坂柳有栖が杖を置く日   作:EXTERMINATION

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第八話 夜空

退院した日の夜、坂柳有栖はしばらく自室のベッドに座ったまま動けなかった。

 

医師からは安静を命じられている。

 

医療スタッフからは、数日間は歩行訓練を最低限に抑えるよう強く言われている。

 

神室からは、無茶をしたら次は本気で怒ると念を押された。

一之瀬からは、眠る前に必ず連絡をするよう言われた。

父からは、治療についてもう一度きちんと話そうと静かな声で告げられた。

 

そして綾小路は、何も言わなかった。

 

何も言わないまま、病院から寮まで坂柳の歩幅に合わせて歩き、

寮の前で「今日は休め」とだけ言って去っていった。

 

その淡白さが、今の坂柳には少しだけありがたかった。

 

優しすぎる言葉は痛い。

 

心配されすぎると、自分が壊れ物になったような気がする。

 

だが、完全に放っておかれるのも怖い。

 

その中間に立つ綾小路の距離感は、不思議と息がしやすかった。

 

坂柳は机の上に置かれた歩行記録ノートを見た。

 

前までは、そこには細かな数字が並んでいた。

 

距離。

心拍。

休憩。

疲労。

備考。

 

だが試験の日付の欄だけは、途中で文字が乱れている。

 

適応特別試験。

 

階段七段中、六段目で停止。

 

強制離脱。

 

その記録を見た瞬間、胸の奥がまた少し痛んだ。

 

失敗。

敗北。

荷物。

 

その言葉が頭をよぎる。

 

けれど同時に、一之瀬に手を握られた時の温度も思い出した。

 

弱くてもいいと思う。

 

その言葉は、まだ坂柳の中で完全に消化できていない。

 

弱くてもいい。

 

本当にそうなのだろうか。

 

この学校で。

 

この世界で。

 

坂柳有栖として生きてきた自分にとって、

弱さを認めることは、敗北と同じではなかったのか。

 

だが、昨日の自分は確かに弱さを口にした。

 

私は弱いんです。

 

その言葉を言った瞬間、全てが終わると思っていた。

 

だが終わらなかった。

 

一之瀬は手を離さなかった。

 

綾小路は見下さなかった。

 

神室は呆れながらも戻ってきてくれた。

 

Aクラスも、坂柳を責めなかった。

 

その事実が、彼女にはまだ信じられなかった。

 

夜が深くなる。

 

寮の窓の外では、校舎の灯りが少しずつ消え始めていた。

 

坂柳は静かに立ち上がる。

 

杖を手に取る。

 

本当なら、今夜は歩くべきではない。

 

それは分かっている。

 

だが部屋の中に一人でいると、どうしてもあの階段の感覚が蘇ってくる。

 

倒れた瞬間。

 

支えられた瞬間。

 

強制リタイアという言葉。

 

もしこのまま眠れば、夢の中でも同じ場所で倒れる気がした。

 

だから坂柳は、寮の廊下へ出た。

 

外へ行くつもりはなかった。

 

ただ、少しだけ歩く。

 

ほんの少しだけ。

 

自分がまだ歩けることを確認したかった。

 

夜の寮は静かだった。

 

昼間の喧騒が嘘のように消え、照明の薄い光だけが床に伸びている。

 

カツン。

 

杖の音が響く。

 

昼間よりも大きく聞こえる。

 

カツン。

 

カツン。

 

その音は、まるで自分の存在を夜に刻み込んでいるようだった。

 

数メートル歩く。

 

呼吸は安定している。

 

胸の違和感もない。

 

けれど心の奥が落ち着かない。

 

坂柳は廊下の途中で立ち止まった。

 

窓の外を見る。

 

校舎が暗闇の中に沈んでいる。

 

その向こうに、適応特別試験で歩いた坂道がある。

 

そして、倒れた階段がある。

 

見えないはずなのに、坂柳にはその位置が分かった。

 

「あそこまで歩けなかった」

 

誰に言うでもなく呟いた。

 

その声は、自分でも驚くほど小さかった。

 

「また歩けばいい」

 

背後から声がした。

 

坂柳は振り返る。

 

