「もしも、」
多奈波は自分の声が震えていないことを祈った。
「仮に、万が一、人間に危害を加えない天使がいるとしたら、ぼくはどんな行動をするべきでしょうか」
祈りの間は静かだった。ここには自分と司教の二人しかいないのだ、と錯覚してしまうほどに。
「ころせばいいのです」
司教が穏やかに言った。ステンドグラスから漏れる光が、逆光となって司教の細い背中を照らす。彼の顔は見えなかった。
「多奈波、君は優しい。ありえない仮定をしてまで、我々の敵に同情してしまうほどに。しかし、何も臆することはありません。天使は、罪なのです。天使に生まれた時点で、それは
多奈波は答えなかった。少し俯いた少年のあどけない顔を、司教は見ていた。
「私も、ひとつ「もしも」の話をしましょうか」
無性的な声が広間に響く。
「一刻も早くころしたい天使がいるとします。万一、よしんば、その天使をおびき寄せるために、
人間の居住区で大規模な事故を起こしたとしたら、
それは果たして効果的でしょうか?」
こてん、と司教が首を傾げた。全く男性的でない、幼稚にも思える仕草。にもかかわらず少しも違和感を感じない司教の姿を見て、多奈波は胸中でつぶやいた。
(この人は、男でも女でもないんだ)
どこの支部であっても、司教と話すときには「自分は心を開かなければならない」という優しい焦燥に襲われる。
それが多奈波には不快ではなかった。
「……民間の人たちに対する危険は大きいですが。おびき寄せるには、かなり効果的だと思います」
天使は高ぶる感情を、善悪区別せずに好むから。
そのくせして、天使は困っている人を
「そうですか」
太陽に雲がかかったのか、司教の背後にあるステンドグラスが輝きを失う。逆光は止み、司教の表情が初めて見えた。
彼はにっこりと笑っていた。
「君はいつも正しいですね」
———多奈波は焦燥する。神戸に着いたばかりの頃、教会で話した内容が頭の中で何度も再生された。
思考をしようとするたびに焦りと自責が多奈波を押しつぶす。どうすればいい?どうすればいい?どうすればいい?
通勤ピークを過ぎた朝の阪急六甲駅は、不気味なほど静かだった。誰もいない改札前で、黒髪の少年——
「なんか知ってるんか」
「……多分、いやきっと、この電車の脱線事故は、教会がわざと起こしたものです。人間の居住区で事故が起きれば、天使はそれに引き寄せられるから。……ぼくが。ぼくが効果的だって言っちゃったから」
声が震える。多奈波は俯いた。こんなことしている時間は無いのに。早く、ぼくがなんとかしないといけないのに。
「なんや」
ぽん、と塔良の手のひらが多奈波の頭に乗った。
「じゃあ電車止めたら解決やん。敵がいないぶん、普段より楽ちゃう?」
塔良はニヒルに笑った。多奈波は、その青白い先輩の顔をぽかんと見ていた。
「にしても、教会は時々意味わからんことするな。超優秀な俺を多奈波くんから遠ざけようとしたり———」
どん、と塔良の手が多奈波の胸を押した。ふらつきながら二、三歩後ずさって、
多奈波もまた、背筋の粟立つ感覚に目を見開く。
「……多奈波くん。電車の方、一人で任せてええか」
塔良は鋭い目で、眼前に立つ敵を睨んだ。多奈波と塔良を見下ろすひどく長身の女。女はもじもじと両手をお腹の前で絡ませて、首を傾げた。
「きみたちも、まいご?」
レースのカーテンのような薄いカットソーが、女の華奢な上半身を覆っている。引きずるほど長いロングスカートには、腰が見えてしまうほどのスリットが入る。
女の、天使の肩から生える翼は、
肩甲骨から飛び出た、病的なほどに真っ白の腕には関節が二つある。二の腕、肘、二の腕、肘、前腕、手のひら。そこから生える羽毛。天使の翼。
多奈波はぞっとする。生々しい人間の腕が背中から生えている生理的嫌悪感。その腕が、まるで人体改造されたように不自然に長い嫌悪感。
右翼の先端、手のひらになっている部分は、手を繋いでいた。
人間と。
「だいじょうぶ。わたしがいるから。もう、さみしくないからね」
天使は、人間離れした美貌を親しげに歪めて、優しく、無邪気に、妖艶に笑った。
こみあげる吐き気を抑えるように、無理やり大きな声を出して多奈波は塔良を呼ぶ。
「せっ、センセイ。この天使ってまさか」
「……あー。
