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ちなみに6.5話はR18なので投稿ができません
春眠暁を覚えず。
かの詩人、孟浩然はそう詠んだそうだが、私はそう思わない。3月初め、ここまで清々しい朝を
性欲を掌握した私は、賢者を超えた聖者。いや、本当の意味で天使となったのだ。
枝に干していたネックウォーマーと手袋に鼻を近づける。
くんくん。
「……あぁ」
涙。嗅いでも心は昂らない。
人間さんの私物からは、もう私の匂いしかしなかった。あんなに小川で水洗いしたのに。あんなに水洗いしたからか。
「いや……きっと、無くなるから美しいんだな」
人間さんの匂いも。私の体力も。永遠じゃない。我々の幸福は諸行無常である。だからこそ、今が限りなく強く輝くのだろう。
ただ春の夜の夢の如く。
(ねえねえ、私)
ん?なんだい、理性ちゃん。
(恥ずかしくないの?)
「…………さて。どうしようか」
(おい)
私は汚れた布のようなものをつまみ上げる。
それは「翼」だった。つい昨日までは私の肩にくっついていた、大きくて謎に硬い天使の羽根。もっとも、この硬さのおかげで、私は列車を受け止められたわけだが。
思い出したかのように、肩甲骨がじわじわ痛みを主張する。
「い、今更……!?」
ついツッコんでしまう。というのも、翼を失ってから冷静になるまでの今の今まで、私は一度も痛みを感じていなかったからだ。夢中になっていたからだろうか。いやはや、私の集中力もまだ捨てたものではない。
私は身体の一部を失った。にも関わらず、私の心に後悔や苦痛は微塵もなかった。そもそも馴染みのない部位である上、片方でも変わらず飛べたのだから両羽ある意味が無い。
高々この代償で人間さんの私物がいただけたと思うと、本当に割りが良すぎる。
「とはいえ、この大きさの翼を捨て置くのも……」
列車を止めて、少年———
『記憶を取り戻す』という目的はちゃんと思い出しているのだ。
まず行なったのは、私の四次元ポケットのような謎すけべ服の仕組みを探ること。そして、その謎服の懐に入っていた聖書モドキの解読である。
第一に、服の隙間が四次元ポケットになっている謎機能について。これはおそらく、服ではなく私の「能力」だ。
例えば———
川沿いから綺麗な丸石をいくつか選んで、その上に新聞紙を被せてその端に触れる。
しばらく念じてから新聞紙をめくった。
「え、すご…………」
自画自賛。
ただの丸石が、ねんどろいど程度のサイズ感のフィギュアに早変わりだ。関節もちゃんと動くぞ!
自作フィギュア——あえて名付けるならば、『ねんどろいど 人間さん』——をひとしきり指でこねくり回した後、私はそれを大事に大事に服の中に収納する。
……このように、私は直接視認していない無生物を自由に作り変えることができるようだ。この応用で、私の目に見えていない服と体の間が異空間になっていたのだろう。知らんけど。
落ち着いた環境で、集中しないと能力は使えないものの……これはかなりすごい。実質、どこでも3Dプリンターである。しかも仕組みが分かっていないものも作れる。魔法のようだ。
(これを使って、どうにか翼を有効活用できないだろうか)
千切れた私の片翼。これを放ったらかしにするつもりはない。
天使は悪である。もう認めます。私はえっちの魔人である。そんな人類の敵の痕跡をここに残しておくのは迷惑だろう。
まあ、それはおいおい考えるとして。
「お次は、これだ」
懐から取り出したるは、分厚いハードカバーの書籍。『アユトーシヴナ』という名前が1ページ目に書かれているアレである。そろそろ調べてもいい頃だ。
懐かしい。大学生の時に、こんな仰々しい専門書をテスト前にいやいや開いていたものだ。
そんな、あまり役に立たない記憶の復活に驚き、苦笑する。
私はページをめくった。
†
「私たちは議論をしなくてはなりません」
霧雨がステンドグラスを濡らす。溢れんばかりの神父で埋め尽くされた祈りの間は、やはり静かだった。
「【片翼】について」
「行動が読めません」
「ああ、非合理だ」
「たとえ車内の人間を全員手中に収めたとしても、やはり翼を失うのは割に合わないはず」
