適応特別試験の朝、空は不自然なほど澄んでいた。
青く、明るく、湿度も低く、風も穏やかで、
まるでこの日だけは世界が生徒たちに都合よく整えられているかのようだった。
だが坂柳有栖にとって、その空の美しさは少し残酷でもあった。
天候が悪ければ言い訳ができた。
気温が高ければ、環境のせいにできた。
風が強ければ、体調を崩した理由を外へ置けた。
けれど今日の空は、あまりにも完璧だった。
失敗すれば、それはただ自分の身体の問題になる。
坂柳は寮の部屋で、静かに制服の袖を整えた。
机の上には歩行記録ノートが開かれている。
この数日間、彼女は自分の身体を数字に変換し続けてきた。
歩行距離。
休憩回数。
呼吸の乱れ。
心拍の違和感。
疲労度。
それはまるで、自分という不安定な存在を、
少しでも管理可能な情報へ変えようとする作業だった。
記録上、今の坂柳が安全に歩ける距離は連続でおよそ40メートル。
休憩を挟めばもう少し伸ばせる。
ただし階段、坂道、精神的緊張、気温差、
周囲の速度変化が加われば、数値は簡単に崩れる。
つまり、この試験は最初から危険だった。
それでも坂柳は参加する。
理由は、もう自分でも分かっていた。
勝つためだけではない。
Aクラスのためだけでもない。
自分が本当に歩きたいのか。
自分が本当に普通に近づきたいのか。
その答えを、誰かに与えられるのではなく、自分の足で確かめたかった。
「……行きましょうか」
杖を手に取る。
その重みは、いつもと同じだった。
だが今日は、その重さが少しだけ違う意味を持っている。
これは弱さの象徴であると同時に、自分がここまで歩いてきた証でもある。
坂柳は部屋を出た。
集合場所である中央広場には、すでに各クラスの生徒たちが集まっていた。
緊張。
ざわめき。
作戦確認。
軽口。
それぞれのクラスが、それぞれの空気をまとっている。
Aクラスの生徒たちは、坂柳を見ると自然に姿勢を正した。
橋本が手を振る。
「おはよう、姫様。体調は?」
「悪くありません」
「それ、良いって意味じゃないわよ」
神室が横から言う。
坂柳は微笑する。
「言葉の解釈はお任せします」
「ほんと面倒」
神室はそう言いながらも、手元の端末でルートを確認していた。
今回のAクラスの作戦は、坂柳を中心に組まれている。
速く移動できる者を先行させるのではなく、全体の速度を一定に保ち、
チェックポイントごとの課題を坂柳が指示して即座に処理する。
移動速度の遅れは、課題解決の速さで補う。
つまり坂柳は、身体的には最も弱いが、戦略上は最も外せない駒だった。
それが彼女の望んだ形でもあった。
守られるだけではない。
背負われるだけでもない。
遅いなら、遅いまま勝ち筋を作る。
弱点を消すのではなく、盤面の中心へ置き直す。
それが坂柳有栖の戦い方だった。
「無理だと判断したら止めるから」
神室が低い声で言った。
「あなたが?」
「医療班より先にね」
「頼もしいですね」
「冗談じゃないから」
その真剣さに、坂柳は少しだけ言葉を失った。
神室はいつも気だるげで、どこか距離を置いている。
だが今の彼女は、本気で坂柳の状態を見ている。
それが分かった。
「分かっています」
坂柳は静かに答えた。
「今日は、倒れる前に止まります」
その言葉が本当かどうか。
自分でもまだ分からなかった。
開始時刻が近づくと、南雲雅が壇上に立った。
相変わらず爽やかな笑みを浮かべている。
だがその視線は、競技開始前の選手ではなく、
実験開始前の観察対象を見る者のそれに近かった。
「これより、適応特別試験を開始する」
彼の声が広場に響く。
「今回問われるのは、単純な速さじゃない。
誰かが速すぎれば集団は崩れ、誰かが遅すぎれば全体が沈む。
大事なのは、自分たちの弱点を把握し、それを含めて勝ちに行くことだ」
弱点。
またその言葉。
坂柳は微笑を崩さなかった。
「各クラス、スタート地点へ」
号令と共に、生徒たちが動き出す。
Aクラスも隊列を整えた。
先頭に橋本と数名。
中央に坂柳。
その左右に神室と白石。
後方に補助要員。
まるで護衛される貴人のような配置だった。
以前の坂柳なら、その扱いを不快に思っただろう。
だが今日は違う。
これは配慮ではなく作戦。
自分が遅いことを前提に組まれた、勝つための陣形。
そう考えれば、まだ受け入れられる。
「開始」
電子音が鳴る。
