僻地の盤喪鎮守府が『家』としての温かさを取り戻し、大本営の監査官すら追い払ってから数週間。
錆びついた施設がピカピカに磨き上げられた次の段階として、指揮官である丹花イブキ中将、そしてその養母であり最強の守護者である金剛が着手したのは、鎮守府の本質――すなわち『戦闘力の再構築』だった。
ある日の午前中、作戦司令本部として完璧に片付けられた提督執務室には、重厚な机を囲むようにして6人の艦娘たちが集まっていた。
机の上には、イブキが小さな手で一生懸命に書き込んだ、膨大な数式やグラフが並ぶノートが広げられている。その横では、金剛が腕を組み、いつになく真剣な表情で控えていた。
「みんなー、集まってくれてありがとう!」
イブキは椅子の上のクッションから身を乗り出し、ダボダボの白い軍服の萌え袖を元気に振った。
大きすぎる提督帽がズレそうになるのを、隣に立つ時雨がそっと細い手で押さえてあげる。
「あのね、コンちゃんと一緒に、このお家の周りにいる悪い深海棲艦さんのデータをいっぱい計算したの。……そしたらね、今のままのお姉ちゃんたちだと、ちょっとだけ危ないって分かったんだよ」
「危ない……ですか?」
榛名が、橙色の瞳に緊張の色を浮かべて問いかけた。巫女風の衣装を正し、金剛から片時も目を離さない熱い視線は健在だが、軍人としての表情に戻っている。
「イエス、榛名。ユーたちの戦闘力と、近隣海域の敵のエネルギー密度をガチでシミュレーションしたところ、とんでもない『レベル差』が発覚したのデース!」
金剛がノートの1ページをめくった。そこには、数式を用いた複雑な折れ線グラフが描かれていた。
複雑な変数が絡み合うこの数式は、イブキがキヴォトスのゲヘナ学園で培った高度な数学的思考と、金剛の持つレベル5000の戦闘経験則を融合させて導き出した『絶対的戦力差推定式』である。
「うわっ……何だこれ、頭が痛くなりそうな文字ばっかりだな」
摩耶が顔をしかめて頭を掻く。天龍も眼帯の位置を直しながら「おいおい、俺たちにこの呪文を読めってのか?」と苦笑いした。
「ふふ、まあ見ていなさいな」と陸奥がクスリと笑う。
「イブキちゃん、このお姉さんにも分かるように教えてくれるかしら?」
「うん! あのね、今の陸奥お姉ちゃんたちのレベルは、だいたい30から40くらいでしょ? でもね、この海の奥深くにいる一番強い化け物さんは、レベルが『120』くらいあるの! 普通にぶつかったら、お姉ちゃんたちの攻撃はかすり傷になっちゃうんだよ」
「……レベル120」
加賀の表情が引き締まった。
「確かに、前任者の下でろくに演練も行えず、資材も干されていた私たちの現状では、そのレベルの深海棲艦と正面から殴り合えば轟沈は免れないわね。……提督、私たちはどうすればいいかしら?」
「だからね! 今日からみんなに、レベルをいっぱーいあげるための『特別特訓メニュー』を作ってきました! これを頑張れば、みんなすぐにレベルが100を超えて、悪い化け物なんてドカーンってやっつけられるよ!」
イブキは誇らしげに胸を張り、手書きの特訓指示書を1人1人に配り始めた。
しかし、その紙を受け取った艦娘たちの顔が、次々と驚愕と困惑に変色していく。
そこに書かれていた内容は、海軍の伝統的な演習メニューとはあまりにもかけ離れた、文字通りの『奇想天外』なものだったからだ。
1:加賀・榛名:『全感覚遮断・極限マインドフルネス&お茶会訓練』
「……提督、これは一体どういうことかしら?」
加賀が、渡された指示書を見つめながら小首を傾げた。
指示書によると、加賀と榛名の2人は、視覚、聴覚、触覚をすべて遮断する特製の目隠しと耳栓を装着した状態で、中庭に設置された狭い足場の上に立たされる。
その状態で、互いの『気配』だけで、金剛が超高速で投げてくる最高級のティーカップとソーサーを、一滴の紅茶も零さずに完璧にキャッチし、そのまま優雅にアフタヌーンティーを完遂しなければならない、というものだった。
「オーウ! 2人は生真面目すぎて、戦場で『目に見える情報』に頼りすぎてマース!」
金剛がビシッと指を差した。
「五感を捨てて第六感を研ぎ澄ますのデース! 最強の戦艦たる私の気配を察知して、一分の狂いもなくお茶会を成立させることができれば、敵の飛行機が雲の向こうから襲ってきても、心眼で叩き落とせるようになりマース!」
「お、お姉様と心眼でお茶会……っ! 素晴らしいです! 榛名、お姉様の投げるカップなら、たとえ暗黒の中でも命に代えてキャッチしてみせます!」
