TS上位存在   作:甘朔八夏

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9話 主は思い出す

 

 

梶井基次郎の『檸檬』が好きだ。

 

語り手である「私」が、心の(おり)を吐き出しながら独り京都を練り歩く。

読者である私の心に残るのは、ある果物店の描写だった。

 

夜の寺町通という道で、「私」は果物店を見つける。その電燈の明かりに惹かれる「私」の姿が、やけに好きで覚えている。

 

 

 

まあ、つまり。何が言いたいのかというと。

私は最近、深夜に街を徘徊するのにハマっていた。

 

 

 

道端に落ちていた新聞紙を私の能力で服に変えて、オシャレすぎるロングコートを作成。もうシトラに襲われた時と同じ(てつ)は踏まないぞ!

 

その後、片方の翼をきゅっと身体に巻く。その上から新聞紙製コートを羽織って翼を隠すと、天使要素の完全な隠蔽に成功だ。

 

それにしても翼が邪魔だな……片方失ったのは結果オーライだったかもしれない。傷も思ったよりすぐ塞がったし、単純計算で体積半分である。片方でも普通に飛べるし。

 

 

 

 

そうして私は人間さんが寝静まった未明の夜に、新神戸駅の周りをうろうろ歩く。

 

そもそも、新神戸駅は私が神戸を訪れようと思ったきっかけだ———記憶を取り戻すための。何かあるかなあ、欲を言えば私の実家とか。

以前作った「ねんどろいど 人間さん」をフィジェットとして手でこね回し、気分は冷たい檸檬を握った梶井基次郎(失礼)。しかし側から見れば、私は家々を物色する不審者でしかないだろう。

 

人間さんと遭遇してしまった日もあるが、意外と天使だとバレなかった。調子に乗った私は、最近街へ繰り出す時刻をだんだんと早めていた。

 

 

 

……いや。わざと人間さんに会おうなんて思ってないから。ちょっとなら触ってもいいかな、とか思ってないし、数日前に私のすぐそばまで近づいてきた人の匂い嗅いで気が狂いそうになったなんて過去はないし。

 

ただ純粋な気持ちで記憶を取り戻そうとしてるだけだし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「———アユトーシヴナ、さん」

 

そんな下心を抱いていた罰だろうか。はたまた、ご褒美だろうか。

 

私は目を見開いたまま硬直する。

 

月が最も高い場所で輝く。今日は満月だった。目の前にいる少年の———多奈波のオリーブオイル色の髪が、月明かりに淡く照らされていた。

 

 

 

たちまち、私の心の××が著しく勃×する。

今まで出会ってきた人間さんもみんな無防備で優しくて大変やらしかったが、今の少年———多奈波は別格である。

 

以前は敵意と警戒を浮かべていた綺麗な瞳は、今や私にだけ心を許した小動物のようにとろんとしている、気がする。

 

なんと言えばいいのだろう。後輩との2人飲みで愚痴を吐き出した後に、「帰るの嫌だな」と私を上目遣いに見つめるあの瞳。あんな感じがする。

 

あれ、私サカりすぎでは……?

そういえば、前のself-pleasure から早数日か……。じゃあ仕方ないね。

 

 

「多奈波」

 

少年の名前を呼ぶ。声が震えないように。キョドらないように。

多奈波の瞳がふる、と揺れた気がした。

 

「久しぶりだね」

 

にっこりと笑ったつもりだった。油断すると絶ッッ対に顔が気持ち悪くなることを確信していたので、私は全力で笑顔の仮面を貼り付ける。

 

「アユって呼ばれてるんですね」

 

多奈波はよろよろとこちらに近づく。

 

「ぼく、会ったんです。シトラって猫獣人に」

 

「え」

 

言葉を紡ぐ少年の口に目を奪われていた私は、その名前に正気へ戻る。

 

シトラ。

 

シトラ!

