兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜 作:久野 龍
「嫌い」とはっきり宣言されて以降、ケセナとラルの間に会話はなかった。
衣服も髪も何もかも黒に包まれた男は、無言で戻ってきた二人を眺め、怪訝な顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。その顔に、ケセナは少しだけ救われた気がした。
ラルが眉を吊り上げたまま彼の右側に腰を下ろすと、彼はラルの顔を横から覗き込む。
「すっきりしたか?」
「いいえ」
不貞腐れた表情でそう答え、ラルは置かれていた木椀を手に取ると、自分で鍋の中身を注ぎ始めた。ケセナはその様子を見ながら、男を挟んでラルの反対側――彼の左隣へ、こっそりと腰を下ろした。
不自然な横一列の並びに彼は戸惑いつつも、もうひとつの木椀を取り、鍋の中身を注いでケセナに差し出した。中身は魚と野菜の水炊きだ。良い香りが漂ってくる。ケセナは木椀を受け取り、まじまじとそれを見つめた。
「あまり良い食材はないから、味の保証はしないぞ」
彼が声を上げて笑う。つられて笑みを浮かべたケセナは、手の中の木椀の温かさで、冷え切っていた心が少しずつ解けていくのを感じ、戸惑いながら会釈をした。
「ありがとうござい――」
――ぐるるるる……。
言いかけた途端、ケセナの腹から大きな音が響き渡った。
思わず顔を真っ赤にして俯いてしまったケセナを見て、彼は肩を揺らして笑う。
そして隣のラルが眉を顰め、わざとらしく特大の溜息をついて言い放った。
「下品なお腹」
ケセナはさらに深く俯いた。
ラルにとっては、ケセナのすることすべてが気に障るのかもしれない。「嫌い」と明言されているのだから想像はつくが、腹が鳴るのはどうしようもない。三夜も眠り続けていたのだから、なおさらだ。
そもそも初対面の相手を嘘つき呼ばわりするラルはどうなのか、と反撃したくもなったが、ケセナはぐっと堪えた。
「まぁ、まぁ。ゆっくり食べるといい」
間にいてくれる者がいて良かったと、ケセナは本気でそう思う。ゆっくりと顔を上げれば、彼がふわりと優しい笑みを浮かべていた。
しかし、彼が食事をする様子はない。
首を傾げて周囲を見回せば、どうやら木椀はふたつしかないらしい。ケセナは慌てて、手の中の木椀を彼に差し出した。
「あの、俺、あとでいいので、先に――」
彼は受け取らず、首を左右に振った。ケセナは木椀を押し出し、受け取るよう促すが、彼はそれを優しく押し戻して言う。
「俺は先に済ませたから大丈夫だ。それに、それはケセナ君の分だ」
「え?」
名前を呼ばれ、ケセナは目を丸くした。
この男に名乗った覚えはない。どう考えても、ない。
しかし彼は、確かに名前を呼んだ。
「ケセナ君だろう? ガイアから聞いている」
「族長からですか?」
ケセナはさらに驚いた。ガイアがこの男の知り合いだったこともそうだが、ガイアがすでに彼と話していることにも驚いた。
「たまたま会いに行ったら、あいつが珍しく慌てていてな。事情を聞いたら教えてくれた。お前のことなのだろう?」
「はい、そうです。あの……あなたは……えっと」
おずおずと彼の顔を覗き込む。優しい表情は崩していないのに、瞳にはどこか深い影が落ちていて、ケセナは思わず視線を逸らした。
「ああ、俺か。俺はグレン・ラティア。名乗るのが遅くなってすまないな」
「いえ、いいんですけど……あの、グレンさん。族長が慌てていたって、どういうことですか?」
「ん? 『ファルがいなくなった』って、大騒ぎしていてな」
ファル、と聞き、ケセナは身体を強張らせる。
自分は知らない。全身がそう拒絶していることに気づきながらも、どうすることもできず、ケセナは背中を丸めて目を瞑った。
そして、ゆっくりと口を開く。
「俺、誰かに間違えられてて。怖くなって、逃げたんです」
震える身体を、グレンは見ている。視線は感じるけれど、ケセナは顔を上げることができなかった。グレンの口から出たファルという響きは、あまりに自然だった。恐らく、グレンも“ファルイーアを深く知っている”。
今、顔を見られたら、自分が“ファルイーア”だと言われるかもしれない。
恐怖が全身を駆け巡り、応龍狩りの凄惨な光景が瞼の裏に浮かび上がってくる。
「そうだったのか。まぁ、キョウのあの切羽詰まった様子じゃ、逃げたくなる理由も分かる。だがキョウはどうして、ケセナ君を見てファルイーアだと思ったんだろうな? 似ても似つかないというのに」
「え?」
グレンの口から出たのは、ケセナの不安とは真逆の言葉だった。
ケセナは弾かれたように顔を上げ、グレンの様子を探る。
(気づいていないのかな……?)
