結論から述べると、私はあの少年を見つけることができなかった。でもいいの。私はもっと大切なものを手に入れたのだから。
「あの……もういい?」
もふもふ。さすさす。巨大なネコミミはやわらかくて、あたたかい。幸福ってこんなにも具体的で良いのか。
「フーッ……!」
「!」
ハッとする。慌てて彼女のネコミミから手を放した。
「シトラ、すまない。つい我慢できなかった」
「……ふー、今は抑えろあたし、我慢だ……人間さんだって確定したら絶対ブチ犯す、 絶対……!」
ネコミミを真後ろにして完璧なイカ耳を作り、彼女——シトラはブツブツと呪詛のようなものを吐いている。
怖いので、そっと距離を取る。呪いの言葉は聞き取ろうとしてはいけない。なんでこんなに怒ってるんだろう。触りすぎたか? いやいや、「耳、触ってみる?」と持ちかけてきたのは彼女の方だ。
いずれにせよ、彼女を不快にさせることは非常にいただけない。
シトラは、露出狂みたいな格好で一人街をうろつく私を助けてくれた、現状唯一の「私とまともに接してくれる人」なのだから。
太いしっぽをぴんと逆立てているシトラ。ゆっくり近づき、私は頭を下げた。
「私にできることなら何でもするから、どうか許してほしい」
「!?!!?」
何も分からずともとりあえず謝罪する。えりーと社会人たる私が身につけた最強スキルである。
「……何でも?」
ぐるぐると回っていた彼女の目の焦点が、ぴたりと合う。ぱっくり開いた瞳孔は黒く黒く私を見据えている。……え、いや、何でもするなんて言ってませんが。
「ひぅっ」
超速度で、シトラの両手が私の肩に置かれた。
「いーい? あたしが目を離してるときに……まあ
頭ひとつぶん高い彼女の顔を見上げ、私はこくこくと頷いた。「えらい」と、シトラは私の頭に手を伸ばす。目をつむった。ほんの少し髪に手が触れて、すぐにその手がいなくなる。怪訝に思って目を開けると、シトラはそっぽを向いて自分の手のひらを凝視していた。
「……撫でさせてくれた。え、こんなに警戒心のない子いる?? おかしい。冷静になれあたし。都合が良すぎる。どうせ
再びのトリップ。なかなか個性的な人だ。……ネコミミに猫しっぽの生えた、身長180cmはゆうに超えているであろう謎の女性を、単に
「———で、結局、あたしと出会う前の記憶は完全にないの?」
ミックスサンドの一切れをひとくちで頬張りながら、目の前に座るシトラが訊いた。
「個人的なものは、残念ながら。最近面白かったYoutubeの動画なら覚えているんだけど…」
「そっかぁ。……ちなみにどんな動画?」
「シチューのコスプレ」
「へぇ……え?シチュー?どういうこと?」
困惑しているシトラを背景に、スプーンでジェリコをつつく。コーヒーゼリーと生クリームのマリアージュ。やはり美味しい。けど、こんなに大きかっただろうか?
「……じゃあやっぱり、アユは自分が人間さん……ごほん。人間なのか、上位存在なのかも分かんないんだ」
シトラは私を『アユ』と呼ぶ。さきほど彼女と遭遇した時に、あの変な本に書かれていた名前もどきを使おうとしたのだが、うろ覚えで言い淀んだ結果だ。アユ……アユトーシヴナ、だったか。思い入れも愛着も無いため、アユでも構わないが。
「そうだね。もっと言えば、上位存在っていう種族自体、耳馴染みが皆無かな」
「へぇ……まじか」
瞳孔をしゅっと広げて、シトラは何やら思案する。
「…これは、ラッキーだぞあたし。考えろ……」ぴくぴくと震える猫しっぽから目を離し、私は窓の外に見える、いまだ山頂が雪に覆われた富士山を眺めた。
突然痴女と化した私の体。失った記憶に見知らぬ種族。ゲームやアニメのように、ファンタジーな世界に迷い込んだのか、なんて考えてもいたが。
(……別世界ってわけでもなさそうだ)
コメダ珈琲店 富士宮店。私はその赤いソファに座って優雅にくつろいでいる。戸籍なし不審者のくせに。すべて眼前の長身猫耳少女のおかげである。神さま仏さまシトラさま。
とはいえ遭遇時はけっこうピンチだった。
民家の前に積まれていた新聞紙を拝借、体を隠して、人の気配がしない町をさまよっていた一時間前のことである。
