運命(オム・ファタール)

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吸血少女は合縁奇縁の運命と恋をするか

 渡我被身子の人生は最初から"普通"ではなかった。

 彼女の個性『変身』は他者の血を摂取する事でその人物に変身できるというもの。

 これだけならば問題なかった。他者との差が明確となり彼女が両親から見て"普通"でなくなったのは個性発動条件に伴う興味関心……、嗜好の"異常"がわかったからだった。

 

 何かを取り込んで個性発動のトリガーとする『個性』は多岐に渡る。例えば、たこ焼きなど食べ物から元となるタコなど生物の特徴をその身に再現する個性として『再現』が挙げられる。

 こういった『個性』を持つ者には須らく、"個性発動条件となる物に対して忌避感はなく、むしろ好ましい物に感じられる"という特徴がある。

 

 先の例で挙げた『再現』で言うと、発現したての幼児期には口に入れられるものなら何でも口にした上、カマキリや蟻など虫食も好奇心のままに行った例が報告されている。

 

 炎熱系個性の持ち主が炎に対する耐性やある程度の温度上昇に耐えられる体をしている事が多く、熱血漢や情の深い一途な人間が多いように。

 渡我被身子もまた、他者の"血"に対してある種異常と言える憧れを宿していた。

 加えて、他者に成りたいという『個性』由来の欲求。

 興味も、関心も、欲求も。それらは憧れと混ざり合い、欲望へと昇華しドロドロに溶け合う。

 他者の"血"を求める幼い渡我被身子の姿は、ごく普通の両親にとって世間や己の常識とは外れて"普通"ではない、悍ましいモノに映った。

 

 そうして、両親や周りの大人に嗜好を"矯正"されて表面上は普通の女子中学生となった渡我被身子。

 しかし、鬱屈とした欲望は肚の底で溜まり続け、どんどんと大きくなるそれは、いつ破裂するかわからない膿となっていた。

 

 

 ────────────────────────

 

 

「今日は転校生を紹介するぞー」

 

 中学3年生。6月。毎日降る雨に鬱々とした気持ちになるも、多くが自身の将来──進学か、はたまた就職か──に否が応でも目を向けなければならない時。思春期の子供と大人との境界線。

 そんな狭間の時期に彼は現れた。

 

「斉藤紙命です。個性は紙を操る『操紙』。よろしくお願いします」

 

 礼儀正しく頭を下げる斉藤への歓迎の声よりも困惑の表情が勝るクラス。

 彼の顔には無数の擦り傷があり、額にはわずかに血が滲んでいるガーゼもある。さらに腕には包帯まで巻いているからだ。

 

「あー、斉藤は先週運悪く車との交通事故に遭った。幸いヒーローに救助されて大事にはならなかったが、慣れない場所なのもあって何かと不便だろう。皆も助けてやってくれ」

「はーい!」

 

 担任の言葉に元気よく返事をする。

 怪我の原因さえ分かればこちらのものと、ぽけーっと呆けている渡我を除きすっかり不信感が無くなった女子はきゃいきゃいと口々に「イケメン」「超かっこいい」と声を上げる。

 

 声変わりが終わった少し低めなアルトボイス。艶やかな黒髪は毛先を遊ばせたシークレットパーマ。渡我より高い170cmほどの背丈に、一目で鍛えていることがわかるがっしりとした体格。それと大きな紅色の瞳はタレ目で、柔和で穏やかな印象を与える。

 

「じゃあ斉藤は渡我の隣だな。あそこ、1番後ろだ」

 

 斉藤は担任に従い、渡我の隣の席に腰を下ろす。

 

「よろしくね、渡我さん」

「……よろしくお願いします」

 

 素っ気ないとも取れる返事をした渡我だったが、胸中は全く正反対だった。

 ばくばくと高鳴る心臓と赤くなりそうな顔を表に出さないように必死に隠し、やっと絞り出した言葉がこれだった。

 奇麗で穏やかな表情、そしてガーゼからにじみ出る僅かな"血"から薫る芳醇な香り。傷だらけの肢体はほう、とため息をついてしまうほど渡我には魅力的に映る。

 

