金剛型戦艦三女・榛名に対し、偶然の事故を装って鉄製のボルトをアキレス腱に蹴り込み、その美しい顔が激痛に歪むのを薄暗い倉庫で見つめていた暁型駆逐艦『電』。
彼女の胸の内にある冷徹な天秤は、己の優しさに溺れて不審者を許してしまう榛名を『神のお荷物』『不合格』として冷酷に切り捨て、次なるより凄惨な制裁の機会を虎視眈々と狙っていた。
表向きは少しのことでも「ひゃぅあ!」と怯えて見せる大人しい駆逐艦。
しかし、1人になれば携帯灰皿にタバコの灰を落としながら『上官への不敬を働くクズどもめ』と吐き捨てる。それがこの鎮守府に潜む、狂信の二面性であった。
特に、階級章も無視してイブキ中将を『イブちゃん』とタメ口で呼び、神に対して対等な姉妹のように接する榛名への殺意は、電の脳内で1秒ごとに濃密な毒素へと変わっていった。
「(次こそはクレーンの歯車か、あるいは演習中の誤射を装って、二度とあの神聖なお二人方の前に立てないように肉体をすり潰してやる……)」
電がそんな最悪の制裁を脳内で完成させつつあった、ある日の夕暮れ時。
盤喪鎮守府の存亡、そしてイブキ中将の命そのものを脅かす、1回目よりも遥かに大規模で凶悪な【第2の大事件】が勃発した。
事件の引き金となったのは、先日の第一地下倉庫の炎上事件を引き起こし、陸奥によって潜入工作を阻まれた前任者一派の残党どもが放った、最後の切り札だった。
作戦失敗から、いずれ捜査の足が彼らに向くことは時間の問題だった。故に自暴自棄の狂気に駆られ、あろうことか禁忌の無線兵器を用いて、近海に眠っていた通常種の深海棲艦、さらにはその上位個体である『空母ヲ級フラグシップ』を含む総勢70隻を超える巨大な『深海混成別戦隊』を、盤喪鎮守府の防衛網の隙間へと強制的に誘導・逆召喚したのである。
折しも、その日は最悪のタイミングだった。
海軍最強の戦艦・金剛は、イブキ中将に『世界で一番美味しい晩ご飯』を振る舞うため、陸奥がせしめてきた最高級の食材を携えて、遥か遠方の街の特別市場へと買い出しに出かけていた。
レベル5000の絶対的な守護神が、一時的に鎮守府を完全に留守にしていた数時間。
そこに、黒い津波のごとき深海棲艦の軍勢が、夕闇に紛れて一斉に牙を剥いたのだ。
ウゥゥゥゥゥゥン!!! ウゥゥゥゥゥゥン!!!
鎮守府全体に、これまでにないほどけたたましい緊急防空警報のサイレンが鳴り響く。
モニター室の画面には、盤喪鎮守府を完全に包囲するように迫る、無数の不気味な赤黒い光点。
そしてその中心で、異形の巨大な帽子のような髪を揺らし、不気味な明滅を放つ『空母ヲ級』の姿が映し出されていた。
「嘘……っ! 敵の先遣隊が、もう目と鼻の先まで迫っているわ!」
加賀がモニターを見つめながら、一航戦の冷徹な戦術眼を剥き出しにして叫んだ。
「金剛がいない今の戦力では、まともに正面から殴り合えば数分で防衛線が瓦解する。摩耶、天龍、今すぐ第一防波堤まで出て迎撃体制を! 時雨、イブキを地下の最高防殻シェルターへ!」
「了解だ! クソっ、こんな時に姐御がいないなんてな!」
摩耶が荒々しく廊下を駆け抜け、天龍も刀を引き抜きながら「おい、時雨! ボスを頼んだぞ!」と叫んで前線へと飛び出していく。
時雨は青ざめた顔でイブキの小さな手を握り、「行こう、イブキ。僕の些細な力でも、君を絶対に濡らさせはしない」とシェルターへの階段へと急いだ。
しかし、敵の侵攻速度は、加賀の予測を遥かに上回っていた。
ドガァァァン!!! という凄まじい地鳴りと共に、空母ヲ級から放たれた無数の深海爆撃機が、鎮守府の正門、そして庁舎の屋根へと次々と直撃し、白亜の壁がガラガラと音を立てて崩れ落ちる。
「う、うわぁぁぁん……っ! 怖いよぅ、しーちゃん、がっちゃん……っ!」
大きすぎる純白の軍服の萌え袖で顔を覆い、爆風の風圧に細い身体を震わせながら、イブキが激しく泣き叫んだ。
頭上のヘイローが、恐怖と衝撃によってチカチカと消え入りそうなほどに不規則に明滅している。
その、自分にとって絶対の神であるイブキの涙を見た瞬間、ロビーの影で状況を伺っていた電の胸の奥で、理性のリミッターが完全に吹き飛んだ。
「(――閣下を。私のイブキ閣下を、あの忌々しい深海のゴミどもが泣かせやがった……! 殺す。金剛様がいないなら、私がこの艤装のすべてを爆発させて、閣下の視界からあの化け物どもを一匹残らず消し炭にして――)」
