【完結】兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
祝祭はまだ終わらない。
鉄の檻を見つめ終えたファルイーアは、グレンに支えられながら、再び皇宮へ戻った。
戻る道すがら、グレンが静かに聞いた。
「他に見たい場所はあるか?」
「もうないよ。見たかったものは、見られたから」
「……そうか」
それ以上、グレンは何も聞かなかった。
ファルイーアもまた、檻の前で何を思っていたのか、口にすることはなかった。
皇宮へ戻った頃には民への謁見も終わり、一行は露台から玉座の間へ場所を移していた。
各族長や代表議会の議員たちとの挨拶が、永遠にも思えるほど続いている。
その熱気の只中にいながら、ファルイーアだけはどこか遠かった。
祝辞を聞くたび、胸の奥で何かが少しずつ静かになっていく。
それでも彼は、玉座の間での挨拶が終わるまでその場にいた。
フィサルーアが皇帝として振る舞う姿を、目を逸らさず見届けた。
白金の法衣を纏う弟の横顔は、もう狂王のそれではなかった。
背負うべきものを背負い、その重みごと立とうとする『王』の顔だった。
(……君なら、もう大丈夫だ)
そう思えた、その刻だった。
胸の奥に張っていた糸が、ふつりと切れた気がした。
「……っ、は……」
浅く息を吸う。
けれど肺がうまく広がらない。
喉の奥が焼けるように熱く、視界の端が白く滲んだ。
「ファル?」
隣からグレンの声が飛ぶ。
ファルイーアは咄嗟に口元を押さえ、何でもないように首を振った。
「ごめん。ちょっと、人酔いしただけ」
「顔色が悪い。少し休め」
「うん……晩餐はやっぱりやめとく。食べられそうにないから、先に帰るよ」
無理に笑うと、グレンの眉がさらに寄った。
本当はすぐにでもファルイーアを家へ送り届けたい。
だが、フィサルーアの戴冠を祝う昼夜の最中だ。四族長もそれぞれ挨拶に応じており、騎士団長たるグレンが席を外せる状況ではない。
「俺が送る」
「駄目だよ。今日はフィサルーアが皇帝になった最初の昼夜でしょ。グレンがいなくなったら困るよ」
「なら、護衛をつける」
「家まではすぐだし、大通りには人もいる。それに僕はもう皇族じゃないんだから、一人で帰らせて」
穏やかな言葉とは裏腹に、その紅い瞳には、縋るような色が浮かんでいた。
グレンはしばらく黙っていたが、やがて苦渋の表情で息を吐いた。
「……せめて、皇宮の門までは騎士をつける」
「うん。ありがとう」
わずかな沈黙のあと、グレンは低く言った。
「帰ったら、ちゃんと横になれ」
「うん」
怒られると分かっていながら、そう答えるしかなかった。
グレンは納得していない顔のまま、それでも最後には小さく頷いた。
「帰ったら話がある」
「分かった。家で待ってる」
その言葉を口にした途端、これがグレンへつく最後の嘘になるのだと、胸の奥が痛んだ。
ファルイーアは一番うまく作れたはずの笑顔で、グレンへ小さく手を振った。
呼ばれた騎士に付き添われ、皇宮を出る。
門前で短く礼を告げると、ファルイーアは祝祭の喧騒へ一人で紛れ込んだ。
大通りはまだ灯りと人で溢れていた。
肩を組んで歌う者。屋台の前で笑い合う子供たち。酒に酔って泣き出す老人。
世界は確かに、生きていた。
ファルイーアはその真ん中を、一人静かに歩いた。
誰も彼を引き留めない。
英雄だと気づいて振り返る者はいても、祝祭の熱に浮かされた街では、青年の足取りの異変まで気に留める者はいない。
ふいに足が縺れ、石畳の継ぎ目に躓きかける。
壁に手をついてどうにか堪えたが、呼吸はますます浅くなっていた。
(……まだ、駄目だ)
こんなところで立ち止まるわけにはいかない。
向かう先は、もう決まっていた。
オウセイがひっそりと身を潜め、キリエとともに過ごした、あの深い森。
自分が死にかけて拾われ、人としての在り方を教えられた始まりの場所。
あそこなら、きっといい。
誰にも見つからず、誰にも最後の顔を見せずに済む。
そう思った途端、自分の胸へ浮かんだ考えの冷たさに、ファルイーアは小さく笑った。
「……最低だな、僕」
