兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
三十夜後。
フィサルーアは、白虎別邸を出た。
治療を終えたからではない。罪が軽くなったからでもない。
皇宮の監視下へ移されるためだ。
別邸の門前には、馬車が用意されていた。
けれど、フィサルーアはそれを一瞥しただけで、ゆっくりと歩き出す。
三十夜前。
グレンは言った。
白虎別邸から皇宮まで、誰の手も借りずに歩けたなら、木剣くらいは持たせてやる、と。
白虎別邸から皇宮までの道は、治癒を重ねたばかりの身体には長すぎた。
数歩進むたびに、脚の奥が鈍く軋む。
胸が痛み、息が浅くなる。
それでも、足を止めなかった。
護衛たちは必要以上に多かった。
誰も口を開かない。かつて自分へ忠誠を誓っていた兵たちも、今は目を合わせようとしない。
当然のことだった。
途中、右脚から力が抜けかけた。
「……っ」
膝が折れそうになる。
近くにいた兵の腕が、反射的に伸びた。
フィサルーアは、歯を食いしばって踏みとどまる。
「必要ありません」
伸ばされた手は、途中で止まった。
兵は何も言わず、ゆっくりと腕を下ろした。
皇宮の門が見えた頃には、額から汗が伝い落ちていた。
視界も、少しだけ揺れている。
それでもフィサルーアは、誰の腕にも縋らなかった。
皇宮の門をくぐった瞬間、胸の奥が芯から冷たくなった。
ここには、すべてが残っている。
自分が玉座へ座り。
臣下を見下ろし。
言葉一つで誰かの命を決めていた場所。
門の内側には、グレンが立っていた。
フィサルーアの顔を一度だけ見て、次に震える脚へ視線を落とす。
それから、腰の後ろへ提げていた布包みを解いた。
中から現れたのは、飾り気のない一本の木剣だった。
「約束だ」
グレンは、それだけ言って木剣を差し出した。
フィサルーアは、しばらくそれを見つめていた。
かつて握っていた剣とは違う。
魔人の力も宿らない。
誰かをねじ伏せるためのものではない。
それでも、その重さは思っていたよりも重かった。
震える手で受け取り、柄を握る。
「……ありがとうございます」
「勘違いするな」
グレンの声は低かった。
「ケセナが生かせと言ったから、生かす。それだけだ」
「……はい」
フィサルーアの指が、木剣の柄をわずかに強く握る。
「一夜後から稽古をつける。今は休め」
グレンは、それ以上何も言わなかった。
フィサルーアは木剣を胸元へ抱え、深く頭を下げる。
「分かっています」
通されたのは、牢ではなかった。
かつて皇太子として使っていた、元の自室だった。
広い寝台。
金の装飾が施された書棚。
窓の外に見える中庭。
何もかも、以前と変わらない。
だからこそ、吐き気がした。
「ここで生活しろと?」
部屋の入り口に立つグレンへ、フィサルーアは低く尋ねた。
「監視はつける。外出は許可制だ。玉座の間へ近づくことも許さん」
「……随分と手厚い監獄ですね」
「そう思うなら、そう思っていろ」
グレンは短く返した。
「ただし、寝台も食事も使え。死にかければ、また白虎へ送り返す」
「優しいことを言うのですね」
「勘違いするな。死なれても困るだけだ」
それでもフィサルーアは、少しだけ口元を緩めた。
「分かっています」
その夕刻。
部屋へ食事を運んできた使用人たちは、扉の前に盆を置くと、必要以上に離れた場所で頭を下げた。
「……終わりましたら、ここに置いて下さい」
震えた声でそう言われ、フィサルーアはしばらく黙っていた。
以前の自分なら、呼び止めていたかもしれない。
何を怯えているのかと、冷たく問い詰めていたかもしれない。
だが今は、ただ頷く。
「分かりました」
使用人たちは、驚いたように顔を上げた。
「近くへ来る必要はありません。用があれば、扉の外から声をかけてください」
