深海棲艦の女王たちを無罪放免で海へと還したあの一夜を経て、盤喪鎮守府はもはや単なる前線の軍事基地ではなかった。
そこは、血の繋がりすらも超越した、世界で一番強固で、そして世界で1番あたたかい『一つの家族』の城へと、完全なる変貌を遂げていた。
初夏の澄み切った朝の光が、ピカピカに磨き上げられた庁舎の窓から惜しみなく降り注ぐ。
手入れの行き届いた中庭の芝生は青々と輝き、心地よい潮風が、かつて廃墟寸前だった建物の隅々まで、爽やかな息吹を届けていた。
「みんなー! おはよう! 朝ご飯、いっぱいたべようね!」
食堂の重厚な扉を勢いよく押し開けて、トコトコと元気な足音を響かせながら現れたのは、最年少中将提督・丹花イブキだった。
今日も彼女の身を包むのは、仕立てのサイズがあまりにも大きすぎる、純白の海軍最高幹部用の軍服だ。
歩くたびにダボついた裾がパタパタと揺れ、上着の袖は完全に手を覆い隠して可愛らしい『萌え袖』の状態になっている。
頭に被った大きすぎる提督帽がズレそうになるのを、小さな手で一生懸命に押さえながら、彼女は黄金の瞳をキラキラと輝かせていた。
そのイブキの姿を見た瞬間、席についていた艦娘たちの表情が、一瞬にして極上の優しさと慈愛に満ちたものへと和らいでいく。
「おはよう、イブキちゃん。今日も一段と軍服が似合っていて、すっごく可愛いわよ。お姉さんの隣、特等席を空けて待っていたわ」
『調達・資材管理当番』として大本営から山ほどの高級配給をふんだくってきた戦艦・陸奥が、ふくよかなプロポーションを揺らしながら、これ以上ないほど甘い声で微笑みかけた。
「ムーちゃん、おはよう! イブキね、今日はお魚をいっぱい食べるって決めてるの!」
イブキは萌え袖をフリフリと振りながら、陸奥のことを『ムーちゃん』という、あまりにも愛らしいニックネームで呼んだ。
陸奥は「ええ、偉いわね、イブキちゃん」と、その母性本能を完全に満たされたトロンとした目でイブキを見つめ返す。
「イブちゃん、おはよう! 榛名、イブちゃんのために、お椅子の上にふかふかのクッションを3枚も敷いておいたよ! さあ、こっちにおいで!」
弾んだ声で手を振ったのは、金剛型戦艦三女の榛名だ。
腰まで伸びる灰色がかった黒髪ロングを揺らし、特徴的な左側のハネ髪をパタパタとさせながら、彼女は身を乗り出していた。
驚くべきことに、普段は何事に対しても控えめで、敬語を絶対に崩さない礼儀正しい榛名だったが、この鎮守府の最愛の宝物であるイブキに対してだけは、敬語を完全に無くし、まるで本物の妹を溺愛する年の離れた姉のような砕けた口調で接していた。
「はるちゃん、ありがとう! クッションいっぱい、すっごく高くなって楽しい!」
イブキは榛名を『はるちゃん』と呼び、嬉しそうにクッションの山の上へとよじ登った。
榛名は「ふふ、良かった。イブちゃんが喜んでくれて、お姉ちゃん嬉しいな」と、その橙色の瞳を限界まで垂れ下げてイブキの頭を撫でる。
「おはよう、イブキ。今日も良い朝ね。……はい、お口の周りを汚さないように、エプロンをつけましょうね」
『生活環境・衛生管理当番』を司る正規空母・加賀は凛としつつも、信じられないほど優しい瞳でイブキに近づいた。
かつて一航戦としてのプライドに凝り固まり、冷徹な鉄面皮を崩さなかったあの加賀は、今やイブキ専用のあたたかいお母さんのような包容力を醸し出している。
「がっちゃん、おはよう! エプロン、がっちゃんにつけてもらうと、すっごくポンポンが安心するの!」
イブキが加賀を『がっちゃん』と呼ぶと、加賀の美しい唇がふっと弧を描いた。
「そう。それは光栄だわ、イブキ。さあ、紐を優しく結びますね」
「おぅ、イブキ! 元気がいいな! 朝飯の前に、アタシとちょっと中庭を走るか?」
「おいおい摩耶、イブキは今起きたばっかりだろ。まずは腹一杯に飯を食わせるのが先さ。なぁ、イブキ?」
『警備・特攻隊長当番』の摩耶と天龍が、それぞれ男勝りな笑顔を浮かべて身を乗り出す。
摩耶の胸元からは、たわわな美乳の谷間が覗き、天龍は眼帯の下の瞳を優しく細めていた。
「マーちゃん、てんちゃん、おはよう! イブキね、コンちゃんの朝ご飯がいっぱい食べたいから、走るのはあとでね!」
