とある日のこと。キヴォトスにやって来て以来、最早珍しくなり始めていた「一人の時間」がそこにはあった。
銀時はシャーレのメインルームにあるソファにだらしなく横たわりながら、お気に入りの漫画雑誌を読み耽っている。
普段なら横で小言を言ってくるはずの秘書・ユウカはミレニアムの緊急財務会議へ。従者だからとやたら懐いてくる忍者のイズナは百鬼夜行の忍術研究部での研修へ。おまけに今日シャーレ当番に入っていた生徒は急な体調不良で休みという、いくつかの偶然が重なって生まれた奇跡的な空白の一日だった。
江戸にいた頃も、万事屋の二人と一匹や近所の連中に囲まれて一人の時間など滅多になかったが、キヴォトスに来てからはどうにも……未だにこの世界の居心地に慣れきっていない部分がある。なんてったって、相手は全員が年頃の少女なのだ。あちらにいた頃のように気安く下ネタを口にして鼻糞をほじるわけにもいかないし、少女たちとの距離感というものには、あの坂田銀時をしてどうにも計りかねていた。だからこそ、こうした気兼ねのない一人の時間が、時折無性に恋しくなっていたところだった。
雑誌をちょうど半分ほど読み進めたところだった。オフィスの呼び鈴がジリリリ……と静かな部屋に響き渡る。
「へーい……」
銀時は心底めんどくさそうな、気力のない声を上げながらソファから這い出た。廊下に続く扉を開くと、そこに立っていたのは、漆黒の王冠を思わせる禍々しいヘイローと、黒いツノ。そしてその異形な特徴とは反比例するような、艶やかで柔らかそうな銀髪をふんわりと伸ばした小柄な少女──ゲヘナ学園の風紀委員長、空崎ヒナだった。
「……えっと、久しぶり……だね、先生」
ヒナは少しだけ視線を泳がせながら、小さく手を振る。
「……嬢ちゃんか。随分と珍しいじゃねーの。アビドスん時に、俺が嬢ちゃんに泣きついてヘルプ求めた時以来だな」
「泣きついてなんていなかったでしょ。ボロボロに傷ついた体を引きずって、もの凄い形相で『力を貸せ』って迫ってきてたんだから」
「そうだっけか? まぁ、銀さん記憶力は都合良くできてるからさ」
「そうだよ。……まあ、いいや。ね、上がってもいい?」
「構わねえけど……急にどうしたんだ? ゲヘナの風紀委員長様が、護衛も連れずにこんなところまで」
「取り敢えず部屋に入ってから話すから。……ちょっと、疲れちゃって」
いつも以上に肩の力が抜けた、どこか儚げなヒナの様子に、銀時は「あん?」と首を傾げつつも、扉を大きめに開いて中へ促すように自分の体を壁際にずらした。
──────────
ヒナを中に招き入れ、先ほどまで自分が寝転がっていたソファへと座るように促してから、銀時は給湯室へと向かった。
急須に茶葉を入れ、二つのグラスにはこれでもかと山盛りの氷を放り込む。急須から濃いめのお茶を少量ずつ注いでから、冷蔵庫のボトルでキンキンに冷たくした水を一気に注ぎ足す。簡易的な冷茶を作ってそれを盆に載せ、メインルームへと戻った。
その時には、ソファに腰掛けたヒナは背もたれに深く背中を預け、片手を額の上に乗せながら、天井を見上げて大きくため息を漏らしていた。
「だいぶ疲れてるじゃねーか、嬢ちゃん。風紀委員長ともなると忙しくて仕方ねえってか?」
銀時はテーブルに冷茶をコトッと置きながら、対面の椅子を引き寄せてドカッと腰を下ろした。
「……それもあるけど、条約の締結日が近くて。その打ち合わせと調整で、ここ最近ずっとまともに眠れてなくて……」
ヒナはそう言って、深い隈の浮かんだ目元をそっと指先で擦った。いつも完璧な風紀委員長としての威厳を纏っている彼女が、今ばかりはただの疲れ切った少女の顔を覗かせている。
「条約?」
「ニュース、見てないの? ……エデン条約。私たちゲヘナ学園と、トリニティ総合学園が結ぶ平和条約だよ」
