櫛田桔梗として 作:ハイフン
青色に染まる朝の空と、人がまばらに行き交う街並み。
「そこの君。お婆さんに席を譲ってあげてくれないかしら?」
流れていく車窓の景色をぼうっと眺めながら立っていると、そんな声が横から聞こえてきた。
満員に近いバスの中。私と同じく吊り革を掴んで立っている乗客たちの隙間から、たった今声を上げた女性の姿が確認できた。黒いスーツを着た会社員風の女性。身なりがきっちりとしていて、綺麗な横顔から生真面目そうな性格が窺い知れる。
女性のすぐ横には、杖を突いて腰の曲がったお婆さんの姿があった。手すりを掴んでいるとはいえ、混雑し、揺れる車内では立っているだけでも辛そうだ。
「聞こえていないの? 君に言っているのよ」
女性の視線の先には、優先席に座っている少年。いや、少年という表現は果たして適切なのだろうか。オールバックにした金色の髪。精悍で大人びた顔立ち。腕を組み、座席にどっしりと構えた体は見るからに逞しい。もしも少年の格好がスーツや私服だったならば、私は疑うことなく少年を成人男性と認識していたと思う。
でも、少年は制服を着ている。これから私が通うことになる高校の制服を。
「まさか、私に言っているのかい?」
少年は閉じていた目蓋を開き、何故か不敵に笑いながら、女性に問い掛けた。
「そうよ」
「なるほど。では次の質問だが、何故この私が、席を譲らなければならないんだい?」
「何故って……。そこは優先席よ。お年寄りが来たら譲ってあげるのは当然でしょう?」
「当然、ね。すまないが、全く理解できないねぇ。優先席はあくまで優先席であって、譲らなければならない、といった法的な義務は存在しない。席を譲るか否かを判断するのは席に座っている私なのであって、外部からとやかく言われる道理もない。お分かりかな? レディー」
「な、何よそれ……! それが目上の人に対する態度なの!?」
女性の親切心から始まったそのやり取りは、何やら雲行きが怪しくなっていた。
女性だけでなく、近くにいた乗客たちの、少年を見る眼差しは少し険しくなっていた。
この場合、世間的に見れば悪いのは少年だ。如何にも健常そうな体格で、怪我をしている様子もない。若く屈強な若者が席に堂々と座っていて、足腰の弱いご老人が辛そうに立っている。この構図を見れば、多くの人が少年を非難し、女性の味方につくだろう。
これが、ただ席を譲るかどうかという些細な問題であっても。
こういうとき、彼女、『
少し考えた私は、この争いを収めるために行動に出た。
「あの」
と、意図して高い声を響かせた私は、少年ではなく、その隣の優先席に座る男性に声を掛けた。
スーツ姿の二十代後半と思しき男性。こちらも特に怪我をしている様子はない。年齢こそ違えども、これならば少年と条件は同じだ。少年を説得するのに無駄に時間を消耗するくらいならば、容易く説得できそうな相手に切り替えればいい。
「え、私、ですか?」
「突然すみません。もし宜しければ、お婆さんに席を譲ってあげてもらえないでしょうか?」
さっきからこの男性が、居心地悪そうにしていたのを私は気づいていた。それは、すぐ隣でちょっとした諍いが起こっていたためか。もしくは、同じく優先席に座っていながら、席を譲ろうとしない自分に罪悪感を抱いていたからなのか。
理由はどちらでも構わない。大事なのは、男性の心に付け入る隙があるかどうか。
「えっと……」
と、男性が口ごもっている。満員のバスでせっかく席に座ることができたのに、見知らぬご老人に席を譲りたくない。そんな本音が戸惑った表情からありありと見て取れる。その様子は、女性と共に横目で私のことを見つめている少年の頑なな態度とは違う。
「お願いしますっ!」
私は敢えて大きな声を出して、深く頭を下げた。
視線を下げた私からは見えていないけど、車内の視線が私に集まっているだろう。その視線は私だけでなく、正面にいる男性にも突き刺さる。その高校生は席を譲らなかったが、社会人であるあなたはどうするのか。周囲からの言葉なき圧力が男性を試す。
ここで男性が拒むのならば、それまでだ。無理強いする権利は私にないのだから。
「……わかった」
もっとも、男性が折れてくれるのはわかっていた。
何せこの体、『
同性である私から見ても魅力的な少女にお願いされて、断れるような男には見えなかった。
