盤喪鎮守府の庭園に、初夏の爽やかな風が吹き抜けていた。
前任者の不祥事によって、かつては膝の高さまで伸び放題だった雑草の野は、陸奥や摩耶、そして時雨たちの手によって見事な芝生の広場へと生まれ変わっていた。
その中心に置かれた白いガーデンテーブルの上には、金剛が最高の主計能力をもって焼き上げた『お星様のクッキー』と、気品溢れる香りを漂わせるアールグレイの紅茶が並んでいる。
「せんちゃん、レーちゃん! こっちこっち! お椅子、ここに準備したよ!」
大きすぎる純白の軍服の萌え袖をフリフリと揺らしながら、丹花イブキが小さな手を叩いて2人を呼んだ。
頭上のヘイローは、まるでお日様を喜ぶ小鳥のようにピコピコと愛らしく明滅している。
「は、はい……。お招きいただき、光栄です、イブキ提督」
戦艦棲姫――いや、今やこの鎮守府において『せんちゃん』というあまりにも愛らしい名前を受け入れた深海の女王は、長い黒髪を慎ましく揺らしながら、おずおずと白い椅子に腰掛けた。
その隣では、異形の尾鰭をパタパタと大人しく地面に伏せながら、戦艦レ級――改め『レーちゃん』が、緊張した面持ちで座っている。
彼女たちの手首には、未だに金剛製の鈍い銀色の『腕輪』が嵌められていた。
しかし、2人の心境は、この数日間で劇的な変貌を遂げていた。
最初の数日間は、文字通りの恐怖政治だった。
厨房や廊下の影から放たれる、レベル5000の金剛による『イブキに少しでも粗相をすれば消し炭にする』という絶対的な超霊圧。
それに怯え、ただ命を繋ぎ止めるために必死で『良い捕虜』を演じていた2人だったが、常に自分たちを『せんちゃん』『レーちゃん』と呼び、濁りのない純粋な笑顔で接してくるイブキの姿に、彼女たちの心の内にあるドス黒い怨念が、少しずつ、確実に削り取られていくのを感じていた。
「はい、どうぞ! コンちゃんのクッキー、すっごく美味しいんだよ! サクサクって音がするの!」
イブキは小さな手で、お星様の形をした黄金色のクッキーを、2人の前に差し出した。
せんちゃんは、震える白い指先でそのクッキーを一つ摘み、恐る恐る口へと運んだ。
サクッ。
心地よい音と共に、バターの豊かな風味と、優しい砂糖の甘さが口いっぱいに広がっていく。
それは、冷たく暗い深海の底では絶対に味わうことのできない、肉体だけでなく、魂の飢えをも芯から満たしていくような『温かさ』そのものだった。
「……美味しい。本当に……、温かい味がするわ」
せんちゃんの濁っていた瞳から、ぽろりと一粒の涙が零れ落ち、芝生へと吸い込まれていった。
「本当だ……! すごいや、こんなに美味しくてホッとするもの、僕たち、生まれてから一度も食べたことがなかったよ……っ!」
レーちゃんも、夢中になってクッキーを頬張りながら、ボロボロと大粒の涙を流した。
深海棲艦という存在は、人類の戦史における敗者の未練、沈みゆく鋼鉄の怨嗟から生まれる。
だからこそ、彼女たちの心は常に『憎悪』と『破壊衝動』に支配されていた。
しかし、目の前のイブキという少女は、そんな彼女たちの異形の艤装も、恐ろしい過去も、すべてを包み込むようにして「仲良くしようね」と言ってくれたのだ。
大本営の人間たちは、自分たちをただの『言葉の通じない化け物』として扱い、捕らえれば解体し、強固な艤装を作り出すための『資材』としてしか見ていなかった。
だが、人類の最高幹部であるはずのこの11歳の幼女は、全く違う。
「(……こんな人間が、本当にいるのね。私たちは、ただ呪うためだけに生まれてきたわけじゃ、なかったのかもしれない)」
せんちゃんは、イブキの真っ直ぐな黄金の瞳を見つめながら、心の底から彼女を『信用』し、その善性にすべてを委ねたいと、本気で思うようになっていた。
「ねぇ、せんちゃん、レーちゃん」
イブキは、お盆の上の紅茶をごくりと一口飲むと、少しだけ真面目な、けれどどこまでも優しい表情になって2人を見つめた。
「イブキね、大本営のお家にいたとき、いっぱーい悲しいお話を聞いたの。お船のお姉ちゃんたちも、化け物のお姉ちゃんたちも、海でお外でドカーンって戦って、たくさん傷ついて、海の底にバイバイしちゃうの。イブキ、それがすっごく悲しいの」