氷の入ったグラスに冷たい水を注ぎ足しながら、銀時は「あー」と気の抜けた声を漏らした。
「普段テレビはバラエティしか見てねえからさ、そういうお堅い番組は基本スルーなんだわ。……しっかし、学校同士の平和条約ねえ……そんな仲悪ぃの? 確か俺がここに来たばかりの騒動で、ここの建物の奪還戦に参加してた奴らの中にさ、お前んとこのメガネちゃんと、トリニティんとこの黒髪巨乳のねーちゃんがいたが、あん時ゃそんな険悪な様子なかったけどなあ……」
「あの時は状況が逼迫してたし……チナツは理性的だから。正義実現委員会のハスミとも、現場の判断としていい折り合いが取れてただけだと思う。もし上の人間が直接顔を合わせてたら、本当にその場で一触即発だっただろうね。……ていうか、先生。巨乳とかそういう発言、デリカシーない。本人の前では言っちゃダメだよ」
ヒナは当時の状況を思い返すように少しだけ視線を伏せた。あの混沌とした奪還戦の最中、奇跡的に保たれていた均衡が、どれほど薄氷を踏むようなものだったかを一番よく理解しているのは彼女だった。……そしてついでに、とばかりに彼のデリカシーのない発言に苦言を付け加える。
「へいへい……てかそんなレベルでかよ、おっかねえなぁ。一体何があってそーなったんだか。同じ女子高生同士だろ?」
銀時は呆れたようにため息をつき、ソファの背もたれに体を預けた。彼からすれば、キヴォトスの生徒たちが背負う「歴史」の重みは、いささか奇妙で、そして酷く不条理なものに映っていた。
「昔からのもの、だからね。キッカケは何だったのかはもう誰も分からない。けれど、憎しみとか伝統って嫌な形でも受け継がれちゃうものだから……もう、お互いに対する先入観みたいなものなんじゃないかな」
それは、数え切れないほどの諍いと、融通の利かない組織の狭間で戦い続けてきたヒナだからこそ口にできる、諦念の混じった本音だった。
「ふうん……ま、いちいち条約なんて堅苦しいモンで縛り付けなきゃいけなくなるほどなんだから、相当こじれてんだろーねえ……」
銀時はそれ以上深く追究することはせず、マドラー代わりの割り箸でグラスの中の氷をカランと鳴らした。冷たいお茶の香りが、少しだけヒナの強張った表情を和らげていく。
一方のヒナの前には、きちんと銀色に光るちゃんとしたマドラーが添えられているあたり、彼なりの不器用な気遣いが垣間見えた。
「……で、嬢ちゃんが死にそうな顔で疲れてるのはよーく分かったけどよ。何でまた、わざわざ俺のとこに来たん?」
銀時は冷茶をずずっと啜りながら、半目でヒナを見つめる。
「……学園の寮にいると、どうしても仕事の連絡が来ちゃうし、書類の山が目に入って落ち着かなくて。それに……私自身も、なんで先生のとこに来ちゃったのか、よくわからないけど……」
ヒナはそう小さく呟くと、差し出された冷茶のグラスを両手で包むようにして持ち上げ、小さく喉を鳴らして一口啜った。冷たいお茶が染み渡るのと同時に、ゲヘナの風紀委員長という重い肩書きが、ほんの少しだけその華奢な肩から降りていくような気がしていた。
「……ま、嬢ちゃんにはアビドスの時に助けてもらった借りがあるしな。好きなだけここにいて休んでけよ。見ての通り、大したもてなしはできねーけどさ」
銀時は頭の後ろで両手を組み、いつもの気の抜けた調子で、けれど確実に彼女を拒まない言葉を投げかけた。
「……急に押し掛けちゃったのに、いいの?」
グラスを包む手に少しだけ力を込め、ヒナは上目遣いに銀時の顔を窺う。ゲヘナの誰もが自分を恐れるか、あるいは頼り切る中で、そんな風に「いていい」と無条件に言ってくれる存在はあまりにも貴重だった。
「いーんだよ、今日はお前以外には誰も来ねえし。俺はもう、今日は一日中のんびりゴロゴロしながら漫画読んでるつもりだったしな。静かに過ごすなら今日くらいしかねーぞ? 言っとくけど」