塔良はまるで頭痛がするみたいに、片手で頭を押さえた。
「【友達】」
すぅっと冷たくなった塔良の顔を、多奈波は不思議そうに見上げる。いつも和やかな雰囲気を持つ彼に似合わない表情だと思った。
塔良は多奈波の肩に手を置いた。
「……多奈波君。こいつと俺はだいぶ相性良しやから、任せてくれへんか。あの民間人も助けとく」
多奈波は一瞬の思案を顔に浮かべた後、きらきらした目で頷いた。
「わかりました。電車の方は任せてください」
目一杯の信頼を緑がかった小麦色の瞳に浮かべて、多奈波は塔良に背を向ける。
(……えらい好かれてんなぁ、俺)
塔良は淀んだ息を吐く。この天使と多奈波を関わらせたくなかったから、塔良は少年を電車の方へ
「まいごのときは、あつまらないと。わかれちゃだめだよ」
「俺ら、迷子じゃないんよ」
「うそ。さみしいでしょ? ほんとうは、がっこうにいって、ふつうのこうこうせいをしたいんでしょ?」
「……ほんまに嫌やわぁ、こいつ」
先ほど、塔良は二つ嘘をついた。
一つ。彼はこの天使と相性がよくない。むしろ悪い。通称【友達】。こいつと相性がいい神父なんか存在しないのではないか、と塔良は確信にも近い予想を抱く。
二つ。【友達】と
塔良は自身のこめかみをぐりぐりと痛めつけた。天使に心を許してしまうのは、本能だ。だからこそ彼女は人類の敵だ。だからこそ彼女はおぞましい。
天使はすねた子供のように唇を尖らせた。
「かおがかっこいいだけで、そんなことになって。かわいそう」
「……美形具合で言うたら、君の方が程度甚だしいと思うけどな」
「うれしい。もっとちかくでみていいよ」
「アホか。……多奈波君と、あとその他後輩のために、君はここでころす」
塔良はゆるく【友達】に手を伸ばし、銃口のように指先を向けた。
『
†
遠くで警笛が聞こえた。
ふっと電気が消えるように、名無しの天使の黄金に輝く瞳から光が失われる。
「……あぁ。ざんねん。わた、わたし、まだ。——あは」
多奈波は天使の本体である『偽典』から逆十字架の剣を引き抜いた。
ぽっかりと風穴が空いた『偽典』を見て、多奈波の胸がちくりと痛む。
表紙に『変身』と書かれているような気がした。フランツ・カフカの顔が描かれているような気がした。
慌てて目を擦る。それは偽典だった。天使の本体である、紺の布張りのハードカバー。文庫本ではない。小説じゃない。
頬を叩いて、多奈波はぶんぶん首を振った。あの日のことを考えている余裕は無い。
「……早く、電車を止めないと」
暴走列車は減速の気配を見せなかった。神戸の街並みを走り抜けるマルーン色の電車は、先ほど6台目の自動車を
案の定、混乱に乗じて集まってきた天使を数体屠った多奈波は、ビルの屋上で乱れた呼吸を鎮める。眼前には、巨大な都市計画道路———山手幹線。
数分後、ここを電車が通り過ぎる。多奈波はその瞬間に電車に飛び乗って、車両を停止させるつもりだった。
(電力供給がないのに電車が止まらない。きっと天使の仕業だ。電車を加速させている天使をころせば、解決できるはず)
多奈波の予想。教会が引き起こした電車の暴走を、天使に利用されている。そうとしか考えられない。
ふつふつと、多奈波の胸中で怒りが熱を持ってゆく。矛先が教会から天使へと、ゆっくり方向を変えてゆく。多奈波はそのように育てられてきたから。そうやって、天使を恨むように生かされてきたから。
「敵がいないぶん普段より楽だ」と頭を撫でてくれた塔良の励ましが無駄になったのだ。天使は、塔良の優しさを踏みにじったのだ。
天使は、ころさなくてはならない。
再び警笛が聞こえた。罪のない民間人を車両いっぱいに乗せた8両編成の列車が、消失点から姿を現した。
†
電車の屋根に飛び乗った途端、多奈波の携帯が震えた。
「時雨?」
『——多奈波!今どこ!?』
「阪急電車の屋根の上。……道路を暴走してるやつの」
今から暴走を引き起こしている天使をころし、電車を停止させる。それで事態は収束すると多奈波はいつものように考えて、
『っ降りて。今すぐ!!』
「え?」
『その暴走列車の周りに、天使が見当たらない。
「———」
天使じゃ、ない? ならどうして電車は止まらない? ありえない。物理法則に反している。法則に反することができるのは、天使と、神父だけ……
「まさか」
(…教会が?)
