兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
R-15相当の残酷描写・虐待描写を含みます。
挿絵にはAI生成画像を使用しています。
第一話 はじまりの空白
彼は、軋む身体をどうにかその場に立たせていた。
目の前には、白く豪奢な衣を纏う男。
その傍らに立つのは、漆黒を纏った少年。
金の髪。そして、熱を孕んだ紅い瞳。
二人は同じ色彩を宿していた。
何かを激しく言い争っているようだが、言葉は意味を持たない雑音となって耳を滑り落ちていく。
白い衣の男を目がけ、少年の細剣が翻った。
思考するより早く、彼の身体は床を蹴っていた。
命令でしか動けぬ身体が勝手に動いた。
いや、かつて与えられた命令に従ったのだ。
白い衣の男は、自分に命令を与える黒髪の男の主君であり、絶対に守るべき者だ。
彼は魔力を練る。
けれど、何も具現しない。淡い期待は霧のように散っていく。
何度繰り返しても、結果は同じ。
焦る彼へ、少年が迫る。
その唇が動いた瞬間、焼けるような衝撃が左肩を貫いた。
それでも、彼は声を上げない。
――悲鳴を上げれば、さらなる苦痛による罰が与えられる。
細胞の隅々まで、その法則が刻み込まれていた。
肉を抉るように剣が捻られる。奥歯を噛み締め、喉の奥で悲鳴をすり潰した。
やがて、極彩色の痛みに視界が白く弾け飛ぶ。
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「……っ!」
彼は目を見開いた。
何か夢を見ていた気がするが、その内容はもう思い出せない。
ただ、左肩を貫いた焼けるような痛みだけが、身体の奥に残っていた。
無意識にそっと左肩へ手を置く。
触れた指先が、引き攣れた傷跡をなぞった。
頭の中が、恐ろしいほどに軽い。まるで中身だけを乱暴にくり抜かれ、身体だけが寝台の上に残されているようだった。
ぼやけた視界を満たしているのは、見覚えのない穏やかな空間と、窓から差し込む柔らかな光だった。
「……ここは?」
ぼそりと呟いても、答えは返ってこない。
彼は重い身体をどうにか起こし、頭を掻いた。
何か大切なことを忘れている。
そう直感しているのに、何を探せばいいのかさえ分からなかった。
視線を上げた先、窓硝子に一人の青年が映っていた。
「え? 誰?」
眉を顰め、弾かれたように立ち上がる。
窓へ近づくと、硝子の表面に映った青年も同じように歩み寄ってきた。
腰まで伸びた長い金髪。
熱を宿したような真紅の瞳。
中性的な顔立ち。
だが、それ以上に目を引いたのは、その身体だった。
極限まで痩せ細った手足。
ひび割れたように荒れた白い肌。
そして、全身に幾重にも刻まれた無数の古傷。
一つや二つではない。
どれも、偶然負った傷には見えなかった。
どうして、こんな姿をしているのか。
これほど傷ついているのに、痛みだけがどこにもない。
彼は震える右手を持ち上げ、自らの右頬をぱちんと叩いた。
「いてっ」
反射的に声が漏れる。
窓硝子の青年も、同じように頬を押さえ、顔をしかめていた。
同じ顔。
同じ動き。
そこでついに、彼は理解した。
この傷だらけの青年が、自分なのだと。
「……俺は、誰だ?」
小さく呟いた声は、思った以上に頼りなかった。
過去を探ろうとした途端、本能が鋭い警鐘を鳴らした。
思い出せないのではない。
触れてはいけない。
胸の奥から、冷たい何かがそう絶対の命令を下している。
彼はそれ以上、記憶の深淵へ手を伸ばすことができなかった。
過去も、名前も、自分が何者だったのかも。
何もかもが、すっぽりと抜け落ちている。
ただ、二つの言葉が残っていた。
『生きたい』
『世界を旅したい』
自分の願いなのか。
誰かに与えられた言葉なのか。
答えを探ろうとして、彼は紅い瞳を伏せた。
けれど、まだ見ぬ世界を想像しただけで、空っぽだった胸の奥で、小さく鼓動が跳ねた。
世界は、どんな景色なのだろう。
その問いが浮かぶと、恐怖の向こうへ一歩踏み出してみたいという思いが、確かに生まれた。
彼は何度か深呼吸を繰り返し、見知らぬ部屋の木扉へ向かう。
「よし」
小さく息を吐き、金具へ手を伸ばす。
しかし、指先が触れるより早く、金具が硬質な音を立てた。
彼はびくりと固まる。
身体が、勝手に動いた。
半歩だけ後ろへ退き、右手を胸元へ引く。
左足は滑るように前へ出た。
何かを防ぎ、一息で反撃に転じるための完璧な姿勢。
彼自身も、その正確な足運びに戸惑っていた。
誰に教わったのか。どうしてできるのか。何ひとつ分からない。
それでも、身体だけは、この構えが「正しい」と知っていた。
その目の前で、木扉がきしみもなく内側へ開いた。
扉の向こうには、蒼髪の男が立っていた。