「……あり、がと」
ヒナの口元に、本当に微かではあったけれど、ようやく年相応の穏やかな笑みが浮かんだ。張り詰めていた心の糸が少しだけ緩み、冷たいグラスから伝わる涼しさが、彼女の疲れた身体を優しく癒していくようだった。
「じゃ、ちと布団整えてくっから。お前はベッドで寝ろよ。俺はソファで横になるから」
銀時はよっこらしょ、と重い腰を上げて立ち上がると、寝室の方へ向かおうと歩みを進めた。
「え、そんな……悪いし、いいよ。そこまでしてもらう筋合いなんて……」
ヒナは慌ててグラスをテーブルに置き、引き留めるように声を大きくした。
「いいって。そんだけ目にクマ作って死にそうな顔してんだ。ソファなんかより、ちゃんとしたベッドの方がいくらか休まるだろ」
「で、でも……。私は、その……ただちょっと、お邪魔させてもらうだけで……」
思ってもみなかったそのもてなしに、ヒナは本気で困惑していた。
ほんの少し、邪魔にならないようにソファの端でうたた寝でもさせてもらえれば十分だと思っていたのに、まさかプライベートな領域であるはずのベッドまで貸してくれようとするなんて。他人に甘えることに慣れていない風紀委員長は、差し出された真っ直ぐな親切をどう受け止めていいか分からず、ただただ小さく戸惑うしかなかった。
「……じゃ、じゃあ」
ヒナは意を決したように静かに立ち上がると、寝室へと向かおうとしていた銀時の背中へと歩み寄った。そして、少しだけ躊躇うように泳いだその小さな手を伸ばし、彼の着流しの袖を、くっと小さく引いた。
「……先生もベッドで、一緒に横になろ?」
「……え"っ」
銀時は錆びついたロボットのような音を立てて首を回し、完全に面食らった顔でヒナを見下ろした。その目はいつになく見開かれている。
「いやいやいや! 待て待て嬢ちゃん、お前今なんて言った!? 耳鼻科行くか!? 銀さんの耳クソが溜まりすぎて幻聴のフェーズに入ったかこれ!?」
「幻聴じゃないよ。……先生だって疲れてるでしょ。私のせいで先生がソファで窮屈に寝るくらいなら、ベッドの方が広いし……二人で横になった方が、合理的じゃない」
「合理的の使いどころが完全にバグってんだろーが! いいか嬢ちゃん、お前はゲヘナの風紀委員長で、俺は一応これでも大人の男、つまり先生なわけ! わかる!? 一緒のベッドで寝るとか色んな意味で一発アウトなの!」
「……私はただ、先生に無理をしてほしくないだけで……駄目、かな」
ヒナは着流しの袖を握る手に少しだけ力を込め、上目遣いで銀時をじっと見つめた。その潤んだ瞳には、いつもの威厳など微塵もなく、ただただ純粋に彼を気遣う(そして、ほんの少しの寂しさを孕んだ)一人の少女の願いだけが宿っていた。
「うっ……! お前、そういう顔するの反則すぎだろ……ゲヘナはそーゆーとこも小悪魔なんですか、搦め手上手なんですかコノヤロー……」
「搦め手なんて使ってないよ……じゃあ、決まりね」
結局、その頑なで、けれどどこか儚げなヒナの態度に押し負ける形で、銀時は盛大なため息をつきながら寝室へ入る羽目になった。
シャーレのベッドは幸いにしてそれなりの広さがあったが、それでも年頃の少女と大人の男が横並びになるには、どうしたって距離が近すぎる。
「……言っとくけどな、銀さん完全に壁と化すから。ただの喋る丸太だと思って寝ろよ」
「ん……わかってる」
シーツに滑り込んだ二人は、互いに完全に背中を向ける形で、背中合わせの状態で横になった。
ピタリと密着しているわけではない。けれど、寝返りを打てばすぐに触れてしまいそうなほど近い距離。背中越しに伝わってくるヒナの小さく、けれど規則正しい体温と、ふんわりと漂う銀髪の甘い香りに、銀時は「生きた心地がしねえ……」と心の中で天を仰いだ。