私が彼女を認識するより先に、シトラは私に飛びかかった。口からこぼれる
体に巻いていた新聞紙を剥き、私のえげつない衣装に動揺したことで正気に戻ってくれたが……。不服ではある。
「ええと、」とシトラが口を開いた。
「…上位存在っていうのは、そのまんま人間さんより上位の存在。種族特有の能力を持ってて、人間さんより力が強くて——」
ミックスサンドをたいらげて、シトラは早口でまくし立てる。
「ほぼ全員が犯罪者予備軍」
「えっ」
「基本的にみんな敵だと思っといて」
鬼気迫る様子の彼女から、嘘をついている様子は読み取れない。私は勢いに押されながらも、おずおずと頷いた。
「そんな殺伐とした世界なのか……」
「アユが人間さんだったらの話だけどね。淫魔族は特にやばいから、目が合ったら即逃げるくらいでいいよ」
「発情した猫がにゃーにゃーうるさいわね!!」
「!?」
背後で女性が勢いよく立ち上がった。口を半開きにして固まるシトラに、その女性はずんずんと歩み寄る。これまた長身だ。ぽけーっと見上げると、紺色のミディアムヘアから2本の角が生えていた。
「私たちは同意を得てからしか「いただきます」しないけど、あなたたち獣人はソッコー押し倒して抱き潰すじゃないのやばいのはどっちよ!」
「んんん?」
「ああああ!!アユ、こいつがウワサの淫魔族!耳塞いで!早く!!」
シトラと淫魔族?の女性がわーわー、ぎゃーぎゃーと騒いでいるのを肴に、私はとうとうジョッキサイズのジェリコの最後の一口を楽しんだ。お腹いっぱい。
「お客様」
その時、底冷えする声が店内に響いた。ぴたりと口論を止める両者。背後に二人の店員さんが立っていた。狐っぽい耳を生やした女性と、くるりと曲がった角を2本生やした女性。
「他のお客様のご迷惑になりますので」
絶対零度の笑みを浮かべた、おそらく獣人族と淫魔族の店員さんたちは、
「
ぽいぽいぽい、と私たちは店を追い出され、コメダ珈琲を出禁になった。出禁……出禁……!?
「ああ、あなたは大丈夫です。またのご来店をお待ちしております」
あぶねぇ……。狐耳の店員さんに頭を撫でられ、2本角の店員さんに豆菓子をいただき、私は悠々自適に店を後にした。あとでGoogleレビュー星5つけておこう。
「だいたい何よ!この子が人間さんかもしれない、ですって!? 見た目の特徴が無いっていっても、それは日中の人狼族も吸血鬼族も同じでしょう。言っていい事と悪い事があるんじゃないかしら!!」
「だって、だって!あたしの魂が囁いてるんだもん!体型とかは
もう一度富士山を拝もうと空を仰ぐと、山頂は雲に覆われていた。残念だ。中々見る機会など無いというのに……ん?
「雰囲気、ねぇ……」
ふと視線を感じ、私は前を歩く二人を見上げた。ちょいちょい、と手招きをされたので、彼女たちのすぐそばへ近づく。
「どうしたんっ——」
アスファルトの本当に小さな段差につまずく。
「——うわっと。あぶない」
幸い、シトラが倒れる私を受け止めてくれた。彼女の胸に顔がうずまる。もぞもぞと顔を出して、
「…ありがとう」
シトラと淫魔族の女性は、ともに目を丸くして私を見ていた。
「……ウソでしょ」
シトラが私を抱いたまま、器用に肩をすくめた。
「ね?」
何の話をしていたんだ二人は……? それより、私は何を考えていたんだ? 失った記憶のヒントになりそうな事だった気がするが、すっかり忘れてしまった。先ほど私は富士山を眺めていて……
「……あの」
思考を止めて身をよじる。私を抱く手が、だんだんやらしくなってくる。
シトラの顔をもう一度見上げた。その顔に浮かぶ表情は、遭遇時の「野生」に極めて近かった。
「……もう、
「ちょっとだけ」
骨までいかれそうである。
「待っ!待ってくれシトラ、君はいったい何をしようと!?」
「魂の食事を」
無駄にかっこいい言い回し。
「戸籍が無いうちは違法じゃない、だってアユは法の外にいてくれてるんだから…」そんなことないと思う。ないと思う!!
「あーあ、もう私知らないからね」
呆れ顔で私たちを眺める淫魔族の彼女。えっ傍観!? 待ってましたと言わんばかりに、電線にとまっている小鳥がチュン、チュン…と存在を主張する。
(やかましい!)
