鎮守府に、完全な夜が訪れていた。
かつては闇に包まれるたび、重苦しい絶望と前任者の残虐な気配に怯えていた建物だったが、今宵は違っていた。
昼間の大掃除によって埃の一粒まで掃き出された廊下には、どこか清々しい木の香りが漂い、窓の外で揺れる竹林の葉音すら、穏やかな子守唄のように響いている。
それぞれの部屋に配属された6人の艦娘たちも、今夜は悪夢にうなされることなく、泥のような深い眠りに落ちていた。
陸奥は枕元でふっとイブキの笑顔を思い浮かべて寝返りを打ち、加賀は静かに胸元へ手を当てて呼吸を整え、榛名は「私は、大丈夫……」と小さく幸福な寝言を零していた。
温かい食事と、何より「必要とされている」という確信が、彼女たちの凍てついた心を芯から溶かしたのだ。
そして、最も広く景色の良い一室――かつて前任者が私物化していた、今やピカピカに磨き上げられた一等客室のベッドでは、小さな二つの影が並んで横たわっていた。
「……ねぇ、コンちゃん。お空の星、すっごくピカピカだよ」
ベッドの端からちょこんと顔を出し、大きな窓の外を見つめながら呟いたのは、丹花イブキだった。
昼間のダボついた純白の軍服は丁寧にハンガーにかけられ、今の彼女は金剛が上質な生地を裁断して作った、淡いピンク色のパジャマに身を包んでいる。
頭上のヘイローは、眠気と安らぎに同期するように、ゆっくりと、呼吸のような一定の周期で淡い黄金色の光を放っていた。
「オーウ、本当デースね、イブキ。都会の本営のお空とは違って、ここは空気がとってもクリーンだから、お星様もイブキを歓迎して光っているのデース」
金剛は、イブキの小さな体にシルクの掛け布団を優しくかけ直しながら、いつもの陽気なカタコト口調で微笑みかけた。
その長い茶髪は結び目を解かれ、ベッドのシーツの上に美しく広がっている。
イブキはゴロンと寝返りを打ち、金剛の温かい胸元へと潜り込んできた。
「えへへ、コンちゃん、あったかい。……あのね、イブキね、今日あったこと、コンちゃんに1個ずつお話ししてもいい?」
「もちろんデスヨ! イブキのお話なら、千回でも万回でも聞きたいデース。さあ、どんな面白いことがありマシタカ?」
金剛が長い指先でイブキの綺麗な金髪を優しく梳いてやると、イブキは嬉しそうに目を細め、指を1本ずつ折り曲げながら、今日という1日を思い返すように話し始めた。
「えっとね、まずね、最初にお船から降りたとき、お家がすっごくボロボロでびっくりしたの。でもね、落ち葉がいっぱいあって、踏み踏みしたらサクサクって音がして、すっごく楽しかったんだよ! それからね、お姉ちゃんたちがいっぱい出てきて、みんな最初はちょっと怖いお顔をしてたの」
「オーウ、あの6人デースね。確かに最初はアンヘルシーな目付きをしてマシタ」
「うん。でもね、そのあとに、ショートヘアのすっごく綺麗なお姉ちゃん……陸奥お姉ちゃんがね、イブキのところに来て、お膝をポンってついて、お目目を一緒にしてお話ししてくれたの。お姉ちゃん、すっごくいい匂いがしたんだよ」
金剛の手が一瞬、ピタリと止まった。その瞳の奥に、最強の戦艦としての鋭い警戒心が微かに宿る。
「……へぇ、あの陸奥が、イブキに何を言ってきたのデスカ?」
「あのね、イブキちゃんは何者なの? って。どうしてコンちゃんがイブキの言うことを何でも聞くの? って。どうしてそんなに偉いお洋服を着てるの? って、こっそり教えてって言われたの」
イブキはそこで一度言葉を区切ると、布団の中から小さな手を伸ばし、金剛の頬にそっと触れた。
「でもね、イブキ、ちゃんと言わなかったよ! 『コンちゃんとの約束だから、内緒だよ』ってお耳でヒソヒソってしたの。イブキ、良い子でしょ? コンちゃんとの約束、ちゃんと守れたよ!」
満面の笑みで、褒めて、と言わんばかりに黄金の瞳を輝かせるイブキ。
その姿を見た瞬間、金剛の胸の奥から、言葉にならない激しい感情が突き上げてきた。視界が急速に潤み、胸が締め付けられるように熱くなる。
「(ああ……、この子は。この小さな天使は、私の言葉をこれほどまでに信じて、自分のすべてを賭けて私を守ろうとしてくれているのだ……)」
金剛は溢れ出そうになる涙を必死に堪える。そして喉の奥を震わせながら、仮面を脱ぎ捨てた本心の声で、消え入りそうなほど優しく呟いた。
「ええ……。偉い、わ……。本当に、本当に良い子ね、イブキ……。ありがとう……」
イブキは金剛の様子に少し不思議そうな顔をしながら、さらに小首を傾げて問いかけた。