試験が始まった。
最初の区間は中央広場から図書館前までの平地だった。
坂柳は一定の速度で歩き始める。
カツン。
カツン。
杖の音が、集団の足音の中に混じる。
周囲の生徒たちは彼女の速度に合わせていた。
普段なら苛立つほど遅い速度。
だが誰も文句を言わない。
その沈黙が、坂柳には少し痛かった。
10メートル。
20メートル。
30メートル。
呼吸は安定している。
胸の違和感もない。
いける。
そう思った。
第一チェックポイントの課題は、暗号解読だった。
他クラスが紙面と端末を見比べて戸惑う中、
坂柳は到着と同時に内容を確認し、ほとんど間を置かずに指示を出した。
「三段目の記号は時刻表ではなく、校舎番号を示しています。
右列の数字を逆順に並べ替えてください」
橋本が即座に入力する。
正解音。
Aクラスの生徒たちが小さく息を吐く。
移動の遅れを、課題処理速度で相殺する。
作戦通りだった。
「さすが」
神室が短く言う。
「当然です」
坂柳はそう返す。
だがその声には、少しだけ安堵が混じっていた。
自分はまだ役に立てる。
身体が遅くても、頭脳で補える。
その事実が、今は確かに支えになっていた。
第二区間は図書館から特別棟までの長い渡り廊下だった。
ここも平地。
風が通る。
遠くで別クラスの足音が聞こえる。
龍園クラスは少し離れた位置を進んでいた。
龍園がこちらを見て、口角を上げる。
「おいおい、散歩かよ」
「そちらこそ、ずいぶんと落ち着きがありませんね」
「こっちは足引っ張る奴がいねぇんだよ」
「そうでしょうか?」
坂柳は微笑する。
「あなたのクラスの場合、足より頭を引っ張る方が多そうですけれど」
龍園の周囲がざわつく。
龍園は一瞬だけ目を細め、それから笑った。
「言うじゃねぇか。倒れんなよ、坂柳」
その声には挑発があった。
だがほんのわずか、別の響きもあった。
倒れればつまらない。
最後まで来い。
そう言われているようでもあった。
第二チェックポイントの課題は、短時間記憶と配置推理だった。
坂柳はここでも即座に処理した。
正解。
Aクラスは順位を上げる。
周囲の生徒たちの空気が少し明るくなる。
いける。
このままいける。
その希望が、坂柳の胸にも小さく灯った。
だが第三区間に入った瞬間、その希望は少しずつ形を変え始めた。
次のルートは、特別棟から体育館裏へ向かう外通路だった。
距離は長い。
途中に緩やかな坂がある。
そして最後に、短い階段が待っている。
地図上では大したことのない区間。
健康な生徒にとっては、ただの移動。
だが坂柳にとっては、明確な難所だった。
「ここで一度休憩を入れます」
坂柳は自分から言った。
白石が頷く。
「正解ですね」
Aクラスは予定通り、外通路手前で二分間の休憩を取る。
他クラスが横を通り過ぎていく。
一部の生徒がこちらを見る。
追い抜かれる。
時間を失う。
それでも坂柳は休んだ。
呼吸を整える。
心拍を落とす。
手の震えを確認する。
まだ大丈夫。
まだ進める。
二分後、Aクラスは再び歩き出した。
坂道に入る。
最初の数メートルは問題なかった。
だが徐々に、脚に重さが増していく。
平地とは違う。
わずかな傾斜が、想像以上に身体を削る。
胸の奥で心拍が速くなる。
呼吸が浅くなる。
杖をつく手に力が入る。
カツン。
カツン。
音が少し乱れる。
「姫様、ペース落とすか?」
橋本が振り返る。
「問題ありません」
即答した。
その瞬間、自分で分かった。
これは危険な返答だ。
問題ない、と言った時ほど、人は問題を隠している。
神室が横から視線を向ける。
「本当に?」
「ええ」
「嘘っぽい」
「失礼ですよ」
軽口を返す余裕はまだあった。
だがその余裕は、長く続かなかった。
坂の中腹。
急に、心臓が一拍だけ大きく跳ねた。
次に、一拍抜けるような感覚。
そして続けて、速い鼓動が胸の内側を叩き始める。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
音が大きい。
自分の体内の音が、外の世界よりも大きくなる。
坂柳は足を止めかけた。
だが前方に階段が見えていた。
あと少し。
あと少しで区間を抜けられる。
ここで止まれば、また追い抜かれる。
自分のせいで、Aクラスが遅れる。
それは嫌だった。
嫌だ。
嫌だ。
荷物になりたくない。
足枷になりたくない。
