坂柳有栖が杖を置く日   作:EXTERMINATION

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第五話 試験

その告知は、週明けの一限目が始まる直前に行われた。

 

教室の前方に設置されたモニターが突然起動し、

そこに表示された文字を見た瞬間、Aクラスの空気は静かに張り詰めた。

 

――適応特別試験。

 

その名称を見た坂柳有栖は、杖を握る指にわずかに力を込めた。

 

適応。

 

その言葉は、最近の彼女にとってあまりにも近すぎる言葉だった。

 

身体に適応する。

限界に適応する。

希望に適応する。

 

そして、いつか来るかもしれない未来に適応する。

 

真嶋が教壇に立ち、教室全体を見渡した。

 

「今回の特別試験は、学力や単純な身体能力を競うものではない」

 

その時点で、生徒たちの表情が少し変わった。

 

身体能力を競うものではない。

 

その一文に、坂柳へ向けられる視線がいくつか生まれた。

 

彼女はそれに気づいていたが、表情は変えなかった。

 

「試験内容は、校内および敷地内複数地点を巡る移動型課題だ」

 

モニターに地図が映し出される。

 

校舎。

図書館。

体育館。

特別棟。

ケヤキモール付近。

 

そして、屋外通路と階段。

 

「各クラスは指定されたチェックポイントを順に回り、

課題を解決しながら制限時間内の到達を目指す」

 

ざわめきが広がる。

 

「走ることは禁止。集団全員で移動する必要がある。

脱落者を出した場合、大幅減点となる」

 

その瞬間、教室の空気が明確に変わった。

 

全員で移動。

脱落者。

大幅減点。

 

その単語が、まるで刃物のように坂柳へ向けられる。

神室が横目で坂柳を見る。

橋本も、他の生徒も、一瞬だけ彼女を見た。

 

坂柳は笑っていた。

 

いつものように。

 

優雅に。

 

余裕を持って。

 

だが胸の奥では、心臓が一つ強く鳴っていた。

 

「この試験は、個人の突出した能力ではなく、集団としての対応力を測るものだ」

 

真嶋の声が続く。

 

「速さではなく、管理。強さではなく、継続。

個人の限界をどう把握し、全体でどう調整するかが問われる」

 

坂柳は、真嶋が一瞬だけ自分を見たことに気づいた。

 

やはりそうですか、と彼女は内心で呟く。

 

これは偶然ではない。

 

この試験は、明らかに自分を見ている。

 

坂柳有栖という、生まれつき身体に制限を抱えた生徒を、集団の中でどう扱うのか。

 

彼女自身が、自分の限界をどう受け入れるのか。

 

そして周囲が、彼女を戦力として扱うのか、荷物として扱うのか。

 

この学校は、そういう問いを平然と試験に変える。

 

「なお、医療班は全行程に待機する。危険と判断された場合は強制リタイアとなる」

 

強制リタイア。

 

その言葉を聞いた瞬間、坂柳の胸に冷たいものが落ちた。

 

リタイアすれば、クラスの失点。

 

進めば、身体への負担。

 

止まれば、弱者。

歩けば、危険。

 

あまりにも分かりやすい盤面だった。

 

授業後、Aクラスの生徒たちは自然に坂柳の周囲へ集まった。

誰も最初の一言を口にしない。

それがまた、坂柳には不快だった。

 

「皆さん、私に何か言いたいことがあるのではないですか?」

 

彼女がそう言うと、空気がわずかに動いた。

 

橋本が軽い調子で口を開く。

 

「いやー、まあ、今回の試験さ。移動型ってなると、ちょっと調整が必要かなって」

「調整とは?」

「ほら、姫様のペースに合わせる必要があるだろ?」

 

その言葉は悪意ではなかった。

むしろ当然の配慮だった。

 

だが坂柳の胸には、細い棘のように刺さった。

 

わたくしのペースに合わせる。

 

それはつまり、自分が全体の速度を落とすという意味だった。

 

「私としては、坂柳さんには本部役をお願いするのも手だと思います」

 

白石が言った。

 