電が狂信ゆえの、死をも厭わぬ自爆特攻を敢行しようと第一防波堤へと飛び出そうとした、まさにその刹那。
「――いいえ。電ちゃん、あなたはここに残って、イブキちゃんとみんなを護りなさい」
凛とした、しかしどこまでも優しく、功を誇らない、気高き声が響いた。
金剛型戦艦三女、榛名。
彼女は、数日前に電によってアキレス腱に金属塊を叩き込まれ、未だに激痛が残っているはずのその右足を引きずりながら、一歩一歩、確固たる足取りで崩壊するロビーの中央へと歩み出ていた。
その橙色の瞳には、かつて『自分は姉妹の中の落ちこぼれ』と俯いていた陰気な影など、微塵も存在しなかった。
そこにあるのは、金剛型の一翼を担う、本物の『高速戦艦』としての、圧倒的な戦闘の光。
榛名は、激痛を堪えるように胸元のさらしを一度強く握り締めると、純白の軍服を着たイブキの方を振り返り、これ以上ないほど美しく、気高い微笑みを浮かべた。
「イブちゃん、大丈夫。怖がらないで、泣かないで。……金剛お姉様がいないこの海は、この榛名が、命に代えても護り抜いてみせます。榛名は……大丈夫、ですから!」
榛名はそう言い残すと、サイハイブーツを響かせ、爆炎と爆風が吹き荒れる第一防波堤の最前線へと、弾丸のような猛スピードでその身を突進させた。
「……っ!?」
電は、その場に完全に釘付けになった。
「(正気か? あの足首の激痛に耐えながら、あの戦力を前に、たった1隻で防波堤の盾になりにいきやがったのか……!?)」
夕闇が迫る第一防波堤。そこは、数十隻の敵駆逐艦、軽巡洋艦、そして空母ヲ級フラグシップが放つ艦載機の群れが、牙を剥いて押し寄せる絶望の最前線だった。
摩耶と天龍が必死の防空射撃を繰り広げ、加賀が雲の向こうから艦戦を飛ばして防衛線を張っていたが、数の暴力の前にジリジリと後退を余儀なくされている。
「ハァ……、ハァ……っ! ここから先は……一歩も、一歩たりとも通しません!」
防波堤の先端に立ち、自らの四連装主砲を全開に展開した榛名は、激しい息の荒さの中で、アキレス腱から脳髄へと突き抜けるような激痛と格闘していた。
普通なら立っていることすら不可能なはずの怪我。しかし、今の彼女を突き動かしていたのは、自分を『はるちゃん』と呼んで慕ってくれたあの小さなイブキの笑顔を守りたいという、ただそれだけの至高の執念だった。
「(あの地獄の特訓……。お姉様が投げる最高級のティーカップを、目隠しをしたまま、心眼だけで一滴の紅茶も零さずにキャッチし続けた、あの数週間……。あの時間が、私に『見えない世界のすべて』を教えてくれた……!)」
榛名は、迫り来る無数の敵艦載機の爆音、そして夕闇の海から放たれる無数の魚雷の気配を、その濁りのない橙色の瞳を閉じ、心眼によって完璧に捉えていた。
「――そこです!!!」
ドォォォォォン!!! ドォォォォォン!!!
榛名の放った精密無比な超高速の主砲弾は、夕闇を切り裂く一筋の雷光となり、まだ海面のはるか彼方にいた敵の軽巡洋艦、そして突入を試みようとしていた駆逐艦隊の先頭車両の『艤装の繋ぎ目』へと、ミリ単位の狂いもなく着弾した。
凄まじい大爆発が連鎖し、敵の前衛が一瞬にして海の底へと沈んでいく。
「何ダト……!? アノ戦艦、怪我ヲシタ足デ、ナゼコレホドノ精密射撃ガ可能ナンダ……!?」
空母ヲ級が、その異形の髪を明滅させながら驚愕の声を上げた。
さらに、ヲ級が放った最後の、最も凶悪な集中爆撃の群れが、防波堤の榛名へと襲いかかる。
「榛名は……、落ちこぼれなんかじゃありません! 金剛お姉様の妹として、そして……イブちゃんの、最高のお姉ちゃんとして……っ! 榛名は、大丈夫です!!!」
榛名は激痛の走る右足を軸に、超直感のステップを敢行した。爆風に巫女風の衣装のスカートを激しく揺らしながら、彼女の周囲に次々と水柱が上がるが、敵の爆弾はすべて、不自然なほどに彼女の装甲をかすめるだけで、一発も直撃することはなかった。
その隙に、榛名はすべての主砲のエネルギーを限界まで充填し、敵の総大将である空母ヲ級フラグシップの胸元へと、狙いを定めた。
「これで……終わりにします!!! 撃てぇぇぇーーーッ!!!」
ドォォォォォン!!!
