兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
第九十八話 兄上、兵舎は逆です
広すぎる豪奢な寝台の上で、ケセナはのそのそと身を起こし、大きな欠伸を漏らした。
窓から差し込む昼巡りの始まりの光に目を細めながら、身体に残る傷痕をそっと撫でた。
あの戦いがあった封還の季はすでに遠く、再誕の季を越え、繁茂の季すら終わりへ差しかかっていた。
窓の外では、崩れた街路に石工たちが入り、焼けた石壁へ新しい石が積まれていた。
皇都オーレルディアは、少しずつ息を吹き返していた。けれど、手つかずの場所はまだ多い。そのせいでグレンは、目が回るような昼夜を送っていた。
戦後処理が一段落すると、レイアとツェヴァンはそれぞれの領地へ戻り、ガイアとキョウも南方へ帰っていった。
賑やかだった顔ぶれが減った城に残っているのは、ケセナ、グレン、ラル。
そして、フィサルーアだ。
フィサルーアの身体は、ケセナとは対照的な速さで快復した。白虎別邸で治療を受けた後、三夜ほどで寝台から起き上がり、近頃では中庭でグレンを相手に剣の鍛錬まで始めている。
陽陰の腰掛けから、その様子を遠巻きに眺めながら、ケセナはたびたび思っていた。
皇太子として幼い頃から鍛え上げられてきた基礎体力は凄いな、と。
「いつまでそうやって見学しているおつもりですか。怠惰が身につきますよ」
「俺はまだ無理ができないんだよ」
すれ違うたびに、フィサルーアは相変わらず当然のように皮肉を投げてくる。
そこだけは困りものだったが、昔のような底意地の悪い残酷さはほとんど抜け落ち、小憎らしい言葉の響きが、ケセナには不思議と心地よかった。
けれど、あまりにも自分の回復が遅い。
怠さが抜けず、起き上がるだけで息が浅くなる。
幼い頃から蓄積された疲労――そう考えようとして、ケセナは金色の髪をかき上げ、寝台から降りた。
冷たい水で顔を洗い、鏡を見る。映った琥珀色の瞳は、まだ少し頼りない。それでも、決めたことだけは揺らいでいなかった。
衣装棚を開け、いつもの少し大きめの動きやすい服を取り出し、手早く着替える。
白い法衣は、すっかり普段着になっていた。
「よしっ」
小さく気合いを入れると、ケセナは部屋を出た。
向かう先は一つ。
グレンのいる兵舎だった。
長い廊下を歩く間、すれ違う使用人たちが次々と足を止め、深々と頭を下げて挨拶をしてきた。
ケセナは、その一つ一つへぎこちなく会釈を返した。
以前、この城で彼に向けられていたのは、蔑みの視線と心ない陰口ばかりだった。
――化け物。
――泥人形。
――木偶。
そう呼ばれ、息を潜めるように生きてきた彼にとって、敬意と感謝のこもった温かな挨拶は、どうにもまだ落ち着かない。
(この先も、慣れそうにないなぁ……)
内心で苦笑しながら、ケセナは思い出す。
こうした視線を、フィサルーアはいつも当たり前のように受け流していた。
グレンもまた、無骨ながら自然に応じている。
(なんでできるんだろ)
純粋に、そう思った。
長い廊下を抜け、大広間の階段を下りようとしたところで。
「――兄上?」
不意に声がかかった。
その呼び名にも、いまだに少し慣れない。
ケセナが右手奥の区画、フィサルーアの私室がある方角へ顔を向けると、身支度を完璧に整えた金髪の青年が立っていた。
「フィサルーア」
「珍しいですね。兄上がこんなに早く起きて動いているなんて」
フィサルーアは左の紅い瞳をわずかに見開き、からかうように薄く笑った。
「俺はそこまで寝坊じゃないけど」
「十分、寝坊の部類です。上に立つ者たるもの、陽が昇る前には起きるべきでしょう」
「……うぐっ」
ぐうの音も出ない正論を突きつけられ、ケセナは言葉に詰まる。
皇太子として厳格に育てられてきたフィサルーアにとって、それは当然の規律なのだろう。
痛いところを突かれて顔をしかめるケセナを見て、フィサルーアは面白そうに小さく笑った。
「それで? 珍しく早起きをして、どこへ向かわれるのです?」
「グレンさんのところ」
「グレンの? こんな昼巡りの始まりからですか?」
フィサルーアが、わずかに訝しげに眉を寄せる。
「うん。……ちょっと、相談があって」
「私もご一緒してよろしいですか?」