「チェックポイントを回るのは他のメンバーで、坂柳さんは指示を出す側に回れば――」

「それは禁止事項ですね」

 

坂柳は静かに遮った。

 

白石が口を閉じる。

 

「ルールには、代表者だけの移動ではなく、

クラス指定メンバー全員での移動とありました。私だけを外すことはできません」

「でも、医療リスクがあるなら……」

「リスクがあるのは、私だけではありません」

 

坂柳は笑顔のまま言った。

 

「体力のない者、判断力のない者、焦って失敗する者、他人を見捨てる者。

試験における危険因子は、身体の弱さだけではありません」

 

教室が静まる。

その言葉に反論できる者はいなかった。

 

けれど坂柳自身は分かっていた。

 

これは論破ではない。

 

防衛だ。

 

自分が荷物として扱われる前に、言葉で盤面を制圧しただけ。

 

本当の問題は、何も解決していなかった。

 

昼休みになると、坂柳は廊下を歩いていた。

今日はいつもより視線が多い。

各クラスに同じ試験が告知されたのだろう。

誰もが、今回の試験と坂柳の身体を結びつけている。

その視線の中を歩くことは、階段を上るよりも疲れるように感じられた。

 

「随分と注目の的ね」

 

横から声がした。

 

堀北鈴音だった。

 

坂柳は足を止める。

 

「あなたまで見物ですか?」

「そんなつもりはないわ」

 

堀北は静かに言った。

 

「ただ、あなたがどうするのか気になっただけ」

「どうするも何も、参加します」

「本気で言っているの?」

「ええ」

 

堀北の表情が少し厳しくなる。

 

「あなたの身体で、移動型試験は危険よ」

「それは理解しています」

「理解している人間の返答には聞こえないわ」

 

坂柳は小さく笑う。

 

「あなたは本当に率直ですね」

「誤魔化しても意味がないから」

 

堀北は一歩近づく。

 

「あなたが参加すること自体を否定したいわけじゃない。

でも、無理をすればクラス全体に迷惑がかかる。

あなた自身も傷つく。それでも出る理由は何?」

 

坂柳はすぐには答えなかった。

 

廊下の向こうを、生徒たちが走らない程度の早足で移動していく。

 

普通の速度。

普通の呼吸。

普通の身体。

 

「理由ならあります」

 

坂柳は静かに言った。

 

「私が、私自身を荷物として扱いたくないからです」

 

堀北は黙った。

 

坂柳は続ける。

 

「誰かに背負われるためにこの学校へ来たわけではありません。

守られるためにAクラスを率いてきたわけでもありません。

私が参加しないという選択は、戦略的には正しいかもしれませんが、

それを選んだ瞬間、私は自分で自分を盤面の外へ置くことになります」

「それは意地よ」

「ええ」

 

坂柳は否定しなかった。

 

「ですが、人間は時に意地でしか進めないこともあります」

 

堀北はしばらく彼女を見つめていた。

 

やがて小さく息を吐く。

 

「なら、せめて準備をしなさい」

「そのつもりです」

「あなた一人の問題ではないのだから」

 

その言葉に、坂柳は少しだけ目を伏せた。

 

あなた一人の問題ではない。

 

前に神室が言った言葉と同じだった。

 

自分が倒れれば、誰かが困る。

自分が進めば、誰かが合わせる。

自分の身体は、自分だけのものではなくなりつつある。

 

それが少し重く、同時に少しだけ温かかった。

 

 

放課後、試験説明会が特別棟の講堂で行われた。

各クラスの代表格が集まり、南雲雅が壇上に立っていた。

彼の表情はいつものように自信に満ちている。

まるで、この学校そのものを自分の遊び場だと信じて疑わない顔だった。

 

「今回の適応特別試験は、単なる移動試験じゃない」

 

南雲の声が講堂に響く。

 

「能力のある者が無能を切り捨てるのは簡単だ。

だが本当に強い集団は、弱点を抱えたまま勝つ方法を知っている」

 

その言葉に、何人かの視線が坂柳へ向いた。

 

南雲もまた、それを分かった上で言っている。

 

坂柳は微笑を崩さなかった。

 

