退院した日の夜、坂柳有栖はしばらく自室のベッドに座ったまま動けなかった。
医師からは安静を命じられている。
医療スタッフからは、数日間は歩行訓練を最低限に抑えるよう強く言われている。
神室からは、無茶をしたら次は本気で怒ると念を押された。
一之瀬からは、眠る前に必ず連絡をするよう言われた。
父からは、治療についてもう一度きちんと話そうと静かな声で告げられた。
そして綾小路は、何も言わなかった。
何も言わないまま、病院から寮まで坂柳の歩幅に合わせて歩き、
寮の前で「今日は休め」とだけ言って去っていった。
その淡白さが、今の坂柳には少しだけありがたかった。
優しすぎる言葉は痛い。
心配されすぎると、自分が壊れ物になったような気がする。
だが、完全に放っておかれるのも怖い。
その中間に立つ綾小路の距離感は、不思議と息がしやすかった。
坂柳は机の上に置かれた歩行記録ノートを見た。
前までは、そこには細かな数字が並んでいた。
距離。
心拍。
休憩。
疲労。
備考。
だが試験の日付の欄だけは、途中で文字が乱れている。
適応特別試験。
階段七段中、六段目で停止。
強制離脱。
その記録を見た瞬間、胸の奥がまた少し痛んだ。
失敗。
敗北。
荷物。
その言葉が頭をよぎる。
けれど同時に、一之瀬に手を握られた時の温度も思い出した。
弱くてもいいと思う。
その言葉は、まだ坂柳の中で完全に消化できていない。
弱くてもいい。
本当にそうなのだろうか。
この学校で。
この世界で。
坂柳有栖として生きてきた自分にとって、
弱さを認めることは、敗北と同じではなかったのか。
だが、昨日の自分は確かに弱さを口にした。
私は弱いんです。
その言葉を言った瞬間、全てが終わると思っていた。
だが終わらなかった。
一之瀬は手を離さなかった。
綾小路は見下さなかった。
神室は呆れながらも戻ってきてくれた。
Aクラスも、坂柳を責めなかった。
その事実が、彼女にはまだ信じられなかった。
夜が深くなる。
寮の窓の外では、校舎の灯りが少しずつ消え始めていた。
坂柳は静かに立ち上がる。
杖を手に取る。
本当なら、今夜は歩くべきではない。
それは分かっている。
だが部屋の中に一人でいると、どうしてもあの階段の感覚が蘇ってくる。
倒れた瞬間。
支えられた瞬間。
強制リタイアという言葉。
もしこのまま眠れば、夢の中でも同じ場所で倒れる気がした。
だから坂柳は、寮の廊下へ出た。
外へ行くつもりはなかった。
ただ、少しだけ歩く。
ほんの少しだけ。
自分がまだ歩けることを確認したかった。
夜の寮は静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように消え、照明の薄い光だけが床に伸びている。
カツン。
杖の音が響く。
昼間よりも大きく聞こえる。
カツン。
カツン。
その音は、まるで自分の存在を夜に刻み込んでいるようだった。
数メートル歩く。
呼吸は安定している。
胸の違和感もない。
けれど心の奥が落ち着かない。
坂柳は廊下の途中で立ち止まった。
窓の外を見る。
校舎が暗闇の中に沈んでいる。
その向こうに、適応特別試験で歩いた坂道がある。
そして、倒れた階段がある。
見えないはずなのに、坂柳にはその位置が分かった。
「あそこまで歩けなかった」
誰に言うでもなく呟いた。
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
「また歩けばいい」
背後から声がした。
坂柳は振り返る。
廊下の向こうに、綾小路清隆が立っていた。
「……本当に、あなたはどこにでも現れますね」
「偶然だ」
「夜の寮の廊下で偶然は無理があります」
「共用棟だ」
「屁理屈ですね」
坂柳は小さく息を吐いた。
だが不思議と、驚きはなかった。
彼ならいるかもしれない。
最近、そう思ってしまう自分がいる。
「眠れないのか」
綾小路が聞く。
「ええ。少しだけ」
「歩くなと言われただろ」
「少しだけです」
「その少しだけで倒れたんじゃないのか」
「あなた、時々本当に容赦がありませんね」
「事実だ」
坂柳は反論できず、少しだけ目を逸らした。
廊下に沈黙が落ちる。
外では風が窓を軽く叩いている。
「……怖いんです」
坂柳はぽつりと言った。
綾小路は何も言わない。
だから続けられた。
「また倒れるのが怖い。階段を見るのが怖い。
皆に待たれるのが怖い。自分の身体を信じるのが怖い」
声は静かだった。
だがその静けさの下には、昨日から続く震えがあった。
「でも、歩かないのはもっと怖いんです」
坂柳は杖を握る。
「止まったら、そのまま戻れなくなる気がします。
昨日の階段で倒れた私のまま、ずっと動けなくなる気がします」
綾小路はしばらく黙っていた。
やがて、彼はゆっくりと坂柳の隣へ並んだ。
「なら、ここを一往復だけ歩け」
坂柳は目を向ける。
「医師に怒られます」
「走るわけじゃない。廊下を歩くだけだ」
「あなたが怒られてくださいね」
「必要ならそうする」
あまりにも淡々とした返答だった。
坂柳は少しだけ笑った。
その笑いは弱く、けれど確かに本物だった。
二人は廊下を歩き始めた。
カツン。
一歩。
カツン。
また一歩。
綾小路は坂柳の半歩後ろを歩いている。
並びすぎない。
