盤喪鎮守府の屋内ドックには、かつてないほど奇妙で、そして張り詰めた空気が漂っていた。
ドックの中央に設置されたのは、金剛がどこからか調達してきた超高張力鋼の特製檻である。
その冷たい檻の奥には、艤装を完璧に粉砕され、もはや立ち上がる気力すら奪われた『戦艦棲姫』と『戦艦レ級』の2体が、寄り添うようにして床に座り込んでいた。
彼女たちの周囲を取り囲むのは、今回の出撃で1人の犠牲も、1ミリの傷すらも負うことなく完全勝利を収めた6人の艦娘たちだ。
「……信じられないわね」
陸奥がふくよかな胸元に手を当て、未だに信じがたいといった様子で首を振った。
「あの深海棲艦の女王たる戦艦棲姫と、戦場を恐怖に陥れてきた戦艦レ級を、本当に無傷で生け捕りにしてしまうなんて。海軍の歴史が始まって以来の快挙よ」
「ええ。この目で直接見るまでは到底信じられなかったわ」
加賀が静かに腕を組む。信じられない光景を目の当たりにしつつも、檻の中の2体に向けられた冷徹な警戒心は崩れていない。
「ですが、問題はこれからよ。……海軍の軍規において、生け捕りにされた深海棲艦の知性体は、直ちに大本営の『中央解明研究所』へと移送され、解体と生体研究が行われることになっているわ」
「そう、ですよね……」
榛名が、少し複雑そうな表情で檻を見つめた。
「大本営に引き渡せば、あの老人たちのことですから、二度と日の目を見ることはないでしょう。ですが、私たちがそれを拒めば、またあの監査官のような連中が難癖をつけに来るかもしれません」
摩耶や天龍も、いつになく真剣な顔で顎をさすっていた。
海軍において、深海棲艦は『人類の敵』であり、駆逐すべき害獣、あるいは研究用の「資材」でしかなかったからだ。
生け捕りにされた高位個体がどのような運命を辿るか、彼女たちには容易に想像がついた。
そんな艦娘たちの議論を遮るように、金剛がゆっくりと歩み出た。
彼女の肩には、純白の海軍将校用コートが羽織られており、その圧倒的な存在感だけでドックの空気が一瞬で引き締まる。
金剛は檻の前に立つと、椅子の上のクッションに座って不思議そうに檻を眺めているイブキの顔を見つめた。
「オーウ、みんなの言う通り、普通ならこの深海棲艦どもは大本営へ送られて、バラバラのポイにされちゃうのデース」
金剛はイブキの目を真っ直ぐに見据えて問いかけた。
「……でも、私たちのボスは……この盤喪鎮守府の最高指揮官はユーデース、イブキ。ユーはこの子たちを、どうしたいデスカ?」
金剛は、すべてを分かった上でイブキに委ねていた。
大本営の規則など、レベル5000の彼女にとっては紙切れに等しい。もしイブキが「大本営に渡したくない」と言えば、金剛は全力でそれを隠蔽し、本営の首脳陣を力ずくで黙らせる覚悟があった。
イブキは、大きすぎる軍服の萌え袖を口元に当て、黄金の瞳をぱちくりとさせながら、檻の中の2体を見つめた。
そして、小さな声を響かせる。
「あのね……イブキね、このお姉ちゃんたちとお話ができるなら、みんなで仲良くしたいの!」
「「「「「「……えっ!?」」」」」」
6人の艦娘たちの声が、今度こそ完全に裏返った。
誰もが耳を疑い、お互いの顔を見合わせる。深海棲艦と「仲良くする」など、この世界の軍人、いや艦娘の概念には1mmも存在しない、あまりにも突飛で、破天荒すぎる発言だったからだ。
驚いたのは、艦娘たちだけではなかった。
檻の奥で、死を待つだけだった戦艦棲姫と戦艦レ級の2体も、その言葉を聞いた瞬間、ハッと顔を上げてイブキを凝視した。
「……仲良ク……? 私タチ、深海ノ怨嗟ト……、人間ガ、仲良ク……?」
戦艦棲姫の掠れた声が、信じられないというように微かに震える。レ級もまた、異形の尾鰭をピクリと動かし、イブキの頭上のヘイローを不気味そうに見つめていた。
イブキは、みんなが驚いている理由が分からず、小首を傾げてトコトコと檻のすぐ近くまで歩み寄った。
時雨が慌てて「危ないよ、提督」と手を伸ばすが、イブキの無邪気な足取りは止まらない。
「あのね、イブキね、大本営のお家にいた頃はね、毎日いっぱーいお仕事の紙を読んでたの。そこにね、このお姉ちゃんたちの映像やお写真がいっぱいあったんだよ。でもね、大本営の紙にはね、『深海棲艦は言葉の通じないお化けだから、すぐにお空の星にしなきゃダメ』って書いてあったの。お話ししてるところなんて、一度も見せてくれなかったんだもん」
イブキのその言葉に、陸奥や加賀の表情がハッとこわばった。
「(……そういうことか。大本営は意図的に隠していたのね)」
陸奥は内心で、大本営の老人たちの狡猾な情報統制を瞬時に理解した。
大本営は、深海棲艦の『高位個体』が人間と変わらない高度な知性と感情、そして言語能力を持っているという事実を、一般の艦娘や低い階級の指揮官には徹底的に隠蔽していたのだ。
