まで、自分とは別世界の光景だった。

 

けれど最近、その世界へ手を伸ばしたいと思ってしまっている。

 

その時点で、もう以前の自分には戻れないのかもしれなかった。

 

「怖い顔をしているね」

 

高円寺が言った。

 

坂柳は視線を戻す。

 

「怖い?」

「自分の願望を認めるのが怖い顔だ」

 

坂柳は何も言えなかった。

 

高円寺は椅子から立ち上がる。

 

長い脚。

 

迷いのない動作。

 

健康な身体。

 

その全てが、坂柳には少し眩しかった。

 

高円寺は彼女の横を通り過ぎながら、静かに言った。

 

「だが安心したまえ」

「……何をです?」

「普通になりたがることは、敗北ではない」

 

そのまま高円寺は去っていく。

 

図書室の扉が閉まる。

 

静寂が戻る。

 

坂柳はしばらく動けなかった。

 

胸の奥が妙に苦しい。

 

だがそれは、発作の苦しさとは違った。

 

今まで見ないようにしていた感情を、無理やり引きずり出されたような感覚だった。

 

坂柳はゆっくりと席へ座る。

 

杖を机へ立てかける。

 

その杖を見つめながら、ふと思う。

 

もし本当に治ったら。

 

もし普通に歩けるようになったら。

 

自分は嬉しいのだろうか。

 

それとも怖いのだろうか。

 

答えはまだ分からない。

 

だが一つだけ、はっきりしていることがあった。

 

坂柳有栖は、もう以前のように「身体など不要ですわ」と言い切れなくなっていた。

 

 

放課後。

 

坂柳は再び校舎裏の非常階段へ向かっていた。

 

夕方の空気は少し冷たい。

 

だが今日は、昨日ほど恐怖が強くない。

 

高円寺の言葉が頭に残っていた。

 

――誰かと同じ速度で歩きたい。

 

認めたくない。

 

だが否定もできない。

 

坂柳は階段の前へ立つ。

 

杖をつく。

 

呼吸を整える。

 

そして一段目へ足を乗せた。

 

ゆっくり。

 

慎重に。

 

二段目。

 

三段目。

 

胸が少し苦しい。

 

だが昨日よりは安定している。

 

坂柳は手すりを握る。

 

夕日が階段を赤く染めていた。

 

その時だった。

 

「今日は倒れなさそうだな」

 

背後から声。

 

振り返らなくても分かる。

 

綾小路清隆だった。

 

「あなた、本当に毎回いますね」

「偶然だ」

「もう聞き飽きました」

 

綾小路は階段の下へ立ったまま、坂柳を見る。

 

その距離は変わらない。

 

助けすぎない。

 

だが支えられる位置にはいる。

 

最近の坂柳は、その距離に少し慣れ始めていた。

 

「綾小路くん」

「なんだ」

「もし、私が普通に歩けるようになったら」

 

坂柳は少しだけ迷ったあと、静かに続けた。

 

「私は、今の私ではなくなってしまうのでしょうか」

 

夕風が吹く。

 

長い沈黙。

 

綾小路はしばらく考えるように空を見た。

 

そして静かに言った。

 

「変わるだろうな」

 

坂柳は目を伏せる。

 

やはりそうなのだ。

 

だが綾小路は続けた。

 

「でも、それは悪いことじゃない」

 

坂柳は顔を上げた。

 

綾小路の表情はいつも通り薄い。

 

だが言葉だけは、妙に真っ直ぐだった。

 

「人は変わる。環境でも、傷でも、希望でも変わる。お前だけじゃない」

 

坂柳は静かに聞いていた。

 

「だから、お前が普通に近づいたとしても、それは坂柳有栖じゃなくなるって意味じゃない」

 

階段の途中で、坂柳はしばらく動かなかった。

 

胸の奥で何かが静かに揺れていた。

 

恐怖。

不安。

期待。

 

その全部が混ざり合っている。

 

けれど以前より少しだけ、その感情を受け入れられる気がした。

 

坂柳はもう一段、階段を上る。

 

呼吸が乱れる。

 

心臓が速くなる。

 

それでも彼女は立っていた。

 

夕日に照らされたその姿は、まだ弱々しい。

 

杖も必要だった。

 

歩幅も小さい。

 

だが確かに彼女は、自分の意思で前へ進んでいた。




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