坂柳有栖が杖を置く日   作:EXTERMINATION

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第七話 敗北

目を覚ました時、坂柳有栖は自分がどこにいるのかを理解するまで数秒かかった。

 

白い天井。

 

静かな空気。

 

消毒液の匂い。

 

規則正しく鳴る電子音。

 

また病室だった。

 

そしてその事実を理解した瞬間、胸の奥に鈍い痛みが広がった。

 

身体の痛みではない。

 

もっと別の場所。

 

誇りに近い部分が、静かに軋んでいた。

 

坂柳はゆっくりと目を閉じる。

 

思い出す。

 

階段。

 

乱れる心拍。

 

崩れる視界。

 

支えられた腕。

 

医療班。

 

担架。

 

そして、自分の口から零れ落ちた言葉。

 

――荷物になりたくなかった。

 

その瞬間の自分を思い出しただけで、呼吸が少し苦しくなった。

 

「起きたか」

 

低い声が聞こえた。

 

坂柳はゆっくりと目を向ける。

窓際に、綾小路清隆が立っていた。

相変わらず感情の薄い顔だった。

 

だが、その姿を見た瞬間、坂柳はほんの少しだけ安堵してしまった自分に気づく。

 

それが悔しかった。

 

「……またあなたですか」

「悪かったな」

「ええ、本当に」

 

坂柳はそう返したが、声にいつもの鋭さはなかった。

 

身体が重い。

心拍は落ち着いている。

だが全身に、強い疲労感が残っている。

 

「どれくらい寝ていましたか?」

「数時間だ」

「試験は?」

「Aクラスは続行した」

 

坂柳は小さく息を吐いた。

 

続行。

 

つまり、自分は外された。

 

盤面から。

戦力から。

試験から。

 

それが当然だと理解できるからこそ、余計に苦しかった。

 

「……結果は?」

「まだ出てない」

「そうですか」

 

それ以上訊かなかった。

 

訊けば、自分がいない状態でクラスがどう動いたのかを知ることになる。

それは今の坂柳には少し重かった。

 

病室の窓から夕方の光が差し込んでいる。

オレンジ色の光。

柔らかいはずなのに、今日は妙に冷たく見えた。

 

坂柳は天井を見上げたまま呟く。

 

「失敗しましたね」

 

綾小路は何も言わなかった。

その沈黙が、肯定のようにも否定のようにも聞こえる。

 

「自分では分かっていたんです」

 

坂柳は静かに続ける。

 

「坂の途中から、もう危険だと分かっていた。

階段へ入る前に止まるべきだとも理解していた」

 

脳裏に、あの時の感覚が蘇る。

 

荒れる心拍。

浅くなる呼吸。

冷えていく指先。

 

身体そのものが発していた明確な警告。

 

それでも坂柳は進んだ。

 

「でも、止まりたくなかった」

 

声が少し掠れる。

 

「止まった瞬間、自分が本当に“弱者”になる気がしたんです」

 

病室の空気は静かだった。

機械音だけが一定のリズムを刻んでいる。

 

坂柳は目を閉じた。

 

「私はずっと、知性で身体の弱さを覆ってきました。

勝てばいい。支配すればいい。頭脳で他人より上へ立てば、

身体の欠陥など関係ないと思っていた」

 

小さく笑う。

乾いた笑いだった。

 

「でも違いましたね。結局私は、たった七段の階段にも負ける程度の人間だった」

 

その言葉を口にした瞬間、胸の奥が強く痛んだ。

 

認めたくなかった。

 

だが、認めるしかなかった。

 

自分は弱い。

 

身体が弱い。

 

それは、どれだけ頭脳で勝利を重ねても消えない事実だった。

 

綾小路はしばらく黙っていた。

 

やがて静かに言う。

 

「だから何だ」

 

坂柳はゆっくりと視線を向ける。

 

綾小路の顔には相変わらず大きな感情がない。

 

だがその声だけは、妙に真っ直ぐだった。

 

「負けたら終わりなのか」

「……少なくとも、私はそう思っていました」

「なら、お前は今まで何回も終わってる」

 

坂柳は少し目を見開いた。

 

綾小路は続ける。

 

「人間は失敗する。無茶もする。限界も読み違える。お前だけじゃない」

「あなたは違うでしょう」

 

反射的にそう返した。

 

だが綾小路は即座に否定しなかった。

 

その沈黙が、逆に不自然だった。

 

「……オレも、失敗しないわけじゃない」

 

短い言葉。

 

けれど坂柳は、その言葉の重さを感じた。

 

綾小路清隆という人間は、滅多に自分を語らない。

 

その彼が「失敗」という言葉を使った。

 

それだけで十分だった。

 

坂柳はゆっくりと目を伏せる。

 

「でも、私は怖かったんですよ」

 

その声は小さかった。

 

「クラスの足を引っ張るのが怖かった。

皆に待たれるのが怖かった。守られるのが怖かった。そして何より」

 

彼女は少しだけ呼吸を止める。

 