「速く進むだけなら猿でもできる。

大事なのは、誰を中心に速度を組み立て、どこで休ませ、どこで勝負をかけるかだ」

 

南雲は楽しそうに続ける。

 

「つまり今回は、クラスの弱点がそのまま試験の中心になる」

 

弱点。

 

その言葉が、講堂の空気に落ちる。

坂柳の胸の奥で、心臓が一度だけ強く鳴った。

 

隣にいた龍園が、低く笑った。

 

「露骨だな」

「ええ。品性に欠けますね」

「だが面白ぇ」

 

龍園は坂柳を横目で見る。

 

「どうする、病弱なお姫様。降りるなら今だぜ」

 

坂柳はゆっくりと彼を見る。

 

「あなたこそ、私を弱点と決めつけてよろしいのですか?」

「違うのか?」

「弱点は、使い方次第で罠にもなります」

 

龍園は一瞬黙り、それから口角を上げた。

 

「いいねぇ。その面が見たかった」

 

その後方では、一之瀬が心配そうに坂柳を見ていた。

 

視線が合う。

 

一之瀬は何か言いたそうだったが、ここでは言葉を飲み込んだ。

 

坂柳はそれに小さく頷く。

 

心配してくれる者。

煽る者。

試す者。

利用する者。

 

今回の試験は、坂柳有栖という存在を中心に、

それぞれの思惑を露わにし始めていた。

 

説明会が終わった後、坂柳は講堂の出口で南雲に呼び止められた。

 

「坂柳」

「何かご用ですか、生徒会長」

 

南雲は爽やかに笑っている。

 

だがその目の奥には、明らかな観察欲があった。

 

「今回の試験、君には少し酷かもしれないな」

「そう思うなら、なぜ採用しました?」

「さあね。学校の方針だよ」

「あなたもその一部でしょうに」

 

南雲は笑った。

 

「でも興味はある」

「何にです?」

「君みたいな人間が、自分の弱さを集団の前でどう扱うのか」

 

坂柳は静かに彼を見た。

 

「悪趣味ですね」

「この学校に今さら何を言ってるんだ?」

 

南雲は軽く肩をすくめる。

 

「強い奴が勝つのは当たり前だ。

でも、弱点を抱えた奴がそれでも勝ちに来るなら、それは少し面白い」

 

坂柳は杖を握り直す。

 

「ご期待に添えるかは分かりません」

「期待してるよ」

 

南雲はそう言って去っていった。

その背中を見送りながら、坂柳は思う。

 

やはり、この試験はただの学校行事ではない。

 

自分を試すための舞台。

 

いや、自分だけではない。

 

クラス全員が、自分という存在をどう扱うのかを試されている。

 

 

夕方。

 

坂柳は校舎裏ではなく、グラウンド脇の外周路にいた。

医療スタッフの許可を得た、平地での歩行訓練。

 

距離は短い。

速度も遅い。

休憩地点も決められている。

 

まるで幼い子供の散歩のような計画だった。

 

だがそれでも、坂柳にとっては正式な訓練だった。

 

神室が記録係として横に立っている。

 

「時間、測るよ」

「お願いします」

「本当にやるんだね」

「今さらです」

 

坂柳は一歩を踏み出す。

 

カツン。

 

杖の音。

 

もう一歩。

 

カツン。

 

グラウンドでは、須藤たちが練習をしていた。

 

大きな声。

 

走る音。

 

ボールの跳ねる音。

 

その全てを横目に、坂柳はゆっくり歩いた。

 

10メートル。

 

15メートル。

 

20メートル。

 

心拍が上がる。

 

呼吸が少し浅くなる。

 

だが止まらない。

 

以前なら、この程度で何をしているのだと自分を嘲笑したかもしれない。

 

だが今は違う。

 

これは自分の身体を知るための試験。

 

自分の限界を、敗北ではなく情報として手に入れるための行為。

 

「25メートル」

 

神室が言う。

 

坂柳は頷く。

 

「まだ行けます」

「無理しないでよ」

「分かっています」

 

その時、遠くから声が飛んできた。

 

「坂柳!」

 

須藤だった。

 