榛名はすでに目的がすり替わっているような熱量で大興奮していたが、加賀は「なるほど……一理あるわね」と、静かに精神を統一し始めていた。
2:陸奥:『超重力・限界交渉&笑顔キープ耐久訓練』
「あらあら……お姉さん、これだと服が破けちゃうかもしれないわよ?」
陸奥が、困ったように、けれど楽しげに頬を染めて微笑んだ。
陸奥に課されたのは、金剛型戦艦の超重量級主砲の予備パーツ(※数百キログラム)を両肩と両足にガッチリと括り付けられた状態で、鎮守府の長い廊下を往復する訓練。
それだけならただの筋トレだが、最も重要なのは『どれほどの激痛と重圧がかかっていても、大人の色気と完璧な微笑みを一秒たりとも崩してはならない』という点だった。
さらに、歩いている間、イブキから次々と繰り出される『無理難題な予算値上げ交渉』に対して、常に優雅な声で完璧な論破を返さなければならない。
「陸奥お姉ちゃんはね、これから大本営の悪いお爺ちゃんたちと戦うでしょ?」
イブキが真剣な顔で陸奥を見上げた。
「お爺ちゃんたちは、いっぱーい意地悪なことを言ってくるから、どんなに苦しくても『へっちゃらよ』って笑って、お話を勝たなきゃダメなの!」
「ふふ、そういうことね。どんなに重くても、どんなに苦しくても、笑顔で相手の喉元を掴み取る……。いいわ、イブキちゃん。この陸奥お姉さんの、本当の執念を見せてあげる」
陸奥の瞳に、美しくも恐ろしい戦闘美が宿った。
3:摩耶・天龍:『野生解放・鬼ごっこ(鬼:レベル5000金剛)』
「……は? 待てよ、これってよぉ」
摩耶の額からタラリと冷や汗が流れた。
天龍と摩耶の指示書に書かれていたのは、極めてシンプルだった。
『裏山の
「ギャハハ! ユーたち警備当番は、パワーとスピードが自慢デショウ!」
金剛が邪悪なまでの笑顔を浮かべ、拳をポキポキと鳴らした。
「レベル5000の私の攻撃を『かすり傷』で済ませる直感と野生の勘を叩き込むのデース! 逃げ切れたら、ユーたちの装甲と回避力は世界一になりマースよ!」
「上等だ、コンチクショウ! 最強の戦艦に追い回されるなんて、命がいくつあっても足りねぇが、やってやろうじゃねぇか!」
「おうよ、天龍! 姐御の弾を全部避けて、アタシらの底力を見せてやるぜ!」
2人の戦闘狂は、恐怖を通り越して狂ったような笑い声を上げ始めた。
4:時雨:『心の海をまもる、おひざの揺り籠訓練』
最後に残った時雨は、自分の指示書を見て、顔を真っ赤にして固まっていた。
『提督が寂しくなったり、疲れたりした時に、一瞬で彼女の心を回復させるため、世界で一番心地よい『膝枕』と『頭なでなで』の角度、および優しい声のトーンを24時間研究し、実践すること』
「……て、提督。これは、戦闘訓練なのかな?」
時雨が消え入りそうな声で尋ねる。
イブキは時雨の元へトコトコと歩み寄ると、彼女の手をぎゅっと握りしめた。
「あのね、時雨ちゃん。イブキの作戦はね、みんなが元気じゃないと絶対に成功しないの。もしもイブキが泣いちゃったりしたら、お船のお姉ちゃんたちもみんな悲しくなっちゃうでしょ? だからね、時雨ちゃんがイブキの心をいつでも『ぽかぽか』にしてくれることが、一番大事な作戦なの!」
時雨は、イブキの純粋な黄金の瞳を見つめ、それからふっと、降参したように柔らかく微笑んだ。
「……分かったよ。僕の膝が、世界で一番安心できる場所になるように、一生懸命練習するね。君の笑顔を守ることこそが、僕の最高の任務だ」
こうして、第七鎮守府の『地獄(?)』の猛特訓が幕を開けた。
中庭では、完全に目隠しをした加賀と榛名が、恐ろしい速度で飛んでくる高級磁器の気配を察知しては、美しくステップを踏んでキャッチしていた。
廊下では、数トンの超重力をかけられた陸奥が、汗だくになりながらも「あら、その予算案ではイブキちゃんにお菓子が買えなくなっちゃうわね?」と、完璧な微笑みでイブキと舌戦を繰り広げていた。
裏山からは、金剛の放つ大口径主砲の爆音と、それに追い回される天龍と摩耶の「ぎゃあああ!」という悲鳴が絶え間なく響き渡っていた。
そして、執務室のソファーでは、時雨の膝の上で、
時雨は、最もイブキのヘイローが穏やかに光る頭の撫で方を模索しながら、優しく、どこまでも愛おしそうに彼女の髪を指先で梳いていた。
奇想天外、けれど確かな愛と計算に基づいた特訓。
この小さな鎮守府の艦娘たちが、世界を驚かせる最強の戦力へと新生する日は、そう遠くはなかった。