そんなケセナをよそに、グレンは話し続ける。
「君をこんな所に連れてきて申し訳ないな。あのまま戻っても、あの剣幕だとな……戻ったら、ただ散歩に出かけて、道に迷って帰れなかっただけということにしておこうか?」
「え、あ、はい。概ね間違ってないですし」
グレンは笑って、「ほら、冷めるから食え」と付け加えた。
ケセナは促され、食事を始めた。少し冷めてはいるけれど、水炊きは思った以上に美味しくて、強張った身体をじんわりと解していく。
三夜ぶりの食事が、空っぽだった身体にゆっくりと染みていく。
けれど、多くは食べられない。
ケセナにとって、それはいつものことだった。彼の身体はごく少量の食事しか受けつけず、少しでも許容量を超えれば、すぐに酷い吐き気を催してしまう。
木椀に入っていた量は、身体が受けつける量より少し多い。だが、厚意を無下にはできない。それをなんとか腹に流し込み、ケセナは無言で木椀を下ろす。
(吐きそう……)
迫り上がる吐き気を堪えて俯く。
それを見たグレンが横から「おかわり、あるぞ」と声を掛けてきた。
その優しさが胸が痛くなるほど嬉しかったが、ケセナは小さく首を振り、ゆっくりと告げた。
「ご馳走様でした」
吐き気を抑え、ふぅ、と息を吐きながら木椀を置いたケセナを、グレンはどこか痛ましげな目で見つめていた。
その少なすぎる食事量に、短く眉を寄せる。黒い瞳の奥を、何かを確かめたような光が過った。
「お粗末様」
少しだけ掠れた声でそう言うと、グレンは鍋と木椀ふたつを持って立ち上がった。
「あの、俺も!」
このままではラルと二人きりにされると思い、ケセナも慌てて立ち上がる。ちらりとラルを見れば、ラルは真横を向いて座ったまま、布巾を無言で差し出してきた。受け取れ、と何度か腕を上下させる。
「ありがとう」
ケセナは布巾を受け取り、グレンの左隣へ小走りで追いついた。そのまま歩調を合わせようとするが、足の長さが違うため、結局小走りのままだった。
グレンは背が高い。ガイアよりも、そしてオウセイよりも。
オウセイの身長を思い出しながら、ケセナはグレンを見上げる。黒い衣服は制服のようで、威厳を漂わせていた。そして、その左肩に紋章が刺繍されていることに気づく。
翼を持つ龍が描かれた意匠。黒い生地に目立たぬ灰色の糸で刺繍されたそれに、ケセナは見覚えがあった。
どこで見たのかと思えば、プラークルウ――応龍宝刀の鍔だ。鍔には二匹の翼を持つ龍が彫られている。あれと同じ『応龍』の紋章だった。
世界中から憎まれている応龍の紋章が刺繍された制服を、隠しもせず誇らしげに着続けるグレンに、ケセナは少し興味を持った。
「応龍……?」
ケセナが紋章を見つめたままぽつりと呟けば、グレンは自分の左肩を見て苦笑し、肩を竦める。
「この制服、気に入っていてな。捨てられないから、いまだに着ているんだ」
「あの……元騎士団長って……?」
あの夜巡りの、野盗とグレンとの会話が脳裏を掠め、ケセナは恐る恐る尋ねた。
すると途端に、グレンは顔を曇らせる。
「覚えてたか」
グレンはばつが悪そうな表情を浮かべる。触れてはならない事柄だったのかもしれない、とケセナは反省し、謝罪する。
「す、すみません……」
「謝ることじゃない。そう、俺は応龍騎士団の元団長だ。今は人探しで旅をしている、しがない素浪人だけどな」
「人探し?」
「ちょっと訳ありでね」
そう言い切った瞬間、グレンの顔ががらりと変わった。
(怖い……)
ケセナは素直にそう思った。人探しの相手に対し、グレンは深い憎しみを抱いているのだと、ひしひしと伝わってくる。
ケセナは話題を変えようと必死に考えた。とはいえ、初対面の相手に触れられる話題はそう多くない。苦肉の策として、別の問いを口にする。
「グレンさんと、ガイア族長やキョウさんとは、どういうご関係なんですか?」
