海軍の本拠地である大本営が、1人の幼女が気まぐれに遺した言葉によって文字通りの『奇跡』に沸き返っていた。
つい数十分前まで、そこは断末魔の叫びと黒煙が立ち込める地獄の門前だったはずだった。
10体の姫級と10体の鬼級、そしてそれらを包囲するように陣を敷いた100隻を超える深海棲艦の圧倒的な暴力。
誰もが海軍の終焉を覚悟し、最高統帥元帥ですら自決用の拳銃に手をかけようとしていたその瞬間、僻地の錆びついた通信機から届けられた『最年少中将』の作戦は戦場のすべての理を引っくり返した。
空母たちが攻撃を一切放棄し、すべての戦闘機を上空へと解き放った瞬間、空を覆い尽くしていた深海棲艦の爆撃機は、まるで目に見えない巨大な盾に叩きつけられたかのように次々と叩き落とされ、本営への爆撃の雨は完全に霧散した。
さらに敵の指揮系統を担っていた5番目と8番目の鬼級が、重巡洋艦たちの集中砲火によって寸分の狂いもなく一撃で撃沈される。
その瞬間、波濤のように押し寄せていた深海棲艦の軍勢は、まるで操り糸を同時に切られたマリオネットのようにその場にピタリと動きを止めた。
イブキの予言通り、正確に3分間の完全な空白。
その隙を見逃さず、駆逐艦たちが海面に展開した濃密な煙幕は視覚を失った姫級たちの狂乱を誘った。
巨大な質量を持つ姫級同士が互いの存在を認識できぬまま猛スピードで正面衝突を起こし、自らの放った魚雷と巨体に圧し折られて自滅していく。
生き残った残兵に対しても、軽巡洋艦たちが放った、計算され尽くした交差魚雷が逃げ道を完全に塞ぎ、一網打尽にした。
それは、戦いというよりも、あらかじめ結末が決まっていた極上の舞台劇を観るかのようだった。
「報告いたします! 敵全滅! 我が方の損害……、各艦の弾薬消費、および軽微な擦り傷を除き……『一人の犠牲もなし』……!! 繰り返します…! 戦死、大破、ともにゼロですっ!!」
通信兵の絶叫が司令室に響き渡った瞬間、凍りついていた指揮官たちは一斉に歓声を上げ、互いに抱き合って涙を流した。
これほどの絶望的な戦力差を覆し、誰一人として失うことなく完全勝利を収めるなど、海軍の歴史において前代未聞の快挙だった。
最高統帥元帥は、通信が切れたスマートフォンの画面を、震える手で見つめたまま立ち尽くしていた。
「……勝った。あの絶望的な状況から、指一本触れさせずに、勝ってしまったというのか……」
皺が刻まれた元帥の額から、冷たい汗がぽたりと机に落ちる。彼は遠く離れた錆びついた鎮守府で、今頃スコーンを頬張っているであろう純白の軍服の幼女を思い浮かべ、魂の底から湧き上がるような畏怖と、狂おしいほどの歓喜に身を震わせた。
「丹花イブキ中将……。あの子は…あの子は人類の……いや、我が海軍の『至宝』だ。あの頭脳がある限り、人類が深海に敗北することなど、絶対にあり得ん……!」
元帥は椅子に深く腰掛け、大きく息を吐き出しながら、天井を見つめた。
その脳裏に、わずか『3ヶ月前』の、あの嵐の日の記憶が鮮烈に蘇ってくる。
3ヶ月前。大本営の重厚な正門は、激しい豪雨と雷鳴に叩かれていた。
その門の前に『1体の艦娘』と、彼女に抱えられた『小さな命』が転がり込んできた時のことを元帥は今でも忘れることができない。
そこにいたのは、今でこそレベル5000という神の領域に君臨する『金剛』だった。
だが、その時の彼女は、現在の神々しい姿からは想像もつかないほど、見る影もなくボロボロに衰弱しきっていた。
艤装は大部分が引きちぎれ、巫女風の衣装は血と泥に塗れてズタズタに裂け、その霊子密度は測定器がエラーを起こすほどの最低値……【レベル1】を示していた。
いつ轟沈して消滅してもおかしくない、文字通りの最弱の、命の灯火が消えかけの金剛だった。
しかし、そんな絶望的な状況にあっても金剛は自分の艤装や命など目もくれず、その両腕で1枚のボロボロの布に包まれた小さな女の子を狂気的なまでの執念で抱きしめていた。
それが、『丹花イブキ』だった。
当時のイブキは、今よりもさらに痩せ細り、肌は青白く、呼吸をしているのかさえ分からないほどに衰弱しきっていた。
頭上のヘイローは今にも消え入りそうなほどに細く歪み、熱にうなされながら小さな悲鳴を上げていた。
門衛の兵士たちに阻まれ、地面に膝をついた金剛からは普段のあの陽気な様子など微塵も感じられない。
彼女は血の混じった雨水を滴らせながら、大本営の冷たい石畳に何度も、何度も…額を叩きつけ、ボロボロと大粒の涙を流しながら掠れた声で必死に叫んだのだ。
「お願い…お願いですから、この子を助けてください……っ!! 私の命なんて、どうなったって構わない! 解体でも、廃棄でも、実験の素体にでも、何にだって従います!! どんな不条理な命令でも、どんな汚い任務でも、私が全部代わりにやります! だから……だからどうか、この子に……イブキに温かいご飯と安全な場所をあげてください……っ!!」
それは、誇り高き戦艦としての尊厳をすべて投げ捨てた1人の『母親』の血を吐くような懇願だった。
当時の本営の幹部たちは、突然現れたレベル1の役立たずの金剛と正体不明の角の生えた幼女を不気味がり、即座に追い出すか、あるいは『処分』しようとした。
しかし、偶然その場に居合わせた元帥だけは金剛の……『世界を敵に回してでもイブキを守ろうとする凄まじい眼光』と、直感的に感じ取った『イブキの異質さ』に賭けることを決めたのだ。
