海軍中将・丹花イブキ提督   作:ていん?が〜

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第19話『感謝しろよ、クズ』

 暁型駆逐艦『電』が、その内に狂気的なまでの二面性を秘めながら盤喪鎮守府の日常に潜り込んでから、さらに数日が経っていた。

 

 表向きは、内気で大人しく、少しのことで「ひゃぅあ!」と震えてしまう可憐な駆逐艦。

 しかし、その厚い仮面の裏側では、タバコの紫煙をくゆらせ、周囲の艦娘たちを『神への不敬を働くゴミカス』と呪い、冷徹に値踏みし続ける暗殺者。それが彼女の真実の姿だった。

 

 特に、イブキ中将から『ムーちゃん』と呼ばれ、我が子のように慈愛に満ちた母性を注いでいる戦艦『陸奥』への殺意は、日を追うごとに電の胸の内で黒く、ドロドロとした澱みとなって膨れ上がっていた。

 

「(あの雌豚が……。今日も閣下の神聖な領域を汚しやがって。いつか絶対にその首をへし折ってやる)」

 

 

 そんな電のドス黒い『値踏み』の天秤を大きく揺るがす、前代未聞の【大事件】が勃発したのは、湿り気を帯びた南風が吹き付ける、ある日の午後のことだった。

 

 

 事件の舞台となったのは、鎮守府の最奥、海岸線の断崖絶壁にほど近い場所に建てられた『第一地下備蓄倉庫』だった。

 

 ここには、陸奥がその卓越した弁舌と色気を駆使し、大本営の強欲な反対派の役人たちから半ば脅し取るようにしてかき集めてきた、大量の重油、高純度ボーキサイト、そして各種主砲用の特大型弾薬が、うず高く保管されていた。

 盤喪鎮守府の命綱とも言えるその神聖な場所に、前任者の残党――かつて公金を横領し、闇市へと資材を横流ししていた悪徳提督の手下であった人間の工作員たちが、密かに潜入していたのだ。

 

 彼らの目的は、自分たちの悪事を暴き、最高統帥元帥の後ろ盾を得てスピード出世したイブキ中将への報復、そしてこの鎮守府の機能を完全に麻痺させること。

 

 彼らは、倉庫の最奥にある可燃性重油のコントロールバルブを破壊し、特殊な時限式の熱線信管を設置して逃走した。

 

「――火事、デーーース!!! 第一地下倉庫から、ブラックな煙がライジングしていマース!!!」

 

 見張りをしていた金剛の、地を震わせるような緊迫した声が鎮守府全体に響き渡ったのは、信管が作動した直後だった。

 

 ドォォォォォン!!! という、鼓膜を破らんばかりの不気味な重低音が響き、地下倉庫の分厚い鉄扉の隙間から、ドス黒い炎と、有害な化学物質を含んだ猛烈な白煙が勢いよく噴き出した。

 

「な、何が起きたってんだよ!?」

 

 摩耶と天龍が艤装のトリガーに手をかけながら廊下に飛び出してくる。

 

「大変です! 倉庫の中には、一昨日届いたばかりのイブキちゃんたちのための大切な燃料が……っ!」

 

 榛名が顔を真っ真っ青にして声を震わせた。

 

 緊迫しながらも加賀が即座に状況を分析して告げる。

 

「まずいわね……。あの煙の配色は普通の方法では消火できない特殊化学火災よ。地下の排気システムが完全に停止しているわ。今すぐ誰かが内部の非常用冷却レバーを直接引き下げなければ、あと数分で弾薬庫に引火して、この盤喪鎮守府は敷地ごと木っ端微塵に吹き飛ぶわね」

 

 あまりにも絶望的な状況。常人であれば煙を吸い込んだだけで肺を焼かれて即死する暗黒の閉鎖空間。

 レベル5000の金剛であっても、その巨体では、狭く複雑な地下通路の瓦解に巻き込まれれば身動きが取れなくなる危険性があった。

 

 何より、作戦司令本部の奥では、この急激な事態と爆発音の恐怖に、イブキが怯えていた。

 

「う、うわぁぁぁん……っ! 怖いよぅ、コンちゃん、しーちゃん……! お家がドカーンってなっちゃうの……!?」

 