「フィサルーア、道観に行くんじゃないの?」
「行きますが、こんなに早くに行くと道士が怒り狂いましてね……」
「行ったことがある言い方だね……いいよ、フィサルーアにも言わないといけないことだったし」
くすりと笑ってそう答えたケセナは、少しだけ視線を逸らした。
その声には、何か大きな決意を秘めた色があった。
フィサルーアは何も追及せず、ただ静かに頷いた。
並んで歩き出した二人の金の髪が、昼巡りの始まりの光を受けて同じように輝く。
だが、フィサルーアの足が止まった。
「ところで兄上」
「何?」
「兵舎は逆方向です」
「……し、知ってたよ?」
ケセナは目を泳がせ、それから深い溜息とともに、くるりと向きを変えた。
こうして並んで歩くと、二人の体格差は残酷なほどにはっきりした。
ケセナの身体は、同じ星霜齢の者と比べても細く、背も低い。
一方のフィサルーアは、皇太子として最高の食事と鍛錬を与えられてきた。
無駄のないしなやかな筋肉がつき、背丈はケセナより頭一つ半は高い。
(……全然違うじゃないか)
隣を見上げるたび、ケセナは内心で頭を抱えていた。
あの刻、玉座の前で魔人に蝕まれていた彼に向かって、あれほど堂々と「君は、僕だから」などと言ってしまった自分が、いざ落ち着いてみると猛烈に恥ずかしくなってきたのだ。
同じ顔、同じ血。
それでも、どう見ても立派なのは、弟として隣に立つフィサルーアの方だった。
いたたまれなくなって、ケセナが何度もちらちらと隣を盗み見ていると、気配を察したフィサルーアが歩みを止めた。
「……何ですか」
高い位置から、紅い瞳を細めて半眼で見下ろしてくる。
「言いたいことがあるなら、はっきりと言ってください」
「あ、いや、別に……特に何も」
「嘘ですね。その落ち着きのない視線、明らかに何か――」
さらに理詰めで追及されそうになった、その刹那。
「あっ! ほら、もうすぐ着くから!」
ケセナは誤魔化すように叫ぶと、前方に見えてきた兵舎へ慌てて駆け出した。
「ちょっ……兄上!! 廊下を走るなと、あれほど言っているでしょう!!」
背後から、完璧な規律を重んじる弟の怒声が飛ぶ。
だが、ケセナはそれを都合よく聞き流し、全速力で兵舎の重い木扉を押し開けた。
扉の先の兵舎内は、ひっそりと静まり返っていた。
昼巡りの始まりの光が差し込む空間で、埃だけがゆっくりと宙を漂っている。
内乱の後、騎士団員たちは城郭内に住まいを与えられ、ここで寝泊まりする者はいなくなった。
だが、団長であるグレンだけは、いまだにこの兵舎を根城にしていた。戦後処理の仕事が多いこともあるが、ケセナのそばに少しでも長くいたいという、言葉には出さない思いもあるのだろう。
一階の休憩所を抜け、会議室の前を通り過ぎる。
グレンの私室は、二階の一番奥だ。
ケセナは階段を早足で上り、見慣れたグレンの部屋の前で足を止めた。
小さく深呼吸を一つして、取っ手へ手をかける。
ぎぃ、と重い木扉が開いた。
「…………帰ろうかな」
部屋の中をひと目見た瞬間、ケセナは無表情のまま、すぐさまばたんと扉を閉めた。
「は?」
追いついてきたフィサルーアの額に、青筋がぴきりと浮く。
「……この昼夜じゃなくても、いいかな。うん」
「何を言っているんです? 相談があると、自分で言ったのでしょう」
「いや……なんか、とてつもなく嫌な予感しかしないから」
「だから何なんです!!」
わけの分からないことを言って逃げようとする兄に業を煮やし、フィサルーアはずかずかと進み出ると、閉められたばかりの木扉を乱暴に開け放った。
「グレン!!」
部屋の中に、フィサルーアの怒声が響く。
だが、寝台の上に大の字で転がっている大男は、その声にも微動だにせず、ただ「ぐおおおぉぉ……っ」と地鳴りのような豪快ないびきを響かせ、深く眠り込んでいた。
「……何だ。ただ寝ているだけではないですか」
フィサルーアが拍子抜けしたように、呆れ顔でケセナを見る。
「昼巡りの始まりですからね。戦後処理で疲れているのでしょう。……起こしますよ」
「え、あ、うん……」
ケセナはあからさまに歯切れ悪く頷いた。
乗り気ではないのがあまりにも露骨だった。
フィサルーアは訝しげに眉を寄せ、あらためて部屋の中――豪快に眠る大男の寝台へ視線を向ける。