一方のヒナは、自分の背中越しに感じる銀時の圧倒的な男の体躯の大きさと、どこか安心するような大人の匂いに包まれ、ここ数週間の緊張が嘘のように解きほぐされていくのを感じていた。
「……おやすみ、先生」
「へーいへい、おやすみ。さっさと寝て完全復活してから帰れよ、嬢ちゃん……」
静まり返った寝室で、二人の微かな呼吸の音だけが、心地よいリズムを刻み始めていた。
──────────
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
カーテンの隙間から差し込む昼下がりの柔らかな光の中で、ヒナはゆっくりと意識を取り戻した。ここ最近の慢性的な寝不足が嘘のように、頭は驚くほどすっきりと、そして穏やかに落ち着いている。
ふあ、と小さくあくびを噛み殺しながら、ヒナはまだ少し潤んだ目をパチパチと瞬かせた。
視界に飛び込んできたのは、すぐ目の前で横たわる圧倒的に大きくて広い、白いくたびれた着流しの背中。
(……あ、そっか。私、どうしてもゲヘナの寮にいるのが息苦しくなっちゃって、シャーレに行って……。それで、先生のベッドで横になったんだっけ……)
そこまではいい。そこまでは、まだ疲れていたからという言い訳がギリギリ通用する。
ヒナはさらに寝ぼけた頭で、その記憶の先をゆっくりと手繰り寄せた。
(……あれ。でも、何で先生もここにいるの? んと、……私、確か先生の袖を引っ張って……『一緒に横になろ?』って……え? え、っと……)
静まり返った部屋。背中越しに伝わってくる、あの男の規則正しい、低くて静かな寝息。
自分が口にした信じられないような誘い文句と、今まさに同じベッドで、文字通り背中を合わせるほどの至近距離で眠っているという決定的な現実。
(私……大人の男の人のベッドに押し掛けただけじゃなくて、自分から誘って、本当に、一緒、に────)
「───── っ、!?!?!?」
眠気で完全に麻痺していた理性が一瞬でトップギアまで叩き起こされ、ヒナの顔は爆発でもしたかのように耳の先までカッと真っ赤に染まった。
あまりの恥ずかしさとパニックで心臓が破裂しそうになり、今すぐこの場から全力で逃げ出したい衝動に駆られる。しかし、ここで大きな声を上げたり暴れたりすれば、目の前の男を起こしてしまう。
ヒナは涙目になりながら、大慌てで両手で自分の口元をがっしりと押さえ込み、声にならない絶叫を必死に噛み殺した。そして、ヘイローを激しく明滅させながら、まるで凶悪な爆発物から距離を置くかのように、シーツをカサカサと鳴らしながら音を立てないよう必死で後ずさる。
(な、な、な……なんであんなこと言っちゃったの、私……!?)
真っ赤になった顔を両手で覆い、ベッドの隅で行き場のない大パニックに陥る。
冷静になって考えれば考えるほど、自分の行動が信じられなかった。彼とは、あのアビドスでの騒動の時に知り合ったばかりでまだ片手の指の数ほどしか顔を合わせていないのだ。それなのに、いくら疲れていたからって……そんな知り合って間もない異性に共寝を求めてしまうなんて。風紀委員長として以前に一人の女の子として一体どうしてしまったというのか。
(頭がおかしくなってた……絶対に、ここ最近の寝不足のせいで脳の判断機能が完全に麻痺してたんだ……っ!)
自分に対するあまりのツッコミどころの多さに、シーツを握りしめる指先がワナワナと震える。しかし、赤面しながら必死に言い訳を探すヒナの視線は、どうしても目の前で呑気に寝息を立てている大きな背中に向かってしまった。
自分の落ち度は百も承知。だけど──
(それに、この人もこの人だよ……! なんでまだ出会って間もない女の子を、こんな自分のベッドに……っ! い、いや、確かに強引に誘ったのは私の方だけど!! でも、だからって本当に断りきれずにそのまま乗るとか、いくらなんでも大人の男として、先生として無防備すぎでしょ……!!)
