錆びついた鎮守府に、これまでにないほど澄み切った朝の光が差し込んでいた。
かつては重苦しい朝霧と、前任者の足音に怯える陰鬱な時間が支配していたこの場所だが、今朝は違っていた。
廊下は昨日の大掃除のおかげでピカピカに磨き上げられ、窓から吹き込む潮風すらも、どこか心地よい爽やかさを帯びている。
食堂には、すでに6人の艦娘たちが勢揃いしていた。
まだ少し眠たげに目をこする者、静かに背筋を伸ばして待つ者と様々だが、その表情からは、昨日まで張り付いていた『絶望』という名の暗い影が綺麗さっぱり消え去っている。
「みんな、おはようデース! 素晴らしいモーニンネ!」
エプロン姿の金剛が、両手に大きなトレイを持って食堂に現れた。トレイの上には、香ばしい匂いを漂わせる焼き立ての自家製パン、新鮮なキャベツの千切り、そして綺麗な半熟に仕上がった目玉焼きとベーコンが並んでいる。
「コンちゃん、イブキもお手伝いする!」
金剛の後ろから、ダボダボの白い軍服を着たイブキが、一生懸命に小さな手でコップを乗せたお盆を運びながらトコトコと付いてくる。
大きすぎる提督帽が歩くたびに左右に揺れていたが、その黄金の瞳は朝日に照らされてキラキラと輝いていた。
「オーウ、イブキ、サンキューデース! ユーは本当に優秀なアシスタントデースネ!」
「えへへ、イブキ、ちゅうじょうだからね! これくらいへっちゃらだよ!」
その微笑ましい親子のやり取りを見て、席に座っていた6人の艦娘たちの口元が、自然と綻んでいく。
「おはよう、イブキちゃん。今日も一段と可愛らしいわね。お姉さんの隣に座る?」
昨夜の母性本能の揺さぶりから完全に覚醒した陸奥が、イブキに向かって優しく手を振った。
「陸奥お姉ちゃん、おはよう! イブキはね、コンちゃんの隣がいいの!」
「あら残念、振られちゃった♪」
陸奥はクスリと笑い、お皿に配られた温かい朝食に目を落とした。
「……本当に、信じられないわね。私たちがこんなに穏やかな朝を迎えるなんて」
加賀が、上品にフォークを持ちながら呟く。
「昨日の大本営の一件といい、この美味しい食事といい……。私たちはどうやら、本当に素晴らしい上官を迎え入れたようね」
「ああ、全くだぜ」
摩耶が、豪快にベーコンを口に放り込みながら頷く。
「飯は美味いし、部屋は綺麗だしよ。これで資材さえ戻ってくりゃあ、いつでも戦えるってなもんだ」
「榛名も、今日からもっともっと頑張りたいと思います!」
橙色の瞳を輝かせた榛名が、元気よく宣言した。時雨や天龍も、それぞれの方法で新しい朝の空気を楽しんでいるようだった。
賑やかで温かい朝食の時間が終わり、食器が綺麗に片付けられた頃。
金剛が、ふと表情を少しだけ引き締め、イブキの耳元へと顔を近づけた。
金剛がヒソヒソと真剣な声で耳打ちすると、イブキは小さな頭をコクン、コクンと何度も縦に振った。
頭上のヘイローが、やる気に満ち溢れたようにピコピコと形を変える。
金剛の耳打ちが終わり、イブキは椅子の上でぴっと背筋を伸ばした。大きすぎる軍服の萌え袖を一生懸命に胸の前で握り締め、食堂の全員を見渡す。
「みんなー! 注目だよ!」
イブキの元気な声に、6人の艦娘たちが一斉に背筋を正した。
「あのね、このお家をこれからもっともっと『たのしい場所』にするためにね、今日からみんなに、特別な『お当番』を任命します! これはね、コンちゃんとイブキが、みんなの得意なことをいっぱい考えて決めたんだよ!」
「お当番……ですか?」
榛名が、不思議そうに小首を傾げた。
そう、これは金剛の発案による【鎮守府生活向上計画】だった。
ただ命令に従って戦うだけの操り人形ではなく、各自が責任と役割を持つことで、生活の質を向上させ、艦娘としての自立心と誇りを取り戻させるための作戦。
イブキの驚異的な解析能力によって6人の『適正』と『性格』を完璧に見抜き、金剛の経験則と合わせて練り上げられた、完璧な人事配置である。
イブキは、テーブルの上に広げられた、彼女の小さな手書きの(しかし内容は驚くほど整然とした)書類に目を落とし、最初の名前を呼び上げた。
「まず、いっこめ! 『生活環境・衛生管理当番』は……加賀お姉ちゃんと、榛名お姉ちゃん!」
指名された2人が、驚いたように目を見張った。
「加賀お姉ちゃんは、すっごく綺麗好きで、お仕事が丁寧でしょ? 榛名お姉ちゃんは、すっごく優しくて、お部屋の隅っこまでちゃんとお掃除できる良い子だから! 2人で、このお家をいつでもピカピカに保つお当番だよ!」
