丹花イブキという小さな太陽が赴任してから
かつては潮風に晒されて赤錆びるだけだった鉄骨は磨き直され、庁舎のひび割れた壁は榛名の手によって丁寧に修修が施されていた。
加賀が仕切る『生活環境・衛生管理当番』の成果は凄まじく、廊下は常に鏡のように光を反射し、中庭からは加賀と榛名が刈り取った雑草の山が消え失せて、見事な更地が広がっている。
天龍と摩耶による『警備当番』も機能しており、周辺海域の不穏な気配は彼女たちの圧倒的な威圧感によって事前に霧散していた。
何より、時雨が『提督補佐当番』として常にイブキの傍らに寄り添い、ダボついた純白の軍服の袖が地面に擦れないよう、あそして大きすぎる提督帽がずり落ちないよう、優しく世話を焼く姿は、今や鎮守府の日常の象徴となっていた。
だが、そんな穏やかな再生の時間は唐突に破られることとなる。
初夏を思わせる強い日差しが照りつける日の午後、鎮守府の正門前に、一台の黒塗りの高級乗用車が滑り込んできた。
車から降りてきたのは、仕立ての良い海軍の高級官僚服に身を包み、絵に描いたような傲慢な笑みを浮かべた男――大本営から派遣された上級監査官の、柳原という男だった。
彼は、先日イブキの神算鬼謀によって救われた最高統帥元帥とは対立関係にある海軍上層部の『元帥反対派』の有力閥族に属する人間だった。
彼らの目的はただ1つ。元帥の最大の強みであり、海軍の至宝として君臨しつつある最年少中将・丹花イブキと、レベル5000のバグ戦艦・金剛を、元帥の影響下から引き離し、自らの閥族の監視下に置いて都合の良い『戦術兵器』として私物化すること。
そのために、この盤喪鎮守府へと難癖をつけに送り込まれたのだ。
「ふん、相変わらずのゴミ溜めだな。前任者が消えて少しはマシになったかと思ったが、所詮は地方の辺境か」
柳原は、ピカピカに磨かれたロビーの床をこれみよがしに革靴で鳴らしながら、応接室へと無礼に足を踏み入れた。
その彼を笑顔で迎えたのは、『調達・資材管理当番』として鎮守府の外交を任されている戦艦、陸奥だった。
「あらあら、大本営からわざわざ高貴な監査官様がおいでになるなんて、光栄の至りだわ。どのようなご用件かしら?」
陸奥は、ふくよかなプロポーションを強調するようにソファーに深く腰掛け、蠱惑的な笑みを浮かべた。
しかし、そのショートヘアに隠された瞳の奥には、前線を見下す官僚に対する冷徹な軽蔑が宿っている。
柳原は陸奥の美貌に一瞬目を奪われたものの、すぐにふん、と鼻を鳴らし、懐から数枚の書類を叩きつけるようにテーブルに置いた。
「挨拶は不要だ、陸奥。私は大本営上層部の正当な命令に基づき、この盤喪鎮守府の運用状況の『監査』に立ち入った。……早速だが、極めて深刻な問題が多数発見されてね。まず、新任の丹花イブキ中将、および護衛の金剛の着任手続きに、重大な不備がある。さらに、大本営の貴重な最高戦力である金剛を、このような戦力価値の低い僻地へ私的に留めておくことは、海軍全体の防衛計画に対する重大な『利敵行為』であると上層部は判断した」
陸奥は、流れるような手つきで髪をかき上げ、くすくすと笑った。
「まぁ、利敵行為だなんて物騒ね。あの子……イブキ中将の素晴らしい知略が、先日の本営壊滅の危機を救ったことは、大本営の全員が知っているはずよ? それを不備だなんて、随分と都合の良い解釈をなさるのね?」
「黙れ、一艦娘が口を挟むな!」
柳原は激昂したように机を叩いた。
「先日の件は単なる偶然、あるいは元帥が自らの地位を保つために仕組んだ過大評価だ! 11歳の子供が中将など、海軍の威信に関わる。上層部の結論は出ている。イブキ中将、および金剛は、直ちに大本営中央の特別聖域へと連れ戻し、厳重な管理下で再教育を施す。これは決定事項だ!」
話は完全に平行線だった。柳原の目的は、法や規則ではなく、最初から『難難を突きつけて2人を拉致すること』だったからだ。
「……何事かしら、騒がしいわね」
「おいおい、何だか応接室から嫌な人間の匂いがするぜ」
廊下が騒がしくなり、応接室の扉が開いた。中を窺いに来たのは、加賀、榛名、摩耶、天龍、そしてイブキの手をしっかりと引いた時雨だった。
そして6人の後ろには、いつものエプロン姿ではなく、純白の海軍将校用コートを肩に羽織った金剛が腕を組んで静かに立っていた。
「あ、陸奥お姉ちゃん……」
イブキは、応接室の中にいる柳原の、どす黒い欲望と傲慢さに満ちた視線を本能的に察知した。
彼女は怖いものや暗い場所、そして『自分を道具として見る悪い大人』が何よりも苦手だった。
イブキの黄金の瞳が不安に揺れ、頭上のヘイローがチカチカと怯えるように点滅する。
「……あの人、怖い」
イブキは時雨の手をギュッと握り締めると、トコトコと金剛の後ろへと回り込み、金剛のコートの裾を小さな手で掴んで完全に隠れてしまった。
