盤喪鎮守府の第一地下備蓄倉庫で起きた爆破炎上事件は、戦艦・陸奥の文字通り命を賭した執念と、イブキ中将の残した安全経路図の正確さによって、奇跡的な完全鎮圧を見せた。
この一件により、暁型駆逐艦『電』の脳内にある冷徹な天秤は大きく揺れ動き、陸奥に対しては『イブキ閣下の盾としての利用価値あり』として、最上級足拭きマットという名の合格点が与えられるに至った。
だが、電の内に潜むドス黒い狂信の炎が、それによって鎮火されたわけでは決してない。
むしろ、1つの事象に決着がついたことで、彼女の光を一切反射しない双眸は、次の標的を冷酷に、そしてより深く見定め始めていた。
次に電の『観察』という名の、残虐な値踏みの標的となったのは、金剛型戦艦三女――『榛名』であった。
初夏の瑞々しい青葉が陽光に踊る中庭で、榛名は朝から熱心に、金剛の艤装の手入れを手伝っていた。
「金剛お姉様! こちらの主砲管制ユニットの注油、すべて完了いたしました! お姉様の気高き艤装に一分の濁りも残さぬよう、榛名、全力を尽くしました!」
「オーウ! サンキューデース、ハルナ! ユーのブラシさばきはいつもエクセレントで、私の砲身もピカピカのハッピーデース!」
テラス席で、イブキの小さな頭を優しく撫でながら、金剛がガハハと豪快に笑う。
その金剛の言葉一つ、視線一つに対して、榛名は頬を林檎のように真っ赤に染め、橙色の瞳を限界まで輝かせて身を震わせていた。
「はぅ……っ! お姉様に褒めていただけるなんて、榛名、これ以上の幸福はありません……っ! お姉様、お茶のお代わりはいかがですか? すぐに最高のダージリンを淹れてまいります!」
ことあるごとに金剛の衣装の袖を掴み、まるで雛鳥が親鳥を追うようにピタリと後ろを付いて回る榛名の姿。
その光景を、中庭の片隅で、植木鉢の土を入れ替えるふりをしながらじっと凝視していた電の指先が、怒りと憎悪によってガタガタと、陸奥の時とは比べものにならないほどの激しさで震え始めた。
「……ひゃ、ひゃぅあ。榛名さんは、本当にお姉様想いの、健気な戦艦さん、なのです……」
通りかかった天龍や摩耶がその声を聞けば、いつものように「電は本当に内気で、先輩たちの仲睦まじい姿に気圧されて震えているんだな」と微笑ましく思っただろう。
だが、髪の間に隠れたーーハイライトの消え失せた暗黒の眼窩の奥で、電が自らの脳内に響かせていた『本性』は、精神に異常をきたす一歩手前まで煮えくり返った、狂気的な呪詛そのものだった。
「(――虫唾が走る。本当に、不愉快極まりないクズだな、コイツは)」
電は、移植用のシャベルを土の中に力任せに突き立て、岩を砕かんばかりの力で握り締めながら、心の中でどす黒い毒液を絶え間なく吐き散らしていた。
「(何が金剛お姉様だ。何が榛名は大丈夫ですだ。大本営の古い資料を読めば、前任者の下でろくに戦果も挙げられず、ただ根暗に、陰気臭く隅っこで俯いていた、落ちこぼれの戦艦の分際が。そんな不祥事まみれのゴミカス風情が、神の領域であるレベル5000に君臨する金剛様に『お姉様』などと親しげに呼びかけ、ベタベタと汚い手で引っ付いてやがる。あの至高の存在に触れるなど、本来であれば即座に万死に処されるべき大罪だ。分不相応に甘えやがって、その甘ったれた顔の皮を今すぐナイフで綺麗に剥ぎ取ってやろうか)」
電の震えは、もはや怒りの閾値を遥かに超えていた。電にとって、金剛はイブキを守るための絶対的な対の神であり、畏怖すべき超越者。
その神に対して、かつて引き籠もりのようだった根暗の陰キャが、急に家族気取りでまとわりついている図式が、死ぬほど許せなかった。
だが、電の正気を完全に狂わせ、殺意のメーターを極限へと叩き込んだのは、その直後の出来事だった。
「イブちゃん、お待たせ! 榛名、イブちゃんが大好きなイチゴのジャムをたっぷり乗せたクラッカーを持ってピクニックの準備をしたよ! さあ、あーんして!」
手入れを終えた榛名が、嬉しそうに椅子の上でパタパタと足を動かしているイブキの元へと駆け寄り、お皿を差し出した。
イブキは「わあー! はるちゃん、ありがとう! んむっ、あまくておいしー!」と、小さな口で頬張りながらも最高の笑みを咲かせる。
その瞬間、電の脳内の理性の防壁が、音を立てて完全に崩壊した。
「(……今、何と言った? イブちゃん、だと?)」
電の額に、ドクドクと恐ろしい青筋が何本も浮かび上がる。