 そして何より、血のように真っ赤な深紅の瞳。

 

 それに見つめられていると、気を抜くとにんまりと笑んでしまいそうな口にきつく力を入れて努めて()()()()()()をつくる。

 両親から"矯正"された笑顔をしていなくてはならないと、斉藤の横顔から視線を逸らし前を向く。

 

「(でも……ああ。()()()()したいなあ)」

 

 必死に抑制してきた欲望が、むくりと鎌首をもたげる。

 晒してはいけないと、興味を持ってはいけないと。懸命にガマンして蓋をした筈なのにじゅくじゅくと、ぶくぶくと。ゆっくりと"欲望"という名の膿はその蓋を暴かんと膨れ上がっている。

 

 

 この日、渡我被身子は斉藤紙命に恋をした。

 

 

 それからというもの、あっという間に斉藤はクラスどころか学校イチの人気者となった。

 ヒーロー科最高峰たる雄英志望の彼は文武両道。転校直後の期末試験では学年トップ。続く模試では雄英B判定。個性の扱いも同学年はおろか全校生徒の誰よりも長けていた。

 そんな人間が現れればやっかみを受けそうなものだが、斉藤の柔らかな物腰や相手によって態度を変えない誠実な態度によってなりを潜めた。

 

 そんな斉藤と渡我は隣の席同士ということもあり、「渡我さん」「斉藤くん」と呼び合い、休み時間に話す間柄となった。

 彼は意外にも中学生らしい世間の流行りに鈍感で、隣席の渡我に加えスクールカースト上位組の人間がそれを教えていた。

 斉藤はなんでも興味深げに関心を持ってくれるので、クラスメイト達も嬉々として流行りのアミューズメント施設やテレビ番組などの雑談に興じていた。

 

 今話題に上がっているのは某遊園地の"絶叫! スプラッタマウンテン"という客を呼び込む気があるのかという名前のジェットコースターだ。普段は滝を思わせる勢いの水の中をコースターでそのまま突っ切る、スリリングな大人気施設。

 今年はなんと、あの雄英教師としても有名なヒーロー・ブラドキングとのコラボという事で彼の個性『操血』から着想を得たのか、水を真っ赤に着色して血液のようにした上でおばけやゾンビなど和洋折衷なホラー的要素を前面に押し出している。

 

 渡我は"普通"に過ごすため、比較的大人しめの女子グループに所属しているのでカースト上位の話題には入れず、そばで聞き耳を立てていた。

 

「これ行ってみようぜ! 面白そうだしさ」

「でも受験前最後の夏休みだぜ? おれらは兎も角斉藤はムリだろ。あの雄英志望なんだしさ」

「えー……斉藤くんどう? 1日だけ! 気分転換にさあ!」

 

 カースト上位組は地元のヒーロー科に進路を定め、学力的には合格圏内となっている者か大半で、何人かは推薦も内定している。周囲と比較して余裕のある状態だ。

 しかし、斉藤は雄英志望であるため、現在も受験勉強や『個性』鍛錬に余念がない。模試の結果は比較的良いとはいえ、油断できるようなものではないのだ。

 両手を合わせ、上目遣いで懇願するような茶髪のポニーテール女子に、斉藤は苦笑しながら答える。

 

「まあ、1日くらいなら……。オッケーかな。気分転換も兼ねて行くよ」

「やったー!」

 

 もろ手を挙げて喜ぶ女子生徒。男子たちも斉藤が行くとは思っていなかったようで、こちらも大はしゃぎだ。

 一方、渡我は内心を完膚なきまでに砕かれた。

 斉藤は毎日寄り道せず真っ直ぐ帰宅して家や塾で勉強や『個性』鍛錬に精を出していた。そのため、この夏休み期間はそれにいっそう力を入れるものだとばかり思っていたのだ。

 

 つまり、学校でしか斉藤と接点がない渡我はこの1か月ほど顔を合わせる機会が全くなくなる。他の皆も同じだと考えていたが、カースト上位女子の押しの強さを甘く見ていた。

 

