海軍中将・丹花イブキ提督   作:ていん?が〜

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第4話『中将! 助けてくれ!!』

「お疲れ様デシタ! 全員、実に見事な働きデース!」

 

 金剛の弾んだ声が、見違えるほど綺麗になった食堂に響き渡った。

 

 カビ臭かった空気は完全に一掃され、窓ガラスからは夕暮れ時の柔らかな光が差し込んでいる。

 床は文字通り鏡のように磨き上げられ、前任者が残していったドス黒い怠惰の痕跡は、何一つとして残っていなかった。

 

 6人の艦娘たちは、それぞれの掃除用具を片付け、椅子に深く腰掛けながら心地よい疲労感に浸っていた。

 

「ふぅ……。まさか、私がここまで本気で雑巾がけをするなんてね」

 

 陸奥が汗ばんだ首筋を指先でなぞりながら、ふふっと艶やかに笑う。その表情には、ここ数年見たこともなかったような、清々しい充実感が満ちていた。

 

「ええ。ですが、心が洗われるような気持ちです。金剛お姉様……あっ、いえ、金剛さんの仰った通り、足元を清めることは、己の戦理を正すことと同じなのですね」

 

 榛名が、綺麗に洗ったさらしを整えながら、敬意を込めて金剛を見つめる。

 その瞳からは、かつての「落ちこぼれ」としての卑屈さは消え去り、金剛型四女としての凛とした気品が戻りつつあった。

 

「けっ、思ったより重労働だったぜ。でもまぁ……このピカピカの床を見るのは、悪かねぇな」

 

 摩耶が腕を組み、不器用ながらも満足そうに鼻を鳴らす。

 

「当然よ。一航戦の居る場所が、埃まみれのままで良いはずがないもの。……ふふ、これでやっと、真っ当な鎮守府としてのスタートラインに立てたかしらね」

 

 加賀もまた柔らかに微笑み、隣に座るイブキに視線を送った。

 

 イブキは、小さな折りたたみ椅子の上で、すっかり疲れ果てたように、けれど満足そうにふにゃりと、とろけていた。

 

「えへへ……。イブキも、雑巾がけ、いっぱいがんばったよ! お手てがちょっと、黒くなっちゃったけど、コンちゃんが綺麗にしてくれたの!」

 

 大きすぎる白い軍服の袖から、綺麗に洗われた小さな手を差し出して見せるイブキ。

 彼女の頭上のヘイローは、今はまるでお昼寝前の小鳥のように、穏やかで優しい光を等間隔で明滅させていた。

 

「オーウ! 頑張ったイブキとユーたちに、私から最高の『オヤツ』を振る舞いましょー! イギリス仕込みの特製スコーンと、最高級のアールグレイを用意して……」

 

 金剛が満面の笑みで、持ち込んだ高級資材の入ったケースに手をかけようとした、その瞬間だった。

 

 

 ジリリリリリリリリリリッ!!!

 

 

 静まり返った庁舎に、耳を突き刺すような、けたたましい電子音が鳴り響いた。

 

 音の発生源は、金剛がテーブルの上に置いていた、海軍最高幹部専用の超高セキュリティ仕様のスマートフォンだった。

 画面には【海軍本営・最高統帥元帥】という、一般の艦娘であれば見るだけで直立不動になるような文字が、禍々しく明滅している。

 

 金剛の表情から、一瞬にして主婦の柔和さが消え失せ、海軍最強たる戦艦の、冷徹で圧倒的な威圧感がその身を包み込んだ。

 

「チッ……。優雅なティータイムを邪魔するなんて、万死に値するデース」

 

 低い声で毒づきながら、金剛は通話ボタンを押し、スピーカーモードにしてテーブルへと戻した。

 

『こ、金剛! 頼む、繋がってくれ、金剛ぉぉぉッ!!!』

 

 スピーカーから漏れ聞こえてきたのは、およそ国家の最高権力者とは思えない、完全に理性を失いかけた老人の、泣き叫ぶような悲鳴だった。

 あの、世界の頂点に君臨するはずの本営元帥が、今にも受話器の向こうで頭を床に擦り付けんばかりの勢いで懇願している。

 

「ハロー、元帥閣下。随分とみっともない声を上げているデースね。私たちを『勝手な現場放棄』として更迭処分にすると息巻いていたのは、どこのどなたデシタカ?」

 