ああああ、シトラに冷静になってもらわないと。何か話題を……小鳥、上位存在……
「しっ、シトラ!翼を持った上位存在はいないのかい!?」
シトラの手が止まった。
「……翼、かぁ」
シトラは猫しっぽをしゅんと下げて、私から手を放した。……助かった、のだろうか。冷や汗を垂らしながら彼女の顔をうかがった。「いるにはいるけど…」と、シトラは隣へ視線を送る。
「なによ。こっち見ないでほしいんだけど」
「
「
「……あいつら?」
首を傾げた私に、二人は驚いた顔を浮かべた。「本当に知らないんだ」とでも言いたげに。
角をかりかり、淫魔族の女性が説明のために口を開く。
「天使よ、天使。私たちと全く関わりを持たないくせ人間さんを襲って
人間さんを襲って……? それが、最低だと。なるほど。
「あっ!今アユったら「こいつもやってる事変わんないな…」って顔したでしょ!!ちがうから!天使に比べたらあたしなんて可愛いもんだから!!」
声デカっ。道ゆく他の人々——全員が漏れなく上位存在だろう——が、私たちにチラチラと視線を送る。
「天使は誘拐とかするんだよ!?天使の出没はネットニュースになるくらい一大事だし!ほら見て!」
必死の形相で手渡されたスマホを受け取り、表示されたYahoo!ニュースの一記事、そのタイトルを読む。
『神戸市 新神戸駅付近で天使発生 人間族男性が一人拉致 「自己責任」 教会の声明に物議』
おぉ…と、少し声が漏れた。報道用の堅苦しい文体で書かれた天使の紹介はたしかに禍々しい。しかし私の関心を引いたのは、「拉致」より何より「新神戸駅」の部分。
(……私は、知っている)
海沿いの都市部と六甲山地の境界に位置する、緑豊かな新幹線の停車駅。
頭に浮かんだ知識は、聞きかじった情報というより、自身の目で得た
私は知りたかった。自身の身に何が起きているかを。私は思い出したかった。頭からすっぽり抜け落ちた、私の人格的な記憶を。
そのために、私は日本を見聞したい。
この情報は明確な手がかりだった。
(……あ。本!)
忘れていた。記憶の手がかりとして、現状もっとも身近でもっとも謎が深いものを。
私は懐に手を入れて……入れ……あれ、そういえば、あの本ってどこにやったっけ。そう思った途端、手に布張りのハードカバーの感触が現れる。
「……え?」
紺色の表紙には依然として、読めないタイトルが金色で箔押し印刷されている。私は困惑した。自分がこの本をどこから取り出したか、分からなかったからだ。私は本をつかんだ。まるで四次元ポケットの中で突然、目当てのものを見つけたかのように。
「ねぇ、シトラ——」
不可思議な現象を一人で抱えたくなくて、私は声をかける。私に貸したまんまのスマホと他ならぬ私自身をほったらかしにして(怒)、二人ではなしていたシトラたち。そんな彼女らが私の声に振り向くのと、
私が吹き飛ばされたのは同時だった。
「——アユっ!?」
後頭部をコンクリートに打ちつける。ココナッツを割ったような鈍い音が響く。痛みはなかった。しかし視界は点滅する。目がちかちかする。
誰かが、私の腹を踏んでいた。足と腹の間には布張りの本が挟まっている。
辛うじて捉えた景色に私は息を呑んだ。
目が焼けるほど青い快晴。先端が鋭く尖った十字架のような剣。凶器の先端を私の体に向ける襲撃者は、先ほど私が出会った少年その人であった。
咄嗟に少年の足をぐいを引っ張り、彼がバランスを崩した瞬間に転がって剣を避ける。剣は私の真横の地面に突き刺さった。コンクリートを易々と貫通した剣の威力にぎょっとしながら、私は何とか体を起こす。本を無意識のうちに懐にしまった。
まだ目の焦点は定まらなかった。頭がやけに熱かった。
「へ!? なんで神父がっ——」
シトラの呟きを遮るように、少年が私に飛びかかる。
『
少年の手と握られた柄の狭間から、ジイ、と遠い虫のような音を聞いた。
全身が粟立つ。冷水に飛び込んだかのような凄まじい悪寒。
(止めなければ)
尻尾を巻いて逃げ出したくなる衝動とは逆に、私は少年に向かって走る。彼は虚をつかれたように一瞬だけ硬直した。
「違うんだ」
私は弁明する。私に確かな殺意を持っている少年は、きっと何かを勘違いしている。私は露出狂でない。そもそも性犯罪者では断じてない。
