兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
「起きろ! グレン!!」
静まり返った昼巡りの始まりの兵舎に、フィサルーアの怒号が響き渡った。
寝台の脚を蹴り、枕を叩き、挙げ句の果てには分厚い毛布まで力ずくで剥ぎ取る。
それでも、黒い大男はぴくりとも起きる気配を見せなかった。
「ぐごぉぉぉぉ……」
「わざわざ、この私が来てやっているというのに……っ!!」
ぎりっ、とフィサルーアの奥歯が鳴る。
そんな青筋を立てて怒る弟の横で、ケセナはすっかり諦めきった顔で部屋の隅の丸机に寄りかかり、のんびり淹れた温かいお茶をずずっと啜っていた。
(だから、嫌な予感しかしないって言ったのに……)
「何ですか、この男は! 不敬罪で処刑してやりますよ!!」
とうとう沸点を超えたフィサルーアは、あろうことか、ケセナがお茶を置いていた丸机の縁をがしっと掴み上げた。
魔力を持たぬ身とはいえ、皇太子として鍛えられた腕力は伊達ではない。
「えっ、ちょっ……俺のお茶!!」
ケセナが慌てて茶器を両手で確保した、次の刹那。
「消し飛べっ!!」
フィサルーアが、木製の丸机を眠るグレンの顔面めがけて思い切りぶん投げた。
「あーーーー」
お茶だけは死守したケセナの、見事な棒読みとともに。
凄まじい轟音が響き、兵舎の二階が大きく揺れた。
立ち込める土煙が晴れたあと、フィサルーアは驚愕に見開いた紅い瞳をぱちぱちと瞬かせ、完全に言葉を失っていた。
「…………」
「……うん。外が綺麗に見えるなぁ」
ケセナが、確保したお茶を啜りながら、壁に開いた巨大な大穴から入り込む冷たい海風に金の髪を揺らして呟く。
園庭の先にオーレルディアを囲む海が見えた。
昼巡りの始まりの陽で光る海が眩しくて、ケセナは目を細めてから振り返る。
「目を覚ました? グレンさん」
視線を向けた先。
木っ端微塵になった丸机の残骸と、吹き飛んだ壁の瓦礫の中で、グレンはいつの間にか引き抜いた愛用の剣を寝台の枠へ深々と突き立てたまま、片膝をついて立っていた。
飛んできた机に対し、寝惚けたまま全力の斬撃を放ち、その剣圧で壁ごと吹き飛ばしたのだ。
「…………起きた」
グレンは、半分も開いていない眠たげな目のまま、低く掠れた声でぼそりと返した。
吹き抜ける海風の中、ケセナは最後の一口を飲み終えると、大穴の横で辛うじて無事だった窓枠に茶器をことりと置いた。
それから、未だに剣を構えたまま半分寝惚けているグレンの隣、寝台の端へぽすんと腰を下ろす。
壁が消えた部屋の真ん中で、フィサルーアはまだ呆然と立ち尽くしていた。
その顔を見上げ、ケセナはあっけらかんと言った。
「だから、言ったでしょ」
「知っていたのなら、もっと先にはっきり止めてください!!」
「『嫌な予感がする』って、最初にちゃんと言ったけど」
ぎりり、とフィサルーアが親の仇を見るような目でケセナを睨む。
だがケセナはまるで意に介さず、隣で固まっている大男の肩をぽんぽんと叩いた。
「グレンさん、寝起き最悪なんだよ。戦場みたいな場所だとすぱっと起きるんだけど、安全だと思ってる場所だと、防衛本能だけが変な方向に働くみたいでさ」
「ええ! 先ほど身をもって体験しましたよ、その『最悪』を!」
本気で命の危険を感じた皇太子の悲痛な叫びに、ケセナはとうとう「あははっ」と声を上げて笑った。
「まあ、壁の修理費はグレンさんに請求するとして――」
「……あ? 何を請求するって?」
『請求』という単語が耳に入った途端、グレンの眠たげだった目がかっと見開かれた。
「ん? 壁」
ケセナが何でもないことのように指を差す。
グレンが寝惚け眼を擦りながら、その先――本来は壁があるはずだった場所へ、ゆっくり視線を向ける。
「…………なんだこれはぁぁぁっ!!?」
外の景色が広がる自室の惨状を目の当たりにし、グレンの鼓膜を破らんばかりの絶叫が兵舎に轟いた。
「お前がやったんだろう!」
「俺、そんなことしないよ」