それでも身体は、もう限界を知っている。
大丈夫なふりを続けて、彼らの前で崩れる方が、ずっと残酷だった。
城門の前に立つ兵たちが、彼の姿に気づいて慌てて背筋を伸ばす。
「ファルイーア様! どちらへ」
「少し散歩するだけ」
穏やかに答えると、兵は一瞬だけ迷った顔をした。
「ですが、外はもう夜巡りに入ります」
「すぐ戻るよ」
「護衛をお付けしましょうか」
「大丈夫。少し、一人で歩きたいだけだから」
嘘だった。
けれど、そう言うしかなかった。
兵たちはなおも躊躇っていたが、すでに皇籍を離れた彼を、それ以上強く止める権限はない。
結局、彼らは道を開けるしかなかった。
「夜巡りが深まる前にお戻りください」
「うん」
また一つ、嘘を重ねる。
城門を抜けた途端、祝祭の音は急激に遠くなった。
夜巡りの闇が少しずつ濃くなる中、街道を抜け、森へ続く道へ足を踏み入れた途端、胸の奥に妙な安堵が広がった。
帰ってきた、と思った。
オウセイも、キリエも、もういない。
それでもこの森だけは、何も問わず彼を受け入れてくれる気がした。
「……っ、はぁ……っ、は……」
森の入口に差しかかったところで、ついに堪えきれず、大きな木の根元へ崩れ落ちるように腰をつく。
息が熱い。
肺が焼けるように痛む。
痛みを和らげようと魔力を探って――己の内側が、完全に空になっていることへ気づき、自嘲した。
結界を再構築した代償に、精霊は地上から消えた。
人々は魔術という杖を失ってなお、自らの手で瓦礫をどかし、道を作り、街を立て直している。
けれど、ファルイーアの身体だけは違った。
この身体は、莫大な魔力と、無意識に行使し続けていた魔術によって、辛うじて維持されていたのだ。
それを失った今、長く保たれていた均衡は、音もなく崩れていた。
指先は震え、足は縺れ、呼吸一つで肺が軋む。
もう、この身体を支えるものは何も残っていなかった。
グレンも、キョウも、ガイアも、ラルも。
名前と居場所をくれた大切な人たちへ、これ以上悲しい顔をさせたくなかった。
身体の衰えは、とうに見抜かれていた。
それでも、この身体がもう長く持たないことも、誰にも見られない場所で消えようとしていることも、まだ知られていない。
だから彼は、終わりが近いと悟っていることだけは隠し続けた。
彼らの前で崩れず、ここまで辿り着けた。
そのことだけが、今のファルイーアには救いだった。
夜巡りの静けさに包まれた森で、ファルイーアは立ち上がろうとして、足に力が入らず諦めた。
ぼんやりと息を吐き、幹にもたれたまま、しばらく動けない。
身体の芯まで冷え切っている。
けれど、立たなければと思った。
ここで眠ってしまえば、本当にそのまま終わる気がした。
それだけは、なぜか嫌だった。
ふと、右腕へ目が落ちる。
けれど、もうその内側に黄金龍はいない。
黄金龍もまた、世界を守る結界の理へ取り込まれ、この身体から消えていた。
右手の甲から腕へかけて残っているのは、黄金龍が巣食っていた名残の紋と、無数の古傷だけだった。
右腕だけではない。全身に残る古傷は、ファルイーアが人ではないと告げているようだった。
「あっ……」
肩がびくりと跳ねる。
慌てて長い袖を引き下ろし、傷痕を覆い隠した。
だが、見られる相手などいない。
森には冷たい風が吹いているだけだ。
「……隠したって、仕方ないのに」
乾いた笑いが、震える唇から零れた。
もう誰の目もない。
もう怯えなくていい。
それでも傷を隠そうとしてしまうのは、幼い頃から身についた、ただの哀しい癖だった。
木の幹へすがるようにして立ち上がる。
森の奥へ進めば、オウセイとキリエと過ごしたあの家があるはずだった。
自分を『兵器』の呪縛から解き放ってくれた、始まりの場所。
短いはずの道のりが、果てしなく遠い。
肺の痛みに耐え、もつれる足をどうにか前へ出す。
一歩ごとに視界が揺れる。
息を吸うたび胸が軋み、喉の奥へ鉄の味が滲んだ。
それでも進む。
いつもの倍以上の刻をかけて、森の奥の小さな家が視界に滲んだ。
(……ああ)
あの頃のままの家だ、と胸の奥で呟いた途端。
玄関の前に、二つの影が立っているように見えた。