「ねぇ、コンちゃん。なんでイブキの前の学校のこと……ゲヘナのことや、キヴォトスのこと、お話ししちゃダメなの? マコト先輩も、イロハ先輩も、風紀委員会のお勉強が厳しいお姉ちゃんたちも、みんなすっごく優しくて大好きだったのに。どうしてここでは、誰にも言っちゃダメなの?」
そう、金剛はすべてを知っていた。
4ヶ月前、言葉も通じないほどに錯乱していたイブキを介抱し、彼女の心の傷を癒やす過程で、金剛はイブキの口から『キヴォトス』という世界のすべてを聞かされていた。
銃火器が日常に溢れ、誰もが頭上にヘイローを持ち、生徒たちが賑やかに、時に破天荒に暮らす奇跡のような世界。イブキはそのゲヘナ学園という場所で、誰もが愛してやまないアイドルのような存在だったということを。
金剛は、イブキの小さな肩を両手でそっと包み込み、引き締まった表情で、しかしどこまでも慈愛を込めた母親としての言葉で語りかけた。
「……いい、イブキ。よく聞いて。この世界の大人はね、あなたたちがいたキヴォトスのように、優しくて話が通じる人ばかりじゃないの。もしも、あなたの口から『別世界への門』の存在や、ヘイローの秘密、そしてあなたのその計り知れない頭脳の理由が外に漏れたら……。大本営の強欲な老人たちや、世界中の悪い人間たちが、あなたを研究材料にするために、力ずくで奪いに来るわ。あなたを冷たい檻に閉じ込めて、二度と太陽の光を見せないようにしてしまうかもしれない」
「お、おり……? 閉じ込めちゃうの……?」
イブキの顔からスーッと血の気が引き、小さな体が小刻みに震え始める。
「そうよ。そして何より……私とあなたを、引き離してしまう。二度と会えないくらい、遠い場所に連れていってしまうの。私は、それが一番耐えられない。あなたを失うくらいなら、私はこの世界すべてを灰にした方がマシだわ」
金剛の言葉には、レベル5000の絶対的な王者が持つ、嘘偽りのない『本気の殺意』が混ざっていた。
その気迫を感じ取ったイブキは、目に涙をいっぱいに溜め、金剛のパジャマの胸元を小さな手でぎゅっと握り締めた。
「ヤダ……! ヤダヤダ! コンちゃんと離れ離れになるの、絶対ヤダ! イブキ、ずっとコンちゃんと一緒にいるの! どこにも行かないもん……っ!」
ポロポロと大きな涙を流し始めたイブキを、金剛は愛おしくてたまらないというように、その長い両腕で強く、強く抱き寄せた。
彼女の豊かな胸の中にイブキの小さな体がすっぽりと収まる。
「ええ、大丈夫よ、イブキ。泣かないで。私はあなたのお母さん。あなたが私の手を離さない限り、私は世界のどこにいたって、誰を敵に回したって、必ずあなたの隣にいるわ。ずっと、ずっと一緒よ」
「……うん! うん! コンちゃん、大好き……!」
イブキは金剛の温もりに包まれながら、涙を拭って元気よく頷いた。その安心感からか、彼女のヘイローは再び穏やかな明滅を取り戻し、数十秒もしないうちに、すーすーと規則正しい寝息を立てて、深い眠りへと落ちていった。
金剛は、自分の胸の中で無防備に眠るイブキの寝顔を、いつまでも見つめていた。
彼女の指先が、イブキの小さな額に優しく触れる。その指先に伝わる確かな体温が、金剛の記憶の引き出しを、『最悪の日』へと引き戻していった。
4ヶ月前。
あの時の私は、今のような『海軍最強』でもなければ、『優しい母親』でもなかった。
私は、ただの『ゴミ』だった。
『金剛』となってから数十年。私と『姉』はただの一度も前線に出されることなく、レベル1の厄介者として各地の鎮守府を転々と移り彷徨っていた。
失敗作、厄病神、屑……名前で呼ばれたことなど一度たりともない。
同僚であるはずの艦娘たちからは憂さ晴らしのサンドバッグとして虐げられ、鎮守府の提督たち自らも虐げに参加した挙句、飽きたら別の鎮守府に押し付けの繰り返しの日々。
私たちは近代化改修の資材としても見捨てられ、ただ存在しているだけの鉄の塊。
いつか、きっと幸せになれる…。ささやかな夢を見て耐え忍んだ私たちの元に運命の転換が訪れた。
4ヶ月前……12月28日。その日は類を見ない深海棲艦による大侵攻があった。
大本営の防衛線が突破されそうになったその時、あの傲慢な人間たちは、私たちを『捨て身の特攻兵器』として海へと駆り出したのだ。
艤装は錆びつき、まともな主砲の弾すら込められていない。ただ、敵の攻撃を引き付けるための
砲弾の嵐の中、恐怖で泣き叫んでいた私はあの日、深海棲艦に喰われて死ぬはずだった。
だけど、運命は残酷だ。
ともに駆り出された姉が私を突き飛ばした。振り返ったその時が、最後に姉を見た時であった。
姉は深海棲艦の顎の中に消えた。
バギッ! ゴギィ!! グチャグヂュ……!!
