兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
R-15相当の残酷描写・虐待描写を含みます。
挿絵にはAI生成画像を使用しています。
第一話 はじまりの空白
目覚めは、とても静かだった。
静かすぎて、かえって不気味なほどに。
頭の中が、奇妙なほど軽い。まるで中身だけを乱暴にくり抜かれ、身体だけが寝台の上に残されているようだった。
彼はゆっくりと瞼を開けた。
違和感がある。
けれど、その正体が掴めない。
数度瞬きをしてみても、脳の奥に張りついた靄は晴れなかった。何か大事なものを見落としている気がするのに、手を伸ばす先すら見つからない。
「なんだろう……」
ぼそりと呟きながら、彼はのそのそと身体を起こし、頭を掻いた。
声にしても、答えは返ってこない。
ふと顔を上げると、窓硝子に一人の青年が映っていた。
彼は無意識に眉を顰める。
「え? 誰?」
自分の顔には見えなかった。
思わず立ち上がり、窓へ近づく。硝子の表面に浮かんでいたのは、腰まで伸びた長い金髪と、熱を宿したような真紅の瞳を持つ、見知らぬ青年だった。
中性的な顔立ちをしている。だが、それ以上に目を引いたのは、その身体だった。
病的に痩せ細った手足。ひび割れたように荒れた白い肌。全身に刻まれた無数の古傷。
何度も、何度も、同じ場所へ傷を刻みつけられたように見えた。
どうして、こんな姿をしているのか。
これほど傷ついているのに、痛みだけがどこにもない。
思い出そうとした、その刻。
ぞくりと背筋が凍った。
――記憶が、ない。
過去も、名前も、自分が何者だったのかも。
何もかも、すっぽりと抜け落ちている。
息が浅くなる。
彼は震える右手を持ち上げ、自らの右頬をぱちんと叩いた。
「いてっ」
反射的に声が漏れる。
窓硝子へ視線を戻すと、そこには頬を押さえ、顔をしかめる青年が映っていた。
同じ顔。
同じ動き。
そこでようやく、彼は理解した。
この傷だらけの青年が、自分なのだと。
「……そうか」
小さく呟いた声は、思った以上に頼りなかった。
彼はたまらず後ずさり、ぽすんと寝台の縁へ腰を下ろす。
「俺は……忘れたんだ」
全部。
記憶を探ろうとしても、返ってくるのは空白ばかりだった。そこに何かがあったはずなのに、触れようとするたび、見えない壁に指先を弾かれる。
怪我や病で失ったわけではない。
思い出せないのではない。触れようとすると、奥の方から拒まれる。
なぜか、そう思えた。
触れてはいけない。
そう告げるような冷たさだけが、胸の奥に残っている。
『生きて、世界を旅して、色々な物を見る』
その意志だけが、暗闇の底へ沈まずに残っていた。
封じられた記憶の中に何があるのかは分からない。この傷痕が何を意味するのかも分からない。
それでも。
過去を手放した先に、まだ見ぬ世界があるのなら。
自分は、それを見に行こうとしたのではないか。
そう信じたかった。
彼はゆっくりと立ち上がる。
世界は、どんな景色なのだろう。
その問いが胸に浮かんだ途端、空っぽだった胸の奥で、小さく鼓動が跳ねた。恐怖は消えない。けれど、その向こうへ一歩踏み出したいという思いも、確かにある。
早まる鼓動を鎮めるように深呼吸を繰り返し、彼は見知らぬ部屋の扉へ向かった。
「よし」
小さく息を吐き、金具へ手を伸ばした、その刻。
まだ触れてもいない金具が、かちゃりと音を立てた。
彼はびくりと固まる。
その目の前で、木扉が内側へ開いていく。
見上げると、蒼髪の男が立っていた。
白い単衣の留め具を上から二つ外し、少し大きめの脚衣を穿いた飾らない格好。男が長身なのか、それとも自分が小柄なのか、彼には判断する基準すらない。