少年は目に見えて動揺した。構えていた剣の先が少しだけ下を向く。お互いに接近していた私たちは立ち止まる。
少年が動揺したことに違和感を抱く。少年のまん丸な目が私を見ていた。髪と同じ綺麗なオリーブオイル色だった。今度は、少年は私から目をそらさなかった。
「……死んでよ」
私を睨んで、少年は懇願した。
キーンと鼓膜が悲鳴を上げるほど強い耳鳴りを感じた。耳鳴りでは無かった。極めて高い電子音。ひどくうるさい警告音。干渉して四方八方から襲いかかる音に、私は平衡感覚を失う。
少年は目を見開いた。その顔さえあどけなかった。柔らかな髪を揺らして、頭から地面に突っ伏しそうになる私に手を伸ばす。
敵意に満ちた、目も眩むほど明るい光を宿した手が、
「———あ、」
私の頬に触れた。
触れた。
触れた。
触れた。
|
そのすべすべしたゆびさきともちもちしたてのひらはほんのすこしひんやりとしていてちいさくてよわくてわたしはこれがにんげんさんのてとゆびなんだなとたいそうびっくりした。
|
私の体は爆発していた。壊れるのは体でも内臓でもなくて、私はその爆発によって心が理性が思考が粉々に霧散していた。まるで太陽の核融合のエネルギーが全て私の身体に押し込められたかのように私の体には貯蔵しきれないエネルギーが宿っていた。否、今この瞬間体の内部から発生していた。増えていく。今も。今も。
|
わたしはなんだかむずむずしてめのまえでかわいいひとみをまあるくみひらかせているにんげんさんと#をかさねあっておはなしできたならどんなにたのしくてどんなにしあわせだろうとかんがえた。
|
背中が熱かった。しかし肩甲骨のあたりだけは冷えていて心地よかった。私はそこからエネルギーを出そうと思った。モヤモヤした思いを叫んで発散するみたいに、背中にぐっと力を込めて、
っぱん。
弾けた。小さな穴が背中に二つ空いて、そこからダムの水が川へ逃げ出すみたいに、
(……あっ)
決壊。割れた。ごおごおと噴き出した何かが空気を裂いて、一瞬の耳鳴りの後けたたましい破裂音を響かせた。背後でぎらぎら輝く光が、前方に私の影を作っている。小さく、少し髪の長い女の影。私の影とは思えない、私の影。
羽根だった。
私の影には、身体より大きな翼が左右対称に鎮座していた。
「……ありえない。嘘だ。こんな大きさ知らない。おかしい。これじゃあまるで本当に、」
天の御使いじゃないか。
少年の呟きが、湯に溶ける砂糖のように淡く消える。私は自身の背中を見るために首だけで後ろを向いた。
極彩色の光が私の肩甲骨から2本、間欠泉のように噴き出していた。不定形であるはずの光は透明な型にでも入っているのかと思うくらいに綺麗な翼の形を為している。陽光を反射して、あらゆる色を見せていた。
「——ああ、」
と、私は甘く言った。云った。いった。イった。少年のかわいいかわいいすてきでおおきなたべちゃいたいおめめがわたしをみていてこわがっているんだなとわかってもうがまんができなくて、
###
どん、と私は空へ跳んだ。飛んだ。たった今背中から生えた極彩色の翼は腕なんかより自在に動いて、私はあっという間にアスファルトの大地とお別れをする。
私は一瞬、冷静になった。
ネコミミっ娘に迫られて私は興奮もせず焦りを覚えただけだったな、これほど役得な状況で据え膳食わぬとは男失格だ、ああそういえば私は今男ではなかったな。
巡る無意味な回想は、爆ぜる果てなき動揺に潰されて。
(———なんだ。なんだこれは!?)
体が熱い。お腹が、お腹の奥が下が焼けるように熱い。この体は、お腹の底に心臓があるんじゃないか。そう思うくらいお腹はどくどくと熱を生む。
|
にんげんさん。
/
いや、違う。分かってる。本当はとっくのとうに分かってる。言いたくないだけだ。認めたくないだけだ。こんな感情を抱いている自分のことを。私はまだ、か弱き少年少女を守る善良な大人でありたいだけなのだ。
/
××たい。
××××たい。
したい。
あの子と。
「……無理だ」
ごまかせない。私はイカれるほどの性欲で頭も体もいっぱいになっていた。
上昇は止まらない。眼下に、富士山の山頂火口が見えた。
ぽっかりと空いた穴はまるで少年のおくち———
(誰か私を殺してくれ)
違うのだ……私は断じてショタコンでは…………。