オウセイ。
そして、キリエ。
「オウセイ……っ!」
縋るように駆け寄ろうとして、足がもつれた。
身体は言うことを聞かず、土の上へ無様に転がる。
顔を上げても、そこには誰もいない。
限界を迎えた脳が見せた、優しすぎる幻だった。
オウセイがそこにいるはずがない。
結界を再構築したあの刻、オウセイの魂との接続は切れた。
もう声は届かず、彼の記憶も失われている。
それでも、オウセイが確かにいた痕跡だけは、自分の内側に残っていた。
「……何してるんだろ、僕」
土だらけの顔をしかめ、自嘲するように笑う。
思い出すのは、辛かったことばかりだ。
幸福な記憶は、掌に載るほどしかない。
ずっと自分には、喜びも幸せも来ないと思っていた。
痛みと悲しみだけが、自分の世界だった。
この世界へ生まれたことを悔いる昼夜を過ごし、伸びてくる手は、いつも自分の身体を壊していった。
唯一、温かいと思えた手さえ、自分を突き放した。
それでも心の奥底にあった『生きたい』という願いだけは、最後まで消えなかった。
だから、戦えた。
叶わないとわかっていた。
生きたいという、ささやかな願いが現実になることなどないのだと。
自分は、生きられない。
それでも、暗い闇の中で諦めきれず、足掻いた。
その結果、突きつけられた真実が重すぎた。
本当は、生きられたのに。
あの輝かしい光の中で立っていたのは、本来なら自分だったはずなのに。
恨みではない。諦めと自己嫌悪だった。
ないものを強請る自分が嫌だった。
だから、かつて自分を捨てる決断をした。
昔、あの蒼い髪の救世主へ、何度も何度も訴えた記憶が蘇る。
なかなか首を縦に振らない彼は、やがて諦めたように言った。
『分かった。ただそれは、お前をさらに苦しめる結果になるかもしれない』
『過去の重荷は俺が背負う。お前は、これからを生きる自分だけを見ろ』
あの刻は、意味が分からなかった。
自分という存在が嫌だった。
消したくて堪らない。
だけど生きたくて仕方がない。
その想いだけがすべてだったから。
ああ、オウセイ。
貴方が心配していたほど、悪いものじゃなかったよ。
僕は、記憶を封じ、ケセナとして過ごした昼夜を、それでも大切に思っている。
その刻があったから、僕はここまで生きられた。
這うようにして玄関へ辿り着き、重い木扉を押し開けた。
蝶番がぎぃ、と鈍い音を立てる。
埃は積もっている。
けれど、あの頃の温もりは消えていなかった。
静まり返った居間。
暖炉は冷え切っているのに、そこには確かに誰かが暮らしていた痕跡が残っている。
オウセイが無造作に本を積み上げていた棚。
キリエが磨き上げていた食器棚。
窓辺へ落ちる淡い光。
ファルイーアはよろめきながら部屋の奥へ進み、オウセイがいつも座っていた大きな椅子へ深く身を沈めた。
張り詰めていた力が、そこで静かに抜けていく。
戦わなくていい。
痛みに耐えながら笑わなくていい。
誰にも、大丈夫だと言い張らなくていい。
すべてを手放す刻がきた。
けれど、やはり諦めきれない。
生きたい。
死にたくない。
ラルが宿した小さな命を、この腕で抱き締めたい。
けれど身体はもう動かない。
指先一つ、思うようにはならなかった。
もっとラルといたい。
彼女の真っ直ぐな紫の瞳は、自分を素直にさせてくれる。
グレンにも我儘を言いたい。
我儘どころか、文句を山ほどぶつけたい。
ガイアと口喧嘩して、キョウに突進されて、窒息しそうになりながら笑っていたい。
できて当たり前のことが、自分には何一つできなかったから。
「……死にたくない」
静まり返った家の中へ、小さな声が一つ落ちた。
名前をくれた人。
居場所をくれた人。
こんな自分を愛してくれた、すべての人たち。
その人たちの名を、掠れる意識の底で何度も呼ぶ。
声にはならない。
それでもなお、呼ばずにはいられなかった。
やがて夜巡りがほどけ、昼巡りの始まりが来る。
窓辺から差し込んだ淡い光が、静かに、椅子にもたれた青年の頬を撫でた。
瞼が重い。
ファルイーアは静かに、目を閉じる。
生きたかった。
その願いだけを、最後まで胸の奥に抱いたまま。