 金剛の声は、氷点下よりも冷たかった。吐き捨てるようなカタコトの言葉に、絶対的な拒絶が宿っている。

 

『す、すまない! 私が悪かった! 更迭などとんでもない、あれは手続き上の誤りだ! だから頼む、今すぐ、一刻も早くイブキ中将と共に本営へ戻ってきてくれ!』

 

「お断りデース。一度吐いた唾を飲み込むな…と、英国では教わりマシタ。私とイブキは、この僻地鎮守府の立て直しで大忙しなのデース。そちらの優秀なスタッフだけで、優雅にデスクワークでもしていなサイ」

 

『状況が…状況が違うのだ!!!』

 

 元帥の叫び声が、スピーカーの音割れを引き起こすほどに激しく響く。受話器の向こうからは、凄まじい地鳴りのような爆発音と、無数の警報のアラート、そして艦娘たちの絶望的な怒号が混ざり合って聞こえてきた。

 

『本営が……我々の最高防衛線が、深海棲艦の直接攻撃を喰らっているのだ! 確認できるだけでも、敵の編成は……ッ、『姫級が10体』! 『鬼級が10体』!! さらに、これらを率いる『通常種の深海棲艦が100体以上』!!! 本営に残っている艦娘たちでは、防戦一方で全く歯が立たない! このままではあと30分も持たずに、海軍本営は完全に壊滅する!!!』

 

 その言葉を聞いた瞬間、食堂の空気が凍りついた。

 

「ひ、姫級が10……それに鬼級も10…だって……!?」

 

 摩耶の顔から血の気が引き、ガタガタと小刻みに震え始める。通常の海戦であれば、姫級や鬼級が1体現れるだけでも、複数の艦隊を統合した大作戦を組まなければならない。

 それが合わせて20体。さらに100体を超える大軍勢。それは、海軍そのものを地球上から消し去るに十分すぎる、まさに『終末の軍勢』だった。

 

「……なるほど。ワンオペ組織のツケが、思ったより早く回ってきたデースね」

 

 金剛は冷酷に言い放ったが、その瞳の奥には、かすかな焦燥が浮かんでいた。レベル5000の彼女が今から全速力で海を駆けたとしても、この僻地から本営まではどれだけ短く見積もっても1時間はかかる。

 

 到着する頃には、本営は文字通り海の藻屑となっているだろう。

 

 金剛が、苦渋の表情で「……戻ろう」と口にしようとした、その時だった。

 

「お爺ちゃん、もしもーし?」

 

 それまで静かに話を聞いていたイブキが、椅子の上のクッションから身を乗り出し、スマートフォンに向かって可愛らしい声をかけた。

 

『い、イブキ中将!? ああ、中将! 助けてくれ!! 頼む、君の頭脳が必要だ!』

 

「お爺ちゃん、そっちの、今お外で戦ってる艦娘のお姉ちゃんたちは、全部で何人いるの?」

 

 イブキは、まるで近所の駄菓子屋の店主と話すかのような、全く緊張感のないマイペースさで問いかけた。

 

『え、ええい、現在の防衛残存戦力は、正規空母が4、軽空母が2、重巡洋艦が8、軽巡洋艦が12、駆逐艦が30だ! しかし、敵の圧倒的な火力の前に戦線は崩壊寸前、航空優勢も完全に奪われている!』

 

「うん、わかった!」

 

 イブキは、大きすぎる軍服の萌え袖を「ポン」と一つ叩くと、まるで算数のテストの答えを導き出すかのように、一瞬の淀みもなく言葉を紡ぎ始めた。

 その瞬間、彼女の黄金の瞳に、ゲヘナ学園の『超天才飛び級生』としての、異次元の軍事知略の光が宿った。

 

「あのね、まずね、空母のお姉ちゃんたちは全員、お空を飛ぶ飛行機を全部『艦戦(艦上戦闘機)』だけにして! 攻撃する飛行機はいらないから、とにかくお空をまもるの!」

 

『な、何だと!? 攻撃を捨てて防空に専念しろというのか!? それでは敵を減らせない!』

 

「お爺ちゃん、イブキのお話は最後まで聞いて!」

 

 イブキは少しだけぷくーっと頬を膨らませて、叱るように言った。

 

「お空を完全にまもれば、敵の飛行機は攻撃できなくなるでしょ? その間に、重巡のお姉ちゃんたちは、一番前にいる『鬼級』の5番目と8番目の子だけを、みんなで一緒にドーンって狙って! あの2体はね、周りの小さい子たちに命令を出してるリーダーだから、そこを崩せば敵の動きが3分間だけ止まるの!」