「……はい」
フィサルーアはそれを見送り、誰もいなくなった部屋で、冷めかけた食事を口に運んだ。
玉座の外にいても。
自分が積み上げた恐怖は、何も消えない。
それを知るために、これから生きるのだろう。
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稽古を始めてから十夜ほど過ぎた昼巡り。
中庭で、木剣が乾いた音を立てた。
「遅い」
「……っ!」
グレンの木剣が、フィサルーアの手から容赦なく得物を弾き飛ばす。
軽いはずの木剣が、石畳の上を大きく跳ねた。
痺れた手のひらを押さえながら、フィサルーアは荒い息を整える。
「もう一度、お願いします」
「立てるか」
「立てます」
グレンは無言で木剣を拾い、フィサルーアへ投げた。
受け取る。
構える。
けれど、肩に余計な力が入る。
相手の動きを読むより先に、身体が昔の癖を選ぼうとする。
叩き落とす。
押し潰す。
力でねじ伏せる。
「違う」
グレンの声が飛ぶ。
「剣は、怒りを通すための道具ではない」
「分かっています」
「分かっていないから、そう振る」
次の瞬間、また木剣が弾かれた。
肩へ鋭い衝撃が走る。
膝をつきかけたフィサルーアは、歯を食いしばって耐えた。
「……もう一度」
「駄目だ。休め」
「まだです」
額から汗が落ちる。
息は苦しい。手のひらは赤く腫れている。
それでも、木剣を拾った。
グレンが木剣を下ろす。
「稽古は終わりだ」
「まだできます」
「終わりだ」
その声が落ちた瞬間。
胸の奥で、何かが跳ねた。
終わりを告げられたことが、ひどく気に入らない。
負けを認めさせられることが、耐え難い。
あと一度。
あと一度だけ、相手より速く踏み込めばいい。
フィサルーアは考えるより先に、地を蹴っていた。
木剣を振るうためではない。
グレンの懐へ入り、肩からぶつかり、体勢を崩す。
倒れたところへ押さえつけ、動けなくすればいい。
そうすれば、勝てる。
「……っ!」
次の瞬間、手首へ鋭い衝撃が走った。
木剣が石畳へ落ちる。
気づけば、グレンの木剣の先が、自分の喉元へ突きつけられていた。
「今のは何だ」
低い声だった。
フィサルーアは答えられない。
胸が激しく上下している。
苦しいのは、息が上がったからではなかった。
自分は、また同じことをしようとした。
剣を学ぶためではない。
誰かを守るためでもない。
ただ、相手を押さえつけ、自分の方が上だと証明したかった。
魔人は消えた。
それでも、怒りへ酔い、力でねじ伏せようとする癖だけが、身体の奥に残っている。
白い石畳が、一瞬だけ控え室の床に見えた。
血の匂い。
手のひらへ残る、ぬるい感触。
父上。
呼ぶより先に、喉の奥がひどく狭くなる。
「……分かりません」
ようやく絞り出した声は、情けないほど掠れていた。
「嘘をつくな。勝とうとしたんだろう。教わるためではなく、上に立つために」
フィサルーアは、何も言い返せなかった。
否定できるはずがない。
「稽古は終わりだ」
今度の声に、フィサルーアは逆らわなかった。
木剣を拾うこともできず、ただ石畳へ視線を落とす。
自分は、変わりたいのではない。
変わらぬまま、以前のように力を持ちたいだけなのかもしれない。
その考えが、ひどく恐ろしかった。
少し離れた木陰から、その様子を見ていた使用人たちが、ひそひそと声を潜める。
誰も近づかない。誰も応援しない。
だが、それでいい。
歓声など、今の自分には必要ない。
「……グレン」
「何だ」
「頼みがあります」
「稽古を増やせという話なら断る」
「違います」
フィサルーアは少しだけ迷い、それから言った。
「道観へ行きたい」
グレンが眉を寄せる。
「……何のために」
フィサルーアは、石畳に落ちた自分の木剣を見た。
「ここにいて、剣を握り続ければ」
