盤喪鎮守府の生活に、暁型駆逐艦『電』が加わってから、表面上は何の滞りもない穏やかな日々が流れていた。
イブキ中将の「新しいお姉ちゃん、いっぱい仲良くしようね!」という無邪気な一言によって、電は赴任初日から温かく迎え入れられ、加賀の采配する生活環境・衛生管理当番の補助として、鎮守府内を比較的自由に動き回る権利を得ていた。
しかし、その平穏な日常の裏側で、電の精神はドス黒い狂気と、狂信的なまでの殺意によって限界まで引き絞られていた。
彼女が日々行っていること、それは『観察』という名の、同居する艦娘たちへの冷徹な値踏みである。
電にとって、丹花イブキという最年少中将は、人類の知性を遥かに超越した、崇拝すべき絶対無二の『神』であった。
そしてその神を傍らで守護するレベル5000の金剛もまた、並び立つべき至高の存在。
その2人の不可侵の聖域であるこの鎮守府に、前任者の不祥事で打ち捨てられていた薄汚れた落ちこぼれの有象無象どもが、平然と家族のような面をして居座っている――その事実自体が、電にとっては1秒ごとに内臓を灼かれるほどの屈辱であり、許しがたい冒涜に他ならなかった。
その日、電の冷酷な双眸がターゲットとして捉えたのは、資材管理当番として鎮守府の兵站を一手に引き受けている戦艦、『陸奥』であった。
午後の中庭、初夏の眩しい太陽が芝生を青々と照らし出す中、陸奥はいつものようにイブキの隣に座り、大本営からせしめてきた高級な果物の缶詰をスプーンで小さく掬って、イブキの口元へと運んでいた。
「はい、イブキちゃん、あーんして。甘くてとっても美味しい桃の缶詰よ。お姉さんがイブキちゃんのために、本営のケチな役人たちをたっぷり脅して実りある交渉をして、一番良いものを持ってきてあげたんだから」
「んむっ! ……わあ、すっごく甘くておいしー! ムーちゃん、すごいや! ありがとう!」
仕立てのサイズがあまりにも大きすぎる純白の軍服の萌え袖をパタパタと揺らしながら、イブキは黄金の瞳をこれ以上ないほど輝かせて満面の笑みを咲かせた。
頭上のヘイローが、幸福感に同期してピコピコと愛らしく明滅する。
「ふふ、どういたしまして。イブキちゃんがそうやって美味しそうに食べてくれるだけで、お姉さん、どんな苦労だって吹き飛んじゃうわ」
陸奥は、手入れの行き届いたショートヘアを指先でかき上げながら、慈愛に満ちた目でイブキの頭を優しく撫でた。
その眼差しは、戦場を駆ける冷徹な兵器のものではなく、最愛の我が子を見守る本物の『母親』のそれであった。
その光景を、中庭の隅で雑草を毟るふりをしながらじっと見つめていた電の身体が、小刻みに、しかし激しくガタガタと震え始めた。
「……ひゃ、ひゃうあ……なのです。陸奥さんは、本当に、お優しい方、なのです……」
通りかかった榛名や時雨がその姿を見れば、「電ちゃんは相変わらず内気で、先輩たちの前だと緊張して震えてしまう可愛らしい子だな」と微笑ましく思ったことだろう。
実際、電は陸奥の前に出るとき、常に怯えた小動物のように身体を硬直させ、声を震わせていた。
だが
その髪の下に隠された、光を一切反射しない生気のない瞳の奥で、電が自らの脳内に響かせていた『本性の声』は、人間の血が通っているとは到底思えないほど、冷酷で、残虐な呪詛に満ち溢れていた。
「(――ふざけるなよ、この雌豚が)」
電は、地面の雑草の根っこを、爪が割れんばかりの力でブチブチと引きちぎりながら、心の中でドス黒い毒液を吐き散らしていた。
「(汚らわしい雌豚の分際で、さっきから馴れ馴れしくイブキ閣下にベタベタと触りやがっている。閣下のその純白の軍服に、お前の安っぽい大人の色気だか何だか知らないドブのような悪臭を放つ脂を擦り付けてんじゃねえよ。塵に等しい有象無象の分際で、閣下のお口に食べ物を運ぶなどという大罪を平然と犯しやがって、その手を今すぐ手首から切断して中庭の肥やしにしてやろうか)」
電の身体の震えは、恐怖によるものでは断じてない。あまりの怒りと、目の前の不敬極まる光景への殺意によって、理性のリミッターが焼き切れそうになっているのを、必死の筋力で抑え込んでいるがゆえの拒絶反応だった。
「(それから、さっきのあの目はなんだ? 陸奥、お前、今あろうことか、人類の至宝であり至高の知性の具現であるイブキ閣下に対して……『母性』を抱いてやがったな? 自分の娘か妹のように可愛がるだと? 思い上がるのも大概にしろよ、このゴミカスが。お前ごとき不祥事鎮守府の落ちこぼれの戦艦が、神に対して母親面をするなど、万死、いや億死に値する不敬だ。お前が抱いていい感情は、絶対的な平伏と、足元を這いずり回る狂信だけなんだよ)」
電の思考は、完全に常軌を逸した狂信者のそれだった。イブキがどれほど陸奥を『ムーちゃん』と呼んで慕おうとも、電にとっては「優しすぎる神が、哀れな下等生物に気まぐれで慈悲を与えてやっているだけ」であり、下等生物の側がそれに調子に乗って親しげに接することは、絶対に許されない大罪なのである。