 星光(ほしみつ) きらら──先ほど斉藤に"絶叫! スプラッタマウンテン"への同行を強く求めた女子。個性は指先から光線を放出する『レーザービーム』──が斉藤を狙っている事は斉藤以外には周知の事実。

 施設へ行く日程を決めている今も斉藤に体を寄せて、彼を誘惑するように中学生離れした肢体を見せつけている。

 

 それを横目で眺めつつも、"普通"に押し込められた渡我は何も言えない。過去に両親から言われた言葉が今も渡我の胸の中で渦巻いている。

 

「──ねえ、渡我さんも一緒に行こうよ」

 

 斉藤の言葉にしん、と静まり返る教室。

 予想外の言葉に渡我は疑問を返す。

 

「え……。どうして」

「どうしてって……。"友達"と行ったらもっと楽しいじゃん? それに渡我さん、先週からこのジェットコースターのサイトちょくちょく見てたよね? 行きたいんだと思ってたんだけど……」

 

 心底から不思議に思っている表情の斉藤。

 斉藤の言葉通り、この"絶叫! スプラッタマウンテン"は渡我の大好きな"血"の要素がふんだんに盛り込まれている上に、搭乗者限定で抽選配布されるチケットで交換できる"特製! カーミラザクロ"という高級ザクロジュースまで飲むことができる、渡我の好きなものだけ盛り込んだまさに夢のような施設なのだ。

 

 当然、渡我もマークしており暇な時間はスマホで特設サイトを眺めていた。

 斉藤がそれを覚えていた上に自分を遊びに誘ってくれた事に感動する渡我。

 

 斉藤は恋愛などに興味がないようで、男女分け隔てなく接する。彼の前にスクールカーストなど意味をなさない。しかし周囲の人間の悩みの気配には敏感で、どこからともなく察知したかと思えばそれを下心ではなく、当然のように解決する生粋のヒーロー精神。

 

「はい、行きたい、です……」

「ほんと? じゃあ、この面子で行こうね」

 

 か細い声で返事をした渡我の言葉に破顔し、斎藤はニコニコと彼女の手を引いて日程決めの会議に参加させた。

 上位カーストグループも斉藤の決定には逆らわない。渡我は期せずして斉藤と夏休みに遊ぶことが決定した。

 当日までの連絡用にとSNSグループに招待された後、斎藤と個人アカウントも登録し合う。

 日程は8月7日。渡我の誕生日でもあるその日は、一生忘れられない日になるという予感がした。

 

 

 ────────────────────────

 

 

 8月7日当日。某遊園地入り口前。

 張り切りすぎた渡我は集合時間より1時間も前に到着していた。

 友人と遊園地に遊びに行くというごく"普通"の女子中学生らしい行いに両親は大層感動し、髪をケアして整えてくれたり、臨時のお小遣いまでくれた。

 渡我はいつも通りのお団子ヘアーに中学の制服を着用している。これは制服で遊園地に行きたいという星光の提案だ。夏服の紺色のサマーセーターに、スカートを普段より折っている。品行方正を演じる普段の渡我ではありえない膝上15cmのスカートだ。

 

 渡我はちら、とスマホで時間を確認する。

 集合時間30分前。いくら入り口前の木陰で待っているとはいえ、夏真っ盛り。午前中だというのに気温は30度を優に超えている。じんわりと滲む汗が鬱陶しい。

 

「あ! 渡我さーん!」

「斉藤くん!」

 

 小走りで渡我の元へ向かってくるのは斉藤紙命。

 彼も制服の夏服姿だが、普段よりワイシャツのボタンを2つ多く開けている。ワイシャツの隙間から覗く普段見られないなまめかしい奇麗な鎖骨と首筋のラインに思わず生唾を飲み込む。

 

「おはよう。今日も(あっつ)いねえ。大丈夫? よかったらこれ飲んで」

 

 斉藤が鞄から取り出して手渡してきたのは彼が今首筋に当てている物と同じ冷凍されたスポーツドリンクだ。しかしこの気温のせいか、すでに氷部分が溶けてしまっている。

 