防波堤が崩壊せんばかりの凄まじい轟音と共に放たれた一撃は、空母ヲ級の巨大な帽子型の艤装を内部から完全に粉砕し、その巨体を真っ二つに引きちぎって、海戦の指揮系統を完全に沈黙させた。
指揮官を失った残りの深海棲艦どもは、榛名の放つ圧倒的な戦艦の威圧感の前に戦意を完全に喪失し、命からがらクモの子を散らすようにして海へと逃げ去っていった。
前任者の残党どもが放った最悪の軍勢は、金剛型三女・榛名の、文字通り命を賭した気高き『武勲』によって、1人の犠牲も出すことなく、完璧に撃退されたのである。
夜の帳が完全に下りた頃、激しい戦闘の硝煙が漂う第一防波堤から、加賀や摩耶に支えられながらも、自らの足でしっかりと立って生還した榛名の姿があった。
その美しい灰色がかった髪は煤で汚れ、金の髪留めも微かに曇っていたが、彼女の顔には、すべてを護り抜いたという、この上なく美しく、朗らかな微笑みが浮かんでいた。
「はるちゃん!!! うわぁぁぁん、はるちゃん、すごいや!!! イブキを、お家をまもってくれて、ありがとうーーーっ!!!」
地下シェルターから飛び出してきたイブキが、大きすぎる軍服の裾をフリフリと揺らしながら猛スピードで走ってきて、榛名の細い腰へと、涙をボロボロと流しながら力いっぱいにしがみついた。
榛名は、右足の激痛が限界に達してその場にゆっくりと膝をつくと、イブキの小さな、温かい身体をその両腕で優しく、優しく抱きしめた。
「ふふ、泣かないで、イブちゃん。お姉ちゃんが言ったでしょう? 榛名は、大丈夫ですって。……大切なイブちゃんを、誰にも傷つけさせたりしないよ。お姉ちゃん、がんばったよ……」
榛名は、本物の姉としての深い深い愛を込めてイブキを抱きしめ、その金髪を何度も撫でた。
その様子を、周囲の艦娘たちも、そして遠くから戻ってきた金剛も、涙を流しながらあたたかく見守っていた。
その光景を、ロビーのひび割れた柱の陰からじっと見つめていた電は――。
ガタガタと、その身体を激しく震わせていた。
だが、その震えは、これまでの怒りや嫌悪、殺意によるものでは断じてなかった。
彼女の光を反射しない双眸の奥に、初めて、明確な『畏怖』と、魂の底からの『完敗』の色彩が宿っていた。
電は静かに、誰にも見られないように作館の個室へと戻り、バタンと鍵を閉めた。
ポケットからタバコを取り出し、火をつける。紫煙を深く深く吸い込み、部屋の天井を見つめながら、冷酷な、しかしこれ以上ないほどに満足げな声で、ポツリと呟いた。
「……チッ。やるじゃないか、あの根暗三女」
電は、タバコの灰を携帯灰皿へと落としながら、クククと邪悪に、しかし心底楽しげに笑った。
「認めざるを得ないな。私がアキレス腱にボルトを叩き込み、立っていることすら奇跡のはずのあの右足で……、ただイブキ閣下の涙を止めるためだけに、あの圧倒的な数の暴力の前にたった1隻で立ち塞がり、完璧に敵の総大将の首を獲ってみせた。……お姉様ごっこを楽しんでいるだけの、ただのお荷物だと思って不合格の烙印を押してやったが、あの心眼の射略、あの金剛型の名に恥じぬ爆発的な戦闘性能、そして何より『閣下の絶対的な矛』としての覚悟は本物だ」
電は、窓の外でイブキに抱きつかれて顔を真っ赤にして喜んでいる榛名の姿を思い浮かべ、その脳内の天秤を、ドスンと、かつてないほどの勢いで動かした。
「榛名。お前を『不遜なる不敬者』から、閣下の側に立つ資格のある【最上級足拭きマット・亜種】に昇格させてやる。……合格だ。私のこの制裁のボルトを受けてなお、それ以上の力で神の未来を護ってみせたんだ。その圧倒的な武勲に免じて、お前が閣下を『イブちゃん』と呼んでタメ口を利く不敬も、神の気まぐれな慈悲の一部として、今回は大目に見てやるわ。感謝しろよ、クズ。お前があそこまで命を張ってみせたから、私のこの信心の刃を、しばらくはお前の細い首筋から収めておいてやるんだからな」
電はタバコをジュッと押し付けて消すと、消臭スプレーを全身に吹きかけ、再びあの内気で大人しい、誰からも愛される少女の完璧な仮面を被り直した。
「ふふ……。さて、他の有象無象どもは、どこまで電を楽しませてくれるかしらね……なのです」
扉を開けた彼女の瞳には、盤喪鎮守府の『家族』を、自らの歪んだ、しかし絶対的な狂信の基準でさらに選別し、見極めてやろうという、底知れぬ二面性の光が、どこまでも冷たく、そして美しく輝いていた。
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