白い単衣の留め具を上から二つ外し、少し大きめの脚衣を穿いた飾らない格好。
男が長身なのか、それとも自分が小柄なのか。
彼には、それを判断するための基準すらなかった。
蒼髪の男の視線が、彼の足元から胸元へ滑る。
その姿勢に何を見たのか、琥珀色の瞳がほんの僅かに細められた。
「……身体は、覚えているか」
「え?」
聞き返すと、男は何でもないというように短く息を吐いた。
「気にするな。起きたのなら――」
そこまで言って、男は言葉を切った。
半歩退いた姿勢のまま固まる彼を見て、何かを飲み込むように目を伏せる。
「ああ。そうだった。“ハジメマシテ”。俺はオウセイ・カイラーヌだ」
その言い方は、初対面の挨拶というより、あらかじめ決めていた台詞のように聞こえた。
「ええと……オウセイ……さん?」
構えを解き、彼は小首を傾げた。
名前を聞いても、何も思い浮かばない。
目の前の男を、以前の自分がどう呼んでいたのか。
オウセイの名を舌の上で転がしてみても、どこにも馴染む場所がなかった。
「オウセイでいい」
「あ、はい。えっと……」
「一夜前のことは覚えているか?」
「……一夜前?」
オウセイが、わずかに琥珀色の瞳を揺らした。
ごく微かな反応だった。
けれど、その瞳の奥に、何かが痛むような色が走ったのを、彼は見逃さなかった。
オウセイはすぐに言い直す。
「ここへ来る前のことだ」
「……ここへ来る前」
繰り返してみても、その言葉は胸の中へ落ちてこない。
何かを覚えているような感覚さえなかった。
少し考え込んだあと、彼は正直に首を振る。
「……全く、覚えていません」
オウセイは短く息を吐いた。
叱責でも、落胆でもない。
むしろ、長く張りつめていたものが、静かに解けたように聞こえた。
安堵している。
自分が何も覚えていないことに。
彼には、その理由が分からなかった。
オウセイは、ぽんと彼の頭に手を置く。
彼は思わず目を瞬かせた。
その掌は大きく、優しく、温かかった。
突然触れられたことへの戸惑いはある。
けれど、身体が硬直することも、恐怖に息が詰まることもない。
オウセイはその反応を確かめるように、静かに瞳を細めた。
掌から伝わる熱に、強張っていた身体から少しだけ力が抜けていく。
「それなら……いい」
低く零れたその言葉には、深い安堵と、ひどく切ない響きが混じっていた。
彼はその声の余韻を確かめるように、しばらく黙り込んだ。問いは喉の手前で立ち消えた。
オウセイは頭から手を離し、くるりと背を向けた。
どこかへ行ってしまう。
そんな気がして、彼は慌てて声を上げる。
「あのっ」
呼び止めたものの、その先が出てこない。
何を聞けばいいのかも、何を求めているのかも分からない。
ただ、このまま一人になることが、急に怖くなった。
オウセイは振り返り、目元を和らげる。
「飯。食うだろ」
「あ」
――きゅるるるぅ、ぎゅぅ。
彼の腹が、間の抜けた返事と重なるように、盛大な音を響かせた。
顔を真っ赤にし、慌てて腹を押さえる。
「ご、ごめんなさい……っ!」
反射的に謝罪の言葉が口を突いて出た。淀みなく、まるで何百回も繰り返してきたかのように。
「あの、俺、なんでこんなにお腹空いてるんですか?」
オウセイの喉が、わずかに詰まった。
答えを知っているからこその沈黙。
けれど、彼はその意味に気づけない。
その間にも、腹はもう一度、情けない音を鳴らした。
オウセイは肩を震わせ、堪えきれなかったように吹き出した。
「くっ……ふっ……お前は、素直だな」
「いや、これは、その……! 素直というか……っ」
言い訳を探そうとしても、腹の音に勝てる言葉などなかった。
オウセイは、とうとう声を上げて笑った。
重く張りつめていたものから解き放たれたような、心底楽しげな笑い声だった。
その笑いにつられるように、彼の胸の奥へ残っていた強張りも、ふっと緩んでいく。
記憶はない。
名前も分からない。
この身体に刻まれた傷の意味も、まだ何ひとつ知らない。
それでも、目の前には温かい手がある。
笑ってくれる人がいる。
腹は、間抜けなほど正直に空いている。
なら、まずは食べよう。
そう思えたことに、不思議なくらい心が弾んだ。
彼はふわりと笑みを浮かべ、オウセイと連れ立って居間へ向かった。
廊下へ出たところで、先を歩くオウセイが、ぽつりと呟いた。
「いい顔をしている。忘れたままでいろ」
彼は思わず顔を上げる。
「……何か言いました?」
「いや。朝餉ができているといいな、と言っただけだ」
彼は小さく頷き、再び前を向く。
誰かに与えられた名も、背負わされた罪も。
目の前の男が、なぜ自分の忘却に安堵したのかも。
そして、その声が祈りにも似ていたことさえ、彼はまだ知らない。
それでも、背筋を伸ばし、オウセイのあとを歩いていく。
新たな世界を見るために。