喉の奥が、ひどく乾いている。
「私はまた、誰かを傷つける理由を探す気がします」
グレンは、しばらく何も言わなかった。
「出家するためです」
中庭の空気が、ぴたりと止まった。
グレンは、しばらく何も言わなかった。
「皇族の名を捨てます。玉座も、権利も、すべて」
「逃げるのか」
「……」
短い問いが、胸の奥へ深く突き刺さる。
「違う、と言いたいところですが」
フィサルーアは自嘲気味に笑った。
「分かりません。私は父を殺しました。人を殺しました。このまま皇宮にいて、兄上の隣に立つことなど……許されるはずがない」
「許されるために出家するなら、やめておけ」
グレンの声は、ひどく冷たかった。
「道衣を着れば、お前がやったことが消えるのか」
「消えません」
「なら、何故行く」
「……分からないのです」
正直に答えると、グレンは深く息を吐いた。
「一夜後、連れていく」
「許可してくださるのですか」
「道観までだ。出家の手助けをするわけではない」
「……」
「説得されるか、追い返されるかは、お前次第だ」
その翌昼巡り。
フィサルーアは、グレンと二人で皇都の道観を訪れた。
石段の先にある小さな門。
香の匂い。
風に揺れる細い鈴の音。
中へ入ると、礼拝に訪れていた人々が一斉にこちらを見た。
そして、離れた。
近くにいた親子は、子供の手を引いて端へ寄る。
経を読んでいた老女は、目を伏せる。
誰も声を荒げない。
ただ、誰も近づかない。
皇宮と同じだった。
フィサルーアは、その重たい空気の中を一人で進んだ。
堂の奥には、白い髭を長く伸ばした老道士が座っていた。
彼はフィサルーアの姿を見ても驚かなかった。
「お前が、元皇太子か」
「……はい」
「何をしに来た」
「出家を願いに参りました」
老道士は、少しも迷わず答えた。
「駄目だ」
「理由を伺っても」
「お前は出家したいのではない。逃げたいだけじゃ」
胸を殴られたようだった。
「皆の目から。皇宮から。父を殺した己から。何より、生きろと言った兄から逃げたい」
言い返せない。
老道士は、静かに続けた。
「出家は、罪人が楽になるための穴ではない。世を捨てれば、血の匂いまで消えると思うな」
「……では、私はどうすれば」
「通え」
低く、よく通る声だった。
「毎昼巡りでも、毎夜巡りでも通え。掃除をしろ。薪を割れ。経を読め。人が怯えるなら、その距離を受け入れろ。誰にも許されぬまま、世の中で生きることを学べ」
「道衣は」
「渡さん」
老道士は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「今のお前に必要なのは、世を離れることではない。世の中に残ることだ」
フィサルーアは、長いあいだ俯いていた。
逃げたかった。
玉座から。
皇族の名から。
父へ剣を振り下ろした自分から。
道衣を着れば、少しは違う人間になれる気がしていた。
けれど、違う。
自分が変わるのなら。
恐れられても、憎まれても、逃げずにここにいるしかない。
「……承知しました」
フィサルーアは、深く頭を下げた。
「出家は諦めます。ですが、通わせてください」
「好きにしろ。門は閉めん」
堂を出ると、グレンが柱へ背を預けて待っていた。
「追い返されたか」
「通うことになりました」
「そうか」
それだけだった。
帰り道。
石段を下りるフィサルーアの背後で、道観の鈴が一度だけ鳴った。
皇宮へ戻れば、また使用人たちは遠巻きにするだろう。
道観へ来ても、人々は距離を取るだろう。
それでもいい。
自分が積み上げた恐怖から、目を逸らさない。
玉座へ戻るためではない。
玉座から逃げるためでもない。
未だ寝台から起き上がれぬ兄へ。
生きろと言われた意味を、きちんと返せる者になるために。
フィサルーアは、誰もいない前方を真っ直ぐ見据え、ゆっくりと歩き出した。