「あら、電ちゃん? そんなところで震えてどうしたの? 日差しが強いから、少し疲れちゃったかしら」
その時、イブキとの微笑ましい時間を終えた陸奥が、電の異常な震えに気付き、柔らかな笑みを浮かべて近づいてきた。
そして、親愛の情を込めて、電の柔らかな髪に、その白く、手入れの行き届いた美しい手をそっと置いた。
その瞬間、電の脳内の血管が数本、怒りでブチ切れるような凄まじい衝撃が走った。
「ひゃ、ひゃぅあぁっ! い、いえ、電は、ぜんぜん、大丈夫、なのです……っ!」
電は飛び起きるようにして陸奥の手を振り払い、ペコリと何度も頭を下げながら、一歩、また一歩と後退した。
その顔は恐怖で真っ青に見えたが、その内実は、陸奥に触れられた頭皮を今すぐナイフで削ぎ落としたいほどの、猛烈な嫌悪感に支配されていた。
「(触るなっ!! その薄汚い、男をたぶらかすためだけに磨かれたような醜い雌豚の手で、私の髪に、身体に触るんじゃねえよ! プライベートの空間なら、今すぐお前のその両手の爪を1枚ずつ剥ぎ取って、その醜く肥えた脂肪袋にドス黒い劇薬を流し込んで、三日三晩泣き叫ばせながら肉を腐らせて拷問して殺してやるところだ…! 私に触れていいのは、世界でイブキ閣下と金剛様だけなんだよ……!!)」
電は、奥歯がガチガチと鳴るのを必死に堪えながら、陸奥の喉元を凝視した。
今すぐ懐から大本営特製の暗殺用ワイヤーを取り出し、その豊かな首をへし折ってやりたいという衝動が、彼女の華奢な肉体を突き動かそうとする。
だが、電は、その殺意の刃を、自らの胸の奥底へと力ずくで突き刺して封じ込めた。
「(……ダメだ。落ち着け、私。今、この場でこの陸奥を消せば、あのレベル5000の金剛様に瞬時に看破される。金剛様に『イブキ閣下の日常を汚した害虫』と見做され、あの絶対的な王者の御手で肉体ごと縊り殺される……。いや、金剛様に殺されること自体は、神の側近の手によって逝けるのだから、私にとっては至上の本望、むしろ極上の救済だ)」
電は、ハァハァと荒い呼吸を心の中で繰り返しながら、その狂信の視線を、無邪気にイチゴの果肉を眺めているイブキへと向けた。
「(だけど……私がここで軽挙妄動を起こして、このゴミ溜めのクズを殺せば、何よりも『イブキ閣下のお手を煩わせること』になってしまう。閣下の美しく、清らかな世界に、このような雌豚の汚い血飛沫を散らし、閣下の貴重な脳細胞を作戦の事後処理や隠蔽の計算に浪費させてしまう……。それだけは、絶対に、何があっても避けなければならない。私ごときの矮小な命、私ごときの間諜の分際が、閣下の崇高な未来の邪魔になることだけは、万が一にもあってはならないんだ)」
狂信ゆえの、異常なまでの自己犠牲と自制心。
電は、自分が金剛に殺される恐怖ではなく、『大崇拝するイブキ閣下の完璧な世界に、自分が不純物として残ってしまうこと』を、何よりも恐れていたのだ。
だからこそ、彼女は陸奥の喉元を掻き切りたいという本能的な衝動を、完璧に押さえ込むことができた。
電は深呼吸をし、胸の中で、まだ何も知らずに微笑んでいる陸奥に向かって、氷のように冷たい言葉を投げかけた。
「(感謝しろよ、陸奥。お前が今、その醜い命を繋ぎ止め、神に対して馴れ馴れしく母親面をしていられるのは、お前の実力でも何でもない。ただひとえに、イブキ閣下のどこまでも海より深い温情と慈悲が、お前を生かしてやっているだけに過ぎないんだからな。もし閣下が『あの戦艦、いらない』と一言でも仰れば、私はその日の夜にお前の寝室に忍び込んで、心臓を針で一突きにして暗殺してやるわ。それまでは、閣下の退屈しのぎの玩具として、精々その安っぽい笑顔を浮かべて役に立っていなさい)」
「電ちゃん? 本当に顔色が悪いわよ? 榛名、お部屋で休めるように温かいお茶を淹れてきましょうか?」
遠くから様子を見ていた榛名が、心配そうに声をかけてくる。
「はぅあ! の、ノープロブレム、なのです! 電、ちょっとお腹がびっくりしただけなので、おトイレにいってきます、なのです!」
電はいつもの内気な少女の仮面を完璧に被り直すと、申し訳なさそうに両手を振りながら、タタタッと足早に庁舎の中へと戻っていった。
誰もいない薄暗い廊下の洗面所に駆け込んだ瞬間、電は蛇口を全開にして水を出し、陸奥に触れられた頭髪と、陸奥の手がかすめた制服の肩口を、冷水で狂ったように激しく洗い流した。
「ぷはっ……! 汚らわしい。本当に、どいつもこいつも虫唾が走るクズばかりだ」
鏡に映る自分の顔は、髪が少し乱れ、冷酷な言葉遣いと共に、冷徹な殺意に満ちていた。
電は懐から携帯灰皿とタバコを取り出し、火をつけて深く煙を吸い込む。
紫煙が洗面所の鏡を白く曇らせていく中、彼女の胸の内にある、鎮守府の艦娘たちへの『値踏み』と『選別』の炎は、さらにドス黒く、誰にも消せない狂気の熱を帯びて燃え上がっていくのだった。
次は20時5分に投稿します。