兵器皇子は、贖罪の果てに名を呼ばれる〜End of the Atonement〜   作:久野 龍

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第二話 ケセナ・レフィード

 案内された居間は、建物の中央にあった。

 

 彼はぐるりと部屋を見渡す。中央には四人掛けの食卓。添えられた四脚の椅子は、それぞれ形こそ違うものの、どれも座り心地が良さそうだった。脇の小さな本棚には、大小さまざまな本がびっしりと並んでいる。

 

 奥には大きな三面の窓があり、たっぷりと陽光を取り込んでいた。窓の向こうには鬱蒼とした森が広がり、木漏れ日が織りなす神秘的な景色に、彼は思わず息を呑む。

 

 左手の厨では、一人の女性が忙しなく動いていた。

 

 腰まで届きそうな長い黒髪を首の後ろでひとつに束ね、桃色の花柄の胸当てを着け、手慣れた様子で食事の支度をしている。ふと見えた横顔は、はっとするほど整っていた。

 

「おはよう」

 

 オウセイが声をかけると、彼女は手を止め、布巾で手を拭きながらこちらへ歩み寄ってきた。

 

 艶やかな黒髪に、深みのある牡丹色の瞳。薄緑の短衣と真っ赤な裳を合わせた姿は、森の家には少し不釣り合いなほど華やかだ。

 ふわりと揺れた裾と柔らかな微笑みに、彼はなぜかまともに顔を見られなくなり、慌てて視線を逸らした。

 

「おはようございます、オウセイ様。眠そうですね?」

 

 軽やかな声に、一番大きな椅子へ腰を下ろしたオウセイが「そうか?」とぼやく。

 けれど彼女はそれに答えず、オウセイの座る椅子の横から身を乗り出すようにして、後ろで居心地悪そうに立つ彼の顔を下から覗き込んできた。

 

「あら? どうしたのかしら?」

 

 至近距離で見る牡丹色の瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいる。

 彼の心臓が大きく跳ねた。他人のものになったかのように激しく打つ鼓動を持て余し、ごくりと喉を鳴らす。

 

「キリエ・カーランよ。よろしくね」

「あ、え……その、よ、よろしくお願いします」

 

 掠れた声でどうにか返すと、キリエは優しく微笑んだ。

 

「さ、座って。食事にしましょ」

 

 小走りで厨へ戻る背中を見送りながら、彼は胸に手を当てて深呼吸をした。鼓動を鎮めてから、オウセイの隣の椅子へ腰を下ろす。

 隣をちらりと窺うと、オウセイは豪快な欠伸の真っ最中だった。

 

「……そう言えば」

 

 欠伸の涙を拭いながら、オウセイが口を開く。

 

「名がないのは、不便だろう」

「名前なんて、個を示すための記号みたいなものですから。なくても、そこまで不便じゃないです」

 

 彼は咄嗟に答えていた。

 あまりにも自然にするりと出た言葉に、彼自身が一番驚き、思わず口元を押さえる。

 

「記憶を失っても、そこは変わらんか」

 

 オウセイが呆れたように笑った。

 

「だが、これから旅に出るのだろう? 宿に入れば、宿帳に名を残せと言われるぞ。毎回、適当な名をでっち上げる気か?」

「野宿だったら、書かなくても大丈夫じゃないですか?」

「随分と能天気だな……」

 

 オウセイは半眼で彼を睨み、嘆息する。

 

「いいか、夜巡りを野で明かすなど、魔物や野盗の餌食になるだけだ。世の中はまだ、そこまで平和ではない。……応龍狩りの連中も、各地で目を光らせている。できるだけ街の宿を使え」

 

 その言葉に、彼の表情が曇った。

 

「おうりゅう狩り……? 平和じゃないって、どういう……」

 

 問い返した瞬間、オウセイの表情がわずかに強張った。

 だが彼はすぐに軽く手を振り、話を切った。

 

「それは後で説明してやる。まずは名だ。……そうだな、ケセナ。ケセナ・レフィードというのはどうだ?」

「オウセイ様、それは……」

 

 焼きたての麦餅を運んできたキリエが、怪訝そうに皿を置きながらオウセイを見る。

 彼にその名を与えることへ、難色を示したのだ。

 

「いいから」

 

 オウセイは短く、しかし有無を言わせぬ声でキリエを制した。

 蚊帳の外に置かれた彼は、与えられた『名』を口の中で転がしてみる。

 

「……ケセナ・レフィード」

 

 なぜか、懐かしい響きだった。

 胸の奥に温かさが広がり、すっと心が落ち着いていく。

 

「そう。誰かさんが土壇場の苦し紛れに名乗った偽名だがな」

「……え?」

 

 オウセイの一言で、せっかくの安心感が霧散した。

 疑問が泉のように湧き上がるが、記憶の底をいくら探っても答えは出ない。

 

「ちなみに、その『誰かさん』はお前だ」

「俺!?」

 

 思いもよらない事実に、彼――ケセナは素っ頓狂な声を上げた。

 

「はいはい。お話が弾んでるようだけれど、食事にしましょう。ね? ケセナ?」

「ケ……?」

 

 混乱する思考の海に、キリエの澄んだ声が響いた。

 顔を上げると、彼女が小首を傾げて微笑んでいた。

 

「ケセナ?」

 

 もう一度、その名で呼ばれる。

 

 そうして、彼の名前は完全に定まった。

 