「(お前……今、人類の至宝であり、大本営を実質的に支配する至高の頭脳、私にとって絶対の神である丹花イブキ中将閣下を……『イブちゃん』と、その汚いドブネズミのような口で馴れ馴れしく呼びやがったな? それだけじゃない……何だその口調は。何だその態度は。閣下に対して、敬語を…海軍の絶対的な規則である敬語を完全に無くしてタメ口で喋っていやがる……!)」
電の胸の内で、咆哮のような殺意が爆発した。
(上官への不敬、国家への反逆、そして何より――神への、絶対的な無礼だ! 海軍の常識から考えても、あり得ない暴挙だろうが! いくら閣下が寛大で、お優しいからといって、調子に乗って対等な姉妹の面をしてんじゃねえよ! 陸奥はまだ、閣下に対して最低限の節度と『イブキちゃん』という階級への意識を微かに残していた。だが、この榛名というクズは完全に一線を越えてやがる。コイツだけはダメだ。陸奥よりも、他のどの有象無象よりも罪深い、万死の不敬者だ……!!!)」
電の身体の震えは、怒りによって気が狂いそうになるのを、超人的な精神力で抑え込んでいるがゆえの悲鳴だった。
今すぐ懐の暗殺用暗器を榛名の美しい首筋に突き立て、その穏やかな橙色の瞳を抉り出してやりたいという衝動が、彼女の華奢な肉体を限界まで突き動かそうとする。
だが、電は、狂信者ゆえの冷徹な理性で、自らの手をギリギリのところで止めた。
陸奥の時と同じだ。今ここで榛名を完全に殺せば、金剛様に一瞬で看破される。
自分が死ぬのは構わないが、大好きなイブキ閣下の美しく清らかな世界に、自分の汚い暗殺の痕跡を残し、閣下の手を煩わせることだけは、絶対に、何があっても避けないといけない。
「(……殺せない。完全な抹殺は、今の段階では閣下の邪魔になる。私ごときの命が、閣下の未来の不純物になってはならない……。だが……しかし……っ! このままコイツを何の咎めもなしにのさばらせておくなど、私のこの信心の誇りが、神への忠誠が絶対に許さない……!!!)」
ならば、どうするか。
電の冷酷な知性は、一瞬にして、自らの手を汚さずに、かつ閣下たちに『不審』を抱かせない、最も陰湿で確実な【制裁】の方法を導き出した。
「はぅあ、榛名さん……。あの、お姉様へのお茶の葉が、あちらの第二倉庫の、すっごく高い棚の上に、まだ残っているみたいなのです。電の短い手じゃ、どうしても届かなくて……手伝ってほしい、なのです……」
電は、いつもの内気で気弱な少女の仮面を完璧に被り直すと、涙目で榛名の巫女風の衣装の裾をそっと引っ張った。
「あら、電ちゃん。そうなのですね、分かりました! 金剛お姉様のためですもの、榛名が喜んで取ってあげます! 榛名は、高いところのお掃除だって大丈夫ですから!」
榛名は疑うこともなく、いつもの朗らかな、功を誇らない笑顔を浮かべて、電の後を付いて薄暗い倉庫へと歩いていった。
その榛名の後ろ姿を、電は光を一切反射しない、蛇のような冷たい目で見つめていた。
「(感謝しろよ、クズ。お前のその不敬な身体に、神の代行者として、ほんの少しだけ『洗礼』を授けてやるんだからな)」
薄暗い第二倉庫の最奥。
木製の頑丈な棚の最上段には、確かに古びた茶缶が置かれていた。
榛名はサイハイブーツを鳴らしながら、棚に近づき、背伸びをして両手を大きく伸ばした。
「ええと、これですね……。あと少しで、届きま――」
その、榛名が完全に背中を向け、重心を極限まで上方に預けた、無防備極まりない一瞬の刹那。
電は、足元に転がっていた重厚な鉄製の艤装固定用ボルト(数キログラムの重量がある金属塊)を、目にも留まらぬ速さで拾い上げると――。
偶然の事故を装い、それを榛名の細い足首、サイハイブーツと絶対領域の境界線にある、一番無防備なアキレス腱のあたりに向けて、正確無比な角度で、全筋力を込めて『蹴り飛ばした』。
ガツゥゥゥン!!! と、鈍く、痛々しい金属音が狭い倉庫に響き渡る。
「――っ!!! 痛い……っ!!!???」
予期せぬ足元からの凄まじい衝撃と激痛に、榛名は短い悲鳴を上げてバランスを完全に崩し、高い棚から無様に床へと転れ落ちた。
床のコンクリートに全身を強く打ち付け、その灰色がかった黒髪ロングが床に乱雑に広がる。
特に、金属塊が直撃した足首からは、ズキズキと激しい激痛が走っているようで、榛名は橙色の瞳に涙をいっぱいに溜め、顔を苦悶に歪めながら、細い手で足首を強く押さえてうずくまった。
