盤喪鎮守府の捕虜生活は、人類の海軍史のどこを探しても見当たらない、あまりにも異常で、そして奇妙な形で幕を開けていた。
あの出撃から数日が経過したものの、大本営には『近海の敵主力、および随伴艦隊を完全殲滅せり』との報告だけが陸奥の手によって送られ、戦艦棲姫と戦艦レ級が生け捕りにされたという事実は完璧に隠蔽されていた。
元帥反対派の老人たちが掴んでいるのは、僻地の壊滅寸前だったはずの鎮守府が、なぜか1人の犠牲も出さずに最高難度の海域をクリアしたという、狐につままれたような結果だけである。
そして、当の鎮守府内では、異形の捕虜たちが今日も『自由』に敷地内を徘徊していた。
「……おい、レ級。あんまりそっちへ行くな。あの『悪魔』の視線を感じる……」
初夏の柔らかな木漏れ日を浴びる庁舎の廊下で、戦艦棲姫が長い白髪を小さく揺らしながら、隣を歩く戦艦レ級の袖を引いた。
類稀なる頭脳により、イブキ及び艦娘たちの言葉を覚えた彼女たちの言葉は流暢なものとなっていた。
そして彼女たちの両手首には、金剛が作り上げた鈍く銀色に光る特殊な『腕輪』が嵌められている。
この腕輪は、金剛の命令一つで装着者の艤装の展開はもちろん、人間や艦娘に対して指1本触れるだけの筋力すら奪い去るという、恐るべき呪いの枷だった。
しかし、逆を言えば、その腕輪を嵌めている限り、彼女たちはこの鎮守府内を基本的にどこでも自由に歩き回ることが許されていた。
檻に閉じ込められることもなく、冷たい地下室に繋がれることもない。ただの『少し風変わりな居候』のような扱いである。
だが、彼女たちにとって、この自由は決して心地よいものではなかった。
「分かってるよ、棲姫。……背中が、さっきからずっとピリピリして痛いんだ」
戦艦レ級が、異形の尾鰭を力なく床に引きずりながら、居心地悪そうに身を縮めた。
彼女たちの視線の先――廊下の突き当たりにある厨房からは、トントンと小気味よい包丁の音と、コンちゃん特製の美味しそうなクッキーが焼き上がる甘い香りが漂っている。
そこには、いつものフリフリのエプロンを身に纏い、鼻歌交じりで作業をする金剛の姿があった。
見た目は、どこにでもいる穏やかで料理好きな美しい艦娘。
しかし、棲姫とレ級にはハッキリと視えていた。金剛がキャベツを切るたび、クッキーの焼き加減を確かめるたびに、その背後から巨大な『死神』の影が自分たちをギロリと睨みつけているのが。
あの初日にドックで刻み込まれた、レベル5000の絶対的な殺意。
『あの子の心を少しでも傷つけたり、不審な動きを見せれば、その瞬間に消し炭にしてあげる』
あの冷酷な声が、彼女たちの脳裏に四六時中こびりついて離れない。自分たちが自由に行動できるのは、信頼されているからではない。
金剛にとっては『いつでも、一瞬で捻り潰せる羽虫』だからこそ、放し飼いにされているのだ。
「いい、レ級。この鎮守府のボス……『イブキ』とかいう幼女が近づいてきても、絶対に粗相をしてはダメよ。少しでも彼女を怖がらせたり、泣かせたりしたら、私たちはあの金剛の手で、文字通り塵一つ残さずこの世界から消去されるわ」
戦艦棲姫は、ガタガタと震える指先で自分の腕輪を握り締めた。深海の女王として戦場を支配していたプライドなど、この絶対的な暴力の前にとっくに消え失せていた。
彼女たちの唯一の生存戦略は、あの金剛が狂気的なまでに溺愛している『イブキ』という小さな存在に対して、絶対に、1mmの不快感も与えないこと。それだけだった。
「あ! せんちゃん! レーちゃん! お外をお散歩してたの?」
その時、廊下の角から、タタタッと軽快な足音が響いてきた。
現れたのは、大きすぎる純白の軍服の萌え袖をフリフリと揺らした、丹花イブキだった。
頭上のヘイローは、今日も日差しを浴びて綺麗な黄金色の光をピコピコと放っている。
その隣には、提督補佐当番の時雨が、心配そうに、しかしどこか見守るような優しい目で手を引いて歩いていた。
「……っ!」
「ひぃ……!」
イブキの姿を見た瞬間、戦艦棲姫と戦艦レ級の全身に強烈な戦慄が走った。
彼女たちは一瞬にして直立不動になり、まるで軍隊の初年兵のように背筋をぴんと伸ばして、恐怖のあまり完全に顔を硬直させた。
「あ、あの……、は、はい……。お散歩を、させていただいて、おります……」
戦艦棲姫が、引きつった笑みを浮かべながら、必死に丁寧な言葉を絞り出す。