 

 その、あまりにも具体的かつ正確な敵の戦術解析に、受話器の向こうの元帥だけでなく、食堂にいる加賀や陸奥までもが息を呑んだ。

 イブキは現地を見ていない。ただ、元帥が口にした戦力比と、背後から聞こえる爆音の周波数や地鳴りの周期だけで、敵の陣形とコマンドラインを完全に逆算したのだ。

 

「敵の動きが止まったら、駆逐艦のお姉ちゃんたちは3人ずつのグループになって、波打ち際に『煙幕』をいっぱいはるの! そうすると、敵の『姫級』は目が悪くておバカさんだから、お互いにぶつかり合って勝手に壊れちゃうよ! 最後に、軽巡のお姉ちゃんたちが魚雷を交差させて流せば、みんな海の底にバイバイだよ!」

 

 イブキは、まるで絵本のお話を読み聞かせるように、楽しげに作戦を語り終えた。

 

「この通りにすれば、絶対、大丈夫だよ! がんばってね、お爺ちゃん!」

 

 

 ピッ。

 

 

 イブキは小さな指で、通話終了のボタンを迷いなくタップした。

 

 

 静寂が、再び食堂を支配する。

 

 

 6人の艦娘たちは、もはや声を出すことすら忘れていた。

 

 今、目の前の幼女が口にした作戦は、海軍の教科書に載っているような、いかなる定石とも異なっていた。

 しかし、極限の戦力差を『防空の徹底』『指揮個体のピンポイント破壊による混迷』『煙幕を用いた同士討ちの誘発』という、完璧なドミノ倒しのように繋ぎ合わせた、美しくすらある絶対的な勝利の方程式。

 

「……信じられないわ」

 

 加賀が、戦慄を隠せない声で呟いた。普段は落ち着き払ったその声音が、今は驚愕で小刻みに震えている。

 

「現地の間合いも敵の個体差も、すべてを脳内で完璧にシミュレーションしていなければ、あのような作戦なんて一瞬で組み立てられるはずがない……。これが丹花イブキ中将の…本当の『力』なのね」

 

「ええ……。あの金剛が、なぜ彼女をこれほどまでに敬い、守ろうとするのか、その理由が分かった気がするわ」

 

 陸奥が、畏怖と、それを遥かに上回る深い愛おしさを込めてイブキを見つめる。

 

 裏で金剛がすべてを操っているのではない。この2人は、最強の武力と、最高の知略が合わさった、文字通りの『一対』なのだ。

 

「……ふぅ。全く、イブキは本当に優しいデスね」

 

 金剛は深いため息をつくと、先ほどまでの冷徹な表情を完全に霧散させ、いつものデレデレな母親の顔に戻った。

 そして、椅子の上のイブキの元へと歩み寄り、その小さな頭を、愛おしそうに、何度も何度も優しく撫でた。

 

「あの無能な本営の老人たちなんて、一度滅びてしまえば良かったノニ。イブキがわざわざ完璧な答えを教えてあげるなんて、勿体なさすぎるデース!」

 

「えへへ……だって、コンちゃん。あっちにいる艦娘のお姉ちゃんたちが、いっぱい痛い思いをするのはかわいそうだもん。イブキ、みんなで仲良くご飯を食べるのが一番いいと思うの!」

 

 イブキは金剛の手のひらに頭を擦り付けながら、ヘイローをピコピコと輝かせて笑った。

 

 そのあまりにも純粋で慈愛に満ちた言葉に、6人の艦娘たちの心は完全にノックアウトされていた。

 自分たちのような見捨てられた存在にも、そして本営の不条理な大人たちにすらも、等しく救いの手を差し伸べる『本物の器』。

 

「さぁ、今度こそ本当に、お騒がせな電話は終わりデース!」

 

 金剛はパッと手を叩き、最高の笑顔で宣言した。

 

「みんなで、美味しいスコーンと紅茶をいただきましょー! 今日は、この新しい鎮守府の、最高の門出デース!」

 

「わーい! オヤツ! オヤツだー!」

 

 イブキのはしゃぐ声が、夕暮れの鎮守府に響き渡る。

 

 海軍本営が、1人の幼女の知略によって救われようとしているその裏で、僻地の小さな食堂には、世界で一番温かく、優しい時間が流れていた。

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