【完結】兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
「ファル……?」
異様な光景に足を縫い止められたまま、グレンは扉の傍らで立ち尽くしていた。
その横を、まだ事態を呑み込めていないガイアが、怪訝そうな顔で通り過ぎていく。
「こんなところで寝てんなよ。……おい、ファル。風邪引くぞ」
呆れたように言いながら、ガイアが大きな椅子へ沈み込んだ青年の肩へ手を伸ばした、その直後だった。
――ずるり。
触れた肩から、拍子抜けするほどあっさりと力が抜けた。
椅子から滑り落ちそうになった身体を、ガイアは反射的に抱き止める。
あまりにも軽かった。
「…………えっ?」
ガイアの顔から、たちまち血の気が引く。
腕の中へ収まった身体は、異様なほど冷たい。
それでも、まだ僅かな温もりが残っていた。
ガイアは縋るように、その細い背へ深く腕を回す。
「……ファルイーア?」
震える声で呼ぶ。
「……ああ……ガイア……」
ファルイーアがうっすらと紅い瞳を開け、小さく掠れた声を出した。
けれど、その瞳の焦点はまったく合っていない。
「眠たいんだ」
「じゃあ、こんなところで寝るな」
「うん、そうなんだけど……」
背後では、グレンが血の滲むほど唇を噛み締めたまま、一歩も動けずにいた。
「起きろ。帰るぞ」
「……ごめん。無理」
「何言ってんだ。怪我でもしたか?」
「……どうして、来ちゃうかな」
「あ?」
「見せたくなかったのに」
意味の分からない言葉に、ガイアは顔を顰める。
「馬鹿なこと言ってないで帰るぞ。ほら、先生の背に乗れ」
「……グレン? いるの……?」
虚空を見つめていた紅い瞳が、ゆっくりと彷徨う。
グレンは答えられなかった。
言葉が見つからず、ただその姿を見つめることしかできない。
「グレン、ごめんなさい。でも、僕……」
言葉が途切れる。
ファルイーアは苦しそうに、浅い呼吸を繰り返していた。
その姿に耐えきれず、グレンはようやく駆け寄った。
ガイアから受け取るようにして、冷え切った身体を強く抱き寄せる。
「……ああ。やっぱり、ここが一番安心する」
ファルイーアはグレンの胸へ頬を寄せ、ほんの僅かに口元を緩めた。
「ファルイーア、お前……っ」
「ねぇ、グレン。僕、ちゃんとできた?」
「……何を言っている。帰るぞ。帰って休め」
「グレンの言うことを聞いて、僕、たくさん頑張ったよ」
「もういい。ファルイーア。もう頑張るな」
「ねぇ、グレン。褒めて」
掠れた声が、あまりにも幼かった。
意識が、遠い過去へ戻っているのだろうか。
紅い瞳はグレンを見ているようで、その向こうにいる誰かを見つめている。
「僕、ずっと褒めてほしかった。……嫌われてるって、分かってても……いつか、って思ってた……」
そこで一度、言葉が途切れた。
喉が小さく鳴り、呼吸がさらに浅くなる。
「……ねぇ、グレン……褒めて。……ああ、でも僕、本当は、もっと――」
ふっ、と。
ファルイーアの身体から、すべての力が抜けた。
グレンの胸の中で、ただ深く眠るように瞳を閉じる。
「ファル?」
掠れた声が、冷え切った床へ落ちた。
返事はない。
「ファルイーア……?」
グレンは震える指を、ファルイーアの首筋へ押し当てた。
弱い脈が一度、指先へ触れた。
もう一度。
そして。
何も、感じなくなった。
もう片方の手を鼻先へかざす。
けれど、あれほど苦しそうに繰り返していた呼吸は、完全に途絶えていた。
「……っ、あ……」
喉から、言葉にならない声が漏れる。
「……ああ、お前は頑張った。誰よりも頑張った。褒めるから……これから、たくさん褒めるから……!」
嗚咽とともに、グレンはその場へ崩れ落ちた。
冷たくなっていく細い身体を、二度と離すまいとするようにきつく掻き抱く。
「目を開けてくれ、ファルイーア……! 頼む……まだ、何も返していないんだ。お前に何も……!」
迷子の子供のように、泣き叫ぶ。
「ファルイーア……っ!」
血を吐くような慟哭を聞きながら、ガイアは赤い瞳をきつく瞑った。
唇を震わせ、掌に爪が食い込むほど拳を握り締めることしかできない。
どれほど絶望的な戦場でも、決して立ち止まらなかった男たち。
