両利きだけど、それって武器になるの? ~気づいたら俺、テニスでプロを目指してた~ 作:二刀
第1球 プロローグ
パコーン、パコーン。
ラケットがボールを弾く音が、断続的に響いていた。
向かい合っているのは、私たちテニス部のエース、九条夏樹(くじょう なつき)部長。
部員からは「なっちゃん部長」なんて気安く呼ばれているけれど、厳しくて頼りがいのある先輩で、今年の全国ジュニア選手権にも出場した、本物の実力者だ。
そんな彼女と打ち合っているのは、ついさっき私が連れてきたばかりの同級生――千両利士(せんりょう きし)君だった。
初心者だと聞いていた。なのに彼は、危なげなくラリーを続けている。それだけでも十分おかしい。
部長が、彼の左側、バックハンドサイドを狙って鋭い球を放った。普通なら届かない。届いても、苦しい体勢でやっと返すのが精一杯のはずだ。
なのに彼は、すっと右手のラケットを左手に持ち替えて――いや、違う。持ち替えたんじゃない。最初から、そこに在ったみたいに、左手で、フォアハンドストロークで打ち返した。
パコーン、と。さっきまでとまったく同じ、迷いのない音がした。
「うそでしょ……」
「はじめて見た……あんなの……」
「ちょっと待ってよ、初心者って言ってたわよね……?」
まわりの部員たちが、自分の練習の手を止めて、二人のラリーに見入っていた。私も、彼から目を離せなかった。
――どうして、こんなことになっているんだろう。
彼をここへ連れてきたのは、ほかでもない私だ。ほんの数十分前の、放課後の教室を思い出す。
*
私、藤崎真白(ふじさき ましろ)が通う私立・聖蹊(せいけい)学園高校は、都心まで電車で五十分ほど、内陸の落ち着いた文教地区にある。
創立は古く、長らく女子校として知られた地元の名門だ。少子化を受けて数年前に共学化したけれど、校風も生徒の比率も、まだ女子校時代の名残のほうが濃い。男子はまだ、ずっと少数派だった。
それでも女子テニス部だけは、女子校時代からの看板で、全日本ジュニアの出場者まで輩出してきた、れっきとした強豪だ。
そんな部に所属している私に、同じ一年生のクラスの千両君が声をかけてきたのは、その日の放課後のことだった。
「なぁ藤崎さん。テニス部、行くんだろ。一緒に行って、テニスボール打たせてくれないか」
変な言い方だな、と思った。打たせてくれ、なんて。まるで、バットでボールを打つみたいに。
もう五月だ。ゴールデンウィークも終わって、入りたい部に入った子は、とっくにそれぞれの活動を始めている。
「いいわよ。ちょっと時期は遅いけど、体験入部ならまだできると思うから」
彼を連れてコートに向かうと、先輩たちは大喜びで迎えてくれた。共学になったとはいえ、男子部員はまだまだ貴重だ。二年の先輩が一年に指示を出して、さっそく体験入部させる流れになった。男子を獲得するチャンスを、逃すわけにはいかない。
あらかじめ用意していたらしい体操着に着替えてきた彼に、ラケットの握り方をざっと教えて、まずはネット際でノーバウンドの球を打ち合うボレーボレーをやらせることにした。
うちは中学からのエスカレーター組や、テニス目当てで入ってくる子も多くて、実は初心者のほうが珍しい。だから完全な初心者の男子なんてとても貴重で、一年の子たちは我先にと彼の相手をしたがった。けっきょく、同じクラスの子が相手をすることになった。
でも、いざ始めてみると、千両君はあまり楽しそうじゃなかった。十分もすると、隣のコートでやっている球出しのストローク練習のほうに、混ざりたそうな顔をし始めた。
さすがに初心者をいきなり経験者の練習には入れられないので、相手の子が別にボールを用意して、彼にも同じストローク練習をやらせることにした。
まあ、うまく打てないだろうな、と私は思っていた。
案の定、最初の一球を、千両君はお天道様に向かって打ち上げた。
赤い顔で恥ずかしそうにしている彼を、球出しの子が笑って励ます。けれど何球か打つうちに、彼はすぐにボールとの距離感をつかんでいった。
お、意外とうまいな、と私は思った。
細かなステップ、コンパクトなスイング。きれいに振り抜かれた右手のフォアハンドは、だんだんまっすぐ飛ぶようになっていった。
異常が見えたのは、ここからだった。
バックハンドの番になると、千両君は決まってムッとした顔をして、それから何か、ひとりで小さくうなずく。
バックハンドは初心者にはなかなか難しい。両手で打つ感覚は、経験を積まないと身につかないものだ。
そして、バック側にボールが飛んできた、その時。
彼はすっとステップを刻んで、ボールを打ち返した。
フォアハンドで。
パコーン、といい音が響いた。
――え。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。いや、起きたことは見えている。見えているのに、頭が追いつかない。
彼は今、左サイドに来た球を、左手でフォアハンドとして打った。
それの、何が問題なのか。テニスを知らない人には、きっと伝わらないだろう。
人間には利き手がある。だから誰だって、利き手と逆のサイドに来た球は、不利な体勢で打つしかない。
バックハンドという打ち方が存在するのは、そうするしかないからだ。
逆サイドは、どうしたって弱くなる。それがテニスの大前提だった。
なのに彼は、その大前提を、たった今、何でもないことのように踏み越えた。
左右どちらに来ても、利き手のフォアで叩ける。両サイドが、等しく強い。
そんなの、コーチに何度も聞かされた理屈で言えば、理論上は最強だ。
けれど同じくらい、戦術上むりがある、できるわけがないと言われてきた領域でもある。
利き手と逆の球を打つたび、握りを切り替えていたら、その一瞬の隙が命取りになる――そういう、当たり前の理屈の話だ。
それを、テニスを始めて十分の初心者が、無自覚にやっている。
すごい、と思った。
――でも、それと同じくらい、私はなぜか、ぞくりとしていた。
あんな打ち方を、もし本気で続けたら。普通の選手が絶対にやらないプレースタイルでテニスを続けたら、この人の身体は、いったいどうなるんだろう。
うまく言葉にできない。ただ、すごいと感じるより先に、胸の奥が冷たくざわついた。それが何なのか、その時の私には、まだ分からなかった。
千両君は、自分の打球に納得したのか、球出しの子に「もう一回」とでも言うように続きをねだった。
何が起きたのか分からずぼんやりしていた相手の子は、つられるように、フォア、バックと交互に球を出していく。
ネットを越えて相手コートに突き刺さる、その感覚が楽しいのか。さっきまでとは打って変わって、彼は生き生きとした顔をし始めた。
右に来た球を、右手のフォアで打つ。ややフラットな球が、きれいに相手コートへ伸びていく。
左に来た球を、左手のフォアで打つ。ややフラットな球が、まったく同じように、きれいに伸びていく。
それを、何度も、何度も繰り返す。
球出しの子は、もう真っ青な顔で、それでもこの異常なループに球を送り続けていた。
当の千両君は、信じられないくらい楽しそうな顔をしていたけれど。
やがて、かごのボールが尽きた。
バックネットの裏から見ていた私に気づいたのか、彼がこっちを向いて、声を張った。
「藤崎っ、テニスめっちゃおもしろいなっ」
――なんで呼び捨てなんだろう。