 

「シトラに会ったのかい!?」

 

うーわ、私のカス。すっかり頭から抜け落ちていた。路頭に迷っていた私を助けてくれて、ご飯も奢ってくれて、しまいにはスマホを借りパクしてしまった恩人。

 

翼が生えて、彼女の前から飛び去った後も一度電話をかけてくれていたのに。

 

「それならシトラから直接聞いたかもしれないが、彼女は私の恩人でね。また会いたいと思っていたんだ……本当だよ? まさか忘れていたなんてそんな馬鹿な———」

 

「あのひとは」

 

私は思わず石のようになった。多奈波がぐんと身を寄せてきたからだ。目の前に多奈波がいた。幼い子どもだと思っていた彼の背丈は、意外にも私と同じくらいだった。目線の高さは同じだった。多奈波のオリーブオイルのような色の瞳に、みっともなく硬直した私の顔が写っていた。

 

すぐ下に視線をずらすと、襟から覗く線の細い鎖骨が

 

「あの猫獣人はどうしてあなたを「アユ」と呼ぶんですか?」

 

「違っ、見てない…………え? ああ!名前ね!え〜〜アユトーシヴナと名乗っているものの、私はこの名前が全然馴染まなくてね……シトラの前でうろ覚えになっていたら、『じゃあアユでいい?』と彼女が言ったんだよ」

 

 

「……」

 

バレ……たか? これは。いや、しかし。これは仕方がないと私は言い訳したい。彼が着ている天使殲滅部隊(仮)の制服が、多奈波には少し大きいのだ。だから首元に余裕があって、深く覗き込めばひょっとしたら胸だって……

 

「シヴナさん、って呼んでもいいですか」

 

「へっ———」

 

乞うように伸ばされた手。多奈波の手が私の手に触れそうになって、私は慌てて手を引っ込めた。

 

|

 

ふれたらとてもまずいきがしたから。

 

|

 

もう一度ふる、と揺れた多奈波の瞳に、私はわたわた両手を振った。

 

「やめておいた方がいい……私は君の味方でありたいと思ってる。でも私は天使だ。そうだろう? そして———シヴナ、だったかい? ああ、もちろんいいよ。君に()()()をつけてもらってとても嬉しい。「シヴナ」か。なんだか「()()()()()()()()()()()

 

 

彼の顔がすっと真顔になったことに気づかず、私は少年の伸ばしてきた細腕の余韻に夢中。

 

今、この子は私を触ろうとしたね? 誘ったよね? それってもう結婚というかセッ———そういえば『檸檬』でも、語り手が病によって熱くなった手を見せびらかすために友人と手の握り合いをする描写があった。疾患者にエロティシズムを感じてしまう自分に鉄槌(てっつい)。作者に多大なる謝罪と感謝を。

 

それにしても恐ろしい。私を大爆発させるのに、少年は檸檬さえ不要なのだ。さながら『一握りの火薬(リトルフラワー)』のように、ただ手を握るだけでいい。

 

……待て。まさか多奈波が鎖骨を強調しているのも、わざとなのか? 私に華奢な上半身を見てほしい、といういじらしいサインなのか?

そういえば、好きな漫画家がすごい事を言ってた気がする。思春期の男の子の乳首は女の子、だったか。そうなると、多奈波と私の×××は百合なのか???

 

 

「……シヴナさん」

 

なにかな!!?

 

私のクソデカボイスに多奈波は一瞬怯んだ後、

 

「あなたはシトラとは違いますよ」

 

平坦な声色で言った。その少し痛そうな表情を私が尋ねる間もなく、多奈波はまた口を開く。

 

「あなたの匂いの強さに、ぼくは怖がっていたけど」

 

「えっ」

 

そうだったのか? 今まで一回も言われたことがないから気づいていなかった……翼が生えて以来、基本ぼっちであったことを思い出して落ち込む。

 

「……でもぼくは、シヴナさんみたいな、香りの強い紅茶も好きだったなって、思い出しました」

 

そう言って、くすりと笑った。

 

 

 

この子の笑顔を初めて見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

「多奈波。嬉しいことを言ってくれるね」

 