その瞬間、金剛の周囲の空気が目に見えるほど歪み、そして重苦しいものへと変貌した。
レベル5000。神の領域に達した世界最強の戦艦の怒りが、応接室の室温を急激に低下させていく。加賀や陸奥ですら、その威圧感に一瞬背筋を凍らせた。
「……可愛いイブキを怯えさせるとは、随分と偉そうな口を叩くブタが迷い込んできたデースね」
金剛は、いつもの口調のままだった。しかしその瞳からは完全にハイライトが消えた暗黒の目で、柳原を真っ直ぐに見下ろした。
柳原は、金剛の放つ圧倒的なプレッシャーに息が詰まりそうになり、額から大量の冷汗を流しながらも、大本営の権力を盾に声を荒らげた。
「こ、金剛! 貴様、上級監査官である私に向かって何たる無礼な口を! 貴様らの着任は認められていないと言っているのだ! 難難をつけて居座るつもりなら、軍法会議にかけて解体処分にしてやるぞ!」
「軍法会議? 解体処分? フハハ、それはとっても面白いジョークデース!」
金剛は一歩、前に出た。その瞬間、ドン、と地鳴りのような衝撃が庁舎を揺らす。
「
「な……、何だと!?」
金剛はふっと不敵に笑い、理路整然と言葉を突きつける。
「海軍刑法第17条、および大本営統治令第3款において、『最高統帥元帥の直属命令は、いかなる監査、および下位の閥族による監察命令よりも最優先される』と明記されていマース。つまり、ユーが持っているその紙切れは、現時点で完全な『違法文書』であり、ただのゴミクズナノデース!」
「くっ……! だが、実質的な戦力配置として、レベル500.の貴様をこのような僻地に遊ばせておくことは――」
「遊ばせておく? ユーは本当に耳がアンヘルシーデースね」
金剛は冷酷に柳原の言葉を遮った。
「先日の本営強襲の際、現地を見もせずに安全な地下シェルターで震えていたユーたち反対派のせいで、海軍は滅びかけマシタ。それを、このイブキ中将の神算鬼謀による防衛作戦が、1人の犠牲もなく完全勝利へと導いたのデース。この盤喪鎮守府は、そのイブキが海軍全体の防衛戦略を再構築するための『最高特区・作戦司令本部』として元帥閣下に認可されていマース。ここを僻地のゴミ溜め呼ばわりすることは、海軍全体の最高戦略に対する重大な『侮辱』であり、それこそが軍法会議ものの【反逆罪】ナノデースが?」
「う、ぐ……、あ……」
柳原の顔が、今度は恐怖で真っ青に染まっていく。金剛の言っていることは海軍の法律と実績の双方から1ミリの隙もない、完璧な『正論』だった。
「さらに言うなら、ねぇ、監査官様」
金剛は柳原の顔のすぐ近くまで顔を寄せると、その耳元で、彼にしか聞こえないほどの極めて低い声で囁く。
「……あなたの後ろにいる無能な老人たちに伝えなさい。これ以上、私のイブキに不躾な手を伸ばそうとするなら、大本営の防衛システムをすべてイブキの頭脳でハッキングして書き換え、あなた方の私有資産も、地位も、その薄汚れた命も、すべて深海棲艦の餌食にしてあげるわ、ってね」
「ひぃぃぃっ!!!???」
柳原は、あまりの恐怖にソファーから転げ落ち、腰を抜かしたまま床を這いずり回った。
レベル5000の戦艦が本気で脅迫してきているのだ。それがハッタリではないことなど、彼女の濁った瞳を見れば1秒で理解できた。
「オーウ! 用事が済んだなら、さっさと中央へお帰りくだサイ! 私たちの神聖なティータイムの邪魔デース!」
金剛がパッと手を叩くと、天龍と摩耶が「へっ、お荷物のお帰りだ!」とばかりに、柳原の両脇を乱暴に抱え上げ、文字通り正門の外へと引きずり出していった。
黒塗りの高級車が、命からがら逃げ出すように猛スピードで去っていく。
応接室に、再び静寂と、それからドッと沸き起こるような歓声が響いた。
「素晴らしいわ、金剛! あの鼻持ちならない官僚を、法律と威圧だけであそこまで完膚なきまでに叩きのめすなんて!」
陸奥が、痛快そうに胸を揺らして大笑いした。
「ええ。法律の知識も完璧、武力の脅しも完璧。一航戦としても、惚れ惚れするような舌戦だったわね」
加賀も柔らかな笑みを浮かべて金剛を称賛した。榛名や時雨も、ほっと胸を撫で下ろしている。
金剛はふぅ、と溜め息をつくと、すぐにいつものデレデレな母親の顔に戻り、コートの後ろから恐る恐る顔を出したイブキを、その両腕で優しく抱きしめた。
「もう大丈夫デース、イブキ! 悪いブタさんは遠くへポイしちゃいマシタからね!」
イブキは金剛の胸に顔を埋め、それからすぐに満面の笑みを浮かべて、頭上のヘイローをピコピコと輝かせた。
「うん! コンちゃん、すっごくかっこよかった! イブキ、コンちゃんが守ってくれるから、ちっとも怖くなかったもん!」
人間の醜悪な権力闘争など、この2人の絶対的な絆の前には、塵に等しかった。
盤喪鎮守府は、今日も最強の盾と最高の知略によって、どこまでも平和に、そして温かく護られていた。