「ありがとうございます!」

 

 渡我はペットボトルの蓋を開け、スポーツドリンクを飲む。自販機の普通のペットボトル飲料より冷えていて、熱くなった体に染み渡る。加えて相当喉が渇いていたのか、500mlあったスポーツドリンクはすぐになくなってしまった。

 

「(勢いよく飲みすぎました……!)」

 

 ごくごくと喉を鳴らして飲み干した渡我の口元をじっと見つめる斉藤に、気恥ずかし気に答える。

 

「ごめんなさい。喉乾いてて……」

「え、あ、ごめん! 全然気にしてないよ。ただ──」

「ただ?」

 

 言いよどむ斉藤は頬を指でかき、少し照れた様子で呟いた。

 

「──なんだか、今日のリップ可愛くて、すごい似合ってるなあって思って……」

「──!」

 

 それは、今日のために渡我が悩みに悩んで選んだピンクリップだった。

 少し背伸びをしたデパコスで、店員さんのオススメの中から選んだ一品。自分に自信をつけるために選んだものだったが、斉藤に似合っていると褒められるのはとても嬉しかった。

 

「……あはは、えっと、ごめんね! なんか変なこと言っちゃって──」

「──ううん。嬉しいです」

 

 顔を赤くし、何とも言えない甘い雰囲気を醸し出した2人。少し気まずくなって挙動不審になりかけたところで、斉藤のスマホが着信を知らせる。

 突然鳴り響く着信音に驚いてお互いに飛び上がり、斉藤が慌ててポケットからスマホを取り出す。

 

「星光さんから電話だ。もしもし──うん、──うん。──ええっ、大丈夫? ──うん、わかった。残念だけど、仕方ないね」

「どうしたんですか?」

 

 渡我はスマホの通話を切ってため息をついた斉藤に尋ねる。

 

「星光さんたちが乗るはずだった電車、(ヴィラン)が出ちゃって走行不能だって。ケガとかはないみたいだけど、どの電車もこっち方面に来られるやつは止まっちゃってるから今日は来れないってさ」

「それは、残念ですね……」

 

 言葉とは裏腹に、渡我の内心は狂喜乱舞だった。ついている。今日は運が向いている。まるで、すべてが渡我の思い通りになるのではと錯覚するほどに。

 

「まあ、仕方ないか。2人だけど思いっきり楽しもうね!」

 

 そう言って、渡我に手を差し出す斉藤。おずおずと渡我はその手を取り、万感の思いで答える。

 

「──はい!」

 

 

 ────────────────────────

 

 

 入場券を購入しようと並んでいると、受付の掲示板に掲載されている料金表の1番上に大きく記載されている『カップル♡割り引き』の文字を発見した渡我。思わず目を逸らすと、待機列に並んでいる人も家族連れが少なく、やけに男女2人組のグループが多い事に気づいた。

 不思議に思った渡我は自身のスマホを取り出して調べると、どうやら8月1日から7日までの1週間はカップルウィークと称して男女ペアで来場すると様々な特典や割引が得られるキャンペーンを実施していたようだ。

 

 この遊びを計画した1ヵ月前にはお知らせページに予定が記載されているだけで、それからもジェットコースターの特設サイトだけを見ていた渡我も見落としていたのだ。

 

「(星光さん、今日の遊園地で斉藤くんにアピールするつもりだったんだね……)」

 

 思い返せば、某遊園地を話題に上げて行きたがっていた中心人物は星光だった。男子が話題に挙げてからやけにスムーズに話が進んでいるなと渡我も感じていたが、グループメンバーには事前に話を通していて、星光の応援として話題を誘導していたのだと今になってわかった。

 ちら、と斉藤に視線を向ける。

 彼はスタッフに手渡された施設の場所が簡易に記載されているパンフレットを真剣に眺めていた。時折視線が場内に向くので、道順をシミュレーションしているのだとわかる。

 

「斉藤くんはこういう遊園地とか詳しいんですか……?」

「おれ? 全然! 恥ずかしながら、小学校から勉強とか訓練ばっかりでさ。家族と2、3回来たことあるぐらい。こんな立派じゃない小さいトコだけど。だから今日すげえ楽しみだったんだよね」