「自分が本当に弱い人間だと証明されるのが怖かった」

 

病室に夕日の赤が差し込む。

長い影が床へ伸びる。

 

坂柳は自嘲気味に笑った。

 

「結果はご覧の通りです。全部証明されてしまいました」

 

その時だった。

 

病室の扉がノックされる。

開いた扉の向こうに立っていたのは、一之瀬帆波だった。

彼女は病室の空気を見て、一瞬だけ遠慮するような表情を浮かべる。

 

「……入っても大丈夫?」

 

坂柳は微笑を作ろうとした。

 

だがうまくいかなかった。

 

「ええ、構いません」

 

一之瀬は静かに病室へ入ってくる。

 

手には小さな紙袋があった。

 

「スポーツドリンクとゼリー、置いておくね」

「お気遣いありがとうございます」

 

一之瀬はベッドの横へ椅子を引き寄せる。

その動作には迷いがなかった。

 

自然だった。

 

まるで、坂柳が弱っていることを前提にしているような優しさ。

その優しさが、今の坂柳には少し痛い。

 

「……試験、聞いたよ」

 

一之瀬が静かに言う。

 

「ええ。見事に倒れました」

 

軽く言ったつもりだった。

だが声の奥に滲んだ感情を、自分でも隠しきれなかった。

一之瀬はすぐには返さなかった。

代わりに、少しだけ困ったように微笑む。

 

「坂柳さんって、無理する時ほど平気そうな顔するよね」

 

その言葉に、坂柳は小さく目を伏せた。

 

「平気そうにしていないと、崩れてしまいそうでしたから」

 

病室が静かになる。

綾小路は窓際に立ったまま、何も言わない。

一之瀬は坂柳を見ていた。

その視線には同情がなかった。

ただ、真っ直ぐな心配だけがあった。

 

「悔しかった?」

 

一之瀬が聞く。

 

坂柳は答えなかった。

 

答えようとした瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが崩れそうになったからだ。

 

悔しかった。

 

苦しかった。

 

怖かった。

 

恥ずかしかった。

 

倒れた瞬間、周囲の視線が全部自分へ向く感覚。

 

「ああ、やっぱり坂柳は弱いんだ」と思われる恐怖。

 

その全部が、まだ胸の中に残っている。

 

「……悔しいに決まっています」

 

坂柳はようやく声を絞り出した。

 

「私は、ただ歩きたかっただけなんです」

 

その言葉は、思った以上に弱々しかった。

 

一之瀬は何も言わずに聞いていた。

 

坂柳は続ける。

 

「皆と同じように移動して、同じ速度で歩いて、

途中で止まらずに階段を上って、それだけのことをしたかっただけなんです」

 

声が震える。

 

「なのに、たったそれだけのことが、どうしてこんなに難しいのでしょうか……」

 

涙が落ちた。

 

静かに。

 

一滴。

 

また一滴。

 

坂柳有栖は、今まで人前で泣かなかった。

 

泣けば弱者になると思っていた。

 

感情を見せれば、支配者ではいられなくなると思っていた。

 

だが今は違った。

 

もう隠しきれなかった。

 

「私は……弱いんです」

 

その言葉を口にした瞬間、何かが壊れた気がした。

 

同時に、何かが少しだけ軽くなった気もした。

 

弱い。

 

身体が弱い。

 

倒れる。

 

支えられる。

 

階段も満足に上れない。

 

それが坂柳有栖の現実。

 

その現実から、彼女はずっと目を逸らしてきた。

 

だが今、初めて真正面から認めてしまった。

 

一之瀬は静かに立ち上がる。

 

そしてベッドの横へ来ると、そっと坂柳の手を握った。

 

温かい手だった。

 

優しい熱だった。

 

「弱くてもいいと思う」

 

一之瀬が小さく言う。

 

坂柳は涙で滲む視界の中、彼女を見る。

 

「私は、坂柳さんが弱いから嫌いになることなんてないよ」

 

その言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。

 

打算もない。

 

駆け引きもない。

 

だからこそ、防ぎようがなかった。

 

坂柳は小さく息を漏らす。

 

泣き顔のまま笑いそうになる。

 

「あなた、本当にずるい方ですね……」

「え?」

「そんな言い方をされたら、少し救われてしまうじゃありませんか」

 

一之瀬は少し困ったように笑った。

 

その笑顔を見た瞬間、坂柳はようやく理解した。

 

自分は今まで、弱いことを他人に知られるのが怖かった。

 

だが本当に怖かったのは、

その弱さを誰にも受け入れてもらえないことだったのかもしれない。

 

窓の外では、夕日がゆっくり沈み始めていた。

病室の白い壁が赤く染まる。

 

綾小路は静かに窓の外を見ている。

 

一之瀬は坂柳の手を離さない。

 

その温度を感じながら、坂柳はゆっくりと目を閉じた。

 

負けた。

 

倒れた。

 

失敗した。

 

それでも。

 

それでもまだ、自分は前へ進みたいと思っている。

 

その感情だけは、消えていなかった。




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