もし私がゲヘナの風紀委員長じゃなくて、もっと別の……それこそ悪意を持った生徒だったらどうするつもりだったのか。それ以前に、年頃の女子生徒と同じベッドに横たわって、警戒心ゼロでこんなにぐっすり眠れてしまうなんて、この男の倫理観や危機管理能力は一体どうなっているんだと、ヒナは恥ずかしさを怒りに変換するように内心で激しく葛藤する。
起こさないように静かに、けれど頭の中の風紀委員会が総出で大バッシングの嵐を巻き起こす中、ヒナは真っ赤な顔のまま、目の前の「無防備すぎる大人」を涙目でじっと睨みつけることしかできなかった。
けれど……そんな風に頭の中でどれだけ文句を並び立ててみても、目の前の男は一向に起きる気配を見せず、スヤスヤと実にお気楽に、気持ちよさそうに寝息を立てている。
そのあまりの無防備さと緊張感のなさをじっと見つめているうちに、ヒナの胸の奥には、気恥ずかしさとはまた別の、なんとも言えないモヤモヤとした感情が湧き上がってきた。
(……これだけ近くに私がいるっていうのに、本当に、一ミリも警戒してない。それどころか、まるでただの枕か何かと並んでるみたいに熟睡して……)
それは不思議なほどに、ほんの少しだけ腹立たしい感覚だった。
いくら自分がゲヘナを統べる風紀委員長で周囲から怖がられる存在だとしても、一応はこれでも年頃の女の子のはずなのだ。それなのに、この男にとって自分は、同じベッドに横たわっていても指一本触れようと思わないどころか、心拍数すら上がらないような、そんな「女の子」として意識するに値しない対象なのだろうか、と。
(私のこと、そういう目で全然見てないのかな……とか。……って、え!?)
そこまで考えて、ヒナは自分の思考の行き先にハッと息を呑んだ。
意識されていないことに不満を覚えるということは、つまり──。
(て、ててて、ていうかそれじゃ、まるで私が先生に、私のことを女の子として意識して欲しいって、そう思ってるみたいじゃない……っ!?)
ドクン、と心臓がひときわ大きく跳ね上がる。
自分で自分に突きつけたその致命的な矛盾と、無意識のうちに抱いてしまっていたあまりにも恥ずかしすぎる願望の正体に、ヒナの思考回路は完全にキャパシティを超えて焼き切れた。
「──っ、~~~~っ!!」
ヒナは真っ赤を通り越して茹であがったような顔のまま、頭をブンブンと激しく左右に振った。ヘイローがチカチカとまるで警告灯のように激しく明滅する。
違う、違う、絶対に違う。私はただ風紀委員長としてこの男のあまりの危機管理能力の低さに呆れているだけであって、決してそんな破廉恥で不純な期待なんてこれっぽっちも──!
必死に頭を振って脳裏に浮かんだ邪念(?)を振り払おうとするものの、一度自覚してしまったモヤモヤはそう簡単には消えてくれず、ヒナはベッドの端で、顔を両手で覆ったままただただ悶絶するしかなかった。
……それにしても。どうして、この人に。
どうして私は、これほどまでに無防備で、だらしなくて、どこからどう見ても信頼に値する「立派な大人」の条件からかけ離れているようなこの男に、こうも簡単に心を許してしまったのだろう。
ベッドの隅で小さく丸まり、熱を持った顔を両手で覆ったまま、ヒナは静かに自問自答を始めていた。
初めて出会ったあの日のことは、今でも鮮明に覚えている。あれはゲヘナの風紀委員会、ひいては自分の部下である過激派の独断によって引き起こされた、アビドス対策委員会との不慮の衝突だった。他校の自治区へ無断で侵入し、武力衝突にまで発展しかけたあの最悪の現場。事態を収拾するために私が自ら前線に赴いた時、そこに立っていたのがこの男だった。
その時の彼は、自分がキヴォトスの住人ではないからと銃弾を恐れる素振りすら見せず、けれど確かにただの人間に過ぎないはずのその身を挺して、風紀委員たちの前に立ちはだかっていた。
そして何より、あの日のこと。
カイザーグループの卑劣な陰謀によって、アビドスの小鳥遊ホシノが連れ去られたとして、彼が私に助けを求めてきた、あの日。その数日前にカイザーグループの兵士によって手痛く負傷している体を引きずり、焼け爛れた手でイオリの向けた銃口を握り締めてでも彼は鬼気迫る形相で私の前に現れた。
『頼む、力を貸してくれ』