怨嗟の声で人類を呪っていたかつての面影はどこへやら、今の彼女は「絶対にイブキを怒らせてはならない」という極限の緊張感の中にいた。
「えへへ、お散歩、お天気が良くて気持ちいいね!」
イブキは2人の恐怖などこれっぽっちも気にする様子はなく、トコトコとさらに距離を詰めてきた。
「あのね、イブキね、2人の名前がすっごく長くて呼びづらいからね、新しいお名前を考えてきたんだよ! えーっとね、戦艦棲姫ちゃんは『せんちゃん』! でね、戦艦レ級ちゃんは『レーちゃん』! どう? すっごく可愛くて、呼びやすいでしょ?」
イブキは胸を張り、黄金の瞳をこれ以上ないほど輝かせて、満面の笑みを2人に向けた。
『せんちゃん』に、『レーちゃん』。
深海棲艦の最凶の個体たちに対して、あまりにもおままごとが過ぎる、突飛なニックネーム。
「……せ、せんちゃん……?」
「……レーちゃん……?」
2体は呆気に取られてオウム返しに呟いた。
普通の艦娘であれば、「敵に名前をつけるなんて」と激怒するか、あるいは嘲笑うところだろう。
しかし、目の前のイブキの瞳には、一滴の悪意も、蔑みも、政治的な計算も存在しなかった。
ただ純粋に、新しくできた『お姉ちゃんたち』と仲良くなりたいという、濁りのない善意だけがそこにあった。
だが、二人が返答に窮しているその一瞬の間にも、厨房からの包丁の音が「トントントン……」から、「ドンドンドン……」と、心なしか地響きを伴う重低音へと変化した。
「(ハッ!? 早く答えないと、あの金剛に『イブキのプレゼントを無視した』と思われて殺される……!?)」
2体の脳内に同時に最大級の危険警報が鳴り響いた。
戦艦棲姫は慌てて両手を振り、顔を真っ赤にして必死に何度も頷いた。
「す、素晴らしいお名前です! ありがたき幸せ……! 私は今日から『せんちゃん』です! 喜んでそのお名前でお呼びいただきます!」
「ぼ、僕も! 僕も『レーちゃん』って名前、すっごく気に入ったよ! ありがとう、中将閣下!」
レ級も、異形の尾鰭を犬の尻尾のようにパタパタと激しく振って、必死の形相でアピールした。
「わーい! せんちゃん、レーちゃん、気に入ってくれて嬉しいな!」
イブキは嬉しそうに飛び跳ね、大きすぎる提督帽を一生懸命に手で直した。
「あのね、今日はお昼にね、コンちゃんがすっごく美味しい『お星様のクッキー』を焼いてくれてるの! あとでみんなで一緒に、お庭で食べようね! 約束だよ!」
イブキは萌え袖から小さな小指を突き出し、2人の前に差し出した。
「や、約束……?」
戦艦棲姫は困惑した。深海棲艦の歴史において、『約束』などという概念を人間と交わした個体は存在しない。
彼女たちはただ奪い、呪い、沈めるだけの存在だったはずだ。
しかし、差し出されたイブキの小さな小指は、とても温かそうで、柔らかそうだった。
棲姫は、遠くの厨房から放たれる「もし断ったらどうなるか分かっているな」という金剛の無言の超霊圧に背中を焼かれながら、意を決して、自らの白い、少し冷たい小指をイブキの小指へと絡ませた。
「ええ……。お約束、いたします、提督。後ほど、お庭で……」
「レーちゃんも、お約束する!」
3人の小指が、廊下の光の中で静かに結ばれる。
その様子を隣で見守っていた時雨は、ふっと優しく目を細め、胸の奥にある温かいものが広がるのを感じていた。
「よかったね、提督。これで、新しいお友達が2人も増えたね」
「うん! 時雨ちゃん、イブキね、みんなで仲良くお菓子を食べるのが、世界でいっちばん大好きなの!」
イブキは満足そうに頷くと、再び時雨に手を引かれて、トコトコと廊下の奥へと歩いていった。
残された
「……ねぇ、棲姫。人間の指って、こんなに温かかったんだね」
レ級が、どこか憑き物が落ちたような、妙に静かな声で呟いた。
「……ええ。本当にね。……でも、これで私たちは生き残れたわ。これからは、あの『せんちゃん』と『レーちゃん』として、完璧にあの幼女の機嫌を取り続けるのよ」
戦艦棲姫は、胸の奥で小さくトクンと跳ねた見慣れない感情に戸惑いながらも、自分たちに与えられた新しい『役割』を全うすることを誓った。
裏で睨みを利かせる最強の魔王と、その中心で無邪気に笑う世界の救世主。
盤喪鎮守府の捕虜生活は、恐怖と、そして誰も予期しなかった『温かさ』を孕みながら、ゆっくりと、しかし確実に深海の住人たちの心をも溶かし始めていた。
次は20時5分に投稿します。