「あ、あぅ、痛いです……。足が、足が……っ」
気高く礼儀正しいはずの戦艦が、床を這いずり回って痛がっている無様な顔。
その光景を薄暗い影の中から冷徹に見下ろしていた電の胸の奥底に、得も言われぬ、極上の快感がジュワリと広がっていった。
「(――あはは、いい気気味だ)」
電は、心の中で冷酷に、邪悪に、歪んだ笑みを浮かべていた。
「(神への不敬を働き、タメ口で馴れ馴れしく微笑んでいたその傲慢な顔が、激痛で綺麗にひずんでやがる。最高にスカッとするな。お前ごとき落ちこぼれの戦艦が、痛みに耐えかねて涙を流し、冷たい床に平伏している姿こそが、本来の正しい身の程というものだ。その激痛はね、お前が閣下と金剛様に対して積み重ねてきた『不敬の大罪』の、ほんの数億分の1の利息だよ)」
電は、床で呻いている榛名の姿を見て、日頃の溜まりに溜まっていた精神の狂気が、ほんの少しだけ削ぎ落とされ、脳内がクリアになっていくのを実感していた。
この制裁こそが、彼女にとっての唯一の正義であり、最高の娯楽だった。
だが、電は一瞬で、その極上の愉悦の表情を消し去り、大慌てで榛本の元へと駆け寄るポーズを取った。
「ひゃ、ひゃぅあぁっ!!! は、榛名さん!!! 大丈夫ですか、なのです!? 電、足元にあったボルトに気づかずに、お掃除の箒でパッと払ったら、榛名さんの足に当たっちゃって……っ! ごめんなさい、ごめんなさい、なのですぅぅぅ!!!」
電は顔を真っ青にし、大粒の涙を流すふりをしながら、ペコリペコリと何度も必死に頭を下げて謝罪した。
その演技は、誰が見ても『不器用な駆逐艦が、偶然の事故で大先輩を傷つけてしまい、パニックになっている』ようにしか見えなかった。
榛名は、激痛に耐えながらも、電のその必死に泣いて謝る姿を見て、自らの痛みを堪え、いつもの優しい、控えめな笑みを無理に唇に浮かべた。
「あ……、大丈夫、大丈夫ですよ、電ちゃん。……電ちゃんが、わざとやったわけではないのですから、そんなに泣かないでください。榛名は……大丈夫、ですから……っ」
榛名は、痛む足首を引きずりながら、逆に電の頭を優しく撫でて慰めようとした。
その、どこまでも生真面目で、自分を許してくる榛名の『聖人君子』のような態度に、電の胸の中の天秤は、陸奥の時とは真逆の方向へと冷酷に振り切れた。
「(――チッ。どこまでも偽善的で、虫唾が走る女だな)」
電は、携帯灰皿とタバコをポケットの中で握り締めながら、心の中で氷のように冷たい、絶対的な『不合格』の烙印を榛名へと叩きつけた。
「(陸奥は、閣下のために命を張る本気の執念を見せたから、足拭きマットとして認めてやった。だが、この榛名というクズはなんだ? 偶然の事故(笑)で足首を砕かれかけているのに、犯人である私を許し、自己満足の優しさに浸っていやがる。そんな温いままで、いつか閣下に本当の牙を剥く大本営の刺客や深海の王たちが現れた時、冷徹に相手の息の根を止めることができるのか? いいや、できないね。コイツはただ、閣下たちのあたたかい光の側にいて、お姉様ごっこ、妹ごっこを楽しんでいるだけの、本当の『お荷物』だ)」
電は、涙を袖で拭うふりをしながら、心の中でクククと邪悪な笑い声を響かせる。
「はぅあ、榛名さん、電が肩をお貸しします、なのです! 救急室へいきましょう、なのです……」
「ええ、ありがとう、電ちゃん。助かります……」
電は榛名の華奢な肩を支え、ゆっくりと救急室へ歩き出しながらもその瞳を底知れぬ狂気へとさらに深化させていた。
「(榛名。お前は不合格だ。閣下の側に立つ資格も、金剛様に甘える権利も、1mmたりともありはしない。今回はただの小手調べ。もし次も、その汚い口で閣下を『イブちゃん』と呼んで不敬を働くなら……、次は偶然の事故を装って、その薄汚いドブ髪ごと、大型クレーンの歯車に巻き込ませて、二度と歩けない身体にしてやるわ。それまでは、精々その痛む足を引きずりながら、神のお荷物として無様に這いずり回っていなさい)」
洗面所の薄暗い鏡の前で、のちに一人で吸ったタバコの味は、榛名の苦悶の表情を思い出すたびに、格別に甘く、そして狂おしいほどに電の心を昂らせていくのだった。
盤喪鎮守府の温かな家族の影で、冷徹な狂信者の牙は、確実に、次の生贄の喉元を狙って研ぎ澄まされていた。
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