先導しない。
支えすぎない。
けれど、倒れればすぐに腕を伸ばせる距離。
それは今まで何度も感じた距離だった。
「あなたは、どうして手を貸しすぎないのです?」
坂柳が聞いた。
「貸してほしいのか」
「そういう意味ではありません」
「なら、必要ないだろ」
坂柳は少し黙った。
「普通の方なら、もっと大袈裟に支えようとします」
「それが嫌なんだろ」
図星だった。
坂柳は返事をしなかった。
綾小路は続ける。
「お前は支えられたいわけじゃない。倒れた時に受け止めてほしいだけだ」
その言葉に、坂柳は足を止めそうになった。
だが止まらなかった。
歩きながら、静かに息を吐く。
「本当に嫌な方ですね。そういうことを平然と言うのは」
「違ったか」
「……違いません」
夜の廊下に、杖の音と二人分の足音が響く。
坂柳は不思議な気分だった。
怖い。
まだ怖い。
また倒れるかもしれない。
でも、一人ではない。
その事実だけで、恐怖の形が少し変わる。
消えるわけではない。
薄まるわけでもない。
ただ、持てる重さになる。
廊下の端に着く。
坂柳は手すりに軽く触れ、呼吸を整えた。
「大丈夫か」
「ええ。まだ」
「戻るぞ」
「命令ですか?」
「提案だ」
「ずいぶん偉そうな提案ですね」
二人は来た道を戻る。
帰り道の方が、少しだけ足が重い。
けれど坂柳は止まらなかった。
一歩。
一歩。
急がない。
強がらない。
限界を超えようとしない。
ただ、歩く。
それだけの行為が、今はとても大きな意味を持っていた。
廊下の中央まで戻った時、坂柳は小さく言った。
「私は、昨日まで自分が何を欲しがっているのか分かっていませんでした」
綾小路は黙って聞いている。
「勝ちたいのだと思っていました。支配したいのだと思っていました。
弱さを見返したいのだと思っていました」
カツン。
杖の音が響く。
「でも、違ったのかもしれません」
坂柳は窓の外を見た。
夜の校舎。
暗いグラウンド。
誰も走っていない静かな世界。
そして、その上には星空が広がっていた。
東京とは思えないほど、星が見えていた。
高度育成高等学校は、まるで都市そのものから切り離された箱庭のように、
夜になると異様な静寂へ包まれる。
遠くのネオンも、高速道路の光も、騒がしい街の音も届かない。
あるのは風の音と、夜気の匂いと、静かに瞬く星だけだった。
坂柳はしばらく、その空を見上げる。
昔の自分なら、星など見なかっただろう。
空を見上げる余裕などなかった。
勝つことだけを考え、弱さを隠すことだけを考え、自分の足元ばかり見て生きてきた。
けれど今は、少しだけ立ち止まって夜空を見ることができる。
それが何故か、以前より悪くないことのように思えた。
「私は、ただ誰かと同じ速度で歩いてみたかっただけなのかもしれません」
その言葉は、星空の空気に溶けていった。
綾小路は少しだけ沈黙した後、言った。
「今、歩いてるだろ」
坂柳は彼を見る。
その言葉はあまりにも素っ気なかった。
けれど、胸の奥に静かに届いた。
今、歩いている。
確かに。
完璧ではない。
遅い。
杖もある。
隣の彼に合わせてもらっている。
それでも今、自分は誰かと同じ廊下を、同じ方向へ歩いている。
それは坂柳が欲しかったものの、ほんの小さな欠片だった。
部屋の前まで戻る頃には、呼吸が少し乱れていた。
だが倒れなかった。
立っている。
自分の足で。
坂柳は扉の前で振り返った。
「今日は、倒れませんでした」
「ああ」
「たった廊下一往復ですけれど」
「昨日よりは進んだ」
坂柳は目を伏せる。
昨日よりは進んだ。
それは、大きな慰めではない。
派手な勝利でもない。
だが今の坂柳には、それで十分だった。
「綾小路くん」
「なんだ」
「いつか、もう少し長い距離を歩く時も」
坂柳は少しだけ言葉を探した。
頼る、とは言いたくない。
付き添ってほしい、とも言えない。
それでも、今だけは素直になりたかった。
「……近くにいてくださいますか?」
綾小路はすぐには答えなかった。
その沈黙が少し怖かった。
けれど彼は、いつものように淡々と言った。
「必要ならな」
坂柳は小さく笑った。
「本当に、色気のない返答ですね」
「悪かったな」
「いえ」
彼女は首を振る。
「今は、それで十分です」
部屋へ戻り、扉を閉める。
坂柳はしばらく扉に背を預けたまま立っていた。
胸は少し速い。
脚も少し疲れている。
けれど不思議と、心は昨日より軽かった。
机に向かい、歩行記録ノートを開く。
日付を書く。
夜。
寮廊下一往復。
距離短。
呼吸やや乱れ。
転倒なし。
付き添いあり。
坂柳はそこまで書いて、少しだけペンを止めた。
そして備考欄に、もう一行だけ書き足した。
――怖かったが、歩けた。
それは数字ではなかった。
分析でもない。
けれど今の坂柳にとって、何より大切な記録だった。
窓の外では、夜が静かに深まっている。
杖はベッドの横に立てかけられていた。
まだ必要なもの。
まだ手放せないもの。
だがその隣で、坂柳有栖は初めて思った。
いつかこの杖を置く日が来たとしても、
自分は一人で立つのではなく、誰かと並んで歩くのかもしれない、と。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。