あの時の彼の目は、本気だった。まるで自分の命なんてどうなってもいいと、自分の魂を削り落としてでも一人の生徒の未来を救い出すんだという、狂気にも似たあまりにも真っ直ぐで強烈な覚悟がそこにはあった。
キヴォトスには、自分の利益のために生徒を利用しようとする大人が溢れている。綺麗事を並べ立てながら、結局は子供たちを都合のいい道具としてしか見ない歪んだ大人が、あまりにも多すぎる。
なのに、この人は違った。この坂田銀時という男だけは、生徒を、子供たちを、まるで自分の命以上に大切に思っている姿ばかりを、私の前でこれでもかと示し続けてきたのだ。
いつも肩書きばかりを押し付けられ、ゲヘナの抑止力として、完璧な「風紀委員長」としてしか他者から見てもらえない私。誰もが私に頼り、誰もが私に解決を委ねる。そんな息の詰まるような、終わりのない重圧の中で戦い続けてきた私にとって、生徒のために命を懸けてくれるこの男の存在が、どれほど眩しかったか。
この人の前でなら、私は重い委員長の椅子から降りていいのかもしれない。この人なら、私がどれだけ無様に疲れていても、それを責めることなく、ただ「休んでけ」と不器用な優しさで受け入れてくれるかもしれない。
──だから、私は。
だから私は、この人にだけは、こんなにも簡単に境界線を越えさせて、心の一番柔らかいところを預けてしまったのだろうか。
背中越しに伝わってくる、男の静かで、どこか暖かくて、ひどく安心する寝息を聴きながら、ヒナは目を細めて彼のたてがみを眺めていた。
──────────
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
銀時はふっと、心地よい微睡みの底からゆっくりと目を覚ました。
重い瞼をこじ開けると、寝室のカーテンの隙間から差し込む光はすっかりオレンジ色に染まり、部屋の端に長い影を落としている。すっかり西日になりかけている時間を確認し、銀時は「ふわぁぁ……あ」と、顎が外れそうなほど大きな欠伸を一つ漏らした。
そのまま、まだ寝ぼけた頭でなんとなく隣へと視線をやる。
けれど、そこにはもう、あの銀髪の少女の姿はなかった。シーツには、彼女がそこにいたことを示す微かな名残だけが静かに残されている。
「……嬢ちゃん、もう帰ったんかね」
銀時はよっこらしょと重い体を起こし、乱れた髪をがしがしと掻きむしりながらベッドから外へ出た。まだ少し残る眠気を引きずりながら、パタパタとスリッパを鳴らしてオフィスルームへと戻る。
静まり返ったオフィスに足を踏み入れた瞬間、銀時はふと、自分のデスクの前に足を止めた。
「……あん?」
そこにあった光景に、銀時は半目を少しだけ見開いた。
今朝までは確かに、まるでタワマンか何かのように高く積み上がっていたはずの未処理の書類の山。それが、どういうわけか綺麗に半分ほどにまで減っているのだ。代わりに、デスクの端にはしっかりと整理整頓された書類の束が美しく並べられていた。
その光景に呆気に取られつつ、銀時がさらに机の上に目を落とすと、そこには一枚の白い便箋が置かれていた。
手に取ってみれば、驚くほど綺麗で理知的なヒナの直筆の文字が並んでいる。
『先生へ
勝手に書類に手をつけてごめんなさい。でも、少しでも先生の負担が減ればと思って。
残った分の処理の進み具合と、注意すべき点についてここに引き継ぎを書いておきます』
そこには、一目で状況が把握できる完璧な事務連絡が整然と記されていた。だが、そのびっしりと書かれた業務連絡のさらに一番最後、少しだけ余白を空けた最下部に、やや小さな文字でこう付け加えられていた。
『追伸。
……今日は、よく眠れた。ありがとう。
また、休みに来るから。
──空崎ヒナ』
その一文のすぐ真下には、彼女のモモトークのIDが記されている。
手紙を見つめたまま、銀時はしばらくの間、ぽかんと口を開けて佇んでいた。
やがて、夕暮れの赤い光が差し込むオフィスの中で、彼は「やれやれ……」と困ったように鼻を鳴らすと、ぽりぽりとだらしなく頭を掻いた。
「ったく、これじゃどっちが休みに来たんだか分かんねえだろーが」
そう小さく呟きながらも、銀時はその便箋を折って着流しの懐へとしまい込むと、彼女の残した冷茶のグラスを片付け始めるのだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
ヒナちゃん可愛いよヒナちゃん。