「ありがとうございますっ!」
私は明るい声でお礼を伝え、にっこりと微笑みかける。
「ぁ、いや、はは……」
男性は照れたように頬を赤らめ、口元を緩めている。こちらを見つめるその視線が一瞬、私の胸元に移ったのを見逃さなかった。まあ、健全な男ならば自然な反応。私は気づいていない振りをして、微笑みを絶やさなかった。
「どうぞ、座ってください」
「まあ、ありがとうね」
男性がお婆さんに席を譲るのを見届け、これにて一件落着。
さっきまで争いの渦中にあった少年は、まるで何事もなかったかのように悠然と席に身を預けている。それを見ていた女性がまた文句を口にしそうな気配を見せたが、これ以上争っても無駄と判断したようで、不機嫌そうに眉を顰めながらも少年から視線を大きく逸らした。
車内に元の静けさが戻ってくる。
その穏やかさに身を委ね、私は電車に揺られながら車窓の外をまた眺める。
この景色を次に見るのは、いつになるのだろうか。
私がこれから通う高校は全寮制で、特例を除いて学校の敷地内から出ることは禁止されている。学校の行事や、部活動の大会などはその特例に該当するのだと思うけど、入学してしばらくは敷地内での生活を余儀なくされるだろう。
もっとも、敷地内は非常に広大で、様々な施設が存在するとのことだから、生活に困ることはないと思うけど。敷地外への外出はおろか、外部との連絡も一切禁じられているということもあって、人によっては窮屈だと感じるかもしれない。
何とも不思議な学校だ。私だったら、こんな学校に入ろうとは思わなかったはずだ。
それなのに私は今、その不思議な学校の制服を着て、学校へと向かっている。
そこに私の意思は介在していない。私はただ、桔梗の選択に従ったまでだ。
桔梗の入学を許可したのは学校側の判断でも、入学すると決めたのは桔梗だ。中学時代の桔梗を詳しく知る者のいないこの学校で、新しくやり直す。そして、クラスの中心人物として皆から慕われる人気者になる。それが桔梗の望み。
ちゃんと叶えてあげる。貴女の望みを。
私は心の中でそっと呟いた。
その声は桔梗に聞こえているはず。でも、声は帰ってこない。
この体の本来の持ち主である桔梗だったら、いつでも体の主導権を奪える。それなのに彼女はそうしない。外部からこの流入してきた異分子であるこの私に体を託し、心の奥底にある、あの暗闇の部屋に今も閉じこもっている。
いつも言っているけど、出たくなったらいつでも出ておいで。
その言葉に対しても、桔梗は言葉を返さない。
やっぱりまだ無理か。
私は小さくため息をつきながら、学校に辿り着くまでの外の景色を目に焼きつけた。
これも桔梗のため。私が見たもの、聞いたもの、感じたものは全て桔梗にも共有される。
だから私は願う。この先の学校生活が、桔梗にとって良い刺激となるように。悪い影響を与えるようなものならば、私が対処する。それが、意図的ではないとはいえ、櫛田桔梗という少女に憑依してしまった私の役割であり、存在意義だ。
それ以外に私の存在価値はない。私の人生は既に終わったのだから。
私が自己認識を定めているうちに、バスが停車し、乗っていた乗客の大半が降りていく。
車内に残されたのは、赤いブレザーの制服を着た少年少女たち。さっきの金髪の少年。どこか見覚えのある黒髪の少女。などなど。
そうやってバスの中を何気なく見渡していた際に、無表情にこちらを見つめてくる少年と目が合った。反射的に微笑みながら会釈する。少し挙動不審げに視線をさ迷わせた少年を見て微笑ましく感じながら、私はまた視線を窓の外に戻した。
程なくして、バスがその場所へと行き着いた。
東京都高度育成高等学校。これから私と桔梗が通う学校。
バスから降りた私は、よし! と心の中で気合を入れ、理想の自分を演じる。
努めて明るく。男女分け隔てなく接し、誰からも好かれる人気者、櫛田桔梗を。
私たちの望みを叶えるために。私は学校の門を潜り、最初の一歩を踏み出した。
この高校での生活が、予想を遥かに上回る波乱万丈さであることなど、予想することもなく。
物凄く可愛い子と目が合った。幸先いいぞ。
バスに乗っていた
「早く席を立ってもらえるかしら。降りたいのだけれど」
「あ、はい」
代わりに、隣の席に座る黒髪の美少女に怒られて、少しだけ肩を落とした。