 大きすぎる純白の軍服の萌え袖で目を覆い、黄金の瞳からポロポロと涙を流すイブキ。

 頭上のヘイローが、恐怖に同期してチカチカと激しく不規則に点滅している。

 時雨が必死に彼女を抱きしめて「大丈夫だよ、提督。僕がここにいるからね」と声をかけるが、震えは止まらない。

 

 そのイブキの涙を見た瞬間、中庭の影で状況を伺っていた電の脳内に、凄まじい沸騰が起きた。

 

「(――閣下を泣かせた。あの人間のクズども、万死どころか存在そのものを歴史から消去してやる。だが……クソ、このままでは本当にこの基地が吹き飛ぶ。金剛様が動けないなら、私がその身を賭して地下へ飛び込むしか――)」

 

 電が、狂信ゆえの決死の特攻を敢行しようと一歩を踏み出した……その時だった。

 

「あらあら、随分と賑やかな花火を打ち上げてくれたものね」

 

 爆炎が吹き荒れるエントランスに、どこまでも優雅で、蠱惑的な響きを持った声が響いた。

 

 戦艦、陸奥。

 

 彼女は、普段のあの緩やかで大人の色気を漂わせた微笑みをその唇に湛えたまま、一歩一歩、確固たる足取りで炎上する地下倉庫の入り口へと歩み寄っていた。

 その手には、濡れた厚手の毛布すら握られていない。ただ、自らの強大な戦艦としての艤装を静かに展開しているだけだった。

 

「陸奥!? 正気かよ、あの煙の中に飛び込んだら、いくら戦艦の装甲を持った艦娘だってひとたまりもねぇぞ!」

 

 天龍が驚愕して叫ぶが、陸奥はフッと髪をかき上げ、その奥にある瞳を、かつてないほど鋭く、冷徹な『戦艦の光』へと変化させた。

 

「ふふ、何を言っているの。あの子が……私たちの、私の大切なイブキちゃんが、あんなに怖がって泣いているのよ? その涙を止めるのが、この『ムーちゃん』の仕事に決まっているじゃない」

 

 陸奥はそう言い残すと、加賀や摩耶が止める間もなく、猛烈な熱風と黒煙が逆流してくる暗黒の地下階段へと、迷いなくその身を投じた。

 

「……っ!?」

 

 電は、その場に釘付けになった。

 

「(正気か? あの雌豚、本当にただの自己犠牲の精神だけで、あの地獄へ飛び込みやがったのか……!?)」

 

 地下倉庫の内部は、文字通りの地獄絵図だった。

 

 視界は完全なゼロ。数千度に達する超高温の熱気が陸奥の肌を焼き、装甲の表面をじりじりと焦がしていく。

 前任者の工作員たちが残していった有害なガスが、艦娘としての肺胞に凄まじい激痛を与えていた。

 

「(ぐ……っ、あ……。流石に、少し息が苦しいわね……)」

 

 陸奥は喉の奥から込み上げる血の味を飲み込みながら、脳内でイブキの手書きのノートを完璧に思い出していた。

 あの大掃除の日に、イブキがこの鎮守府のすべての構造をミリ単位で計算し、まとめた『安全経路図』。

 

 五感を失ったあの特訓、数トンの超重力をかけられながら完璧な思考を維持し続けたあの地獄の特訓の日々が、今の陸奥の肉体に、絶対的な『冷静さ』をもたらしていた。

 

 視界など必要ない。熱気の揺らぎと、空気の重さだけで、バルブの位置が『視える』。

 

「そこね……!」

 

 陸奥は、爆発的な霊子を艤装の主砲へと充填すると、それを消火用ではなく、破壊による『爆風消火』のために利用した。

 

 ドガァァァン!!! と、陸奥自身の主砲が至近距離で炸裂する。その凄まじい衝撃波が、可燃性重油の炎を一瞬にして酸欠状態に追い込み、火力を強制的に数%まで減退させた。

 その隙に、陸奥は自身の白い皮膚が熱で膨れ上がるのも厭わず、燃え盛る非常用冷却レバーへと両手をかけ、自慢の戦艦の怪力をもって、力ずくでそれを引き下げたのだ。

 