 今から自分は『ケセナ・レフィード』。かつての自分が苦し紛れに名乗ったという、奇妙で、けれど懐かしい名前。

 不思議と嫌な気はしなかった。むしろ少しだけ誇らしいような気さえして、ケセナは力強く頷いた。

 

「はい!」

 

 その様子を見ていたオウセイが満足げに笑い、「さぁ、食おう」と食事を促した。

 ケセナは慌てて食卓へ視線を落とし、並べられた料理の数々に目を輝かせる。

 

「美味しそう」

 

 ごく自然に感嘆が漏れた。

 

 乳脂を薄く塗った小さな麦餅。ふんわりとした炒り卵。少量の腸詰と、かりかりに焼かれた燻製肉。そして彩り豊かな野菜。

 

 並べられた量は控えめだった。けれど今のケセナには、どれから手をつけるべきか迷ってしまうほどの、ささやかなご馳走に見えた。

 

「あら、嬉しいこと言ってくれるのね。この人なんか、何も言わずに食べちゃうし、つまらないのよ?」

 

 キリエが横目でオウセイを睨む。

 

 すでに食べ始めていたオウセイは目を白黒させたが、口いっぱいに頬張っているせいで反論できず、もごもごと唸っている。

 ごくりと飲み込み、オウセイが何か言い返そうとした矢先、ケセナがふと別の疑問を口にした。

 

「あの、オウセイはどうしてこんな森の中に?」

 

 窓の向こうに見える鬱蒼とした森。鳥の囀りは近く、空気は澄んでいる。美しい場所だが、人が住むには不便すぎるように思えたのだ。

 

「……聞くな」

 

 オウセイが露骨に顔を顰め、面倒くさそうな声を出す。

 

「……ご、ごめんなさい」

 

 逆鱗に触れてしまったのかと、ケセナが身を縮める。

 するとキリエがすかさず「意地悪」とぽつり。オウセイはあからさまに聞こえないふりをした。

 そして、短く嘆息を漏らしてから口を開く。

 

「この森を選んだのには色々あるんだが……まぁ、一言で言えば、“人の世の喧騒に疲れた”からだな」

「ひとのよの、けんそう?」

 

 きょとんとするケセナを見て、オウセイがまた嘆息する。

 

「不思議そうな顔をするな。俺にだって色々あったんだ。お前のように記憶を封じる程度では済まされないことも含めて、沢山な」

「俺は……」

 

 ケセナは思わず俯いた。

 だが、オウセイから降ってきたのは、予想外に優しい声だった。

 

「お前が記憶を消したいと切望した理由は理解しているし、それに対して非難はしない。逃げだと言う者はいるかもしれないが、俺はそうは思わない。お前にとって、それが最善だったのだからな」

「あの、記憶を封印する前の俺を、知っていたんですよね?」

 

 その問いに、オウセイの琥珀色の瞳が、一瞬だけケセナの襟元から覗く無数の古傷へ落ちた。

 そこには、言葉にはできないほどの深い痛ましさが滲んでいた。

 

「……ああ、知っている。俺だけではない。キリエだって知っている。だが、俺たちが知っていたからと言って、どうと言うこともないだろう?」

 

 オウセイは何事もなかったかのように視線を上げ、穏やかに言った。

 二人は、ケセナの身体が物語る『過酷な過去』を知りながら、名前のこと以外は一切持ち出さず、まるで初対面のように接してくれている。

 

 その配慮が、心底ありがたかった。

 

「そもそも、お前に記憶の封印を施したのは、このキリエだ」

「え? キリエさんが?」

 

 ケセナは目を丸くした。ここまでの流れから、てっきりオウセイが術者だと思い込んでいたのだ。

 

「はい、私が施させていただきました」

 

 キリエが少しはにかみながら頭を下げる。

 

「俺にはもう、そのような力は残っていないからな」

 

 オウセイの呟きはどこかひどく寂しげで、ケセナの胸の奥が締めつけられた。

 何か言葉をかけようとしたが、適切なものが見つからず、結局押し黙るしかない。

 

「ともあれ、これをやる」

 

 重い空気を振り払うように、オウセイが立ち上がった。

 本棚から妙に分厚い本を一冊抜き出し、ケセナの前へどんと置く。

 

「……なんですか、それ」

「歴史書だ。この世界のことがびっしり書かれている。記憶が無いお前には丁度いいだろう? 最近の出来事は載っていないから、そこは俺が教えてやる」

「……本なんだ、これ……」

 

 恐る恐る持ち上げると、ずっしりとした重みが腕にのしかかる。ぱらぱらと頁を捲り、ようやくそれが本だと認識できた。

 

「旅に出るまでに読んでおけ。世界を見たいと言う者が、歴史を知らないというのは少し恥ずかしいだろうからな」

「そうですね、確かに恥ずかしいかも」

 

 ケセナもそこには完全に同意だった。

 記憶の封印の代償か、世の理さえ抜け落ちている今の自分には絶対に必要な物だ。

 

 しかし、これを読み終えるまで旅に出られないのかと思うと、少しだけ憂鬱になる。

 

「それから、これが一番重要だ。一度しか言わないぞ」

 

 ふいに、オウセイの声音が鋭くなった。

 真剣な眼差しが、真っ直ぐケセナを射抜く。場の空気がぴんと張り詰め、ケセナは固唾を呑んで次の言葉を待った。

 

「記憶の封印を解きたくなったら、ここに来い」

「……え?」

「理由次第で、解いてやる」

 

 ケセナは、思わず息を止めた。

 忘れたはずの過去へ戻る道が、今、目の前に差し出されていた。

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