もし『敵にも心があり、話ができる』という事実が広まれば、艦娘たちの戦意に影響が出るかもしれない。
あるいは、深海棲艦をただの『兵器の材料』として非人道的に解体している本営の正当性が揺らぐのを恐れたのだろう。
イブキは大本営の最高幹部である『中将』だったため、データとしての書類や映像を見る機会はあったが、直接対峙して『生の声』を聞いたのは、今回の戦闘が初めてだったのだ。
だからこそ、イブキにとっては「お話ができるなら、悪い化け物じゃなくて、普通のお姉ちゃんじゃない!」という、あまりにも純粋な結論に至ったのである。
金剛は、イブキのそのどこまでも真っ直ぐな善性を愛おしそうに見つめ、ふっと深く頷いた。
彼女自身、この世界に落ちてきたイブキと出会うまでは、世界すべてを呪う化け物になりかけていた。
深海棲艦の心の内にあるドス黒い怨念も、それをもたらす人間の醜さも、すべてを理解している。
だが、イブキの言うことであれば、それがどれほど世界の常識から逸脱していようとも、金剛にとっては『絶対の正解』だった。
自分たちの過去を他の艦娘に話すつもりは毛頭ないが、イブキの望む未来を叶えるためなら、彼女は喜んで世界を欺く。
「オーウ! イブキがそう言うなら、決定デース!」
金剛はパッと手を叩き、最高の笑顔で宣言した。
「このお姉ちゃんたちは、大本営には渡しまセェン! 今日からこの盤喪鎮守府で『捕虜』として生活してもらいマース!」
「「「「「は、はい……っ!」」」」」
艦娘たちは、もはや金剛とイブキの圧倒的な主導権の前に、承諾するしかなかった。
何より、イブキのあの純粋な黄金の瞳に見つめられると、不思議と「それもいいかもしれない」と思えてしまうのが、この最年少中将の恐ろしい魅力だった。
「それじゃあ、イブキ。みんなと一緒に、食堂でお祝いのステーキの準備をして待っていなサイ。私は少しだけ、この子たちに『捕虜としてのルール』をレクチャーしてあげマースからね」
「うん! わかった! コンちゃん、お姉ちゃんたちをいじめちゃダメだよ?」
「ノープロブレムデース! 私はとっても優しいマザーナノデース!」
イブキは無邪気に頷くと、陸奥や時雨に手を引かれ、嬉しそうにドックを後にした。
加賀や榛名、摩耶、天龍も、それぞれの当番の準備のために後に続く。
ドックの扉が重々しく閉まり、広い空間に金剛と、檻の中の2体だけが取り残された。
静寂が支配するドック。
金剛はゆっくりと檻に近づくと、その顔から陽気な仮面が剥がれた。
その瞳は濁りきった暗黒の深淵へと変わり、レベル5000の戦艦が持つ、世界を圧し潰さんばかりの凄まじい殺気と冷徹さが、むき出しのまま檻の中の2体に突き刺さる。
「……ひぃっ!?」
戦艦レ級が、その圧倒的な殺意に耐えかねて、小さく悲鳴を上げて床にしがみついた。
戦艦棲姫も、全身から脂汗を流し、牙をガタガタと震わせながら金剛を仰ぎ見る。レベル5000。
それは、深海の世界におけるいかなる『総旗艦』すらも遥かに凌駕する、神をも殺せる絶対的な暴力の具現だった。
金剛は、冷たい鉄格子に手をかけ、檻の中の2体に向けて、低く(そして冷徹な声で囁いた。
「……よく聞きなさい、深海のゴミ共」
その声音には、1mmの慈悲も、一滴の温もりもなかった。
「あなたたちが今、その汚い命を繋ぎ止められているのは、あの子が、私のイブキが『仲良くしたい』と奇跡のような慈悲をくれたからに過ぎない。もしも、あの子がいなければ、私はあなたたちの四肢を引きちぎり、艤装を骨の髄まで砕いて、今頃海の藻屑にしていたわ」
金剛は一歩、さらに顔を近づける。その瞳の奥には、イブキと出会う前……世界を滅ぼそうとしていたあの時の、ドス黒い憎悪の炎が微かに揺らめいていた。
「あの子の前では、絶対にその汚い牙を剥くんじゃない。あの子の心を少しでも傷つけたり、不審な動きを見せたりしてみなさい。……その瞬間に、あなたたちの魂ごと、この世界から一切の痕跡を残さず消し炭にしてあげる。私はいつでも、どこからでも、あなたたちを監視しているからね」
言い終えると、金剛はフッと不敵な笑みを浮かべ、再びいつもの陽気な顔へと瞬時に切り替えた。
「オーウ! ルールはこれだけデース! 分かったら、大人しく私の持ってくるフードを食べて、クリーンに過ごすのデース!」
金剛はそう言い残し、優雅にコートの裾を翻してドックを去っていった。
檻の中に残された戦艦棲姫と戦艦レ級の2体は、しばらくの間、恐怖のあまり身動き一つできず、ただただ自分たちに与えられた『捕虜』としてのあまりにも異常で、そしてどこか奇妙な生活の始まりに、震えることしかできなかった。
こうして、盤喪鎮守府における、前代未聞の深海棲艦を交えた捕虜生活の幕が、静かに上がったのである。
次は19時5分に投稿します。