 

 だから星光さんたち来れなくてちょっと寂しいかな、と苦笑いを浮かべる斉藤。

 星光の恋慕も、渡我の内心の欲望や、被っている笑顔の仮面など知る由もなく斉藤は友人と遊ぶ遊園地を純粋に楽しみにしていた。

 

 ──だが、渡我はそんな()()()()()()()()で終わる気はない。星光がいない今、斉藤と仲を深めなければ勝機はない。

 内心で荒ぶる"欲望"を必死に抑え、人間じゃないと誹られた醜い顔を覆い隠す、恋をする"()()()()()の仮面を被る。

 

「ねえ、斉藤くん。あれ見えますか?」

「……『カップル♡割り引き』?」

「そうです。今日までやっているカップル限定の割り引きです。学生料金で入るよりコッチの方がお得じゃないですか?」

「え、うーん……でも……」

 

 斉藤が渡我と料金表を交互に見やる。

 入場料は大人1人7500円。学生料金で6500円で、『カップル♡割り引き』では特別価格で大人6000円で、学生かつ『カップル♡割り引き』であれば5000円となる。

 当初予定していた料金から1500円も引かれれば、充分飲食代やお土産代の足しになる。中学生のお小遣いは貴重なのだ。

 

「……実際に付き合ってないのに、大丈夫なのかな? ばれたりしたら……」

 

 斉藤が少し耳を赤くして、戸惑ったように渡我を見る。

 

「SNSで調べたんですけど、雰囲気がそれっぽければ厳密なチェックはしないみたいで……。ほら、星光さんたちも来られなくなっちゃって、浮いたお金でお土産も買えますし……ダメ、ですか?」

 

 上目遣いで、必死に「普通の女の子のずるさ」を演じる。

 斉藤は一瞬面食らったような顔をしたが、すぐにいつもの柔らかな笑みを浮かべた。

 

「……そうだね。渡我さんの言う通りだ。じゃあ、ちょっと緊張するけど……行こうか」

 

 初々しいカップルを演じるため、渡我は斉藤にぴったりと密着して腕を組む。制服越しに伝わる彼の体温は、心なしか少し高かった。

 受付で「付き合いたてのカップルです」と斉藤が少し照れくさそうに言うのを聞いた時、渡我の心臓はうるさいくらいに跳ね上がっていた。

 

 ──手を繋いで、園内に入る。

 8月の熱気と、歩くたびに触れ合う斉藤の体温。差し出された彼の掌は大きくて、少し硬くて、男の子の匂いがした。

 星光たちを止めてくれた見えざる幸運に、渡我は心の底から感謝していた。

 

 最初に二人が足を向けたのは、園内でも古くからある、お化け屋敷だった。

 薄暗くひんやりとした通路を進む中、突然飛び出してきた仕掛けの妖怪に、渡我はわざとらしく「きゃっ」と声を上げて斉藤の腕にしがみついた。カースト上位の女の子たちがやるような、普通の、可愛い怯え方のつもりだった。

 

「大丈夫。俺が前に立つから、後ろについてきて」

 

 斉藤は得意げに微笑み、渡我を庇うように一歩前を歩く。

 その背中は中学生とは思えないほど逞しく、ヒーロー志望としての片鱗を覗かせていた。渡我はそんな彼の後ろ姿を見つめながら、暗闇に紛れてにんまりと口元を緩める。

 

「(ああ、やっぱりカッコイイよ斉藤くん。優しくて、カァイイ、私だけのヒーローみたい──)」

 

 純粋な恋心と、彼の背中に飛びついてその綺麗な首筋を噛みちぎりたいという悍ましい欲求。二つの感情が渡我の胸の中で心地よくせめぎ合っていた。

 

 そうしていくつかのアトラクションを巡り、お互いの距離が少しずつ縮まった頃。二人はついに、お目当ての"絶叫! スプラッタマウンテン"の前に辿り着いた。

 

「うわあ……すごいね。本当に水が真っ赤だ」

 

