兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
世界を丸ごと覆い尽くす巨大結界の再構築は、決して容易ではない。
五千星霜前。
神にも等しい力を持っていたオウセイ一人では足りず、応龍族長ライネルと力を合わせ、二つの異なる理を編み上げることで、ようやく完成したものだ。
それ以降、その広大な結界は、皇帝の座に就いた歴代の応龍皇帝たちが維持し続けてきた。
「幸い、俺にはオウセイの記憶と術式、それに魔人の魔力と応龍の力がある。俺一人でも、なんとか――」
「なるわけがない」
ケセナの言葉を、グレンが鋭く断ち切った。
そこにあったのは、いつもの落ち着きでも、つい先ほどまでの寝起きの気の抜けた顔でもない。
グレンの表情から、血の気が引いていた。
(……リュウショウ)
脳裏をよぎったのは、親友であり先代皇帝でもあったリュウショウの青白い顔だ。
すでに張られた結界の『維持』ですら、術者の生命力は大きく削られる。
祈りの間へ籠るたび、リュウショウは目に見えて衰弱し、何度も寝台へ倒れ込んだ。
それを、維持ではなく、一から組み上げ直すというのか。
いかにケセナが強大な力を持っていようと、危険という言葉では足りない。
「なるわけがないだろう! お前は自分の力を過信しすぎている!」
グレンが長机へ両手を叩きつけ、怒鳴った。
「じゃあ、神がこの無防備なファミラスへ魔人を送り込んできたら、どうするんだ!」
ケセナも椅子を蹴るように立ち上がり、一歩も退かず叫び返す。
「それは……俺たちが全力で応戦する!」
「この刻はいい。だが、俺たちが死んだ後は!? 誰が戦える!? 考えろ、玄武の末っ子!」
さらに大きな音を立てて机を叩く。
オウセイの怒声だった。
グレンは息を呑み、言葉を失った。
その声は、遠い未来を見ていた。
今ここにいる者たちがいなくなった後の世界を、オウセイは見据えている。
重く、息苦しい沈黙が落ちる。
その膠着を切り裂いたのは、氷のように冷えた、冷静な声だった。
「……感情論は結構です。そろそろ現実的な話をしましょうか、兄上」
それまで腕を組み、二人の応酬を黙って聞いていたフィサルーアが静かに口を開いた。
その紅い瞳は、激昂するケセナと沈黙するグレンを順に見据え、一切の熱を帯びていなかった。
「あの父上ですら、完成した結界を維持するだけで命を削られていました。それを一から張り直す。どれほど出鱈目な話か、魔力を持たない私でも分かります」
フィサルーアは腕を解き、長机の上で指を組み合わせ、ケセナの琥珀色の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「奇跡には、必ずそれに見合う代償がある。結界の構築にも、莫大な魔力と何らかの“支払い”が必要なはずです。違いますか。オウセイと五千星霜前の応龍族長は、何を差し出したのです?」
逃げ場のない問いだった。
その視線から逃れるように、ケセナはきつく唇を噛む。
「……そんなもの、関係ない」
「兄上」
短く、だが鋭く重い声。
誤魔化しを許さぬ圧に、ケセナは観念したように息を吐いた。
「……少なくとも、あの刻はそんなものはなかった」
「“なかった”?」
フィサルーアの眉がわずかに動く。
「ああ。二人だったからな。俺とライネルの二人なら、命を削るような代償なんて存在しなかった」
「その言い方だと、この刻は違うのですね?」
「……っ」
冷ややかな追及と、痛ましいほど真っ直ぐなグレンの視線。
退路を断たれたケセナは、長机の上で自分の細い両手を強く握り締め、独り言のようにこぼし始めた。
「どれだけ計算を重ねても、何度やり直しても……出てくる答えが同じで」
声はひどく弱かった。
オウセイから、ケセナの意識へ戻っていた。
「ずっと考えてた。早くしないと、神がまた侵攻してくるから……」
そこで言葉が止まる。
本当は、誰にも言うつもりはなかった。
脳内で弾き出してしまった残酷な結論を、大切な家族にだけは知られたくなかった。黙ったまま、一人でやるつもりだった。
観念したように息を吐き、ケセナは静かな食堂へ決定的な一言を落とした。
「……俺が一人で結界を再構築したら」
揺れる琥珀色の瞳が、二人を見据える。
「俺は――消えるかもしれない」
「……消える?」
グレンの低い声が、地を這うように響いた。
怒りではない。ようやく取り戻した大切なものが、また理不尽に奪われようとしている者の、悲鳴に近い震えだった。
がたっ、と椅子を鳴らし、グレンが立ち上がる。
「お前、それを黙ったまま、一人で消えるつもりだったのか! 『皇帝になる気はない』と言ったのは、最初からそういう――」
「皇帝の件は別だよ!」
ケセナが弾かれたように顔を上げた。
「俺にそんな資格はない。俺は『兵器』なんだ。どこまで行っても、これから先も……! 奪うことしかできなかった俺に、せめて、みんなを守らせてよ!」
涙を零しながら叫ぶその顔に、グレンは言葉を失う。
「俺はオウセイの記憶を持ってる! 残された神がどれほど理不尽で、どれほど恐ろしい存在か、誰より知ってるんだ! 結界を張らなきゃ、ファミラスは終わる! 俺一人が消えるだけで済むなら――!」
「済むわけないだろうが!!」
グレンの悲鳴じみた叫びが、ケセナの声を叩き潰した。
歴戦の騎士の目にも、うっすらと涙が浮かんでいる。
「お前が消えて守られた世界で、残された俺たちが笑って生きられるわけないだろうが!!」
「グレンさん……っ」
ケセナは言葉を失い、ただ両手で顔を覆って俯いた。
「違うんだ」
顔を覆ったまま、絞り出すように続ける。
「俺とライネルが結界の核に応龍を選んだのは、応龍が絶対的な守護の力を持っていたからだ。この力をまともに扱えるのは、もう俺しかいない。別の誰かが無理に代わろうとしても、絶対に成り立たない」
「だからって、お前一人が消えていい理由にはならない!」
己の無力さがグレンを苛み、血が滲むほど拳を握り込ませる。
重苦しい絶望が、再び食堂を沈めかけた、その折だった。
「……本当に、貴方“しか”いないのですか?」
フィサルーアの声は、冷たく、落ち着き払っていた。
ケセナが顔を上げる。
彼を見下ろす紅い瞳には、諦めの色が一切ない。
「兄上。貴方は私に何と言いましたか」
「……え?」
「『君は、僕だから』と。確かにそう言いましたね」
フィサルーアは、自らの右目の眼帯へ指先を触れた。
「私には元来、魔力がない。ですが、この身体に流れる血も、肉も、骨格も……元を正せば貴方のものです。しかも私は、次期皇帝として、誰より長く皇族としての恩恵を受け続けてきた器でもある」
その口元が、ほんのわずかに吊り上がる。
自嘲でも嘲笑でもなく、冷徹な自信だった。
「計算式を変えなさい。……結界の維持に耐え得る“応龍の器”は、ここにもう一つあります」
「フィサルーア……」
感情ではない。
フィサルーアは、ただ計算式の中へ自分を差し出していた。
だが、その差し出された道を、ケセナは首を横に振って打ち消さなければならなかった。