廊下の向こうに、綾小路清隆が立っていた。

 

「……本当に、あなたはどこにでも現れますね」

「偶然だ」

「夜の寮の廊下で偶然は無理があります」

「共用棟だ」

「屁理屈ですね」

 

坂柳は小さく息を吐いた。

だが不思議と、驚きはなかった。

 

彼ならいるかもしれない。

 

最近、そう思ってしまう自分がいる。

 

「眠れないのか」

 

綾小路が聞く。

 

「ええ。少しだけ」

「歩くなと言われただろ」

「少しだけです」

「その少しだけで倒れたんじゃないのか」

「あなた、時々本当に容赦がありませんね」

「事実だ」

 

坂柳は反論できず、少しだけ目を逸らした。

 

廊下に沈黙が落ちる。

 

外では風が窓を軽く叩いている。

 

「……怖いんです」

 

坂柳はぽつりと言った。

 

綾小路は何も言わない。

 

だから続けられた。

 

「また倒れるのが怖い。階段を見るのが怖い。

皆に待たれるのが怖い。自分の身体を信じるのが怖い」

 

声は静かだった。

 

だがその静けさの下には、昨日から続く震えがあった。

 

「でも、歩かないのはもっと怖いんです」

 

坂柳は杖を握る。

 

「止まったら、そのまま戻れなくなる気がします。

昨日の階段で倒れた私のまま、ずっと動けなくなる気がします」

 

綾小路はしばらく黙っていた。

やがて、彼はゆっくりと坂柳の隣へ並んだ。

 

「なら、ここを一往復だけ歩け」

 

坂柳は目を向ける。

 

「医師に怒られます」

「走るわけじゃない。廊下を歩くだけだ」

「あなたが怒られてくださいね」

「必要ならそうする」

 

あまりにも淡々とした返答だった。

坂柳は少しだけ笑った。

その笑いは弱く、けれど確かに本物だった。

 

二人は廊下を歩き始めた。

 

カツン。

 

一歩。

 

カツン。

 

また一歩。

 

綾小路は坂柳の半歩後ろを歩いている。

 

並びすぎない。

 

先導しない。

 

支えすぎない。

 

けれど、倒れればすぐに腕を伸ばせる距離。

 

それは今まで何度も感じた距離だった。

 

「あなたは、どうして手を貸しすぎないのです?」

 

坂柳が聞いた。

 

「貸してほしいのか」

「そういう意味ではありません」

「なら、必要ないだろ」

 

坂柳は少し黙った。

 

「普通の方なら、もっと大袈裟に支えようとします」

「それが嫌なんだろ」

 

図星だった。

 

坂柳は返事をしなかった。

 

綾小路は続ける。

 

「お前は支えられたいわけじゃない。倒れた時に受け止めてほしいだけだ」

 

その言葉に、坂柳は足を止めそうになった。

 

だが止まらなかった。

 

歩きながら、静かに息を吐く。

 

「本当に嫌な方ですね。そういうことを平然と言うのは」

「違ったか」

「……違いません」

 

夜の廊下に、杖の音と二人分の足音が響く。

 

坂柳は不思議な気分だった。

 

怖い。

 

まだ怖い。

 

また倒れるかもしれない。

 

でも、一人ではない。

 

その事実だけで、恐怖の形が少し変わる。

 

消えるわけではない。

 

薄まるわけでもない。

 

ただ、持てる重さになる。

 

廊下の端に着く。

 

坂柳は手すりに軽く触れ、呼吸を整えた。

 

「大丈夫か」

「ええ。まだ」

「戻るぞ」

「命令ですか?」

「提案だ」

「ずいぶん偉そうな提案ですね」

 

二人は来た道を戻る。

 

帰り道の方が、少しだけ足が重い。

 

けれど坂柳は止まらなかった。

 

一歩。

 

一歩。

 

急がない。

 

強がらない。

 

限界を超えようとしない。

 

ただ、歩く。

 

それだけの行為が、今はとても大きな意味を持っていた。

 

廊下の中央まで戻った時、坂柳は小さく言った。

 

「私は、昨日まで自分が何を欲しがっているのか分かっていませんでした」

 

