温かい料理は、凍てついていた食堂の空気を完全に塗り替えていた。
あれほど頑なに心を閉ざし、新任の提督を排除しようとさえ目論んでいた6人の艦娘たちは、今や誰もが満足感と、どこか気恥ずかしさが入り混じった複雑な表情を浮かべている。
机の上に並んだ大皿や茶碗は、米粒一つ、出汁の一滴すら残さずに綺麗に平らげられていた。
「ふぅ……。ごちそうさまでした。本当に、信じられないほど美味しかったわ」
陸奥がふくよかな胸に手を当てて、深く息を吐き出した。その瞳からは先ほどまでの冷たい皮肉が消え、イブキを見る目は完全に『近所の優しいお姉さん』のそれへと変貌している。
「本当に……。一航戦の誇りにかけても、これほどの美味には早々巡り合えるものではないわね」
加賀もまた、上品に口元を拭いながら、しみじみと呟いた。その声には、かつての凍りついたような冷徹さはなく、柔らかな響きが戻っている。
「オーウ! 綺麗に食べてくれて私もハッピーデース! 作った甲斐があったというものネ!」
金剛はエプロンをパタパタと揺らしながら、我が事のように胸を張った。そして、隣に座るイブキの顔を見て、さらに表情を和らげる。
イブキの小さなお口の周りには、まだ肉じゃがの甘辛いタレが少しだけついていた。
金剛は慣れた手つきでポケットからハンカチを取り出すと、イブキの頬を優しく拭ってあげる。
「イブキ、お腹はいっぱいになりマシタカ?」
「うん! イブキ、お腹いっぱーい! コンちゃんのご飯、毎日でも食べたい!」
「オーウ! イブキのためなら毎日でも、毎食でも作っちゃいマース!」
相変わらずの親バカぶりを発揮する金剛だったが、すぐにふと表情を少し引き締めると、イブキの耳元へと顔を近づけた。
金剛が何かをヒソヒソと囁くと、イブキは黄金の瞳を輝かせ、何度も何度も小さく首を縦に振る。
その仕草に合わせて、頭上のヘイローがピコピコと嬉しそうに形を変えていた。
金剛の耳打ちが終わり、コクンと大きく頷いたイブキは、椅子の上でぴっと背筋を伸ばした。
大きすぎる軍服の萌え袖を一生懸命にまくり上げようとするが、すぐにダボリと元に戻ってしまう。
それでも彼女は元気いっぱいに、食堂にいる全員に向けて声を張り上げた。
「みんなー! ご飯を食べてお腹いっぱいになったからね、今から、このお家を『大掃除』するよ!」
「「「「「「……えっ?」」」」」」
6人の艦娘たちの声が綺麗にハモった。
誰もが、自分の耳を疑うような表情でイブキを見つめている。
「お、おい……大掃除だって?」
摩耶が呆気にとられたように声を漏らす。
「何言ってんだよ、ガキ……じゃなくて、提督。ここは前任者の不祥事で資材も設備も空っぽなんだぜ? いつ深海棲艦が襲ってくるかも分からねぇ前線なんだ。それなのに、のんびり大掃除なんてやってる余裕があると思ってんのか?」
「摩耶さんの言う通りです……」
榛名が、申し訳なさそうに、けれど現実的な懸念を口にする。
「ここは僻地とはいえ、海と繋がっている以上、いつ敵の偵察型が来てもおかしくありません。まずは艤装の整備や、周辺の警戒。それに軍令部への連絡と資材の要請が最優先ではないでしょうか……?」
時雨も、どこか冷めた目で床を見つめながら呟いた。
「僕たちの力は些細なものだけど、戦う準備だけはしておかないと、次に雨が降ったときには誰も生き残れないよ。掃除なんて、いつでもできるさ」
艦娘たちの言い分は、前線に立つ軍人として至極真っ当な正論だった。この荒れ果てた鎮守府を見れば、誰だってまずは防衛体制の再構築を考える。
しかし、その疑問に対して、イブキではなく後ろに控える金剛が、腕を組んで堂々と前に出た。
「ノウ、ノウ、ノウ! ユーたちは何も分かっていまセェン!」
金剛は人差し指をチッチッと左右に振る。
「汚れた家、荒れた庭、カビ臭い部屋……。そんなネガティブな環境で、どうして良い作戦が立てられマスカ? 乱れた環境は心の乱れ、心の乱れは戦力の低下に直結するのデース! まずは自分たちの足元をクリーンにすること。それが、中将であるイブキの『最初の命令』デース!」