「そもそも、列車を暴走させたのは此処、神戸支部の司教でしょ? 意味はあったのかしら。かなり独断専行みたいだったけど」
「ああ、彼はもう処分されたよ。だから司教は定期的に交換しろとあれほど……」
「その話はもういい。大事なのは、今回何体の天使をころせたか。それだけだ」
「【片翼】を逃している時点で、今回の独断がどれだけ馬鹿だったか明らかだけどね……………
多奈波君。あなたはどう思う?」
部屋中の視線がこちらへ向いた。多奈波の喉から、きゅうと小さな悲鳴が絞り出される。
「【片翼】と遭遇したのは、君だけだよね」
アユトーシヴナ。彼女の真名。自分の前で無防備に『偽典』を開いて紡いだ、多奈波を叱った、多奈波を助けた、多奈波に笑いかけた天使の本当の名前。
その名を、目の前の神父たちは誰も知らない。
「———あの、天使は。【片翼】は、翼を犠牲にして電車を止めて、すぐにぼくの前から消えました。その結果、車内の人たちは助かり、被害は減りました」
しーん、と。水を打ったようになる。冷たい空気に、多奈波は肺の痛みを覚えた。
多奈波は思い知っている。自分の言葉が「正しい」ことを。そう、知っていたはずだった。
———間違っている。
———ちゃんと謝れてえらいね。
怖かった。本当に、ぼくの言葉は正しいのか? 不安だった。彼女のせいで。ぼくは。もし、ぼくは本当は正しくなかったら。間違っていたら。
「あの人は悪い天使じゃない」というぼくの言葉まで、間違いになってしまうんじゃないか?
「——多奈波」
びくり、と肩が跳ねた。
床につきそうなほどの長い長髪が揺れる。細い身体に似合わない鋭い目が多奈波を睨んだ。異様な存在感を放つ1人の神父は、荒々しく口を開いた。
「お前の主張は『正しい』。だが、それは結果論だ。【片翼】に助けられた? 違うだろ。俺たちは、将来人間を穢す【片翼】を逃したんだよ」
違う、と。言いたかった。彼女はそんな人じゃない。彼女は、アユトーシヴナは、ぼくを守ったのだ。まぶたの裏で桜色のショートヘアが揺れる。
多奈波は目を閉じた。記憶に目が眩む。頭が痛い。
「……天使は———」
悪なんでしょうか。
多奈波の呟きは、すんでのところで理性に抑えられる。
「人間に友好的な口調。ここまでは従来の天使と何も変わらない。今回は有効ぶった行動をしただけだ。【片翼】は人間を助けたのか……。んなこたどうでもいい。それより、翼失ってるとはいえ一人で電車止めてる実力の方がどう考えても議論すべきだろ」
どうやって【片翼】をころすか。
がこん、と議題が変わった音がした。きっと最初からそれが会議の目的だったのだろう。
「翼を失った方の肩は、まだ傷が完治していないはず。そこを突けばいい」
多奈波は突然、神父で溢れかえった祈りの間で独りぼっちになる。
「人間を助ける行動をするならば、民間人に扮して後ろからころすのは有効なんじゃない?」
快活な笑顔を向けてくれる時雨はいない。彼女の階級では、会議に参加できない。
多奈波の頭を撫でてくれる塔良もいない。彼とは、【友達】の前で別れてからまだ会っていない。仮に合流できていたとしても、彼は会議に参加させてもらえないかもしれない。塔良は実力ある神父なのに、教会から疎まれている。
「多奈波、【片翼】を直接見たのはお前だけだ。何か情報は無いか?」
多奈波は考えるふりをして、「何も」と言った。
「そうか」
彼は落胆した様子を見せなかった。今の行動は正しかったのだろうか。何が正しいのだろうか。正しいとは、何だろうか。
「天使という存在の誤りを、俺たちが正すんだ」
ぼくらは本当に正しいんだろうか。
28体の天使の駆除。
260名の民間人の負傷。
5名の民間人の死亡。
責任者である神戸支部の司教の処分。
被害に対してひどく簡潔な報告書をもって、今回の騒動は終わった。
「あ……多奈波。お疲れ、様」
一人で外出した帰りに、多奈波は時雨とばったり鉢合わせた。にわか雨のような青いメッシュの走る髪が、不安げに揺れる。
「時雨。もう怪我は大丈夫?」
多奈波が弱々しく笑うと、時雨は慌てて両手をぶんぶんと振った。
「そっ、そんなの心配されるのも申し訳ないくらい!すっかり元気だよ……むしろ、僕は多奈波の方がずっと心配」
眉尻をきゅっと下げる時雨。軽い口調で、「ぼくは大丈夫」なんて言おうとして、
「今回も会ったんでしょ?