「嘘をつけ! お前、二夜前に納屋を吹き飛ばしていただろう!?」
「あれはからくり作りに失敗して……」
「これは!?」
「グレンさんがやったんだよ」
グレンは真っ先にケセナへ食ってかかるが、ケセナは寝台にごろんと寝そべり、肩を揺らしながら笑う。
「……自覚がないのですか」
グレンの理不尽すぎる怒鳴り声に、フィサルーアはとうとう深く頭を抱え、低く呻いた。
しばらく笑い続けていたケセナだったが、息を整えると、ふっと表情を引き締めて寝台から立ち上がった。
くるりとグレンへ向き直り、まだ寝起きの頭を押さえている大男を真っ直ぐに見つめる。
「近頃、グレンさんずっと忙しそうだったから。この刻しか空いてないと思って」
先ほどまでのふざけた空気は消え、その琥珀色の瞳には真剣な光が宿っていた。
「相談があるんだ」
その気配に、グレンもようやく頭を切り替えたらしい。
だが、真面目な顔で頷きかけた直後、開け放たれた大穴から吹き込む風に身を震わせた。
繁茂の季とはいえ、収奪の季が近く、昼巡りの始まりの風は冷たかった。
「……とりあえず、寒い。下へ行くか」
「うん? ああ」
グレンの言葉に促され、背後の大穴を振り返ったケセナは、やれやれと深い溜息をついた。
「この壁の請求書、エンジさんちの木扉より高くつくからね」
恨み言のようにぼやきつつ、ケセナは大穴へ向けてすっと右手をかざした。
その瞬間、彼の内側で二つの異なる力が編み上げられていく。
一つは、己の血に流れる『応龍の魔力』。
もう一つは、オウセイより受け継いだ『魔人の魔力』。
決して交わるはずのない二つを、ケセナは細い糸を撚るように組み合わせる。
――『再生』。
淡い光が吹き飛ばされた瓦礫を包み込み、刻が巻き戻るかのように、粉砕された机の破片や壁材が宙を舞って元の形へ戻っていった。
「ふぅ」
やがて光が収まると、ケセナは満足げに息をつき、手を下ろして振り返る。
「これでよし」
修復された壁をまじまじと見つめていたフィサルーアが、冷ややかに目を細める。
「……所々、欠けていますけど」
「え!? そんなはず……!」
フィサルーアの冷ややかな指摘に、ケセナが慌てて壁を振り返る。
確かに修復したはずの壁には、見事なまでに数カ所の穴が空いたままで、そこからひゅうひゅうと隙間風が吹き込んでいた。
術式そのものに意識を取られすぎて、細かな組み上げが雑になっていたらしい。
「……寒い。下に行くぞ」
隙間風を浴びて、グレンが再び身を震わせる。
三人は一階の食堂兼会議室へ移動した。
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「完璧だと思ったんだけどなぁ……」
椅子に座り、反動で軋む身体を摩りながら、自分の術式が失敗していたことに納得できない様子のケセナを、向かいに座ったフィサルーアが冷ややかに嗜める。
「修復は専門の大工に発注します。いい加減、自分の不完全さを認めてください。話が進みません」
「……うぅ」
正論で切り捨てられ、ケセナはしゅんと肩を落として隣のグレンを見上げた。
「で、どうした?」
グレンは、いつものように短く促した。
わざわざこんな昼巡りの始まりから相談を持ちかけてきたのだ。他愛のない話であるはずがないと、彼はすでに察している。
「うん」
促されたケセナは、小さく咳払いを一つして、先ほどまでのふざけた空気を完全に消し去った。
「神――魔人の脅威は、まだ残ってる」
ぴり、と。
食堂の空気が一瞬で凍りついた。
唐突に切り出された、あまりにも重い話題に、グレンとフィサルーアはそろって身を乗り出し、息を呑む。
「哀神は確かに消滅した。でも……『喜・怒・楽』の三つの感情が統合された神が、まだ残ってる。あいつらは、絶対に諦めていない」
ケセナの静かな声が、落ちた沈黙の中に響く。
内乱が終わっても、ケセナの中で脅威は終わっていなかった。
「だから……俺とライネルがこの世界に張り巡らせていた巨大な『結界』を、もう一度張り直そうと思うんだ」