 斉藤が感嘆の声を漏らす。

 視線の先、轟音を立てて激流を下るコースター。巻き上がる水飛沫はドロリとした鮮血を思わせる禍々しい深紅。辺りにはプールの塩素と、着色料の甘ったるい匂いが混ざり合って充満している。普通の女の子なら「うわ、悪趣味ー!」などと顔を顰めるところだろう。

 けれど、渡我にとっては違う。

 

「綺麗、ですね……」

「え?」

「あ、ううん! すごーく楽しそう、って思って!」

 

 危うく仮面が剥がれかけた口元を、慌てていつもの()()()()()の仮面を被って覆い隠す。

 

 順番が来て、2人は最前列のシートに乗り込んだ。安全バーがガチリと体を固定してゆっくりと動き出すコースター。

 

「渡我さん。怖かったら俺の手、握ってていいからね」

 

 隣の斉藤が、少し声を張って言ってくれる。彼の深紅の瞳が、アトラクションの赤い照明に照らされて、まるで本物の血の結晶みたいにギラリと輝いた。

 怖いわけがなかった。渡我は今、世界で一番幸せだった。

 

 コースターがカタカタと音を立てて、頂点へと昇っていく。

 一瞬の静寂。眼下に広がる、真っ赤な水のプール。

 

「いくよ、渡我さん!」

「はいっ!」

 

 次の瞬間、視界が猛スピードで反転した。

 重力から解放される浮遊感。鼓膜を突き刺す風の音。

 そして──バシャアアアアアン!!! という、鼓膜を震わせる轟音と共に、大量の「赤い水」が二人の全身に容赦なく降り注いだ。

 

「冷たっ……!  あははは! 気持ち──!」

 

 斉藤の弾けたような笑い声が響く。

 前髪からポタポタと滴る赤い水。彼の白いワイシャツはすっかり濡れそぼり、肌にぴったりと張り付いている。

 その光景を見た瞬間、渡我は息を呑んだ。

 

 濡れた黒髪。鎖骨を伝う、赤い雫。

 まるで、彼が体中の血を流して、自分に溺れてくれているような──そんな、最悪で、最高に甘美な錯覚。

 肚の底で、ガマンして蓋をしていた膿が、ドクドクと音を立てて溢れ出しそうになる。

 やっぱり、斉藤くんがいい。斉藤くんが欲しい。チウチウしたい。この人の全部になりたい──そんな剥き出しの欲望が、渡我の脳内を支配していく。

 

「……渡我さん? 大大丈夫? 顔、真っ赤だよ」

 

 コースターが速度を落とし、プラットホームへと滑り込む。斉藤は心配そうに隣の渡我を覗き込んできた。

 

「……ふー、びっくり、しちゃいました」

 

 渡我は胸元を押さえ、はにかむような笑顔を作った。高鳴る心臓の音が彼に聞こえてしまうのではないかと、内心の動揺を必死に覆い隠す。

 

 アトラクションを降りた後、全身濡れそぼった搭乗者たちは専用の通路で服や体の水気を飛ばした。そして2人はそのまま搭乗者限定の特設ブースへ向かった。

 

 手に入れたのは、お目当ての"特製! カーミラザクロ"。

 ガラス瓶に入ったそのジュースは、果汁100%の、深く、濃い、本物の血液そっくりの赤色をしていた。

 

「はい、斉藤くんの分です」

「ありがとう。……すごい色だね。本当に血を飲んでるみたいだ」

 

 斉藤がストローに口をつけ、コク、と喉を鳴らす。渡我はその喉仏の動きを、飢えた獣のように見つめていた。

 自身もジュースにストローを挿し、ちゅー、と吸い上げる。

 口いっぱいに広がったのは、濃厚な甘みと、強い酸味だった。

 

「……おいしい、です」

 

 ストローを咥えたまま、渡我は斉藤の顔を見つめた。

 スプラッタマウンテンの激しい水飛沫のせいで、彼の白い頬には、プール用の着色料が混ざった『赤い水』が一筋の涙のように伝っている。

 そして、その液体のすぐ横──額の生え際近くに、渡我はあるものを見つけた。

 6月のあの日に彼女を狂わせた、芳醇な香りを放っていた赤色の傷口。それは今や、薄く白い、完全に塞がった傷痕へと変わっていた。

 