蒼髪の男は、琥珀色の瞳で彼を静かに見下ろしている。
「起きていたのか」
「……えっと」
突然のことに、彼は右腕を伸ばしたまま固まった。
男は彼の顔を見るなり、何かを察したように短く息を吐く。
「ああ、そうか。“ハジメマシテ”。俺はオウセイ・カイラーヌだ」
その言い方は、初対面の挨拶というより、あらかじめ決めていた台詞のように聞こえた。
「ええと……オウセイ……さん?」
ようやく右腕を引っ込め、彼は首を傾げた。
名前を聞いても、何も思い浮かばない。
目の前の男を、以前の自分がどう呼んでいたのか。それすら分からないことが、妙に心細かった。
「オウセイでいい」
「あ、はい。えっと……」
「一夜前のことは覚えているか?」
「……一夜前?」
オウセイが、一瞬だけ目を見開いた。
ほんの僅かな反応だった。けれど、その琥珀色の奥に、何かが痛むような色が走ったのを、彼は見逃さなかった。
オウセイはすぐに言い直す。
「ここへ来る前のことだ」
「……ここへ来る前」
繰り返してみても、その言葉は胸の中へ落ちてこない。
何かを覚えているような感覚さえない。
少し考え込んだあと、彼は正直に首を振った。
「……全く、覚えていません」
オウセイは短く息を吐いた。
叱責でも、落胆でもない。
むしろ、長く張りつめていたものが、ようやく緩んだように聞こえた。
そして、ぽんと彼の頭に手を置いた。
彼は思わず目を瞬かせた。
その掌は大きく、優しく、温かかった。突然触れられたことへの戸惑いはある。けれど、身体が硬直することも、恐怖に息が詰まることもない。
オウセイはその反応を確かめるように、僅かに目を細めた。そこから伝わる熱に、強張っていた身体から少しだけ力が抜けていく。
「それならいい」
低く零れたその言葉には、深い安堵と、ひどく切ない響きが混じっていた。
まるで、忘れていることこそが正解だと言われたようだった。
なぜ、この人はそんな声を出すのだろう。
自分は、何を忘れたのだろう。
問いかけるより先に、オウセイは頭から手を離し、くるりと背を向けた。
どこかへ行ってしまう。
そんな気がして、彼は慌てて声を上げる。
「あのっ」
呼び止めたものの、その先が出てこない。
何を聞けばいいのかも、何を求めているのかも分からない。ただ、このまま一人になることが、急に怖くなった。
オウセイは振り返り、少しだけ目元を和らげる。
「飯。食うだろ」
「あ」
――きゅるるるぅ、ぎゅぅ。
彼の腹が、間の抜けた返事と重なるように、盛大な音を響かせた。
彼は顔を真っ赤にして、慌てて腹を押さえる。
「す、すみません……っ!」
オウセイはぴたりと動きを止めた。
やがて、肩が小さく揺れる。
堪えきれなかったように吹き出し、目元を拭いながら、それでも収まらない笑いを押し殺すように言った。
「くっ……ふっ……お前は、正直だな」
「いや、これは、その……!」
言い訳を探そうとしても、腹の音に勝てる言葉などなかった。
オウセイは、とうとう声を上げて笑った。
重く張りつめていたものから解き放たれたような、心底楽しげな笑い声だった。
その笑いにつられるように、彼の胸の奥に残っていた強張りも、ほんの少しだけ緩んでいく。
記憶はない。
名前も分からない。
この身体に刻まれた傷の意味も、まだ何ひとつ知らない。
それでも、目の前には温かい手がある。笑ってくれる人がいる。腹は、間抜けなほど正直に空いている。
なら、まずは食べよう。
そう思えたことに、不思議なくらい心が弾んだ。
彼はふわりと笑みを浮かべた。
二人はそうして、連れ立って居間へ向かった。
誰かに与えられた名も、背負わされた罪も、まだ何ひとつ思い出さないまま。