綾小路は黙って聞いている。

 

「勝ちたいのだと思っていました。支配したいのだと思っていました。

弱さを見返したいのだと思っていました」

 

カツン。

 

杖の音が響く。

 

「でも、違ったのかもしれません」

 

坂柳は窓の外を見た。

 

夜の校舎。

 

暗いグラウンド。

 

誰も走っていない静かな世界。

 

そして、その上には星空が広がっていた。

 

東京とは思えないほど、星が見えていた。

 

高度育成高等学校は、まるで都市そのものから切り離された箱庭のように、

夜になると異様な静寂へ包まれる。

 

遠くのネオンも、高速道路の光も、騒がしい街の音も届かない。

 

あるのは風の音と、夜気の匂いと、静かに瞬く星だけだった。

 

坂柳はしばらく、その空を見上げる。

 

昔の自分なら、星など見なかっただろう。

 

空を見上げる余裕などなかった。

 

勝つことだけを考え、弱さを隠すことだけを考え、自分の足元ばかり見て生きてきた。

 

けれど今は、少しだけ立ち止まって夜空を見ることができる。

 

それが何故か、以前より悪くないことのように思えた。

 

「私は、ただ誰かと同じ速度で歩いてみたかっただけなのかもしれません」

 

その言葉は、星空の空気に溶けていった。

 

綾小路は少しだけ沈黙した後、言った。

 

「今、歩いてるだろ」

 

坂柳は彼を見る。

 

その言葉はあまりにも素っ気なかった。

 

けれど、胸の奥に静かに届いた。

 

今、歩いている。

 

確かに。

 

完璧ではない。

 

遅い。

 

杖もある。

 

隣の彼に合わせてもらっている。

 

それでも今、自分は誰かと同じ廊下を、同じ方向へ歩いている。

 

それは坂柳が欲しかったものの、ほんの小さな欠片だった。

 

部屋の前まで戻る頃には、呼吸が少し乱れていた。

 

だが倒れなかった。

 

立っている。

 

自分の足で。

 

坂柳は扉の前で振り返った。

 

「今日は、倒れませんでした」

「ああ」

「たった廊下一往復ですけれど」

「昨日よりは進んだ」

 

坂柳は目を伏せる。

 

昨日よりは進んだ。

 

それは、大きな慰めではない。

 

派手な勝利でもない。

 

だが今の坂柳には、それで十分だった。

 

「綾小路くん」

「なんだ」

「いつか、もう少し長い距離を歩く時も」

 

坂柳は少しだけ言葉を探した。

 

頼る、とは言いたくない。

 

付き添ってほしい、とも言えない。

 

それでも、今だけは素直になりたかった。

 

「……近くにいてくださいますか?」

 

綾小路はすぐには答えなかった。

 

その沈黙が少し怖かった。

 

けれど彼は、いつものように淡々と言った。

 

「必要ならな」

 

坂柳は小さく笑った。

 

「本当に、色気のない返答ですね」

「悪かったな」

「いえ」

 

彼女は首を振る。

 

「今は、それで十分です」

 

部屋へ戻り、扉を閉める。

 

坂柳はしばらく扉に背を預けたまま立っていた。

 

胸は少し速い。

 

脚も少し疲れている。

 

けれど不思議と、心は昨日より軽かった。

 

机に向かい、歩行記録ノートを開く。

 

日付を書く。

 

夜。

寮廊下一往復。

距離短。

呼吸やや乱れ。

転倒なし。

付き添いあり。

 

坂柳はそこまで書いて、少しだけペンを止めた。

 

そして備考欄に、もう一行だけ書き足した。

 

――怖かったが、歩けた。

 

それは数字ではなかった。

 

分析でもない。

 

けれど今の坂柳にとって、何より大切な記録だった。

 

窓の外では、夜が静かに深まっている。

 

杖はベッドの横に立てかけられていた。

 

まだ必要なもの。

 

まだ手放せないもの。

 

だがその隣で、坂柳有栖は初めて思った。

 

いつかこの杖を置く日が来たとしても、

自分は一人で立つのではなく、誰かと並んで歩くのかもしれない、と。




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