最強と謳われた二人が、この小さな家では、目の前の事実を受け止めきれず、ただ石のように固まっていた。
――そうして。
新たな昼巡りの陽がすっかり昇った頃。
グレンは震える足で立ち上がり、すでに冷たくなったファルイーアの身体を、壊れ物でも扱うように抱き上げた。
「……っ」
軽い。
戴冠式へ向かう道で背負った折よりも、さらに軽くなっていた。
まるで中身だけが、どこかへ抜け落ちてしまったかのようだった。
七夜前、五人で食卓を囲んだ折。
ファルイーアは、用意された小さな椀の中身さえ、ほとんど食べることができなかった。
『……これ以上は無理、かな』
困ったように笑い、匙を置いた。
戴冠式の晩餐も、人酔いして食べられそうにないからと断っていた。
昔から、彼は少ししか食べられなかった。
無理をすれば、すぐに吐き戻してしまう。
ベラリティル家の地下で、実験体として切り刻まれていた幼いファルイーアは、あの凄惨な場所で胃を奪われていた。
その事実を知った刻、グレンは本気で気が狂いそうになった。
だが、もっと狂っていたのは自分だ。
皇宮へ送られたあとのファルイーアへ、グレンは無理やり食事を押し込んだ。
兵器として生き延びるには体力が要ると、そう信じていたからだ。
吐き戻そうとする口元を押さえ、『飲み込め』と命じた。
幼いファルイーアは涙を溜め、必死に何かを訴えていた。
あれは反抗でも、甘えでもなかった。
胃のない身体へ無理やり食べ物を流し込まれる、命の悲鳴だったのだ。
「……俺はまだ、お前に何も謝れていないんだぞ……」
ぽつりと零れた声は、痛ましいほど掠れていた。
背後で立ち尽くすガイアも、言葉を失っている。
一発ぶん殴ってやる。
そう息巻いていたはずの拳が力なく震え、やがてゆっくりと解けていった。
あれほど生きたがっていた弟が、最後まで何も言わずに笑っていた。
その事実が、たまらなく腹立たしかった。
一度だけ、ガイアはキョウと共に皇宮の奥深くへ忍び込み、ファルイーアに会ったことがある。
裏庭の物置小屋の下に続く冷たい階段。
その先にある檻の中で、細い四肢は鎖に繋がれていた。
輝いていた金髪は薄汚れ、衣服はただ身体へ羽織っているだけだった。
所々から、彼が必死に隠したがっていた古傷が覗いている。
紅い瞳はすでに暗く、以前の無邪気な明るさを完全に失っていた。
ファルイーアは、静かに言った。
『僕の否定は、無意味だから』
あの言葉が、今なおガイアの脳裏へ突き刺さっている。
フェルナリアで『ケセナ・レフィード』として現れた彼を、キョウは最初からファルイーアだと断言していた。
金髪は茶髪になり、紅い瞳も茶色へ変わり、明るい笑顔を浮かべていた。
どう見ても、別人だったというのに。
けれど、内乱の件を試すように言葉を投げかけた刻に返ってきた答えは、やはりあの子のものだった。
だから、ガイアは気づいたのだ。
『ケセナ・レフィード』が、『ファルイーア・ク・フェスカ』なのだと。
どうして記憶を消したのかは知らない。
ただ、兵器として生き、ようやく平穏を手に入れられるはずだった矢先に、世界が再び彼を表へ引きずり出したことが許せなかった。
正統な皇位後継者だと告げ、今度は皇帝になれと言い始める。
誰よりも平和を望み、血反吐を吐いて守った世界が、またファルイーアから何かを奪おうとしているようで、腹が立って仕方なかった。
だからこそ、代表議会でファルイーアが自らフィサルーアへ皇位を委ねた折、ガイアは心の底から嬉しかった。
暗い皇宮の奥で、『否定は無意味だから』と闇に沈んでいたあの子が、自分の意志で皇位を拒んだ。
自分の願いを、素直に口にした。
これでついに、ファルイーアがずっと願っていた『生きたい』が叶う。
それだけで、よかったのに。
ファルイーアは、自分の肉体が崩壊していくことも。
もう長くは生きられないと悟っていたことも。
全部、あの『平気』という笑顔の裏へ隠していた。
(馬鹿野郎……っ。言えよ、頑固者……っ)
胸中でごちる。
泣いて、笑って、すぐ寝落ちする。
口喧嘩をすれば、妙なところで頑固になって、一歩も引かない。
そんな手のかかる弟が大事で、ただ守りたかった。