イブキが2人を『マーちゃん』『てんちゃん』と呼ぶと、2人は「けっ、そりゃ一本取られたぜ!」「ギャハハ、流石は中将サマだ、言うことが一味違うな、イブキ!」と、豪快に大笑いした。
「……おはよう、イブキ。髪の毛が少し跳ねてるよ。僕が直してあげるね」
イブキの椅子のすぐ隣――『提督補佐・メンタルケア当番』として影のように寄り添う駆逐艦・時雨が、そっと手を伸ばした。
「しーちゃん、おはよう! しーちゃんのお手て、いつもひんやりして気持ちいいな!」
イブキが時雨を『しーちゃん』と呼ぶと、時雨は「ふふ、君がそう言ってくれるなら、僕の些細な手でも役に立てて嬉しいよ、イブキ」と、憂いを帯びた瞳を穏やかに細めて微笑んだ。
6人の艦娘たちは、この11歳の小さな提督を、自らの命に代えても守るべき『我が娘』、あるいは『最愛の妹』として、全身全霊で可愛がっていた。
しかし、彼女たちがこれほどまでに甘い、崩れた関係性を見せるのは、世界中でイブキただ1人に対してだけだった。
イブキ以外のメンバーに対しては、海軍の真っ当な戦友として、きっちりと一線を守っていた。
「榛名、加賀。今日の衛生巡回ルートの件だけど、少し倉庫の裏手まで広げてもいいかしら?」
陸奥は、イブキから目線を外すと、いつもの大人びた、蠱惑的な声で他の艦娘の名を呼んだ。彼女の呼び方は常にストレートだ。
「ええ、陸奥。問題ないわ。……それと、摩耶、天龍。あなたたちの警備ルートとも重なるから、事前に連絡を通しておいてちょうだい」
加賀もまた、陸奥や他の面々を呼ぶときは、凛とした一航戦の響きに戻る。
「了解だ、加賀。アタシと天龍のパトロール網は完璧だからよ、陸奥も安心して資材の整理をしてな」
摩耶がサバサバと言い放ち、天龍も「おうよ、陸奥、加賀、任せておきな。時雨も、執務室の周りは俺たちがガッチリ固めておくからよ!」と胸を叩いた。
「ありがとう、天龍、摩耶。……でも、雨が降るかもしれないから、あんまり無理はしないでね」
時雨も、また戦友たちの名前を静かに呼び慣れた調子で口にしていた。
また、金剛型四姉妹の中での関係性や、先輩後輩の礼儀を守る榛名は、その呼び方にも彼女らしい生真面目なルールを持っていた。
「金剛お姉様、陸奥お姉様、加賀お姉様。本日の朝食の準備、榛名もお手伝いさせていただきます! ……天龍さん、摩耶さん、時雨さんも、お茶のお代わりが必要でしたら、すぐに榛名が淹れますので!」
榛名は、金剛、陸奥、加賀という上位の戦艦や空母に対しては最上級の敬意を込め、天龍、摩耶、時雨に対しては礼儀正しく敬称をつけて呼んでいた。
イブキに対するあのタメ口の甘々モードは、まさに奇跡のような特例だったのだ。
「オーウ!!! ユーたち、お待たせデーーース!!! 朝から家族のラブがマックスで、ミーもハイテンションになっちゃいマース!!!」
ガチャン! と厨房の扉を開けて、焼きたての極上オムレツと香ばしいトーストを満載した特大トレイを両手に抱え、金剛が最高の笑顔で現れた。
エプロンをパタパタと揺らしながら現れたレベル5000の世界最強の戦艦は、この鎮守府のメンバーに対して、彼女だけの独自の呼び名を使っていた。
「さあさあ、
「わーい! コンちゃんのオムレツ! お星様のケチャップが乗ってる!」
イブキが短い両手を上にあげてジャンプすると、頭上のヘイローが幸福感に同期してピコピコと激しく黄金の光を明滅させた。
「おててを合わせて、みんなで……せーの!」
イブキが小さな手を胸の前で合わせ、満面の笑みで声を張り上げる。
「「「「「「「「いただきます!!!」」」」」」」」
金剛、イブキ、そして6人の艦娘たちの声が、綺麗に食堂に響き渡った。
それを見た
かつて前任者の残虐な支配によって絶望のどん底に突き落とされ、お互いの名前を呼ぶことすら忘れて朽ち果てようとしていた6人の艦娘たち。
しかし今、彼女たちの間を行き交う名前には、確かな命の温もりと、何者にも壊せない絶対的な家族の絆が宿っていた。
世界で一番小さくて、世界で一番偉大な、みんなの宝物――丹花イブキ中将をその中心に据えて、盤喪鎮守府は、今日も世界一あたたかく、そして世界一不落の『我が家』として、どこまでも明るい光に満たされていた。
次は、21時5分に投稿予定です。