大本営から送り込まれた上級監査官・柳原を、法律の完璧な盾とレベル5000の圧倒的な矛で完膚なきまでに叩きのめしたあの1件以来、盤喪鎮守府の空気はさらなる変化を見せていた。
前任者の横暴によって踏みにじられ、ただ朽ち果てるのを待つだけだった艦娘たちの心には、今や明確な『誇り』と『安心感』が根付いている。
大本営の強欲な閥族にすら一歩も引かず、むしろその喉元を噛み切らんばかりの気迫で自分たちの居場所を護り抜いた金剛の姿は、鎮守府の誰もが認めざるを得ない絶対的な英雄として、彼女たちの胸に深く刻み込まれていた。
「それにしても、あの時の金剛は本当に小気味よかったわね」
昼下がりの穏やかな光が差し込む中庭で、陸奥が刈り取った雑草の入った袋をまとめながら、ふふっと妖艶に笑った。
「あの大本営の官僚が、まるで腰を抜かした赤ん坊みたいに床を這いずり回るんですもの。外交担当の私としても、あそこまで完璧な舌戦を見せられたら、1本取られたと言わざるを得ないわ」
「ええ。法律を武器に相手の退路を断ち、その上で圧倒的な武力をもって魂をへし折る……。おちゃらけてはいるけれど、あの佇まいは真の戦士のものよ。一航戦としても、彼女のあの果敢な姿勢には深く敬意を表するわね」
隣で静かに中庭の石畳を掃いていた加賀も同意した。その手つきは優雅で、かつて仮面のようだった横顔には、今や柔和な生気が満ち溢れている。
「だろ!? アタシもよ、あの金剛の姐御の迫力にはビビっときたぜ! いつかアタシも、あそこまでの凄みを身につけてみたいもんだ!」
摩耶が竹箒を肩に担ぎながら、興奮気味に声を張り上げた。天龍も「おうよ、あれぞ本物の切り込み隊長ってやつだな!」と大笑いしている。
日常の業務をこなす中で、艦娘たちの間では「金剛さんって、実はもの凄くかっこいいんじゃないかしら」という声が、日に日に高まっていったのだ。
だが――その中でも、誰よりも顕著に、そして熱烈に金剛への憧れを爆発させている艦娘が1人いた。
金剛型戦艦三女、『榛名』である。
「金剛お姉様……っ! お部屋の窓ガラスの清掃、すべて完了いたしました! 榛名、お姉様の美しい艤装に恥じぬよう、一分の曇りもなく磨き上げました!」
「オーウ! サンキューデース、榛名! ユーの働きはいつもビューティフルで、私も助かりマース!」
食堂のテラス席で、眠っているイブキの頭を優しく撫でていた金剛の元へ、榛名が頬を紅潮させ、橙色の瞳をこれ以上ないほどキラキラと輝かせながら駆け寄ってきた。
彼女の灰色がかった黒髪ロングが、その激しい動きに合わせてふわリと揺れる。
ここ数日の榛名の行動は、まさに『狂信的』と言っても差し支えないほどだった。
生活環境・衛生管理当番としての職務を完璧にこなすのはもちろんのこと、金剛が厨房に立てば「お姉様、お野菜の泥落としは私にお任せください!」と隣にピタリと張り付き、金剛が廊下を歩けば「お姉様、お足元に小さな段差がございます、お気をつけください!」と一歩後ろを影のように付いて回る。
かつては「自分は姉妹の中でも戦果を挙げられなかった、ただの落ちこぼれ。本物の金剛お姉様に、お会いしたことすらありませんでした」と、薄汚れたさらしを握り締めて俯いていたあの榛名は、どこへやら。
今の彼女は、憧れのお姉様に少しでも近づきたい、認められたいという一心で、ことあるごとに金剛に引っ付こうとしていた。
「金剛お姉様、あの、もしよろしければ……この後、紅茶の淹れ方の続きを教えていただけないでしょうか? お姉様のような気品溢れる香りを、私もいつか再現できるようになりたくて……っ!」
榛名は一歩、さらに距離を詰め、金剛の巫女風の衣装の袖をそっと掴んだ。
その姿は、まるで年の離れた頼もしい姉に甘える、少し不器用な末っ子のようだった。
「オーウ、紅茶ネ! もちろんウェルカムデース! 榛名はとってもスジが良いから、すぐに直伝のアフタヌーンティーをマスターできマースよ!」
金剛はガハハと豪快に笑いながら、榛名の頭をポンポンと親しげに叩いた。
「は、はい……っ! ありがとうございます、お姉様……!」
榛名はそれだけで天にも昇るような心地になり、胸の前で両手を合わせて完全にうっとりとした表情を浮かべていた。
そんな2人の様子を、少し離れた席から静かに見つめている小さな瞳があった。
「……んぅ、コンちゃん?」
金剛の膝の上で、気持ちよ良さそうにお昼寝をしていたイブキが、榛名の熱烈な声に目を覚ました。