深い沈黙の中、やっと動き出せたガイアが、そっとグレンの背を叩く。
「……帰ろうぜ、先生」
声は重く掠れていた。
「ラルも、キョウも。ファルの帰りを、家で待ってる」
その言葉に促されるように、二人は重すぎる現実を抱え、昼巡りの光に照らされる森をあとにした。
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オーレルディアの家へ帰宅したグレンとガイアは、寝室の前で無言のまま立ち尽くしていた。
変わり果てたファルイーアの姿を見ても、ラルは泣き喚かなかった。
グレンを責めることも、ファルイーアが一人で消えた理由を問い詰めることもしなかった。
崩れ落ちそうになる感情を自分の内側へ限界まで押し込み、静かに言った。
「……ファルイーアを、寝かせてあげて」
それだけだった。
グレンはファルイーアを、いつも使っていた寝台へ横たえた。
それからのラルは、寝台の脇から一歩も離れなかった。
すっかり冷たくなった傷だらけの手を両手で包み込み、祈るように握り続ける。
「……ケセナ。昼巡りの始まりだよ。起きて……」
まるで、ただ眠っているだけだと信じ込もうとするように。
掠れた声で、失った名と一緒に、繰り返し、繰り返し呼びかけていた。
静かに寝室の扉を閉めたあと、キョウがグレンの胸へ飛び込んだ。
その赤い瞳から、大粒の涙が堰を切ったように零れ落ちる。
「……どういうことなの……っ! なんで、どうしてこんなことに……! あの子、七夜前は普通に笑ってた……! ガイアと馬鹿みたいな言い合いをして、ラルに怒られて、私がからかったら、あからさまに嫌そうな顔して……それなのに、どうして……っ!」
嗚咽で言葉が崩れる。
「先生はずっと一緒に暮らしてたんでしょう!? 衰弱してることだって分かってたんでしょう!? なのに、どうして……どうして、あの子が自分の終わりを悟ってたことに、気づいてあげられなかったの……っ!」
「…………すまない」
グレンは深く頭を垂れた。
拳は、己の無力さを呪うように、血が滲むほど強く握られている。
異変には気づいていた。
食べられなくなっていることも。
身体が急速に弱っていることも。
笑顔の裏で、痛みを隠していることも。
それでも、一夜後もまた同じように暖炉の前で本を開き、困ったように笑ってくれるのだと思っていた。
見抜けなかったのは、ファルイーアが自らの終わりを悟り、誰にも最後を見せないまま、独りで消える覚悟を決めていたことだった。
兵器として生き抜くために身につけた『平気なふり』が、最後の最後で、彼を愛する家族にまで、その覚悟を隠し通してしまった。
心配をかけたくない。
悲しませたくない。
その優しすぎる嘘だけが、残された者たちの胸へ深く突き刺さっていた。
溢れ出る涙を拭おうともせず、キョウはグレンの胸を叩き続ける。
それは彼への非難ではない。
どこへぶつければいいのか分からない、行き場のない絶望の形だった。
思い出すのは、小さな手と、大きな紅い瞳が、自分を見上げて笑う姿。
キョウが愛した『ファルイーア』の姿だ。
口を尖らせてむくれ、ぽてぽてと歩き、振り返ればすぐ笑う。
彼は、そういう弟だった。
それなのに、もう笑わない。
「返して……私の弟を。ファルを!」
「……キョウ」
グレンの胸の中は、ファルイーアが最も安心できる場所だった。
だからこそ、キョウはもう、その胸を叩けなかった。
力を失った拳が、グレンの外套をきつく掴む。
グレンは、泣き崩れるキョウを静かに抱き締めた。
キョウの手が、グレンの大きな背へ回る。
ファルイーアが好きだった、広い背中。
この胸と背中は、あの過酷な世界の中で、彼を幾度も守ってきた。
もう、グレンを責めることなどできなかった。
「先生……あの子は最期に、何て言ったの?」
「……俺に、褒めてほしかったと。もっと何かを言おうとして……そのまま、ファルは……」
そこで、グレンの声も崩れた。
キョウは、ファルイーアが好きだったグレンの胸へ顔を埋め、声の限りに泣き続けた。
その後ろで二人を見ていたガイアが、静かに歩み寄る。
何も言わず、震える二人ごと、強く抱き締めた。