「それは、まぁ、一理あるかもしれないけれど……」
陸奥が眉をひそめ、金剛を真っ直ぐに見据えた。
「それなら、あなたの存在はどう説明するの? 金剛。あなた、海軍最強の戦艦でしょう? あなたほどの超重要戦力が、こんな地方の、それも潰れかけの鎮守府に腰を落ち着けて、大掃除なんてしていていいわけがないわ。本営の元帥たちが、あなたを長く前線から空けさせることを許すはずがないもの」
陸奥のその指摘に、他の五人も強く頷いた。
レベル5000という、神の領域に達している金剛だ。彼女が1日動かないだけで、海戦の防衛線が一つ崩壊しかねないほどの戦力である。
そんな彼女が、なぜか幼女提督の保護者としてここに留まっている。本営が黙っているはずがないのだ。
しかし、金剛は陸奥の言葉を聞くと、ガハハと豪快に笑い飛ばした。
「オーウ、本営の老人たちのことネ! 気にする必要はナッシングデース!」
「えっ……?」
金剛はふっと不敵な笑みを浮かべ、少しだけ皮肉めいた口調で語り始める。
「ちょうど良い機会なのデース。これまであの本営は、私と、そしてこのイブキの頭脳に頼りきりデシタ。何かトラブルがあれば『金剛を呼べ』、書類が滞れば『イブキに処理させろ』……。そんなワンオペレーションの組織の未来は長くないデース!」
その言葉に、加賀が微かに目を見張った。
「組織運営において最も大切なのは、『特定の誰かがいなくなっても、通常通りに運営できるシステム』を作ることデース。私たちが少しの間だけ現場を離れたくらいで麻痺するような海軍なら、一度痛い目を見て、本営の尻を引っ叩かれるのがちょうどいいのデース。彼らも少しは自分たちで考えることを学ぶでショウ!」
最強の戦艦から飛び出したのは、あまりにも現実的で、かつ冷徹なまでの『組織論』だった。
彼女はただの戦闘マシーンではない。レベル5000という高みに至るまでに、海軍という巨大な組織の腐敗も、怠惰も、すべてを見てきたのだ。
だからこそ、自分の価値を誰よりも理解し、それを人質にして本営に揺さぶりをかけることすら厭わない。
すべては、自分の『最愛の娘』であるイブキと、自分自身の真っ当な生き方のために。
「……なるほどね。あなたが裏で本営をコントロールしているというのは、あながち間違いではなさそうだわ」
陸奥が苦笑交じりに肩をすくめた。金剛の圧倒的な正論と覚悟の前に、これ以上口を挟む余地はなかった。
「というわけで!」
金剛はパン、と勢いよく手を叩いた。
「つべこべ言わずに大掃除スタートデース! 幸い、私が持ち込んだ資材の中に、ピカピカの掃除用具一式が大量にありマース! 全員、自分の担当場所を綺麗にするまで、今日のオヤツは抜きデース!」
「オヤツ! イブキ、オヤツのためにがんばる!」
イブキは両手を上にあげてジャンプした。
その無邪気な姿を見せられては、もう誰も反対などできなかった。何より、先ほど食べた絶品の料理への恩返しもある。
6人の艦娘たちは、それぞれの複雑な思いを一旦胸の奥にしまい込み、支給された掃除用具を手に取った。
こうして、廃墟寸前の鎮守府を舞台にした、前代未聞の大掃除が始まった。
割り振られた担当は以下の通りだ。
食堂と厨房の後片付け、および廊下の雑巾がけは、言い出しっぺである金剛とイブキ。
庁舎の顔であるエントランスとロビーの担当は、加賀と榛名。
手入れが届かず雑草まみれになっている中庭の草むしりは、陸奥と摩耶。
そして、最も埃が溜まっているであろう提督執務室の掃除を、天龍と時雨が担当することになった。
食堂の横の長い廊下では、イブキが小さな雑巾を持って、一生懸命に床に這いつくばっていた。
「えいっ、えいっ! ぴかぴかになーれ!」
彼女の短い手足では、一度に拭ける面積などほんのわずかだ。それでも、イブキは一箇所一箇所を丁寧に、楽しそうに拭き進めていく。