その指摘に何も言えなくなる。見るからに動揺した多奈波を見て、時雨はまた焦ったようだった。
「ほら、やっぱり
(時雨は何もわかってくれてない)
ふと心に浮かんだ思いに、多奈波は気持ち悪くなる。気づけば俯いていた。
「ころさないと」と彼女の前で言ったのはぼくじゃないか。彼女が分かってくれないんじゃない。ぼくが、隠しているだけだ。
でも——
(言えるわけ、ないよ)
「初めに天使に洗脳された猫獣人の子、未だに僕に連絡してきて困ってるんだよね。シトラちゃん。もう名前まで覚えちゃった。日常生活に不便してる様子も無いし、言動もまとも。ただ、その天使に関わることだけはおかしくなっちゃう」
「!」
勢いよく顔を上げた多奈波に、時雨はびっくりしたように体を硬直させた。
(……洗脳じゃない)
ピンとくる。
「ぼくが対応してみてもいいかな」
もしかすると、その猫獣人——シトラも、アユトーシヴナの本性を知っているんじゃないか。
アユトーシヴナの善性は『正しい』んじゃないか。
今度は、今度こそは、『正しい』逢瀬が叶うんじゃないか。
「アユ……あの天使に会ったことがあるのは、今のところぼくだけだよね。ぼくが話した方が、上手くいくかもしれない」
声が上ずる。不自然な多奈波の態度に、時雨は下手な苦笑をした。
「——それはありがたいけど……。僕、多奈波に無理してほしくないな。ころせなかったって多奈波はショックを受けてるかもしれないけど、僕は大手柄だと思うよ? だって【片翼】、だよ。
多奈波のおかげで、その天使は大事な翼を失ったんだから!」
目の焦点が戻ってくる。多奈波は真っ暗な部屋で、1人かがみ込んでいた。
「はぁっ、はぁっ、はあ……………」
記憶が蘇る。自分を励まそうと明るい声を出す時雨を押しのけて、多奈波は走った。先ほどの時雨の怯えた顔も傷ついた顔も、意識から消し飛んでいた。
そう。天使は。アユトーシヴナは多奈波を助けた。
「ひっ」
誰もいないベッドに誰かが座っているような気がした。電気をつける。もちろんその部屋には多奈波しかいない。全身から力が抜けた。
手からするりとビニール袋が落ちる。今さら、自分が本屋から帰ってきたところだったと思い出した。
袋の中から、一冊の文庫本を取り出した。
フランツ・カフカの『変身』。
夕暮れ時の公園で、小柄な天使が読んでいた本。多奈波が傷つけて、穴を開けた本。
多奈波は『変身』を読まなければならなかった。強いられたように表紙を見つめて、裏返す。あらすじが書いてある。
ある日、毒虫になってしまった男。それでも日常は続いていく。
ぎょっとする。毒虫になった男の、日常。そんなわけがない。苦悩が、理不尽が、孤独が描かれるはずだ。さも当然のように、穏やかに生きることなんて不可能に違いない。
「———」
そのとき多奈波の頭に、恐ろしい考えがよぎった。ぶんぶんと頭を振る。消えない。むしろ疑念は大きくなる。
「違うんだ」と、小柄な天使は弁明した。かと思えば、桜色の髪を揺らして多奈波を指導した。多奈波の人間性を正した。「えらいね」と笑った。
———彼女は元々人間だったのではないか?
ありえない。そんなわけがない。絶対に。
唾を飲み込むと、喉がずきずきと痛んだ。
多奈波は逃げるように表紙の絵を凝視する。これはフィクションだ。現実じゃない。息を吐く。
多奈波はページをめくった。