彼は練習の手を止め、少し驚いたような顔でこちらを見ている。

 

「何してんだ?」

「見れば分かるでしょう。歩いています」

「いや、それは分かるけどよ……」

 

須藤は頭をかく。

 

彼は不器用だった。

心配をどう言葉にすればいいか分からないのだろう。

やがて彼は、妙に真剣な顔で言った。

 

「ゆっくりでも、続けりゃ体力はつくと思うぜ」

 

坂柳は少し意外そうに彼を見る。

 

「経験者の助言ですか?」

「ああ。俺だって最初から全部できたわけじゃねえし」

 

須藤は少し照れたように顔を逸らした。

 

「まあ、無理して怪我したら意味ねえけどな」

 

その言葉は単純だった。

だが、単純だからこそ悪くなかった。

 

坂柳は小さく微笑む。

 

「参考にします」

 

さらに歩く。

 

30メートル。

 

35メートル。

 

胸が少し苦しくなる。

 

坂柳は立ち止まった。

 

「休憩します」

 

その言葉を自分から言えたことに、彼女自身が少し驚いた。

 

以前なら意地でも進んだ。

 

倒れるまで進んだ。

 

だが今日は違う。

 

限界を知ること。

 

限界の前で止まること。

 

それもまた、前へ進むための技術だと理解し始めていた。

 

ベンチに腰を下ろす。

 

神室が記録する。

 

「35メートル。呼吸やや乱れ。自力で休憩判断」

「最後の言葉は必要ですか?」

「必要でしょ。今日は賢かったって記録」

「失礼ですね」

 

坂柳はそう言いながら、少しだけ笑った。

 

その時、背後から静かな足音が近づいてきた。

 

綾小路だった。

 

「順調そうだな」

「見ていたのですか?」

「少しだけ」

「あなたの少しだけは信用できません」

 

綾小路はベンチの横に立つ。

グラウンドの夕日が、彼の無表情な横顔を淡く染めていた。

 

「試験、参加するんだな」

「ええ」

「怖くないのか」

 

坂柳はすぐには答えなかった。

 

グラウンドの向こうで、須藤が再び走り始める。

健康な身体が地面を蹴る音が、夕方の空に響いていた。

 

「怖いです」

 

坂柳は正直に言った。

 

「倒れるのも、迷惑をかけるのも、失敗して失望されるのも怖い。

けれど、それ以上に怖いことがあります」

「何だ」

「ここで逃げたら、私は一生、自分の身体を理由に

自分を盤面の外へ置き続ける気がしますから」

 

綾小路は何も言わなかった。

 

坂柳は続ける。

 

「だから参加します。勝つためだけではなく、自分がどこまで歩けるのかを知るために」

 

風が吹く。

 

杖がベンチに立てかけられ、小さく揺れた。

 

綾小路はその杖を一瞬見てから、坂柳へ視線を戻した。

 

「なら、作戦が必要だな」

「ええ」

 

坂柳は微笑む。

 

その笑みには、少しだけ以前の彼女らしい鋭さが戻っていた。

 

「私を弱点だと思わせたまま、勝ちに行きます」

 

その夜。

 

坂柳は自室で歩行記録ノートを開いた。

 

35メートル。

休憩一回。

心拍上昇。

呼吸乱れ軽度。

自力判断で停止。

 

その記録は、誰が見ても小さなものだった。

 

だが坂柳にとっては、確かな進歩だった。

 

そして次のページに、彼女は新しい項目を書き加えた。

 

適応特別試験。

目標。

完走。

脱落しないこと。

クラスの足枷にならないこと。

 

そして最後に、少しだけ迷ってからもう一行を書いた。

 

――自分の足で、最後まで歩くこと。

 

ペン先が止まる。

 

窓の外には夜の校舎が見えた。

その闇の中に、これから始まる試験の輪郭がぼんやりと浮かんでいるようだった。

 

坂柳有栖は杖を見た。

 

まだ手放せない。

 

まだ必要だ。

 

けれど、いつか置く日が来るかもしれない。

 

その可能性を、今の彼女はもう完全には否定できなかった。




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