「渡我さん? どこ見てるの?」

「…… 斉藤くんの頬っぺたに……さっきの赤い水、ついたままですよ」

「え? どこ?」

「ちょっとじっとしててください。取りますから」

 

 一歩、渡我は斉藤との距離を詰めた。

 すでに綺麗に“治って”しまった彼の肢体。

 目の前にあるのは、ただの冷たい『偽物の赤い水』。そして、手元にあるのは、血に似せて作られた、ただの『酸っぱいザクロの果汁』。

 本物は、もうどこにも流れていない。彼の皮膚の奥へと、完全に閉じ込められてしまっている。

 

 その事実を突きつけられた瞬間、渡我の肚の底で、必死にガマンして蓋をしてきた膿の蓋が、鋭い音を立てて弾け飛んだ。

 

 ──足りない。

 

 こんなニセモノの赤じゃ、全然、全然足りない。

 彼女が欲しいのは、ザクロの酸っぱさではない。塩素混じりのインクの匂いでもない。

 あの日に己を魅了した、斉藤の身体から溢れていた、あの生温かくて、鉄の味がして、世界で一番愛おしい──本物の血だった。

 

「はい、取れました」

「ありがとう、渡我さん」

 

 親指の腹でそっと頬の液体を拭うと、斉藤はフッと目を細めて微笑んだ。そして、次の道順を確かめるためにパンフレットへ視線を落とす。

 

 その、一瞬の隙だった。

 渡我は、自分の親指に付着した“赤い液”を迷わず口元へと運び、割り裂けたような口内へ、ペロリと迎え入れた。

 

「───っ」

 

 脳髄を殴られたような錯覚。

 だが、口の中に広がったのは、やっぱりただの、インクの混じった無機質な水の味だった。斉藤の味なんてこれっぽっちもしない。

 

 けれど、その『圧倒的な偽物感』が、渡我の乾きを、飢えを、欲望を、一気に臨界点へと加速させた。

 

 ガマンなど、できるはずがなかった。

 こんなにも愛おしい人が目の前にいるのに、その中身に、触れることすらできないなんて。

 こんなニセモノで満足して笑い合うのが、両親の言う『普通』なら。星光たちがやっているような、手を繋いでジュースを飲むのが『綺麗な恋愛』なら。

 

 ──そんなもの、渡我には必要なかった。

 

 渡我は、斉藤の、あの皮膚を破りたかった。

 

 せっかく塞がったその綺麗な肌を、もう一度めちゃくちゃに切り裂いて、そこから溢れる本物の、温かい、綺麗な赤色を、この口いっぱいに、溢れるほどに吸い尽くしたい。

 そうして、斉藤の全部を自分の中に引き込んで、自身が、斉藤になりたかった。

 

「……渡我さん、次はあっちのエリアに行ってみようよ!」

 

 振り返った斉藤の瞳は、相変わらず血のように真っ赤な深紅で、渡我を優しく映している。

 

「はい! 行きましょう、斉藤くん!」

 

 渡我は、今日一番の──両親に矯正されたどんな笑顔よりも美しく、そして完全に狂いきった、満面の『笑顔』を斉藤に向けた。

 

 

 朝、彼に「可愛い、似合っている」と褒められたお気に入りのピンクリップ。

 普通の女の子になりたくて、必死に背伸びをして選んだその淡い桃色は、今やアトラクションの赤い水と、指先から舐めとったどろりとした妄執に塗れ、まるで本物の鮮血を貪ったかのような、禍々しい深紅へと染め変えられていた。

 

 その赤く濡れた唇を歪ませ、渡我は斉藤の大きな手を強く、強く握りしめる。

 

 8月7日。彼女の、一生忘れられない誕生日。

 渡我被身子が"普通"を完全に諦めて、大好きな人にすべてを捧げると決めた、最高の記念日だった。


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