大きすぎる純白の軍服の萌え袖でゴシゴシと目を擦りながら、イブキは黄金の瞳をぱちくりとさせる。
彼女の頭上のヘイローは、まだ半分眠っているかのように、ぽわぽわと頼りなく淡い光を放っていた。
イブキは、金剛の衣装の袖をぎゅっと握り締め、熱視線を送り続けている榛名の顔をじっと見つめた。
「はるなお姉ちゃん、コンちゃんのお袖をギューッてしてる」
イブキは小首を傾げ、少しだけ不思議そうな、そしてほんの少しだけ寂しそうな顔をして呟いた。
イブキにとって、金剛はキヴォトスからこの見知らぬ世界に落ちてきて以来、ずっと自分を抱きしめ、温かいご飯をくれ、命を懸けて守ってくれた『世界でたった一人のママ』だ。
その大好きなコンちゃんに、新しくできた綺麗なお姉ちゃんがことあるごとに引っ付いている。11歳の純粋な子供の心に、ほんのわずかな『独占欲』が芽生えていた。
その微かな心の変化を、イブキの隣に常に寄り添う『提督補佐当番』の時雨は見逃さなかった。
時雨はトコトコとイブキの席へと近づくと、彼女の小さな肩をそっと抱き寄せ、耳元で優しく囁いた。
「……提督、少し寂しい? 大好きな金剛を榛名ちゃんに取られちゃったみたいで、悲しいかな?」
イブキはハッと手を口に当て、それから時雨を見上げて、コクンと小さく頷いた。
「うん……。はるなお姉ちゃん、コンちゃんのこと、すっごくかっこいいって言ってた。イブキもね、コンちゃんが世界一かっこよくて大好きなの。でもね、はるなお姉ちゃんがいっぱい引っ付いてると、イブキ、コンちゃんにギューッてしづらくなっちゃうの……」
小さな胸の内を素直に吐露するイブキ。その健気で愛らしい姿に、時雨の胸の奥がキュンと締め付けられる。
「そうだね。でも、大丈夫だよ、提督。金剛にとって、君が世界で一番特別な存在であることは、誰がどう見たって変わり得ないんだから。……ねぇ、金剛?」
時雨が少し声を大にして金剛を呼ぶと、金剛は「オーウ?」と榛名に向けていた顔をこちらへと戻した。
そして、少しだけ眉を下げて布団の端を握り締めているイブキの姿を見た瞬間、金剛の『超高性能イブキ探知センサー』が激しく警報を鳴らした。
『(ハッ!!! 私としたことが、榛名の熱意に押されて、世界で一番大切なイブキをほんの少しだけ寂しくさせてしまいマシタ!!! なんたるマザー失格デスカ!!!)』
金剛の顔から陽気な笑みが一瞬で消え去り、今にも泣き出しそうなほどの焦燥感がその身を包んだ。
彼女は榛名の手を優しく、しかし確固たる力で引き離すと、椅子から滑り落ちるような勢いでイブキの元へと飛びついた。
「オーウ!!! イブキ!!! 私の可愛いイブキ!!! 寂しい思いをさせてごめんなさァァァイ!!! 私のすべては、ライフも艤装もこのハートも、全部全部ユーのものナノデース!!!」
金剛はイブキの小さな体をこれでもかと強く抱きしめ、そのふっくらとした頬に自分の顔をぐりぐりと押し付けた。
「コンちゃん、あったかい……! でも、ちょっと苦しいよぅ、あはは!」
イブキは突然のコンちゃんの一大アプローチに、それまでの寂しさなど一瞬で忘れて、最高の笑顔を咲かせた。
頭上のヘイローが、幸福感に同期してピコピコと激しく黄金の光を明滅させる。
「はぅ……っ! 金剛お姉様と、イブキ中将の、これほどまでに尊く、深い絆の光……! 榛名、新参者でありながらお二人の神聖な領域に踏み込みすぎました! 榛名は、榛名は大丈夫では、ありません……っ!」
その様子を間近で見た榛名は、あまりの尊さと、金剛の凄まじい親バカぶりの圧に圧倒され、胸元を押さえてその場にヘナヘナと座り込んでしまった。
「あらあら、榛名ちゃん、完全にノックアウトね」
遠くから見ていた陸奥が、呆れ交じりに微笑む。
「でも、いいじゃない。この鎮守府には、もう誰も怯えるような影はないわ。最強の戦艦が、あの小さな提督のためにすべてを捧げている。私たちがその背中を守る理由としては、これ以上ないほど十分よ」
「ええ。あの2人の絆を引き裂く者が現れるなら、そのすべてをこの一撃で灰にして見せるわ」
加賀が静かに弓を引き絞るような仕草を見せ、その唇に柔らかな笑みを浮かべた。
憧れの眼差しを向ける妹分と、それを遥かに凌駕する狂気的な愛で応える母親。そして、その中心で無邪気に笑う小さな中将提督。
盤喪鎮守府は、かつての廃墟の面影を完全に失い、誰も壊すことのできない、世界で一番強固で温かい『家族の城』へと、その根を深く、深く張り巡らせていた。