 ガガガガガガ!!! という音と共に、天井の非常用スプリンクラーから、高密度の冷却液が大量に噴射され始める。弾薬庫への引火ラインは、完全に断たれた。

 

 

 かくして大事件は、1人の戦艦の、圧倒的な執念と特訓の成果によって、わずか数分で『完全鎮圧』されたのである。

 

 しばらくして、黒煙が薄れた地下階段から、足元を少しふらつかせながらも、堂々と生還した陸奥の姿が現れた。

 その美しい制服は所々が焼け焦げ、髪の先も煤で黒くなっていたが、彼女の顔には、これ以上ないほど晴れやかで、優しい微笑みが浮かんでいた。

 

「ムーちゃん!!!」

 

 作戦室から飛び出してきたイブキが、大きすぎる軍服の裾をパタパタと揺らしながら、一目散に陸奥の元へと走ってきて、その腰へと力一杯にしがみついた。

 

「ムーちゃん、無事だった! よかったぁ……っ! お家も、ドカーンってしなかったよ! ムーちゃん、すごいや! イブキの、最高のお姉ちゃんだよ!」

 

 陸奥は、イブキの小さな温もりを全身で受け止めると、その場に優しく膝をつき、イブキの涙を萌え袖の先でそっと拭ってあげた。

 

「ふふ、泣かないで、イブキちゃん。お姉さんが言ったでしょう? あなたを怖がらせるものは、この陸奥が、全部綺麗にお片付けしてあげるって。……さあ、もう安心よ、良い子ね」

 

 陸奥は深い深い母性の目でイブキを抱きしめ、その頭を何度も撫でた。その様子を、周囲の加賀や榛名、時雨たちも、誇らしげに、そしてあたたかい目で見守っていた。

 

 その光景を、ロビーの柱の陰からじっと見つめていた電は――。

 

 ガタガタと、その身体を激しく震わせていた。

 

 

 だが、その震えは、先ほどまでの怒りや嫌悪によるものではなかった。彼女の光を反射しない双眸の奥に、初めて、明確な『驚愕』と『畏怖』、そして敗北感が宿っていた。

 

 電は静かに、誰にも見られないように回れ右をすると、自らに割り当てられた個室へと戻り、バタンと鍵を閉めた。

 ポケットからタバコを取り出し、火をつける。紫煙を深く深く吸い込み、部屋の天井を見つめながら、ポツリと呟いた。

 

「……チッ。やるじゃないか、あの雌豚」

 

 電は、タバコの灰を携帯灰皿へと落としながら、クククと低く、邪悪に笑った。

 

「認めざるを得ないな。あの状況、あの有害なガスの中へ、ただイブキ閣下の涙を止めるためだけに一瞬の迷いもなく飛び込み、完璧に任務を遂行してみせた。……有象無象のゴミカスだと思っていたが、あの執念、あの戦闘知略、そして何より『閣下を守るための盾』としての性能は、本物だ。大本営のあの無能な老人たちとは、魂の格が違いすぎる」

 

 電は、窓の外でイブキに甘えられている陸奥の姿を思い浮かべ、その天秤の針をドスンと動かした。

 

「陸奥、お前を『不敬なる雌豚』から、閣下の側に立つ資格のある【最上級足拭きマット】に昇格させてやる。……合格だ。神の隣に並ぶにはまだ1億年早いが、閣下の玩具として、閣下の命を守る忠実な猟犬としては、十分に合格点を与えてやろう。感謝しろよ、クズ。お前があそこまで命を張ってみせたから、私のこの気高き狂信の刃を、しばらくはお前の喉元から収めておいてやるんだからな」

 

 電はタバコをジュッと押し付けて消すと、消臭スプレーを全身に吹きかけ、再びあの内気で大人しい、誰からも愛される少女の完璧な仮面を被り直した。

 

「ふふ……。さて、他の有象無象どもは、どうかしらね……なのです」

 

 扉を開けた彼女の瞳には、盤喪鎮守府の『家族』を、自らの歪んだ、しかし絶対的な基準でさらに見極めてやろうという、底知れぬ狂気の光が、どこまでも冷たく輝いていた。




次は明日の19時5分に投稿します。
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