加賀は、手元の紅茶を見つめ、それからイブキを真っ直ぐに見据えて微笑んだ。
「……素晴らしい見立てね、提督。一航戦の誇りにかけて、この鎮守府の美しさを、大本営のどこの施設よりも高く保ってみせるわ。榛名、よろしく頼むわね」
「はい! 加賀さん! 私、一生懸命頑張ります! 榛名は、お掃除だって大丈夫です!」
榛名が、嬉しそうに胸を張る。昨日までの卑屈な落ちこぼれの姿は、そこにはもうなかった。
「次、にこめ! 『調達・資材管理当番』は……陸奥お姉ちゃん!」
「あら、私?」
陸奥が、意外そうに自分の胸元に指を当てた。
イブキはコクンと頷き、萌え袖をフリフリしながら理由を説明する。
「陸奥お姉ちゃんはね、すっごくお話が上手で、大人の色気がいっぱいあるから! 悪い商人さんや、大本営のケチなお爺ちゃんたちから、いっぱーい資材をギューッて持ってこられると思うの! 倉庫の鍵は、陸奥お姉ちゃんにお任せするね!」
その的確すぎる理由に、陸奥は思わず吹き出してしまった。
「ふふ、大人の色気、ね。いいわ、あの大本営の老人たちの鼻をあかして、この鎮守府に山ほどの燃料と弾薬を貢がせてあげる。私に落とせない男も、通せない予算もないわ。任せてちょうだい、イブキちゃん」
陸奥の瞳に、妖艶で、かつ絶対的な自信に満ちた光が宿る。
「次、さんこめ! 『警備・特攻隊長当番』は……摩耶お姉ちゃんと、天龍お姉ちゃん!」
「よっしゃあ! 待ってました!」
天龍が、刀の柄をパチンと叩いて立ち上がった。摩耶も、好戦的な笑みを浮かべて身を乗り出す。
「2人はね、すっごく強くてかっこいいから! もしも悪い深海棲艦がこのお家を壊しにきても、ドカーンって追い払ってくれるでしょ? 周りの海のパトロールと、みんなを守る盾になるお当番だよ!」
「けっ、アタシらの本領発揮だな。どんな化け物が来ようが、この中庭に一歩たりとも入れさせやしねぇよ。なぁ、天龍!」
「おうよ、摩耶! 俺たちの背中を預かる中将サマのために、海の果てまで血祭りにあげてやるさ!」
2人の荒々しくも頼もしい言葉に、鎮守府の防衛力は一気に跳ね上がった。
「そして、さいご、よんこめ! 『提督補佐・メンタルケア当番』は……時雨ちゃん!」
部屋の隅で静かに話を聞いていた時雨が、ハッと息を呑んで顔を上げた。
彼女はまさか自分が指名されるとは思っていなかったのか、困惑気味にイブキを見つめる。
「……僕が、提督の補佐? でも、僕の力なんて些細なものだし、みんなを引っ張るような強さもないよ?」
イブキは、椅子からぴょんと飛び降りると、トコトコと時雨の元へと歩み寄った。
そして、時雨の少し冷たい手を、自分の小さな両手でぎゅっと包み込む。
「そんなことないよ! 時雨ちゃんはね、すっごく優しくて、みんなの気持ちをちゃんとお耳で聞ける、あったかい子。イブキね、お洋服が大きくて、時々転んじゃったり、寂しくなったりするの。そんなときに、時雨ちゃんが隣にいてくれたら、イブキ、いっぱーいがんばれる気がするの。だからね、時雨ちゃん。イブキの隣で、イブキをまもって?」
時雨の暗かった瞳に、ジュワッと熱い涙が浮かんできた。
幸薄い、ただ雨を待つだけだと思っていた自分を、この小さな中将は、誰よりも必要としてくれている。
その確信が、時雨の心の中にあった最後の氷を完全に砕いた。
「……ずるいな、提督は。そんな風に言われたら、僕だって断れないじゃないか」
時雨は、涙を袖で拭いながら、ふっと柔らかく、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「わかったよ。君の隣は、僕が命に代えても守る。雨が降っても、僕が君の傘になってあげるよ」
「うん! ありがとう、時雨ちゃん!」
イブキは嬉しそうに時雨に抱きつき、ヘイローを最高に輝かせた。
その完璧な適材適所の配置と、何より艦娘たちの心を完全に掌握したイブキの姿に、後ろで見ていた金剛は、誇らしげに深く頷いた。
「オーウ! これで全員のミッションが決定デース!」
金剛はパン! と手を叩き、全員を見渡した。
「ユーたちの力と、イブキの頭脳が合わされば、この鎮守府は世界一の場所になりマース! さあ、今日からそれぞれの当番を開始して、この家を最高のホームにしていきましょー!」
「「「「「「はい!!! 提督!!!」」」」」」
6人の艦娘たちの、地を震わせるような力強い返事が、朝の食堂に響き渡った。
それは、前任者の残虐な支配への決別であり、丹花イブキという小さな太陽を中心とした、新しい家族の、本当の始まりの産声だった。