大きすぎる軍服の袖が床に擦れて汚れてしまうのもお構いなしだ。
「オーウ、イブキ! グッジョブデース! でも、お洋服が汚れると洗濯の手間が増えマースから、もう少し袖をあげましょウネ!」
「あ、コンちゃん、ごめんね。えへへ、イブキ、がんばりすぎて忘れてた!」
金剛がイブキの袖を優しくまくり上げ、クリップで固定してあげる。2人の間には、終始穏やかで温かい空気が流れていた。
一方、ロビーを担当する加賀と榛名の間には、まだ少しの緊張感が漂っていた。
榛名は、バケツに水を汲み、モップを絞りながら、隣で静かに窓ガラスを拭いている加賀に声をかけた。
「あの、加賀さん……」
「何かしら、榛名」
加賀は手を止めず、落ち着いた口調で応じる。
「私……、金剛『お姉様』のお言葉を聞いて、少しだけ目が覚めたような気がします。今まで、前任者のせいで何もかもが嫌になって、ただここで朽ちていくのを待つだけだと思っていました。でも……」
榛名は、窓に映る自分の、少しだけ生気が戻った顔を見つめた。
「自分の足元を綺麗にすることもできない者に、海を護ることなんてできませんよね。私は落ちこぼれですが……今日からは、この鎮守府を本当の『家』だと思って、一生懸命に綺麗にしたいと思います」
加賀は、拭き終わったガラスの透明度を確かめるように少し顔を傾けると、榛名の方を向いて微かに微笑んだ。
「ええ、良い心がけだわ、榛名。私たちは、ただ捨てられたわけではない。あの奇妙で、けれど途方もなく温かい『親子』に見出されたのよ。ならば、一航戦としても、金剛型としても、恥じない姿を見せなくてはね」
加賀の言葉に、榛名は嬉しそうに「はい!」と力強く頷いた。
屋外の中庭では、陸奥と摩耶が、膝の高さまで伸びた雑草と格闘していた。
「おい、陸奥! そっちのデカい根っこ、手伝え!」
「あらあら、摩耶ちゃんはせっかちね。力任せに引っ張ったら、腰を痛めてしまうわよ?」
陸奥はふう、と額の汗を拭いながら、鎌を使って器用に草を刈り進めていく。彼女の豊かな胸元が、動くたびに大きく揺れていたが、今の彼女の頭の中にあるのは、先ほど耳元で囁いてくれたイブキの、あの愛らしいヒソヒソ声だった。
「(あの子が連れていかれちゃう……か。本営の連中が何を企んでいるにせよ、あの純粋な笑顔を汚すような真似だけは、絶対に許さないわ)」
陸奥の瞳の奥に、かつての戦艦としての鋭い光が静かに灯る。
「……何、ニヤニヤしてんだよ、気色の悪い」
摩耶が不審そうに睨みつけるが、陸奥は「秘密よ」とだけ言って微笑んだ。
最後に、最も過酷な埃の魔窟と化していた提督執務室。
「うわっ、ゲホッ! なんだよこの埃は! 前の提督は書類を溜め込むだけで、一度も掃除しなかったのかよ!」
天龍がモップを振り回しながら、激しく咳き込んでいた。部屋のあちこちには、不祥事を起こして逃げ出した前任者の、傲慢な生活の痕跡(高級酒の空き瓶や、破り捨てられた公文書)が散乱している。
時雨は、黙々とそれらのゴミを大きな袋に仕分けしながら、窓を開けて部屋に新鮮な空気を入れた。
「天龍、文句を言っても埃は減らないよ。……でも、不思議だね」
「あ? 何がだよ」
時雨は、窓から差し込む、雲の隙間からの僅かな光を見つめた。
「あんなに暗くて、今にも雨が降りそうだったこの鎮守府が……。あの2人が来てから、少しだけ明るくなったような気がするんだ。僕の幸運も、まだ完全に尽きたわけじゃないのかもしれないね」
「けっ……、お前がそんな殊勝なこと言うなんて、明日はいよいよ大嵐だな!」
天龍は照れ隠しに大笑いしながら、さらに勢いよくモップを動かした。
誰もが、自分の役割を果たしていた。
壊れかけていた6人の心の壁が、大掃除という共同作業を通して、そしてイブキという小さな存在を中心に据えることで、少しずつ、けれど確実に修復されていく。
錆びついた鉄の門の奥で、静かに、けれど力強く、新しい鎮守府の息吹が始まりを告げていた。