「あの二人は俺の弟子だ。もちろん、ラルもな」
するとグレンは、表情をいつもの優しいものへ一変させた。
内心で安心しつつ、ケセナは質問を続ける。
「弟子?」
「ああ、武術を教えている」
「武術、ですか?」
きょとんと首を傾げる。武術と言われても、種類はいろいろある。騎士団長なのだから、偏見ではあるけれど、剣術に長けているのは理解できる。だが、武術と広く表現する理由が分からなかった。
「そう。剣術とか槍術とか、体術とか、その他諸々、武術と呼ばれるもの全般」
「ぜ、全般!?」
ケセナが思わず叫ぶと、グレンは笑う。
「どうしてそんなに驚くかな」
「え、だって、普通は剣術だけとか、何かひとつに特化して極めるものだと思っていました」
「そう思うか? 俺はたまたま子供の頃から色々な武術に手を出していて、それがそれなりにできるようになったってだけなんだけどな。それぞれ、あいつらが使いたい武器を聞いて、俺が教えていたんだ」
「『達人』って、あなたみたいな人のことを言うんですね……」
ケセナは深い感嘆の息を漏らす。自分も何か教わってみたかった。
抜群に剣の扱いが下手で、よくプラークルウに怒鳴られている。あのけたたましい怒号は忘れていたかった、と左右に首を振って深呼吸をし、ふと、置いてきてしまったプラークルウが心配になった。どうしているだろうか。
「違う。両親から『魔力がないなら、武術だけでもできるようになれ』って言われたのが始まりだ」
「それはまた……凄いご両親ですね」
魔力を持たない息子に、せめて武術だけでも身につけさせようとしたのだろう。ケセナは、グレンの複雑そうな家庭環境を思い浮かべた。
「魔力がない分、武術くらいは誰にも負けたくなくてな。気づけば、片っ端から手を出していた」
グレンは何でもないことのように笑った。
だが、その黒い瞳の奥には、笑みだけでは隠しきれない翳りが残っている。
それが何を意味するのか、ケセナには分からなかった。
笑いながら鍋を持ち直すと、グレンはケセナがラルと顔を洗った小さな泉へ向かって歩き始めた。やがて泉が見えてくると、嬉しそうに「見えた見えた」と早足で歩いていってしまう。
先ほど見せた翳りが嘘だったかのような、無邪気な後ろ姿だった。
どこか抜けていて、憎めない。
星霜齢は四十ほどだろうかと思い、ケセナは鍋や木椀を口笛交じりに洗うグレンに質問をした。
「あの、グレンさんって、お幾つなんです?」
「ん? 俺? あー?」
何やら困惑しているグレンに、ケセナは眉を顰める。何度か首を傾げたあと、グレンは頷きながら確認するように言う。
「ああ、そうだそうだ。五十……いや、四十七星霜齢……だったかな、確か」
「ちょ、確かって……」
半分呆れながら、その実、星霜齢に驚く。
とても、あと三星霜で五十星霜齢になる男には見えなかった。
そこでふと、ケセナは嫌な予感を覚え、おずおずと質問を続ける。
「ちなみに……ラルさんは……?」
「ラルは十九星霜齢だ」
「ガイア族長と、キョウさんは……?」
「ガイアとキョウは同星霜齢で、二十六星霜齢だったはずだぞ」
そこで、ケセナは自分の星霜齢を思い返した。
確かオウセイが二十星霜齢だと言っていた。旅を始めて一星霜が過ぎている。つまり、自分は二十一星霜齢か。
ラルは自分よりふたつ下で、ガイアとキョウは五星霜も上だった。
ケセナは、これまでの自分の無礼な態度を思い返し、盛大に反省する。とはいえ、三人とも星霜齢は近い。
人は見た目では分からない、と自分に言い聞かせながら、ケセナは息を吐く。
「なんで急に星霜齢なんか聞くんだ?」
「ただ、気になっただけです」
くぐもった声でそう答え、ケセナはグレンが洗った鍋を受け取ると、ラルから預かってきた布巾で、大人しく乾拭きを始めた。