ありえない。多奈波はすぐにその邪推を棄却する。教会は天使から人間を守るために在る。ありえない。
「ッ!」
がたん、と激しい振動。多奈波は咄嗟にパンタグラフを掴んで、電車から放り出されるのを免れる。進行方向に目を向ける。横転したまま道路を滑るトラックが、黒い煙を出しているのが多奈波の視界に入った。
『大丈夫!? そんな所にいたらいくら多奈波でも大怪我しちゃう、早く逃げて!』
「……ぼくが逃げたら、電車の中にいる人はどうなるの」
スマートフォンの向こう側に、沈黙が満ちる。息遣いだけが、ほんの少し聞こえた。
「分からない……けど。多奈波が大怪我しちゃうと、他の人が危険な目にあう。多奈波、僕たちは天使をころす専門家だよ。天使が関係していないのなら、逃げるのが
理性が、彼女に賛同する。
感情が、彼女に反対する。
———ぼくが「助けたい」といえば、きっと時雨はその意見を受け入れてくれる。ぼくはいつだって
でも、助けられるのか? 電車を止めて、乗客を避難させる。どうやって?
「…時雨。ごめん」
『え、多奈———』
ブツ。
(……真正面から、受け止める)
良いアイデアは浮かばなかった。電車から飛び降りて、そのまま、聖なる力で暴走を受け止める。線路を外れた電車は曲がれない。いつか、何かと衝突するだろう。たくさんの人が住むマンションと。あるいは、巨大な商業施設と。
「やらなきゃ」
ぼくが助けなきゃ。
耐えられなかった。人間を守る神父が、自分が、人間を見捨てることを
先頭車両の先端に立つ。崖の前に立った気分だ。顔を上げると、数百メートル先に学校が見えた。ズキン、と胸が痛む。
剣を構える。
あとは、飛び降りて、空中で列車と衝突するだけ。
「……
声が詰まる。足が震えた。
怖かった。
大怪我を負うとわかった上で、暴走する列車の前に躍り出ることが、怖くて仕方なかった。真っ青に怯える心を見透かしたように、空は雲ひとつない快晴だった。
だから気づくのが遅れた。晴天を裂いてこちらへ近づく、極彩色の輝きに。
「……あ」
あまりにも巨大な翼が、まるで開花のように目の前で広がった。見間違えようもない。金色が混ざった複雑な瞳も。桜色のショートヘアも。
どん。コンクリートにヒビが入る着地。暴走列車の目の前で、翼を盾のように構える天使。多奈波がころせなかった天使。多奈波を叱りつけた天使。
大きな翼は、減速を知らない列車と正面衝突した。
すさまじい衝撃。地面と車輪が上げる甲高い悲鳴。慣性で多奈波は前方に投げ出された。
咄嗟に受け身を取る。硬い地面に背中を打つ。多奈波の肺から空気が飛び出す。
痛みも忘れて、多奈波は顔を上げた。
列車は瞬く間に速度を落としていた。
飛び散る赤。初めは火花かと思った。でもそれは、天使の翼から噴き出る鮮血だった。片方の翼を駆使して、小柄な女はたった1人で列車を抑えている。翼の先が車輪に巻き込まれて抉れるように削げていた。
天使は電車に押されて後退し続ける。しかし、圧倒的な質量に潰れることなく、ボロボロになった片翼で電車と対峙している。
小さな、剥き出しの背中から溢れるその鬼気迫る雰囲気は、自分なんかよりよっぽど本気で。真剣で。
———死んでよ。
———天使はころさないといけない。
あの女は、天使だ天使は生まれた時点で間違いだぼくは正しいぼくは天使をころすそれがただしいからそうすればみんな幸せになれるみんな助かるぼくが助けるみんなをぼくがぼくを助けるならなんでなんでなんで
ぼくは天使に助けられている?