肉と装甲が砕け千切れる不快な音が海に消える。
冷たい雨が打ち付ける荒涼とした海原で、私の中でゆっくりと芽生えるものがあった。
黒く、滴る雫。雫は愛を染める。理性を穢す。
そしてそれらがドス黒い憎しみという呪いに変わるまで時間はかからなかった。
『あはは……ハハハハハ!!! 素晴らしいわ、これが人間の、海軍の、大本営の本性か!!!』
私は濁りきった瞳で、血を吐きながら、世界そのものを呪う言葉を叫んでいた。
『数十年も私と姉を奴隷のように虐げておいて、いざ自分が死にそうになったらこれか!? 命を何だと思っている! 私たちの誇りを何だと思っているんだ!!! 許さない……絶対に許さない! 人間も、艦娘も、海軍も、深海棲艦も……すべて、すべて私のこの手で皆殺しにしてやる!!! この世界ごと、綺麗さっぱり海の底へ沈んでしまええええええッ!!!』
その時の私は、霊子が黒く反転しかけていた。あと数分もすれば、私は艦娘としての理性を失い、人類の敵である『深海棲艦の姫級』へと完全に堕ちていた。
いや、むしろ自ら進んで化け物になり、自分を虐げた大本営を真っ先に噛み殺してやろう。そして最愛の姉を奪ったこの世界を滅ぼそうと、本気でそう思っていたのだ。
だが、運命は、文字通り『引き裂かれた』。
バリバリバリと、空間そのものが悲鳴を上げるような轟音が響き、私の目の前の空間に、真っ黒な『次元の穴』が突如として開いたのだ。
光すら吸い込むその穴の奥から、小さな、本当に小さな1つの体が、冷たい海原へと放り出されてきた。
それが、イブキだった。
ドボンと激しい水しぶきを上げて海に落ちたイブキは、すでに意識を失っており、頭上のヘイローは消えかけの電球のように点滅していた。
その瞬間だった。
周囲を取り囲んでいた深海棲艦の群れの中から、一匹の凶暴な『駆逐イ級』が、哀れな獲物を見つけたとばかりに、その巨大な顎を開いてイブキの小さな体を食いちぎろうと飛びかかった。
その光景が、私の脳内の『何か』を完全に破壊した。
世界への憎悪も、大本営への復讐も、すべてが一瞬で吹き飛んだ。私の錆びついた回路を支配したのは、ただ一つ――あの小さな、あまりにも無力で純粋な命を、化け物の汚い牙で汚させてはならないという、原始的なまでの狂気だった。
『この子に……その汚い顎で、この子に触るんじゃねえええええぇぇぇ!!!!』
私は叫んでいた。自分の主砲が限界を超えて焼き切れるのも構わず、錆びついた艤装のすべてを爆発させ、文字通り肉肉しい突撃を敢行した。
イ級の頭部を私の拳が、装甲が、文字通り粉々に粉砕する。返り血を浴びながら、私は海に飛び込み、沈みゆくイブキの小さな体を、その両腕で必死に抱きしめ、水面へと引き揚げた。
腕の中で、かすかに呼吸をするイブキの温もりを感じた時、私の黒く染まりかけていた霊子は、一瞬にして純白の光へと反転した。
「(この子は、私の絶望を止めるために、神様が遣わしてくれた天使だ……)」
私は、その場で改めて、自分の魂の底に楔を打ち込むように覚悟を決めた。
この子は、私の命に変えても、世界のすべてを敵に回しても、必ず私が守り抜く。この子の笑顔を曇らせる者がいるならば、それが深海棲艦であろうと、海軍の大本営であろうと、私がそのすべての息の根を止めてやる、と。
私はイブキを抱いたまま、立ち塞がる深海棲艦の包囲網を、素手で引きちぎるようにして突破した。
そして、その足で真っ直ぐに、かつて自分が復讐を誓った大本営の門へと向かったのだ。
すべては、この子に温かいご飯と安全なベッドを与えるために。
そこからの3ヶ月間は、まさに血を洗うような修羅の道だった。
イブキの頭脳が示す作戦に従い、私は戦場を駆けた。イブキを死なせないという執念だけが、私のレベルを1から5000へと押し上げた。
大本営の老人たちがイブキを政治の道具として利用しようとするたび、私は彼らの喉元に冷たい砲口を突きつけ、カタコトの陽気なピエロを演じながら、実質的な支配権を握り続けてきた。
すべては、この腕の中の、小さな幸せを守るための嘘。
「……ふふ」
金剛は回想を終えると、愛おしそうにイブキのふっくらとした頬を指先で突いた。
窓の外からは、夜明け前の静かな波の音が聞こえてくる。
「安心して眠りなさい、イブキ。あなたのお母さんが、この世界のすべての悪意から一生守ってあげるからね」
金剛は優しく微笑むと、イブキの小さな体をもう一度抱きしめ、静かに目を閉じた。
荒れ果てた僻地の鎮守府。しかし、このベッドの上だけは、世界で一番強固で、世界で一番温かい、誰も破ることのできない絶対の揺り籠だった。