守られるだけの存在になりたくない。
その思いが、判断を曇らせた。
「進みます」
坂柳は言った。
神室と白石がすぐに反応する。
「待って。顔色悪い」
「大丈夫です」
「それ、さっきも言いました」
「大丈夫ですから」
声が少し強くなった。
その時点で、神室は止めるべきだった。
だが試験中という状況が、全員の判断を少しずつ鈍らせる。
あと少し。
ここを越えれば休める。
坂柳自身も、周囲も、そう思ってしまった。
階段に着いた。
わずか七段。
たった七段。
だが坂柳には、その七段が高い壁のように見えた。
一段目。
手すりを握る。
杖をつく。
身体を持ち上げる。
胸が苦しい。
二段目。
呼吸が乱れる。
三段目。
視界の端が白くなる。
四段目。
足が震える。
神室が名前を呼ぶ。
「坂柳」
聞こえている。
だが遠い。
五段目。
心臓が暴れている。
身体の奥で、何かが警告を鳴らしている。
ここで止まれ。
これ以上は危ない。
分かっている。
分かっているのに。
坂柳は六段目へ足をかけた。
その瞬間だった。
世界が揺れた。
音が消える。
身体から力が抜ける。
杖の先端が階段を滑り、乾いた音を立てた。
「坂柳さん!」
白石が叫んだ。
坂柳は自分が倒れかけていることを、ほんの少し遅れて理解した。
地面が近づく。
階段の角が視界に入る。
まずい。
そう思うより早く、誰かの腕が彼女の身体を受け止めた。
強い腕だった。
迷いがなかった。
倒れる角度を殺し、身体を支え、そのまま抱え込むようにして階段の端へ寄せる。
綾小路清隆だった。
なぜここにいるのか。
そう考える余裕はなかった。
坂柳は浅い呼吸を繰り返す。
胸が苦しい。
耳鳴りがする。
手足が冷たい。
視界が揺れている。
医療班が駆け寄ってくる。
神室の声が聞こえる。
橋本の焦った声も聞こえる。
龍園の低い声も遠くに混じっている。
だが坂柳の意識は、綾小路の腕に支えられているという事実へ集中していた。
また。
また支えられた。
また自分は、倒れた。
「……下ろして、ください」
坂柳はかすれた声で言った。
「無理だ」
綾小路の声は近かった。
「医療班が来るまで動くな」
「試験が……」
「今は試験じゃない」
その言葉に、坂柳の胸が強く痛んだ。
今は試験じゃない。
では何なのか。
自分の限界か。
自分の失敗か。
自分が荷物であるという証明か。
医療スタッフが心拍を確認する。
「心拍が乱れています。すぐ休ませます。強制リタイア判断を準備してください」
強制リタイア。
その言葉が聞こえた瞬間、坂柳は目を開いた。
「……まだ、歩けます」
誰も答えなかった。
「歩けます」
声が震える。
「私は、まだ……」
言葉が続かなかった。
悔しかった。
あまりにも悔しかった。
たった七段。
たった数十メートル。
それすら満足に越えられない。
頭脳でいくら勝っても、身体は容赦なく自分を地面へ引き戻す。
坂柳は唇を噛んだ。
目の奥が熱くなる。
泣くつもりなどなかった。
こんな場所で。
こんな人前で。
自分が涙を見せるなど、ありえなかった。
だが、堪えきれなかった。
視界が滲む。
悔しさと屈辱と恐怖と安堵が、全部一緒になって溢れてくる。
綾小路は何も言わなかった。
慰めもしない。
責めもしない。
ただ彼女が崩れないように、静かに支えていた。
その沈黙が、今は残酷で、同時に少しだけ救いだった。
「……私は」
坂柳は震える声で呟いた。
「私は、荷物になりたくなかったのに」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
Aクラスに対してでもない。
綾小路に対してでもない。
自分自身へ向けた、どうしようもない敗北宣言だった。
医療班が担架を用意する。
神室が悔しそうに拳を握っている。
橋本が言葉を失っている。
遠くで南雲が、表情を消してこちらを見ている。
龍園は笑っていなかった。
そして坂柳は、綾小路に支えられたまま、初めてはっきりと理解した。
自分はまだ、普通には遠い。
普通に歩くことすら、今の自分には戦いだ。
その現実は痛かった。
あまりにも痛かった。
けれど、その痛みを知ったこともまた、
前へ進むためには避けられない一歩なのかもしれなかった。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。