イブキは大きすぎる提督帽を小さな手でそっと直しながら、胸の前に両手を合わせた。
「だからね、イブキはね、戦争を終わりにしたいの。お互いにドカーンってするんじゃなくて、みんなでおててを繋いで、『
和睦。
それは、海軍の大本営が聞けば『狂人の戯言』として一蹴し、即座に反逆罪として処刑されるであろう、世界の理を覆す禁忌の言葉だった。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、せんちゃんとレーちゃんの胸の奥に、かつてないほど激しい衝撃が走った。
「和睦……。戦いを、終わらせる……」
せんちゃんは、自分の白い手をじっと見つめた。
「……イブキ提督。私たちだって、本当は戦いたくて戦っているわけではないのです。深海の底から湧き上がる怨嗟に背中を押され、ただ人間への復讐を果たすためだけに、狂ったように海を血に染めてきた。でも……、もしも戦いを終わらせる道があるのなら、誰も傷つかずに済む世界があるのなら……っ!」
せんちゃんは椅子から立ち上がると、イブキの前にゆっくりと膝をついた。
それは、恐怖による屈服ではない。1人の偉大な、そして世界で最も優しい指揮官に対する、魂からの『忠誠』の儀式だった。
「私は……、私たち深海棲艦の意思を持つ高位個体は、あなたの提唱する『和睦』に、全面的に賛成いたします。あなたのその清らかな願いのためなら、私はかつての同胞たちを説得し、海へ赴くことも厭いません。どうか、私たちをあなたの『和睦の盾』としてお使いください」
「僕もだよ、提督!」
レーちゃんも、異形の尾鰭を大きく揺らしながら、せんちゃんの隣で膝をついた。
「僕たちの艤装は、もう人間を傷つけるためのものじゃない。君が作る、みんなが笑っていられる未来を守るために、この力を使いたいんだ!」
2体の深海の女王が、11歳の幼女提督の前に跪き、涙を流しながら和睦の誓いを立てる。
その奇跡のような光景を、少し離れた廊下の影から、6人の艦娘たちが言葉を失って見つめていた。
「……本当に、とんでもない子ね、あの子は」
陸奥が、胸元を押さえながら、感極まったように声を震わせた。
「世界中の誰もが成し得なかった、深海棲艦との融和を、あんなジャムのついたクッキー1つと、純粋な言葉だけで成立させてしまうなんて。……私、あの子の部下になれたことを、心の底から誇りに思うわ」
「ええ、あの2人の眼差しが本物であることは疑いようがないわね」
加賀が静かに微笑む。
「大本営の老人たちが何と言おうと、私たちはこの鎮守府の『和睦の道』を、命に代えても守り抜かなければならないわ。それが、私たちの新しい戦理よ」
「榛名も、提督とお姉様が目指す未来のために、全力でお手伝いいたします!」
榛名が、隣に立つ金剛の顔を見上げながら、力強く頷いた。摩耶や天龍、時雨の瞳にも、かつての絶望など微塵もなく、新しい世界への確固たる希望の光が灯っていた。
そして、当の金剛はというと――。
「オーウ……! イブキ!!! ユーはなんて、なんてグレートでアメイジングなマザーの娘デスカァァァッ!!!」
金剛はいつものデレデレな母親の顔に戻ると、猛スピードで中庭へと飛び出し、跪いていたせんちゃんたちを押しのけるような勢いで、イブキの小さな身体をこれでもかと強く抱きしめた。
「コンちゃん、あったかい! あはは、またギューッてされちゃった!」
イブキは金剛の胸の中で嬉しそうに笑い、頭上のヘイローを最高に輝かせた。
金剛はイブキの頭を何度も何度も撫でながら、過去の自分の憎悪を完全に消し去ってくれたこの小さな天使の願いを、世界すべてを壊してでも叶えてやるのだと、その胸の奥で静かに、しかし絶対の覚悟として誓い直していた。
僻地の壊滅寸前だった盤喪鎮守府。しかし今、ここには人類の艦娘も、深海の化け物も、すべての垣根を越えて一つのテーブルを囲む、世界で一番温かく、そして力強い『和睦の光』が、どこまでも明るく輝き始めていた。
次は、明日の19時5分に投稿します。