大本営の最高医療施設に運び込まれ、温かいミルクと栄養剤を与えられたイブキは、数日後に奇跡的な回復を遂げた。
そして目を覚ましたその日に、イブキが大本営のデスクに置かれていた誰も解けなかった数理暗号と戦術戦略の矛盾点をお絵描き感覚で完璧に修正してみせた時、元帥をはじめとする幹部たちは自分たちがとんでもない『怪物』を迎え入れたことを悟ったのだ。
イブキがその驚異的な頭脳で数々の戦術を立案し、その功績によってわずか3ヶ月で『中将』へと上り詰めるのに比例して彼女を守るという一念だけで戦場を駆けた金剛のレベルは異常なスピードで跳ね上がっていった。
10…100……500………1000…………。
戦えば戦うほどに、『イブキを絶対に死なせないという執念』が金剛の霊子を爆発的に進化させ、気付けば世界の誰も到達したことのない【レベル5000】という海軍最強の具現体へと至らしめたのである。
だが、これほどの月日が流れてもなお、『最大にして根本的な謎』は残されたままだった。
「……イブキ中将の『出自』は、未だに何一つとして分かっていない」
大本営の司令室で、元帥は深く息を吐きながら手元の極秘資料を机に引き出しへと仕舞い込んだ。
彼女の頭にある小さな角に、見たこともない幾何学模様のヘイロー。彼女が一体どこから来たのか、どのような存在なのか。
金剛は、その件に関しては、どれほどの拷問や査問、あるいは懇願を受けようとも絶対に口を開こうとはしなかった。
ただ一言、「イブキは、私の娘デース」とだけ言い張り、イブキ本人にも「お外の人には内緒だよ」と固く口止めをしている。
「元帥閣下……。やはり、あの2人の身辺をさらに徹底的に調査すべきではないでしょうか。あのイブキ中将の頭脳と金剛の武力は、一歩間違えれば世界を滅ぼしかねない脅威です。今のうちに本営の監視下に……」
1人の参謀が、恐る恐る進言してきた。だが、元帥はそれを一瞥すると、鋭い声で一喝した。
「馬鹿者が。そんなことをしてみろ、あの金剛が本気で人類に牙を剥いた時、誰が止められるというのだ? レベル5000の戦艦だぞ。本営など、1日で消滅するわ」
元帥は立ち上がり、窓の外の、先ほどまで戦場だった穏やかな海を見つめた。
「彼女たちが過去を隠したがり、ただ静かに寄り添って生きたいと願うなら、そうさせておくのが一番なのだ。我々にできることは、探りを入れることではない。あの2人が、この海軍を、この世界を『居心地が良い』と思ってくれるように、全力で繋ぎ止められるように環境を整えること。それだけだ。今回、彼女たちを地方の鎮守府へ移動させたのも、本営のうるさい外野から引き離すための、私なりの配慮だったのだが……」
元帥は苦笑した。結果として、自分たちが一番その恩恵に預かることになってしまったのだから因果なものである。
その頃、僻地の寂れた
「オーウ! イブキ、お口の周りがまたジャムでベタベタデース! でも、たくさん食べる子はグッドガールデースネ!」
大本営での天地を揺るがすような大勝利や元帥たちの深い思惑など、ここには一切届いていなかった。
金剛は焼き上がったばかりのホカホカのスコーンに、イチゴジャムをたっぷりと塗り、イブキの小さな口元へと運んでいる。
イブキは「んむっ、おいしー!」と、ヘイローをピコピコと明滅させながら、幸せそうに頬張っていた。
その様子を、大掃除を終えた6人の艦娘たちが、先ほどまでの警戒心を綺麗に忘れて、ただただ微笑ましく見守っている。
「あの…金剛さん。私にも、その…紅茶の淹れ方を教えていただけませんか? 金剛さんのような素敵な味を、私も覚えてみたいのです」
榛名が少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐな瞳で金剛に尋ねた。
「オーウ! もちろんデース、榛名! 金剛型の妹分なら、最高のアフタヌーンティーの極意を伝授してあげマース!」
金剛は嬉しそうに胸を張り、榛名の肩を優しく叩いた。その光景は同じ金剛型としての姉妹の絆が、この荒れ果てた場所で再び結ばれていく瞬間のようだった。
「……ふふ、本当に不思議な子ね」
陸奥がスコーンを小さく齧りながらイブキの無邪気な笑顔を見つめて呟いた。
「大本営を救うほどの神算鬼謀を持ちながら、本人はジャム一つでこんなに幸せそうに笑うなんて。……ねぇ、加賀。私たち、とんでもない人の部下になっちゃったみたいよ?」
加賀は手元の温かい紅茶を見つめ、柔らかな笑みをその唇に浮かべた。
「ええ…。ですが、悪くないわね。冷たい海の底でただ朽ちていくのを待つよりも、この小さな太陽の傍で、もう一度戦う意味を探すのも……一航戦として、それほど悪い選択ではないわ」
「けっ、アタシも、あのガキ……中将のためなら、少しは本気出してやってもいいぜ」
摩耶がそっぽを向きながら、嬉しそうにスコッチエッグを口に放り込む。時雨も、天龍も、その顔には確かな『希望』の光が灯っていた。
3ヶ月前、血と泥に塗れて大本営の門を叩いた2人の魂は今、この僻地のゴミ溜めと呼ばれた場所を世界で一番温かい『家』へと変えようとしていた。
イブキの無邪気な笑い声が錆びついた鎮守府の夜を優しく、そしてどこまでも明るく照らし出していた。