ひどく冷静に、私はふっと笑ってそう言った。イヤリングでも触るように、何もついていない自分の耳に触れた後、ふと思い出したように私は多奈波から目を逸らす。

 

「変なことを聞くんだけれど。君はこのフレーズを知っているかな? すごく耳馴染みがあるんだけども、どうも思い出せなくてね。

『ありがとうごめんなさいを言葉で伝え———』」

 

多奈波の不思議そうな顔が、硬直し、たちまち目が見開かれた。しばしの沈黙の後、多奈波は小さな声で、

 

「『———まわりに心から感謝をすること』」

 

続く文章を呟いた。

 

「!……それだ、それだよ! どうして君がそれを? そもそも、この文が何なのか知っているのかい?」

 

「…………昔通ってた塾で音読した、心構え、みたいな」

 

 

塾。

ありがとうごめんなさいを言葉で伝え、周りに心から感謝をすること。

 

完成したフレーズと新たに渡された塾というキーワード。シナプスが隆々と働き、私は思い出す。

 

「KEC八訓だ!そうだ……すごく懐かしい。ああ、私も読んだなあ…………多奈波も昔にKECに通っていたのかい? これは思わぬ共通点だね」

 

理性が、予想外の巨大な収穫に高揚する。基本的に、塾というものは自宅の近くか学校の近くの教室に通うものだろう。この手がかりを利用すれば、ひょっとしたら本当に家だって。

 

 

 

 

しかし今、私の脳の与党を担っているのは理性ではなかった。

 

「し、シヴナさん」

 

「またその事も話せたら嬉しい……そうそう、シトラの話もしていたね。彼女のスマホを借りっぱなしなんだ。会って、謝って、返したい。協力してくれると嬉しいな」

 

「あなたは」

 

小さく小さく多奈波の口の中でこもった言葉を、私は拾うことができなかった。

 

「そうだな……ああ、あそこに公園があるね。そこのベンチに、手紙を忍ばせておくよ。そうすれば、私は多奈波と連絡を取れる。良いアイデアだと思わないかい?」

 

羽織っていた新聞紙製のコートを脱いで手にかけて、私はばさりと片翼を広げる。

 

「君と話せて良かった。また、会ってくれると嬉しい」

 

飛び立つ。

 

どくどくと心臓が跳ねている。手で押さえる。胸が邪魔で鼓動が手に届かない。

私は焦っている。目を閉じて、まぶたの裏に強く、多奈波の笑顔を再生した。急げ。この記憶が鮮明なうちに。

 

 

(早く××らないと…………)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天使が【片翼】を広げて飛び立った場所で、多奈波は彼女の温もりを探すようにコンクリートの地面を茫然と見つめていた。

 

———神戸に来て、目的は達成できましたか。

 

話したいことは数えきれないくらいあった。

 

———翼のところ、痛くないですか。

 

謝りたいこともそれよりずっとたくさん。

 

———『変身』を読んだんです。

 

 

「……あなたは、グレゴールなんですか?」

 

 

それも全て吹き飛んでしまった。

 

KEC。奈良を中心としていた塾の名前だ。多奈波がまだ神父ではなかった小学生の時に、少しだけ通っていた塾。

 

 

天使の幼体は確認されていない。

 

「羽化」する前の蛹の状態でも、天使は完成された姿のまま存在する。そもそも、教会は天使の発生それ自体をいまだ掴めていない。

 

 

背中に毒虫が這い上がるような悪寒を覚えた。ひとかけらだけだった疑念が多奈波の中で大きく脈打っていく。毒が回るように。

 

家族に疎まれた巨大な毒虫は。人類に厭われた巨大な片翼の天使は。

 

「あなたは、人間なんですか」

 

ぼくは。ぼくはずっと、正しかった。天使をころして、人間を助けることは、正しいことだった。割れる。崩れる。壊れてしまう。心が信条が決意が全部全部全部。

 

アユトーシヴナこそ守られるべき被害者なのだとしたら?

 

 

 

腰が抜けて、手のひらが地面につく。早春のコンクリートは、まだ凍えるほど冷たかった。

 

 

 

 

 

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