「…………なんで」
列車が、多奈波の眼前すれすれで完全に停止した。
天使が、無事な側の片翼でふわりと浮かぶ。
ぼとり。
「!!!」
多奈波は息を呑んだ。電車を止めた無惨な翼が、天使の肩からもげるように取れて、地面に落ちた。
「ありゃ」
天使が腑抜けた声をあげる。片翼を失ったとは思えないほど、軽い声で。
気にした様子なく、天使は割れたフロントガラスをしばらく覗き込む。車掌の無事を確認でもしたのか、やがて満足そうに振り向いて、
「………………えっ」
多奈波に気づいた。
すとん、と地面に着地する天使。彼女の顔色が変わった。真っ青になったり、赤く染まったり。まるで、人間を助けた姿を見られた事を恥じるように。怯えるように。
「や、やぁ少年。久しぶりだね!!」
天使は両手を後ろに組み、ちぎれて落ちた片翼の前に立った。今さら、自分の犠牲を隠すみたいに。
「なんで」
びくりと天使の小さな肩が跳ねる。無事な片翼と一緒に。
もう、もげた翼は動かない。車輪に塗られた黒い潤滑油に塗れて、ぴくりとも動かずに地面に伏せている。
「なんで、翼を捨てたんですか。翼は天使の力だ。それを人間を助けるために、あなたはぼくの敵なのに、ぼくを守って、それで傷ついて、そんなふうになって」
多奈波のつぶやきに、なぜか天使はほっとしたように肩を落とした。多奈波は困惑する。わからない。この天使と会ってから、ずっと分からない。彼女のことも。自分のことも。
「
天使が穏やかな顔で笑った。幸せそうに。
その顔は、他の天使が「人間を愛する」と語る笑顔と同じように見えた。
でも、違う。この天使はぼくを襲わない。人を救う。他の天使の戯言とは違う。本当の意味で、ぼくを救った。
頭が痛い。うるさい。耳を塞ぎたかった。教会の警報も。救急車も消防車もパトカーも。サイレンがそこらじゅうで響いていた。
「少年。私はそろそろ行くよ。また会えたら嬉しい」
「多奈波です」
一歩天使に近づく。天使が後ずさった。その事実がたまらなく寂しかった。
「ぼくは、多奈波と言います」
天使はぽかんとしていた。それから、少しだけ頬を染めた。苦笑して、
「では、多奈波。またね」
「待って」
天使は
でも、もう少しだけ一緒にいたかった。
「あのっ、前の……本。小説。台無しにしてしまって、ごめんなさい」
こんなことよりも、謝るべき事はたくさんあるはずだ。言葉が出ない。溢れる感情は喉の奥でつっかえる。
「あなたは、誰ですか」
多奈波の質問に、再び天使は固まった。血のついた貫頭衣に手を突っ込んで、そこから本体である『偽典』を取り出す。
無防備にページをめくって、天使は手を打った。
「アユトーシヴナ、らしい」
笑いながら。天使がちぎれた翼を手に持って、ゆっくりと空を見上げる。彼女の、アユトーシヴナの瞳は爛々と輝いていた。これから、楽しみが待っている子供のように。
「多奈波」
アユトーシヴナは飛んだ。
「ちゃんと謝れてえらいね」
彼女の声が、耳の中で反響する。何度も。何度も。
「ああ、あ」
多奈波はその場にしゃがみ込んだ。必死に目を押さえて、涙が出ないように努めた。まぶたの裏に、羽がもげた彼女の肩の傷が、ずっと映っていた。